第九話 火巫女さま
「おお、山の子たちよ……」
小屋の入り口から、
ゆっくりと一人の老人が歩み寄ってきた。
頭は白髪に染まり、顔中には深い皺と刺青が刻まれている。
「……シラガ様……」
「……村長が、ここへ……?」
戸口のあたりで、村人たちの声がひそやかに揺れた。
さっきまで平伏していた者たちも、
思わず顔を上げて、その老人の姿を見つめている。
――――――――――
「……ふむ」
老人は救われた子供の顔を確かめた。
それから、静かに、俺たち二人の前に膝をつく。
腰が折れ曲がりそうな、老いた膝で。
その瞬間、小屋の中の空気が張りつめた。
「お、おい……長が……」
「子供に頭を下げるのか……」
誰もが、ただ息を呑んで見ているしかなかった。
「まずは、礼を言わせてくだされ」
しわがれた声が、土間の静寂に染み込んでいく。
「我が名はシラガ……この村の長をやっておる、老いぼれじゃ」
シラガは、深く深く頭を下げた。
白い頭が、炉の火明かりの中で淡く光る。
ざわめきは、もう起こらなかった。
「そして、アサメは、わしの娘じゃ」
その一言で、小屋の空気がわずかに揺れた。
アサメが、はっと顔を上げる。
涙で濡れた頬が、火の光に照らされていた。
「コイシの祖父としては、今すぐにでも飛び込んで、
この子の手を握ってやりたかった……」
「じゃが、長たる者が先に顔を出せば、
忌みの子を追い出せという声が前へ出る……」
深い皺の奥で、シラガの目がわずかに歪む。
「わしが長として正しく振る舞えば、この子は死んでいた。
祖父として情に走れば、村の心は割れたかもしれぬ」
シラガは顔を上げた。
「わしは、どちらにもなりきれなんだ……」
その声は震えていた。
「代わりに、そなたたちが、この村の命を拾ってくれた」
もう一度、額が土に触れるほど深く、シラガは頭を垂れる。
「すまなかった……そして、ありがとう……」
薄暗い土間の中で、
一人の老人が、子供二人に頭を下げていた。
「……おとうさま……」
アサメが、掠れた声でそう呼んだ。
シラガは娘へちらりと目を向け、
それから、まっすぐ俺たちに視線を正す。
「これより先、そなたたちを迫害する者がおれば、
まず、わしが口をきこう」
老いた声は大きくない。
だが、誰の反論も許さぬ重みがあった。
戸口の脇では、イワホコも小さく頷いていた。
そのとき、村の中に、
ひとつ太い筋が通った気がした。
――――――――――
やがて、顔を上げたシラガの目が、イミコの胸元へと向いた。
「……立派なものじゃ。その、緑の首飾りも……」
震える手で、ヒスイをそっと指差す。
「伝承に伝わる倭の王も、
そのような、深い緑の勾玉を携えていたというが……」
(……倭の王……)
俺は、心の中でその言葉を静かに反芻した。
草屋根の半地下の住居、
そして、土器で煮炊きをする暮らし。
顔に刻まれた刺青。
水の神の怒りを恐れる信仰。
すべてが、古代の倭――
日本が、まだその名を持たなかった時代の姿と重なっていく。
そして、村人たちが口々にした名。
(火の、巫女……ひ、みこ……)
ヒミコ――
(……卑弥呼なのか?)
まさか。
いや、まさか――
荒れた世を鎮めるために共立されたという、
鬼道を操る女王の伝説。
病の理を知らぬ村人たちに、
俺が見せた「目に見えない魔物を殺す火」の奇跡。
不気味なほど、
符合が重なっている。
けれど――
「……にぃに……? じっちゃん、なんて言ったの……?」
背後から、俺の貫頭衣の裾をきゅっと掴み、
不思議そうに首をかしげるだけの、
ただのちいさな女の子だ。
その首元では、ヒスイの緑が神々しくきらめいていた。
(……考えすぎだ)
途方もない予感を、
俺は思考の底へ無理やり押し込んだ。
なにしろ俺たちは、
明日の食い物にさえ困る孤児二人だ。
倭国を――
いや、後の日本を束ねる女王?
そんな馬鹿な話があるはずがない。
(……さすがに、ないよな)
俺は苦笑いを呑み込み、
イミコの頭へ、そっと手を乗せた。
「……イミコが、誰よりも綺麗だってさ」
「……わ、わぁ……っ……」
イミコは満面の笑顔を浮かべた。
泥にまみれていた忌み子は、
今、村人たちの前で太陽のように輝いている。
今は、それでいい。
この子が誰であろうと、
俺がやるべきことは、ただひとつだ。
今日を生き抜いて、この小さな妹を守り抜く。
それだけだ。




