18.王子の苦悩はさらに深く
ルシェンタ王子は、困惑していた。
「……はあ……どうにも、執務に集中できない……」
執務室で机に向かい、書類に目を通しサインをする。そんな作業を続けている彼の端正な顔には、はっきりと疲労の色が浮かんでいた。
「ルシェ様あ、お仕事中ですか? わたしにも見せてください」
いきなり入り口の扉が開き、これでもかとばかりに着飾った令嬢がするりと上がり込んでくる。扉の向こうには、彼女に振り切られたらしい兵士がおろおろしていた。
「駄目だ、これは機密書類だ。そもそもここは私の執務室だから、許可なく立ち入られては困る」
「でもお、わたしだっていずれはそれを見られる立場になるかもしれませんし? 今のうちに、しっかり勉強しないとお」
前かがみになってルシェンタを上目遣いに見上げ、わざとらしく目をまばたく令嬢。その顔には一分の隙もなく丁寧に化粧が施されていて、ぷんと白粉の匂いが漂ってきた。
女性に手荒な真似はしたくないが、一刻も早くここから立ち去ってもらわなくては。
そう考えたルシェンタが兵士を呼びつけようとした時、令嬢の後ろからにゅっと手が伸びてきた。その手は令嬢の肩をつかんで、がっと荒っぽく下がらせる。
助かった、とルシェンタが思ったのも束の間、また別の令嬢の顔が近づいてきた。今にも唇が触れ合いそうなほど近くに。
「抜け駆けは許さないわ。そもそも勝手に上がり込むなんて、何てはしたない! ふふ、そうでしょう、ルシェ様?」
二人目の令嬢は、やけにえりぐりの大きなドレスを着て、豊かな胸元を見せつけていた。ルシェンタはとっさに書類をひっつかむと、椅子から転げ落ちんばかりにして後ずさる。
「あ、ああ。君の言う通りだ。だから二人とも、すみやかに出ていってくれ」
「はい、分かりましたわ。……今度、ゆっくりお話しいたしましょうね、ルシェ様」
とびきり色っぽい流し目をよこして、二人目の令嬢は一人目の令嬢を連れて優雅に立ち去っていく。その姿が完全に見えなくなってから、ようやくルシェンタは深々とため息をついた。
このところずっと、こんな調子だった。執務中も休憩中も、次々と令嬢たちが訪問――あるいは突撃――してくるようになったのだ。彼女たちの狙いは明白だった。ディディアルーアが婚約破棄されたことで空席となった、ルシェンタの婚約者の座だ。
そして最近では、彼の寝込みを襲おうとする者まで現れた。そういったあれこれに神経をすり減らしたルシェンタは、すっかり疲れ果ててしまっていたのだった。
「父上、あの令嬢たちをどうにかしてください!」
そうして業を煮やしたルシェンタは、父王のもとに駆け込んだ。しかし王は、難しい顔で首を横に振るだけだった。
「ディディアルーアとの婚約を白紙にしたのはお前だろう。家の格においても、人の格においても、彼女に匹敵するほどの者はそうおらぬ。すぐに代わりが見つかると思うな」
父王の表情に、ルシェンタの表情に焦りの色が浮かぶ。
「で、ですが彼女は数々の悪事を働いていて……!」
とっさに彼が口にした言葉に、父王はさらに顔を険しく引き締めただけだった。
「お前がそう思うのなら、そうなのだろうな。ならば次の婚約者も、お前が探し、決めるといい。中途半端なままにしておくから、妙な虫が寄りつくのだ」
父王の言葉には、どうにも引っかかるものがあった。そう感じながらも、ルシェンタは手短に礼を言い、また部屋を飛び出していったのだった。
「……全く、我が息子ながら見る目のない……」
深々とため息をつく父王は、国の統治者ではなく、一人の父親としての顔をしていた。
そんなことがあってから、十日ほど後。王宮の一室で、ルシェンタは一人の令嬢と会っていた。彼より一つ年下の、見目麗しく良い家の出の令嬢だ。
「聞いていると思うが、私は今新たな婚約者を探している。しかし前のように悪女と縁を結ぶ訳にはいかないから、試用期間を設けさせてくれ」
「はい、ルシェンタ様……お試しとはいえ、わたくしを選んでくださって、この身に余る光栄ですわ……」
ディディアルーアとは似ても似つかぬ弱々しい声音で、令嬢はうっとりと答える。その表情に、ルシェンタは言いようのない不安を感じていた。
そうして彼とその令嬢とは、仮の婚約者としてふるまうことになった。しかしあっという間に、ルシェンタは音を上げたのだった。
彼女はことあるごとに王宮を訪ねてきて、ルシェンタに会いにくるようになったのだ。毎回何時間も、一緒にお茶にして、お喋りして、庭を歩き。話す内容も、ドレスに化粧、令嬢たちの間の噂話、そんなことばかり。
ルシェンタがどれだけの執務を抱えているかなどということにはまったく考えも及んでいないのだろう、彼女は無邪気そのものの態度でそんなことを繰り返していた。
さすがに業を煮やしたルシェンタが「私には執務があるので、もう少し控えてもらいたい」と主張すると、彼女はすっかりすねてしまった。未来の夫になるかもしれない方が、わたくしを放置するなんて、と言って。
「……ディディアルーアがどれだけできた女性だったのか、分かった気がするな……」
仕方なくその令嬢との仮婚約を解消して、ルシェンタが疲れ果てた様子で椅子に倒れ込む。
ディディアルーアは、王子の婚約者として非の打ちどころのない女性だった。彼の執務を邪魔することはなかったし、気晴らしが必要な頃合いを見計らって顔を出し、彼も楽しめる話題をうまく振ってくる。彼が忙しくしていても、そのせいでへそを曲げることはない。
もっともルシェンタが、いつも上品そのものの彼女の雰囲気に、いまいちなじめなかったのも事実だった。そして、彼女が悪事としか言いようのない行いに手を染めていることも。
「いや、しかし彼女は悪女だったのだ。どれほど懐かしくとも、もう全ては過去のことなのだ……!」
そうして一人苦悩していたルシェンタのもとに、険しい顔をした文官がすっと歩み寄ってくる。渡された書類に目を落とし、ルシェンタは極限まで目を見開いた。
「シャイエン領キスカの町が、ディディアルーアに乗っ取られた、だと……!?」
がたんと椅子を倒しながら立ち上がり、宙を見つめるルシェンタ。彼の明るい紫の目は頼りなく揺らいでいたが、やがて何かを決意したように強い光を放ち始めた。
「……こうしていても、何も始まらないからな。……キスカの町、か。王子として、変事は見過ごせない」
部屋を飛び出していくルシェンタの背中には、いつにない熱情のようなものが宿っていた。




