第30話 私は、助けを求めてもよかったの?
王国嘆願制度改正案
その表題が、中央記録広間の空気を変えた。
王女救済願の原本。
リディアの内部告発受付控え。
セシリアの婚約破棄届。
マルタの絶縁届。
テオの養子縁組願。
ミナの面会希望届。
ダリオの紙片。
ノアの死亡扱い記録。
それらの書類から伸びた光の道が、記録卓の中央に集まっている。
その先に置かれているのが、アレリア王女の改革案だった。
存在しないことにされた文書。
けれど今、それは昼の広間の中央にある。
ミリア王女は、原本に手を置いたまま、改革案を見つめていた。
「次は、お姉様の改革案を読んでください」
その声は震えていた。
だが、広間の端まで届いた。
ローディス・カイルは、記録卓の奥で静かに目を細めた。
「殿下。改革案と称されるその文書は、正式な起案ではありません」
「正式ではないから、読んではいけないのですか」
ミリアが尋ねる。
ローディスは、即答しなかった。
「正式手続きを経ていない文書を審理にかければ、王宮の文書秩序が崩れます」
「秩序」
ミリアは、小さく繰り返した。
その言葉を、何度も聞いてきたのだろう。
療養のため。
保護のため。
王家のため。
秩序のため。
それらの言葉は、いつも彼女の声の上に置かれてきた。
リディアは、改革案の写しを手に取った。
紙は古い。
けれど、文字はまだ生きている。
アレリア王女の筆跡は、細く、整っていて、それでいて強かった。
リディアが読み上げようとした時、ミリアがそっと手を伸ばした。
「私が」
小さな声だった。
リディアは彼女を見る。
ミリアの顔は青白い。
手も震えている。
それでも、彼女は改革案から目を逸らさなかった。
「さっきも、私は読みました。でも、まだ全部ではありません」
「殿下、ご無理を」
イリスが言いかける。
ミリアは、静かに首を横に振った。
「無理です」
その答えに、イリスが息を呑む。
「でも、読みます」
ミリアは言った。
「無理ではないふりをして、十年が過ぎました。今日は、無理だと分かったまま読みます」
広間は、静まり返っていた。
誰も、その言葉を笑わなかった。
ミリアは、改革案を両手で持った。
そして、読み始めた。
「第一条。嘆願、届出、救済願その他民より提出される書類について、受付者は受領または不受理の理由を記録しなければならない」
声はかすれていた。
だが、一語ずつはっきりしていた。
カイルが、帳簿に書き写す。
リディアは、その横で見守った。
ミリアは続ける。
「第二条。不受理または保留とした書類については、提出者本人に対し、その理由および再提出の可否を文書で通知すること」
傍聴席で、テオが唇を噛んだ。
エルザが、彼の肩を抱く。
理由を知らされなかった少年。
自分は捨てられたのだと思わされていた少年。
そのための条文が、十年前に書かれていた。
ミリアの声が少し震える。
「第三条。未成年者、奉公人、寡婦、孤児、病者その他、自ら申し立てることが困難な者に関する書類については、本人確認を省略してはならない。代理人または雇用主の申告のみをもって本人意思とみなすことを禁ずる」
リーナが、母の手を握った。
ミナが、エルザの後ろで顔を上げた。
ミリア自身も、その条文を読んだ瞬間、言葉を止めた。
病者。
その文字が、彼女自身に刺さっているのが分かった。
療養中の王女。
病のせいにされてきた声。
彼女は、自分もまたこの条文の中にいるのだと、今はっきり理解したのだろう。
侍医長の席から、かすかな身じろぎがあった。
ローディスは、表情を変えない。
ミリアは、息を整えて先へ進んだ。
「第四条。未受理処理の件数、理由、担当者、照会先を定期的に第三者機関へ提出すること。第三者機関は、王宮、庁舎、貴族院のいずれにも属さない独立した再審査権限を持つものとする」
広間がざわめいた。
貴族院の席から、低い声が漏れる。
「そんな機関を認めれば、貴族家の内部文書まで」
「庁舎の裁量がなくなる」
「王宮の機密はどうなる」
ローディスは、そのざわめきを利用するように口を開いた。
「ご覧の通りです、殿下。この草案は王国の制度を揺るがす内容を含んでいます。未熟な理想として葬られたのではなく、危険だから止められたのです」
