19.何か来た
「ディディ様、大変です!!」
ある朝早く、まだぐっすりと眠っていたディディは、リタの切羽詰まった叫び声に叩き起こされた。
「……ううん……まだ薄暗いじゃない……何があったの?」
半分寝ぼけながら、それでも事態の深刻さを見て取ったディディが、のっそりと身を起こして尋ねる。
そんな彼女に、リタは上ずった声で答えた。
「王国兵が、こちらに接近しています!!」
ゼスト、レスト、シストの三兄弟と、それに町のやんちゃな子供たちは手を組んで、町の警備団を名乗るようになっていた。
彼らは朝早くから町の周囲を歩き回り、小枝拾いや野草摘みなどの作業をこなしながら、何か変わったことがないか目を光らせているのだ。団員のほとんどは子供たちなので、さすがに暗くなってからは活動しないが。
ちなみに、朝が弱いリックは参加していない。それと、いちいち騒がしくて目立つジョイエルも。
もっともこんな田舎の町に、そうそう異変などあるはずもない。警備団は一度、シカの群れが畑に踏み込みかけているのを見つけたが、裏を返せばそれくらいだった。
ところが、今日は違っていた。夜が明けてすぐに野草を摘みにいった子供が、遠くの街道をこちらに向かってくる王国兵の姿を見つけたのだった。
そんな詳細を知らされたディディが、まだ眠そうな顔でリタに尋ねる。
「この町ではなくて、街道のもっと先に用……ということではないの?」
「いえ、王国兵は既に大きな街道を離れ、キスカに向かう細道を進んでいます。数は少ないので、視察か伝令か……そういった部隊かと思われますが」
「そう、分かったわ。……でも、変ねえ。『私の領地で何をやっているのだ、ディディ!』って、お父様が乗り込んでくるのなら分かるのだけれど」
「ひとまず、行ってみましょう。王国兵が来るのなら、ディディ様が対応されたほうがいいですから」
「はいはい。……ああ、もうちょっと寝ていたかったわ……片付いたら、お昼寝させてちょうだいね……」
それから少し後、キスカの町の入り口にて。
「あら、ルシェ王子。お久しぶりですわね。こんなところまでわざわざ、どういったご用件ですの?」
きちんと装ったディディが、あでやかに言い放った。しかし優雅な笑みの下で、彼女は内心舌打ちしていた。
どうして彼がこんなところに来ているのよ。何だかとっても、面倒なことになりそうな予感しかしないわ。
一方のルシェは、ディディの余裕たっぷりの態度に気おされていた。しかし彼の目は、やけに嬉しそうにきらめいている。
ああ、間違いない。かつて夜会で見た彼女が、ここにいる。やっと会えた。
ルシェは内心、猛烈に感動していたのだった。
「き……君がこのキスカの町を乗っ取ったと、そう聞いた。それは本当か?」
しかしルシェは、こんなことしか言えない。彼は、王子だから。この国の秩序を守らなくてはならないから。というより、そうしなくてはならないと彼自身が思い込んでいるから。
「乗っ取っただなんて、人聞きが悪いことをおっしゃらないで? わたくし、ここの住民と仲良くなっただけですわ」
ディディの後ろにはリタと三兄弟、それに町の人間たちが集まっていた。みな、露骨に不審そうな目をルシェに向けている。
その視線に思いっきり戸惑いながらも、必死に平静を装い、ルシェは反論する。
「しかし、現に君は『キスカの女王』と呼ばれているのだと聞いている」
「ええ。けれどそれは、ただの愛称ですわ。そもそも以前にも『氷の女王』などとあだ名をつけられていましたし。どうして毎回『女王』になってしまうのか、不思議ですけれど」
さらりとディディが口にした言葉に、彼女の背後の人々が一斉に複雑な顔をする。不思議も何も、当然だろうと言いたげな顔だ。
ルシェも、彼らの気持ちが分かるような気がしていた。ディディに贈るなら、女王の名が一番ふさわしい。
けれど彼は、またそんな本心を押し隠して声を張り上げる。
「だ、だいたい、君はかつて悪事を働いていただろう! ここでも何か、同じように悪事を働いているのではないか?」
「悪事、ね……それについて、ここの方々は詳しく知りませんの。せっかくですから、ちょっと説明していただけませんか?」
あくびを噛み殺しながら、ディディは可愛らしく頬に手を当てた。視線をついとそらして。
