其の四
祥子の髪は柔らかく細く、月並みな表現だけど絹糸のようだった。ブラッシングするとますます艶めいて、羨ましいくらいに美しい。
「さっきは失礼なこと言ってごめんね」
祥子の背中が殊勝に詫びた。鏡越しに目が合うと、切れ長の眼差しは真剣に私を見返してきた。
「……怒ってないよ、ほんとのことだから。身勝手な奴なの。一緒に頑張ろうって言ってたくせに、私に負けるのは気に食わないのね。そもそも勝ち負けなんて決めるのが変なんだけど……ああもう、私馬鹿みたい」
私は自嘲を籠めて呟いた。態度を豹変させた琢己に、私の方でももう気持ちが冷めてしまっている。美容師としても男性としても大好きだったのが嘘みたいに思えた。彼が欲しかったのは自分を褒めそやしてくれる女で、対等なパートナーではなかったのだろう。
ふつふつと腹が立ってきた。
せっかくのチャンスなのだ。掴み取ってモノにして、彼を見返してやりたいとは思う。でも――私にできるのか?
「できるよ、瑞希ちゃんなら」
祥子は答えた。胸の内を見透かされたようでドキリとする。鏡の中で、澄んだ深い瞳は優しく、それでいて嘘を許さないような厳しさを湛えていた。これと同じ瞳を、私は知っている。
頭に浮かんだ埒もない考えを振り払って、私は彼女の黒い髪にワックスを馴染ませた。
あまり時間もないので、簡単にできるシンプルなスタイルに決めた。サイドをいくつか房にして、後ろの低い位置でシニョンに纏める。
首周りが見えると女性はずいぶん印象が変わる。あえて後れ毛を多めに残し、優しいイメージに仕上げた。
セット自体は五分程度で終わった。祥子は何度も首を傾けて鏡を覗きこみ、満足げに呟いた。
「すごく綺麗にできてるね……ありがとう」
その口調はデート前におめかししてはしゃいでいる少女というより、本物のお客さんのようだった。
「瑞希ちゃんは立派な美容師さんだよ。自信を持って、好きな道を進んで」
「……祥子ちゃんこそ、ばあちゃんみたいなことを言う」
「本当だよ。本当に上手になった」
祥子は穏やかに微笑んだ。温かくて懐かしい笑顔がそこに重なる。
「案ずるより産むが易しよ」
いつかどこかで聞いた言葉。あの時は古臭い説教だと気にも留めなかったけれど、今は背中をそっと押してくれる励ましに感じた。
私が何も言えずにいると、祥子はおもむろに鏡台の抽斗を開けた。右側二段目の抽斗だ。
そこにはいくつかアクセサリーのケースが入っていたが、彼女が迷わずに取り出したのはいちばん奥の平たい箱だった。
「忘れ物をしたと言ったでしょ? これを忘れたの。とっても大事なものなんだ」
蓋を開けると、中身はパールのネックレスだった。内張りの青い布の上で、小粒の慎ましい真珠が二連に繋がれている。留め具のデザインに時代を感じるが、よほど手入れをしているらしく、乳白色の煌めきは新品同様に見えた。
それを首に飾る祥子を、私はぼんやり眺めていた。ばあちゃんのものを勝手に、と咎めることはできなかった。
「彼から初めて貰ったネックレスなの。貧乏でね、でも一生懸命お金を貯めて買ってくれたのよ」
彼女は再び鏡に向き合って、ネックレスを愛おしげに撫でる。再会した恋人に触れるような手つきだった。
私は息を飲む。
目の前にいるのは黒い髪を結った少女。それなのに、鏡に映る姿は真っ白い髪の老女に見えた。皺だらけの顔の中で瞳だけが深く澄んでいて、歯のない口元はニコニコと幸せそうに微笑んでいる。
「あなた……誰?」
答えはもう分かり切っているのに、私は尋ねた。不思議と混乱はしていない。何だそういうことだったのかと、単純な手品の種明かしをされた時のような悔しい気持ちだ。
祥子は――祥子だと思っていた少女は振り向く。十代の若々しさに翳りはない。露わになった華奢な首元に、清楚なパールがよく映えた。
「自分の道はちゃんと自分で選んだのね。安心したわ。大丈夫、自信を持って行きなさい」
「ば……」
