第8話 野良犬
丁度梅雨が明ける頃からだろうか。団地の敷地内に野良犬がうろつくようになった。犬種はシベリアンハスキーで元は飼犬に見える。警戒心が強いようで人がいる所には近づかない。夜になると遠吠えすることもあった。大きさもそこそこであることから団地住民の不安が募り、管理人の大野の元には保健所に頼んで駆除してもらってくれと言う声が寄せられていた。保健所が捕らえるとその先は見えている。根が優しい大野は気が引けた。
ヒナタは何度か野良犬を目撃していた。白と濃いグレーの模様で瞳は水色。一度は団地の階段を上ろうとした時、階段の陰から出てきたのだ。ヒナタとは2m位のニアミスだった。ヒナタは咄嗟にしゃがんで敵意のない事を示した。シベリアンハスキーは水色の瞳でヒナタをじっと見つめた。自分にとって有害か有益か、ヒナタも値踏みされている事を感じた。
「大丈夫やで。何にも恐い事せえへんから」
ヒナタは声を掛けてそーっと手を出した。いきなり頭を撫でようと上から手を出すと犬は恐がると聞いたことがある。だからヒナタは下手に出た。それでもシベリアンハスキーはじりっと後退し、向きを変えるとト・ト・トといってしまったのだ。
しかしその時ヒナタはシベリアンハスキーの瞳の中に、遠い北の空を見た。シベリアンと言うのだからその先祖は極北に近い所だろう。空にはオーロラがかかる。そうだ、あの水色はオーロラだ。実際は見た事ないけどテレビでやってた。空がうねるように様々な色に変わってゆく。実際に水色のオーロラがあるのかどうか、ヒナタは知らない。しかし、きっとあの子は水色のオーロラを見て育ったに違いない。ヒナタの空想は拡がった。だから…名前はオーロラにしよう。めっちゃ素敵やん。ヒナタは勝手に決めた。
その日以降、ヒナタは犬を見かけるたびにオーロラと呼んでみた。勿論シベリアンハスキーはそんなこと知ったこっちゃない。一瞬ヒナタの方を伺うものの、そのまま行ってしまう。完全に片想いやな。けどな、シベリアンハスキーって番犬にええのんちゃうん?恐そうやし力もありそうやし。しかし団地は部屋で犬を飼う事は禁止している。団地の人たちが共同で飼うのも出来ないだろう。何とか相思相愛にならないか…ヒナタは思案を続けた。
大野は住民の手前何とか捕獲する姿勢は見せる必要があると、大きな網を持って犬を追いかけていた。しかしシベリアンハスキーもおいそれとは捕まらない。体力は弱っているようだが、追いかける大野の腰も引けているのでいい勝負になっている。そんな大野に住民は厳しかった。大野は毎日の巡回に必ず網を携行するようになった。
ある日、大野がハスキーを追いかけるとハスキーは宿り木の婆の小屋へ隠れた。大野は小屋の扉を叩いた。
「木下さん!ちょっと木下さん!犬が入って行っとる」
宿り木の婆が扉を少し開けて顔を出した。
「木下さん、あの野良犬匿っとるんか?」
「野良犬?そんなもんはおらんけえ。おってもよう飼わんわ、エサ代もあらへん」
「まあ、そらそうか・・・」
大野はあっさり引き下がった。気が引けている大野にとって丁度良い口実だったからかも知れない。
大野が立ち去った後、婆は家の中に向かって声を掛けた。
「もう、鬼みたいなん行ってしもたから大丈夫や。出ておいで」
小屋の中からシベリアンハスキーがトボトボと出て来て、そのまま小屋から立ち去った。
オーロラが気になっていたヒナタはある日、宿り木の婆を訪ねた。
「婆ちゃんとこに、あの犬来るの?シベリアンハスキーの野良犬」
「来たことはあるけえな、すぐに出て行ったわ」
「ええ?そうなん?」
「居りたそうやったけど、ここにおっても食い物がないさけえな、他所でメシ食わしてもらえって言うたら、ちゃんと解ったみたいで出て行ったんや。ちょっと弱っとるけどなあ」
「えーそうなん?あたしんとこで飼いたいけど団地は禁止なんやて。あの犬、きれいな目してるねん、水色の。せやからあたし、オーロラって名前つけてん。いい名前やろ」
「ほお、オーロラな。またおしゃれな名前やな。本人も名誉なこっちゃろ」
「やろ。婆ちゃん、相談やけど婆ちゃんのとこで飼ってくれへん?」
「そら無理やな。エサもあらへんしな」
「エサあったら飼ってくれるの?」
「ヒナちゃん、エサ代は高いでえ。月五千円はかかりよる。ワシは20年位前にホームセンターでパートしとったからよう知っとる」
「えー、そんなにかかるの?」
「あの犬、大きいからなあ、ぎょうさん食べよる。まあエサあればお互い年寄やからどっちのお迎えが先に来るかって仲良うできるかも知れんなあ」
ヒナタは自分の小遣い二千円ではどうにもならないことを悟った。オーロラのあの風貌と瞳は、ウチのヤンキー母さんが散歩するとめっちゃ似合うのに、それにあたしだってあんな子と一緒に歩きたいのに、エサかあ…。
このままだと弱って管理人に捕まるのも時間の問題だ。ヒナタは心を痛めた。
しかしヒナタには知らない事実があった。オーロラは港の方から歩いて来た。何かを探すように街をうろつき、この団地に辿り着いたのだった。水色の瞳はいつも遠くを見つめていた。