ミリアの手が、改革案を握りしめる。
紙が少し震えた。
リディアは一歩前へ出た。
「危険な願いを扱うために、制度が必要だと書かれています」
ローディスがリディアを見た。
「告発者。あなたは何でも受理すればよいと考えているようだが」
「違います」
リディアは遮った。
「私は、受理とは願いを叶えることではないと学びました」
ノアが、少しだけ目を伏せる。
リディアは続けた。
「殺してほしい、消してほしい、罰してほしい。そういう願いを、そのまま受け入れてはいけない場合があるのは分かります」
広間の空気が静まる。
「でも、なぜその願いが書かれたのかを読まなければ、背後にある痛みも、不正も、恐怖も一緒に捨てられます」
彼女は、セシリアたちを見た。
「受理禁止という分類が必要な時もある。だからこそ、それを誰が、何の理由で判断したのか、記録しなければいけない」
リディアは、ローディスに視線を戻した。
「記録しなければ、受理されると困る願いまで、受理してはならない願いにされるからです」
その言葉に、広間の床の光が強くなった。
受理された人たちの書類が、静かに反応している。
ローディスは、目を細める。
「言葉は整っている。だが、制度は言葉だけでは動かない」
「だから、審理しています」
リディアは答えた。
「ここに、具体的な書類があります」
カイルが記録するペンの音が響く。
ミリアは、改革案を見つめていた。
その目は、どこか遠くを見ている。
やがて、彼女が小さく言った。
「私は」
広間が静まる。
ミリアは、改革案ではなく、王女救済願の原本に手を置いた。
「私は、ずっと怖かったのです」
その声は、広間の天井に吸い込まれるように響いた。
「私が助けを求めたから、お姉様が死んだのではないかと」
リディアは息を止めた。
ノアも動かなかった。
「私が走らなければ。私が申請書を書かなければ。私が大人たちの名前を書かなければ。お姉様は、もう少し生きられたのではないかと」
ミリアの声が震える。
「だから私は、ずっと同じところにいました。お姉様を助けたい。でも、助けを求めたことが間違いだったかもしれない。その間で、ずっと」
彼女は、広間を見回した。
王宮の人々。
庁舎の職員。
貴族院の者たち。
傍聴席の人々。
そして、受理された人たち。
ミリアの目から涙がこぼれた。
「私は、助けを求めてもよかったの?」
その問いは、誰に向けられたものでもあり、誰にも向けられていないものでもあった。
広間全体が、息を止めた。
リディアは、すぐに答えそうになった。
よかった、と。
もちろんよかったのだ、と。
けれど、その言葉を自分一人で言ってよいのか、一瞬迷った。
ミリアが求めているのは、簡単な慰めではない。
十年間、自分を責め続けてきた人が、ようやく口にした問いだ。
その時、最初に声を上げたのは、ノアだった。
「はい」
短い返事だった。
だが、彼の声は震えていた。
ノアは、ミリアの前に進み出て、深く頭を下げた。
「ミリア殿下。あなたは、助けを求めてよかったのです」
ミリアの唇が震える。
「でも、受け取ってもらえなかった」
「それは、受け取らなかった側の罪です」
ノアは顔を上げた。
「あなたが願ったことの罪ではありません」
ミリアの目から、大粒の涙が落ちた。
ノアは続ける。
「私は、十年前に受け取れませんでした。あなたの願いを怖がりました。命令に従いました。だから、私は今ここにいます」
彼は、王女救済願の原本を見る。
「あなたが助けを求めたことは、間違っていません」
次に、セシリアが口を開いた。
「私も、助けを求めてよかったと思っています」
広間の視線が彼女へ向く。
セシリアは、婚約破棄届の写しに手を置いた。
「私は、自分の意思で婚約を終わらせたいと書きました。でも、その届は止められ、私は捨てられた令嬢にされました」
彼女はミリアを見る。
「それでも、書いたことは間違いではありませんでした。私が書かなければ、私の意思はどこにも残らなかったからです」
マルタが、娘の手を握りしめながら立った。
「私も、娘を守るために絶縁届を書きました」
その声は、まだ震えている。
「ひどい母親だと自分を責めました。でも、あの子を助けたいと願ったことは、間違いではなかったと思いたい」