「一本もらえる? 彼、煙草が嫌いだから、ここで一服してから出かけたいの」
私の呼びかけを遮って、彼女は悪戯っぽく肩を竦めた。まるでそう呼ばれたらゲームオーバーだと窘めるみたいに。
請われるまま、私はバッグから煙草を出した。彼女は一本取って口に咥え、ライターで火を点けてあげると、実に美味そうに煙を吸い込んだ。名残りを惜しむように紫煙が空を漂う。
話したいことはたくさんあった。
励ましてくれてありがとう、長い間帰って来なくてごめんなさい――でも月並みな感謝や謝罪を口にするより、今この幸せな時間を黙って見守る方が手向けになるのではないかと思えた。
「さて、じゃあ」
彼女は半分の長さになった煙草を文机の灰皿で消した。
「もう行くわね。瑞希ちゃん、髪ありがとう」
「うん……デート楽しんでね」
私がそう言うと、彼女はあどけなさの残る笑顔を見せた。
庭に出ると、雲の切れ間に星が瞬いていた。
さっきの紫陽花の植え込みの前に、見知らぬ男性が立っている。大学生くらいの青年で、暗がりの中でも白い開襟シャツとベージュのズボンという服装がはっきり分かった。
「まったく、君ときたらいつも支度に時間がかかる」
彼は腕組みをしてこちらを睨んだが、その口元には笑みが浮かんでいた。
「あんまり遅いから迎えに来てあげたよ」
「あなたは相変わらずせっかちね。半世紀も先に行ってしまって」
彼女もまた微笑んで、彼に歩み寄った。紫陽花柄のワンピースとパールネックレスは最高に素敵に見えた。もちろん私が結ったヘアスタイルも。
彼らは若いカップルがそうするようにしっかりと手を繋いで、庭を横切る。門を出る前に、彼女は一度だけ足を止めた。
「お喋りできてよかった! 幸せにね、瑞希ちゃん。次に会う時は楽しい話を聞かせてちょうだい」
再会を確信しているような軽やかさでそう告げ、さよならとは言わずに手を振った。
二人が去った後、急に暗くなった庭先で私は立ち尽くしていた。
今見たものが現実だったのかどうか、自信がない。でも確かに両手は彼女の髪の感触を覚えている。自分に残った記憶こそが自分にとっての事実なのだろう。
心に決めた道を行けと、励まされた言葉もまた。
「案ずるより産むが易しか」
私は呟いた。とりあえずやってみようか――心の靄がふっと晴れた気がした。
その時、母屋から私を呼ぶ小百合伯母さんの声がした。
祖母の臨終の知らせだった。
あのパールネックレスは、新品の煙草とともに祖母の棺に納めた。火葬場の決まりで金属の留め具は外さなければならなかったけれど、まあ大目に見てくれるんじゃないかと思う。
梅雨の合間の奇跡のような青空を、彼女は白い煙になって高く高く昇っていった。
祖母の新盆となったその年の八月、私は再び帰省した。
秋にオープンする新店の準備やスタッフの研修で多忙な時期ではあったけれど、オーナーは快く休暇をくれた。帰ってきたら新チーフとしてしっかり働けというプレッシャーを感じる。それは重くはあっても、私をたじろがせることはなかった。大丈夫、何とかなるさと、少しばかり楽天的に構えられるようになっていた。
琢己は結局店を辞めたが、彼に誘われて一緒に退職するスタッフはほとんどおらず、また思ったより顧客も離れなくて、ちょっと気の毒だった。
法要の後、黒石家では祖母の思い出話に花が咲いた。そこで私は彼女の意外な過去を知る。
「駆け落ち!?」
初めて聞く話に、私も従兄たちも驚きの声を上げた。
縁側へ繋がる襖を開け放しているので、庭から蝉の鳴き声が盛大に聞こえてくる。ガラスの風鈴が時々澄んだ音を立てていた。
二台の扇風機が首を振りながら風を送ってくるが、十人以上が集まった座敷は涼しいとは言えなかった。座卓を囲んで、祖母の子供たちの三家族が集合しているのだ。
座卓には、古いアルバムが何冊も広げられている。黄ばんだページに張りつけられたスナップ写真で、見覚えのある少女が微笑んでいた。この家の縁側とおぼしき場所に腰掛けて、涼やかな眼差しでカメラを見詰めている。
