第一話 忌み名と、忌み子
冷たい――
それが、最初の感覚だった。
頬をなでるのは、
骨の髄まで凍てつくような冷気。
背にまとわりつくのは、
湿り、重たい、泥のぬめりだ。
「……っ」
俺は、鉛のように重い瞼を押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、
見たこともないほどに澄みきって、
ひどく寒々しい。
灰色の空だった――
――――――――――
「……くっ」
身体を起こそうとした瞬間、全身に鈍い痛みが走った。
骨がきしみ、筋肉が悲鳴をあげる。
俺が横たわっていたのは、
朽ちた木を寄せ集め、枯れ草を被せただけの、
粗末な小屋の中だった。
地面を掘り抜いただけの土の床は、冷たく汚い。
藁を敷き詰めた壁からは、冷たい隙間風が容赦なく吹き込んでくる。
これでは、住まいというよりも、獣の巣――
「……にぃ……に……ぉきて……」
すぐそばから、
震えるような声が聞こえた。
視線を向けると――
細い腕。
泥にまみれた織りの粗い貫頭衣。
そして、髪の乱れた幼い少女の、
今にも泣き出しそうな瞳が、こちらを覗き込んでいた。
「いみな……ぉきて……ぉねがぃ……」
少女の目の端から、涙がこぼれる。
その雫が、泥に汚れた頬を伝い、
俺の頬に落ちる。
瞬間――
「……っ、が、あああぁっ!」
脳天に、楔を打ちこまれたような激痛が走った。
頭蓋が軋み、世界が歪む。
記憶が、濁流のように流れ込んでくる。
* * *
空を穿つ、巨大な塔の群れ。
光と輝きに満ちた、眩しい街並。
指先ひとつで多くの知恵をたぐる、薄く光る板。
遠い昔の物語、草木の理、病を癒す術。
そして、荒ぶる自然を生き抜くための知恵。
押し寄せる知恵の波に、頭の内側が埋め尽くされていく。
だが――
すべての中心に『あるはずのモノ』だけが、
ぽっかりと抜け落ちている。
俺が、誰なのか――
どこで生き、誰を愛し、
どんな名で呼ばれていたのか。
それらは白い霧の向こうに散っていく。
己の本当の名は、もう、二度と思いだせない。
なぜか、そんな確信だけがあった。
* * *
「……ぃみ……な……?」
俺の声は、驚くほどに幼かった。
そして、
不意に口にした名前。
イミナ。
それが、この身体の本来の名だと、
不思議な確信があった。
「……よかったぁ……いな、いな……なっちゃったかと……」
目の前の少女が、泣き崩れる。
緊張の糸が途切れたかのように、
俺の胸へ、しがみついてきた。
「……いみ、こ……」
少女の名は、イミコ。
この身体の記憶に深く刻まれている。
二人は兄妹だ――
その身体を抱きしめると、
骨ばった感触が腕に伝わってくる。
鎖骨は浮き上がり、その手足は細すぎるほど。
だが、その必死に縋る力だけは驚くほどに強かった。
――――――――――
「…………」
ふと、胸に硬い感触があたる。
俺が視線を落とした先――
少女の首には、太い麻糸に括られた石が垂れていた。
一見すれば、ただの黒ずんだ泥の塊。
光沢も、色艶もない。
道端の石と変わらない汚れた塊だ。
だが、その歪な曲線は、どこか勾玉を思わせる。
なんだこれ――
ぞくりと、胸の奥が掻きまわされる。
その石は、どこか不吉なのに、
なぜか目が離せない。
泥に埋もれているはずなのに、
その奥に、何かが眠っているような――
「……うっ」
また、頭の奥が、ずきりと痛む。
* * *
――いまわしい。
親は、もういない。
――おまえたちさえ、いなければ。
母は、俺たちを「不吉な子」と呼び、この小屋へ捨てた。
そして、そのまま、どこかへ姿を消した。
――産むんじゃ、なかった。
なかば狂ったように叫ぶ、女の顔だけが、
まるで呪縛のように記憶の端に焼き付いている。
* * *
俺の底から、熱が込み上げる。
それは、俺のものではない。
この身体の奥底から溢れ出る、荒ぶる心。
怒りだ――
イミナという少年が、ずっと抱えてきたもの。
名を『呪い』に変えられ、
逃げ場もなく耐え忍び続けた子供が、
ずっと、胸の底に押し込め続けてきた激情。
世界に対する、暗く、深い憎しみ。
それが今、俺という異物を器にして、
静かに燃え上がっている。
――――――――――
不意に、ぐぅと、俺の腹が鳴る。
「……うっ」
腹の底が灼かれるような激痛。
喉も、腹も、全身が「飢え」に蝕まれていた。
これは「空腹」なんて生やさしいものじゃない。
命を削る「飢餓」だ。
「おにぃ……これ……たべて……」
少女が、泥だらけの手を差し出してきた。
掌には、土から掘り出したばかりの、
干からびた野草の根があった。
「いみな……これ……みじゅ、ふいたから……」
彼女の顔もまた、土気色をしている。
今にも倒れそうだった。
それなのに、自分が食べるよりも先に、俺へ差し出してくる。
なんだ、この狂った世界は――
――――――――――
俺は、改めて小屋を見渡した。
藁の屋根は薄く、壁は隙間だらけ。
割れた器の底には濁った泥水が溜まっている。
火はない。
飲めそうな水もない。
当然、食べる物などあるはずがない。
このままでは、飢えて死ぬか、病に倒れるか。
待っているのはそれだけだ。
どうする、考えろ――
頭の奥に流れこんだ膨大な知識を、
ひとつずつ、ゆっくりと手繰り寄せる。
泥水を、飲める水に変える術。
火を起こす術。
命をつなぎとめる術。
できるかどうかじゃない、やるしかない――
――――――――――
気付いたら、
俺は、少女の手を握り返していた。
「……大丈夫」
ひどく掠れた声だった。
言葉を発するたびに喉が焼けるように痛む。
それでも、はっきりと伝える。
「……俺が、なんとかする」
「……にぃ……に……?」
少女が、涙に濡れた目を丸くする。
「……まずは、灰と炭を集めよう」
それが、命を繋ぐ手がかりになる気がした。
「二人で生き延びるために、
まずは、この穢れを祓うんだ……」
重い身体を引きずるようにして、
俺は、ゆっくり起き上がる。
『忌み名』を与えられ。
『忌み子』と蔑まれ。
泥の中で死を待つだけの兄妹の物語。
そんなもの、認めてたまるものか――
本日より「卑弥呼転生」の連載開始となります。
序盤は、兄妹が生き延びるためのサバイバルと、生活の土台を作っていく展開が続きますが、その積み重ねの先で、物語は広大な歴史のうねりに突入していきます。
ふたりの孤児が「卑弥呼」へと繋がる歴史の流れを、じっくり腰を据えて描いていきますので、お付き合いいただけましたら幸いです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。