リーナが母を見上げる。
「お母さんは、間違ってない」
広間に、静かな波紋が広がった。
リーナは、ミリアを見た。
「助けてって言うのは、怖いです。私も、帰りたいって言えませんでした。でも、言ってよかったです」
テオが、ぶっきらぼうに言った。
「俺も、聞いてよかった」
エルザが隣で苦笑する。
テオは顔を赤くしながら続けた。
「どうせ捨てられたんだって思ってた。でも、紙を読んだら違った。聞くのは怖かったけど、聞かなかったらずっと嘘の中にいた」
ミナが、小さな声で言う。
「私も、叔母さんに会いたいって思ってよかった」
その声は小さい。
だが、広間は静かだったので、よく届いた。
「悪い子じゃなかったから」
ミリアは、涙をこぼしながらミナを見つめた。
ダリオが、ゆっくり立ち上がる。
「私は、助けを求められた側でした」
老人の声は、深く、枯れていた。
「受け取れなかった。守れなかった。だからこそ言えます。助けを求めること自体を責めてはいけません」
ユリスが父の横で頷く。
「言えなかった後悔は、長く残ります。でも、言ったことを責められる世界なら、誰も声を出せなくなる」
広間の光の道が、また強くなった。
それぞれの言葉が、ミリアへ届いていく。
助けを求めてもよかった。
何人もの声が、同じ答えを別々の形で差し出している。
ミリアは、原本に両手を置いたまま、泣いていた。
泣きながら、口元を覆う。
「私」
声が途切れる。
「私、ずっと」
言葉にならない。
イリスが、そっとミリアの背中に手を置いた。
「殿下は、何度も助けを求めておられました」
イリスの声も涙で揺れている。
「私は、それを病状として聞きたくありませんでした」
彼女は頭を下げた。
「もっと早く、願いとして聞くべきでした」
「イリス」
「でも、今日ここで言います」
イリスは顔を上げる。
「殿下は、助けを求めてよかったのです」
ミリアは、もう立っているのがやっとだった。
リディアは、その手を支えた。
冷たい手だった。
けれど、もう孤独ではない。
ミリアはリディアを見た。
リディアは、ゆっくり頷いた。
「私も、そう思います」
ミリアの目が揺れる。
「リディアさんも?」
「はい」
リディアは、自分の内部告発受付控えに触れた。
「私は、不正を見つけて報告しました。その結果、処分され、名簿から消されかけました。何度も思いました。言わなければよかったのかもしれない、と」
ローディスの目が、わずかに動く。
リディアは続けた。
「でも、言わなければ、セシリア様の届も、孤児院の書類も、王女救済願も、ここまでつながりませんでした」
彼女はミリアを見つめる。
「助けを求めること。おかしいと言うこと。読んでほしいと紙を差し出すこと。それは、罪ではありません」
ミリアの涙が、また落ちた。
リディアは、静かに言った。
「受け取らなかった人がいたとしても、奪った人がいたとしても、差し替えた人がいたとしても。助けを求めたあなたが悪かったことにはなりません」
広間に、深い沈黙が落ちた。
その沈黙は、冷たいものではなかった。
誰かの痛みを乱暴に慰めず、ただ受け取るための沈黙だった。
やがて、ミリアが両手で原本を抱きしめた。
肩を震わせながら、声を出して泣いた。
王女としてではなく。
療養中の殿下としてでもなく。
十年前、助けを求めた少女として。
誰も止めなかった。
侍医長も、記録係も、庁舎の職員も、貴族院の者たちも。
カイルは、その涙を帳簿にどう書くべきか迷っているようだった。
リディアは、彼に静かに言った。
「そのまま書いてください」
カイルは頷き、ペンを取る。
ミリア王女殿下、王女救済願に関する発言後、涙。
発言内容:『私は、助けを求めてもよかったの?』
複数証人、肯定の証言。
リディアは、その記録を見て胸が熱くなった。
涙が、初めて病状ではなく記録になった。
その時、アレリア王女の改革案が、淡く光った。
紙の余白に、見たことのない一文が浮かび上がる。
アレリアの筆跡だった。
助けを求めた人を、裁くための制度ではありません。
リディアは息を呑む。
ミリアも、涙で濡れた目を向ける。
文字は続いた。
助けを求めた声が、誰の前で止まったのかを明らかにするための制度です。