彼女はこんなに愛らしかっただろうか。また動揺しつつ、ルシェは口を開く。かつて彼のもとに集まった、彼女の悪事について。何度も読み返して、もう覚えてしまったそれを。
「まず君は、茶会において令嬢たちを罵倒した。たくさんの者がそれを見聞きしている」
きっぱりと言い放った次の瞬間、か弱い声が聞こえてくる。
「あの……それって、わたしのこと、でしょうか……?」
町の人間たちをかき分けるようにして、サリーがひょっこりと顔を出した。身支度に手間取ったせいで出遅れたものの、ぎりぎり間に合ったらしい。
「あれは、たちの悪い令嬢からわたしを救うためのものでした。ディディ様のおかげで、わたしは生まれ変わることができたんです」
思いもかけない言葉に、ルシェが目を見開く。それでも懸命に、次の言葉を投げかけた。
「なっ……!! しかしディディ、君はよその令息のもとに入り浸り……」
「ディディ様が、僕を助けるために粉骨砕身してくださったのです。そのお働きがなければ、僕も我がアンガス家も、破滅への道を進んでいたでしょう」
ルシェの言葉を、熱を帯びた声が遮ってしまう。それは、屋敷からまさに今駆けつけたジョイエルのものだった。
「しかしディディ、君はメイドをくびにしたり、あまつさえ魔法で消滅させたと……」
「そちらにもちゃんと、別の側面がありました。ディディ様は、集団いじめをしていた根性悪のメイドを追い出しただけですから。おかげで妹が助かりました。ディディ様には感謝してもし切れません」
「魔法でメイドをどうのこうのというのも、人助けのためだったんです。もっとじっくりと調べてみることをお勧めしますよ。そのメイド、今頃実家に戻って幸せにしているはずですから」
すっかり混乱し切ったルシェに、今度はリックとリタが明るく反論する。リックの髪には、まだ寝癖がついたままだった。
この時ようやっと、ルシェは真実を理解した。父王の、やけに煮え切らない態度も。
父王は、おそらくこういった裏の事情に気づいていた。ディディが悪女などではないと知っていた。その上で、ルシェが自分の力で真実にたどり着くのを待っていた。
「……そんな……では僕は、僕がしたことは……」
かつて、自分がしてしまったこと。その意味に気づき打ちひしがれているルシェを、ディディは眠そうな目で見ていた。どうやらこれで片が付きそうね、早く二度寝したいわと、彼女の顔にはそう書いてあった。
「だいたい、理解いただけました? でしたらどうぞ、お引き取りくださいな。わたくし、ここでの暮らしに満足しておりますの」
その声に、ルシェは我に返る。悠然とたたずむディディを見つめ、叫んだ。
「ディディアルーア! 私が悪かった! どうか、私のもとに戻ってきてくれないだろうか!」
深々と頭を下げるルシェ。王子にあるまじきそのふるまいに、周囲からどよめきの声が上がる。
「嫌よ」
返ってきたのは、無慈悲そのものの一言。
「君の気が済むまで、いくらでも謝罪する! だから、どうか……」
「あなたが必要としているのは、あなたの隣に立つにふさわしい未来の王妃でしょう? 大方、次の婚約者を探そうとしてうまくいかなかった、そんなところでしょうね」
必死に謝罪しようとしているルシェを、ディディの冷たい声がぴしりと打った。
「わたくしなら、あなたを立て、あなたを支える完璧な王妃になれる。けれど、それではわたくしが息苦しくてたまらない」
思いもかけない彼女の言葉に、ルシェは呆然とするほかなかった。
「みなと共に食卓を囲み、のんびり家事を手伝い……時にはイノシシ狩りをするはめになる、ここの自由な暮らしを知ってしまった後では、もう王宮になんて戻れない」
そうしてディディは、晴れ晴れと笑う。その笑顔に、ルシェの口から言葉がこぼれ落ちていた。
「……私が焦がれたのは、完璧な王妃となり得る君ではなかった」
ディディと婚約してからずっと、ルシェは物足りないものを感じていた。上品に澄ました笑顔を見せる彼女に、じれったさを覚えていた。
「……私は、女王の君に、憧れていた……そして、今の君は……」
彼が惹かれたのは、女王の風格をたたえた彼女だった。そして今、彼女はまた新たな顔を見せていた。子供のようにあっけらかんとしたディディの笑みに、ルシェの胸は激しく高鳴っていた。
そうして、彼は決意した。
「ディディアルーア、改めて頼みがある。私を、ここに置いてくれ」