昭和二十七年、十七歳の黒石カヲルである。モノクロ写真ではあったが、ワンピースの紫陽花柄が綺麗に映っていた。
「ばあちゃんが駆け落ちってどういうこと? 全然聞いたことないよそれ」
私の隣に座った祥子が座卓に肘をついて身を乗り出した。ぽっちゃりした体型の彼女は正座が苦手らしく、座布団の上で足を崩している。切れ長の目元と通った鼻筋は写真の祖母によく似ていたが、髪型は思い切りのいいベリーショートだ。
これが本物の祥子――あの夜は学習塾に行っていて祖母の死に目には会えず終いだった従妹である。
隆一伯父さんは苦笑しながら、もう時効だからなと前置きして語ってくれた。
戦後、農地のほとんどを失った黒石家は、末娘のカヲルを隣県の成金に嫁がせようとした。相手は朝鮮戦争の軍事特需で大儲けした繊維加工業者で、家柄目当てと資産目当ての絵に描いたような政略結婚だった。
しかしカヲルには想い交わした男性がいた。その人は彼女の幼馴染だったが、黒石家の土地を払い下げられた農家の三男坊だった。カヲルの両親からすればもと小作人の小倅である。娘婿として認められるはずがなく、彼らの仲は引き裂かれそうになった。
「で、母さん、その人のお尻を叩いて一緒に逃げたんだって」
母が伯父の後を引き継いで言った。
カヲルが恋人と手に手を取って遁走したのは、十九歳の時。戦時中こちらに疎開していた知己を頼って、東京へ逃げた。ちょうど高度経済成長が始まった時期である。職さえ選ばなければ仕事はいくらでもあり、田舎のお嬢さんと農家の息子は、都会の片隅で慎ましく暮らし始めたのだ。
数年後、跡取りの長男を亡くした黒石家の両親は、本腰を入れてカヲルを探し始めた。ようやく消息が分かった時、すでにカヲルと恋人の間には子供ができていた。
「それが俺」
隆一伯父さんが鼻の頭を掻く。私を含め、従兄妹たちは一様に呆気に取られて、誰も何も言えなかった。
母親になったカヲルを前に両親はついに折れ、実家に戻ってくれと懇願した。カヲルもまた兄の死を悲しみ、老いた両親の姿に心を痛めて、帰郷を了承した。
結局、恋人を婿養子に迎える形で彼女は黒石家を継いだのである。
「信じられないだろ、あのばあちゃんがさ」
その後に生まれた広二伯父さんは、アルバムを眺めながら言った。別の写真では、二十代半ばの祖母が小さな広二伯父さんを膝に乗せている。その首元には二連のパールネックレスが見えた。撮影したのは祖父だろうか。
私は座敷の付け鴨居を見上げる。いちばん端に掛かっている若い男性の遺影は祖父だ。写真ではネクタイを締めているけれど、私が最近目にしたその人は白い開襟シャツを着ていた。
「苦労知らずのお嬢さんじゃなかったんだね……」
意外すぎる過去を知った私は、驚きの後に深く納得した。自分を信じて好きな道を進め――彼女の言葉に籠められたリアリティを、今はっきりと受け取った。
祖母は旧い因習や血縁に縛られて諾々と生きてきたわけではなかった。硬い意志を持ち、向こう見ずなところはあるが、冒険心も行動力も備わった力強い女性だったのだ。夫となった人を心から愛していたからこそ、半世紀も独り身を貫けたのだろう。
故郷の実家を継いで生涯を終えたのは結果にすぎず、きっと後悔はなかったに違いない。だからいつもニコニコと穏やかで幸せそうだったのだと思う。
感情表現が豊かで心から楽しげに笑う少女を、私は思い出す。
山あり谷ありの人生を終え、祖母はその魂に最も相応しい姿で去っていったのかもしれない。
「今頃、父さんと仲良くやってるわよ、きっと」
母がしみじみと言って、みんな仏壇の方を見た。真新しい額に入った祖母の写真は、少しだけ余所行きの微笑みを浮かべている。
お盆が過ぎたら、祖父の隣に並べてあげよう。
もっと若い写真にしてよと、文句を言いに来るかもしれないけれど。
-了-