広間が静まり返る。
ローディスの表情が、ほんのわずかに変わった。
その一文は、まるで今この場のために残されていたようだった。
助けを求めた人を裁くのではない。
声を止めた場所を明らかにする。
それが、アレリア王女の改革案の芯だった。
ミリアは、震える指でその文字をなぞった。
「お姉様……」
改革案の光が、王女救済願の原本へ移る。
原本の最後の一文。
それでも、読んで。
その隣に、新しい印が浮かび上がった。
受理印ではない。
まだ、完全受理ではない。
けれど、確かに前へ進む印。
審理継続
カイルが読み上げる。
「王女救済願および関連EX-04案件、審理継続」
広間に、ざわめきが広がった。
ローディスが立ち上がる。
「審理継続を認めた覚えはない」
ヴァルターが、静かに言った。
「審理長の判断ではありません」
「何?」
「公開審理請求書には、複数請求者と関連証人が署名しています。今、王女救済願原本、改革案、受理済み案件群が同一構造として接続されました」
ヴァルターは、記録卓の光を見た。
「この状態で審理を中断するには、審理長単独ではなく、記録広間全体の承認が必要です」
ローディスの顔が険しくなる。
リディアは理解した。
受理された人たちが道を開いたことで、審理の権限そのものが変わったのだ。
もはや、ローディス一人が閉じることはできない。
ミリアが、涙を拭った。
まだ顔色は悪い。
声もかすれている。
それでも、彼女はもう一度まっすぐ立った。
「私は、助けを求めました」
広間が静まる。
「その願いは、姉の命には間に合いませんでした」
彼女は息を吸う。
「でも、助けを求めたことを、もう罪にはしません」
その言葉に、王女救済願の原本が強く光った。
リディアは、胸が震えた。
これは受理の瞬間ではない。
だが、ミリア自身が自分の願いを受け取り直した瞬間だった。
ローディスは、沈黙している。
けれど、その沈黙は長く続かなかった。
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「では、次の問いに移りましょう」
その声は冷たかった。
「助けを求めることが罪ではないとしても、虚偽の告発は罪です」
広間の空気がまた凍る。
ミリアの肩が震える。
ローディスは続けた。
「十年前、第二王女殿下は幼少でした。恐怖の中で見たもの、聞いたものを、正確に記したと言い切れるのですか」
リディアの胸が冷えた。
次に来る攻撃が見えた。
ミリアの願いを罪と呼べなくなったから、今度は記憶の正確さを責める。
幼かったから。
怖かったから。
病んでいたから。
その言葉で、また彼女の証言を揺らすつもりだ。
ローディスは、記録卓に置かれた原本を見た。
「王女救済願原本には、複数の名が記されています。その中には、私の名もある。ならば確認しましょう」
彼は、ミリアを見た。
「殿下。あなたは本当に、私がその申請書を奪ったところを見たのですか」
広間に、重い沈黙が落ちた。
ミリアの手が震える。
リディアは、彼女の隣に立った。
今度は、助けを求めてもよかったかではない。
次は、見たことを証言できるか。
十年前の恐怖を、もう一度まっすぐ見ることができるか。
ミリアは原本に触れた。
目を閉じる。
涙の跡が残る顔で、ゆっくりと息を吸った。
「見ました」
小さな声。
だが、広間は静かだった。
その声は届いた。
「白い手袋の人が、私の申請書を取りました」
ローディスは静かに言う。
「それが私だと?」
ミリアは、彼の手を見る。
白い手袋。
整った袖口。
銀の留め具。
彼女の顔が青ざめる。
けれど、目を逸らさなかった。
「はい」
その瞬間、王女救済願の原本が強く光った。
原本の文字が、一行だけ浮かび上がる。
白い手袋の人が、私の申請書を取りました。袖に、銀の留め具がありました。ローディス・カイルと呼ばれていました。
広間が大きくざわめいた。
カイルが叫ぶように記録する。
ヴァルターが目を伏せる。
ノアは、静かに台帳に手を置いた。
リディアは、ミリアの手を支えた。
ミリアは震えながら、それでも立っていた。
助けを求めてもよかった。
そして今、彼女は見たものを語っている。
次の扉が、開こうとしていた。




