第百六十三話 青山編:「伊賀須知之稲置」と「大彦命」
「ナギトは、元気にやってましたか?」
「彼なら、名張と三野の道で、
行商に励んでました」
「相変わらずだのぅ……」
アボの声には、
先ほどまでの重さがなかった。
「昔から、外にばかり興味を持つ、
環濠の変わり者でな……」
「今でも顔をみせるんですか?」
「ふらりと立ち寄っては、
旅先の物を置いていく程度にな」
そこまで言うと、アボは、
俺の手元にある石包丁に視線を戻す。
「青山で、あやつを慕わぬ者はおらぬよ」
「その、青山というのは……、
この辺りに暮らす者を言うのですか?」
名張や、三野は、
環濠を軸に分かれている。
では、為吾は、なにを境にして――
「正しくは、このあたりの川ですな……」
なるほど。
生活を支える川ごとに、
その集団が分かれているのか。
「なら、柏尾は?」
その名を出した瞬間、
カゲハが、わずかに目を伏せる。
「青山より、さらに山の奥で、
別の川筋のもとに暮らす古い者たちだ」
「古い……?」
「我らよりも、ずっと昔から、
為吾に根を張ったと言われておる」
「なるほど……」
「さらに、為吾を北へ抜けるなら、
城之越は避けられぬでしょうなぁ……」
「それはなぜだ?」
タケが問う。
「山と谷が狭まり、あそこが、
北への要地を押さえておるのでな」
「ゆえに強い、か」
「さよう」
「して、その先の依那古は、
為吾のなかでも勝手が違ってのぅ」
アボが額に手をあてる。
「山よりも平野に広がり、
田畑の豊かな者たちなのだが」
「ふむ」
「阿閉との繋がりも太く、
他の為吾とは比べものになりませぬ」
「阿閉か……」
タケが鼻を鳴らした。
「また、今は消えてしまった者たちも、
なかにはおりましてな……」
「……まさか、須知か?」
タケが小さく呟いた。
「知ってるんですか?」
「那婆理の民に伝わる昔話でな」
「さよう、須知は、この辺りでも、
最も古い筋と言われた者たちであり……」
アボが、遠くを見るように目を細め。
「その祖となる者たちが、
この辺りを『為吾の山』と呼んだのじゃ」
アボは、大きく溜息をこぼした。
「為吾の、山……」
青山、柏尾、城之越、依那古。
そして、今は失われたという須知――
それらが暮らす山や谷を、
外部がひとまとめに「伊賀」と呼んでいたわけか。
「我ら那婆理や、三野も、
須知と祖を同じくすると言われてる」
タケが、隣で声をあげた。
「そのとおりじゃ」
アボの言葉に熱がはいる。
「伊賀須知之稲置――
我らの祖は、そこからはじまっており……」
「そこに、阿倍からの名張や、
阿閉の息のかかった城之越や、依那古たちが、
あとからやってきたのだ」
* * *
なるほど。
以前、シラガは「大彦命」の筋と名乗った。
つまり、このあたりでは。
伊賀須知之稲置――
大彦命――
それらの、ふたつの古い筋が、
重なりあっているのか。
ナバリの地では、
須知に連なる古い「那婆理」と、
あとから入った「名張」が、
すでに、ひとつの新しい形となり。
対する、イガの地では、
須知に連なる古い「青山・柏尾」と、
あとから入った「城之越・依那古」が、
いまだ、別々のまま――
* * *
「那婆理と、為吾は、
似た境遇にあるのですね」
「その結果は、まったく異なっておるがの」
アボは、今日、何度目かのため息をこぼした。
「さて」
タケが大きく声をあげる。
「為吾の昔話も面白いが、
肝心の話が、まだ終わっておらんぞ」
「おっと、これは失礼した」
アボが姿勢を正す。
「では、青山の者は、
名張と三野の道へ手を出さぬとしよう」
アボは、そう言って軽く頭を下げた。
「ならば、青山が行商に来たとき、
我らが名張は客として迎えましょう」
俺も、頭を下げて返す。
「市庭とやらのほうも?」
「タケさん、いいですよね?」
「当然だ」
「では、そのようにいたしましょう」
アボが両膝へ手を置いた。
ナギトの石包丁のおかげか、
話は、すんなりとまとまった。
だが、青山と道が繋がったわけではない。
たがいの状況を確かめあって、
ひとつの約を交わした。
それだけ。
だが、今は、それで十分だった。
――――――――――
◇【アボ】視点◇
無事、話し合いを終えた名張の者たちが。
山道の向こうへと消えていく。
「もうよいぞ」
我の声に、木々の影から、
一人、また一人と男たちが姿を見せた。
「頭ぁ……、
あれで、よかったんですか」
アバネが、頭を掻きながら声をあげる。
「何がだ」
「名張や、三野なんかと、
あんな約を取り交わして……」
そこだけ一段、声を潜めていた。
まわりには青山の者だけだというのに、
あいも変わらず真面目な男だ。
「城之越からの伝もあったはずですが」
アガミも、怪訝な表情を浮かべていた。
「城之越が、なんと言ってきたか覚えておるか?」
「山の動きに目を配っておけと……」
我は、名張の童たちが消えていった、
道のさきへ目を向ける。
「ほれ、目を配っているではないか」
「しかし――」
「我らは、城之越に従った覚えはないが?」
「……まさか、名張に付くつもりですか?」
アバネが声をあげる。
若いのう――
「答えを、急いてはいかんぞ」
青山は小さい。
城之越ほど人もおらず、依那古ほど田も豊かではない。
だからこそ、
慎重でなければならぬ。
「確かに面白い童ではあるがの」
ナギトが石包丁を渡した童。
その見立てを無下にする必要もあるまい。
あれだけ道筋を教えたのだ。
あとは、あの童たちが、
どこへ歩くか見ておればよい――
「今は、静かに見るのだ」
「誰が残り、誰が滅び、
その先に何が生まれるのか……」
青山が道を選ぶのは。
そのあとでよい。
「伊賀須知之稲置」は『古事記』に見える古い氏族名。
「大彦命」は『日本書紀』で、阿倍臣・阿閉臣・伊賀臣などを始めとした「七族の祖」とされる人物です。
本作では、それらの系譜をもとに物語として再構成をしています。
また「為吾」は『魏志倭人伝』の「為吾国」から着想した本作独自の表記です。
後世の『和名類聚抄』(平安時代の辞書)に伊賀を「以加」と記す例があり、まだ、漢字表記の定まらない古代の「音と表記の揺れ」を物語へ取り入れています。




