外伝 拾ったもの
拾ったものは、戻さなければならない。
それは、ガルドの声だった。
レンの声ではない。
だが、レンの中にある。
夜の地下は静かだった。
水路の音が、石の壁に当たって小さく返る。地上のギルドはもう閉まっている。受付台には帳面がしまわれ、厨房の火も落ちている。マスターは奥で酒瓶を片づけ、リーネは最後の確認印を押して帰った。
レンだけが、地下にいた。
手には何も持っていない。
けれど、重かった。
ガルドを取り込んでから、時々、知らない重さが残る。
革袋の重さ。
濡れた短剣の重さ。
銅貨袋を腰へ入れる時の、少しだけ沈む感触。
死んだ者の腕から留め具を外す時の、冷えた皮膚の硬さ。
レンのものではない。
ガルドのものだった。
最初の記憶は、若いガルドだった。
まだ今より背筋が伸びていた。革鎧も新しく、剣の柄も擦り切れていない。浅い階層で仲間を失い、血まみれの荷物を抱えてギルドへ戻る。
受付の向こうに、知らない職員がいる。
「回収品ですね」
そう言われる。
ガルドは頷く。
言葉が出ない。
死んだ仲間の短剣を置く。薬瓶を置く。銅貨袋を置く。指輪を置く。
親族が来る。
泣く。
礼を言う。
ありがとう。
持って帰ってくれて。
その時のガルドは、まだ目を逸らしていた。
拾ったものは、戻さなければならない。
その言葉は、その頃にはまだ汚れていなかった。
次の記憶では、ガルドは腹を空かせていた。
依頼は失敗続き。魔物を倒せない。荷運びでは若い者に負ける。採取では足が遅い。剣を振れば肩が痛む。報酬は少なく、宿代と飯代で消えていく。
その日も、浅い階層で死体を見つけた。
知らない冒険者だった。
荷物は残っていた。薬瓶が三本。予備の短剣。銀貨が少し。
ガルドはそれをギルドへ届けた。
親族へ戻るものが分けられた。
所属パーティへ戻るものが分けられた。
依頼品が分けられた。
最後に、残りがガルドへ渡された。
「規定です」
受付はそう言った。
残った薬瓶一本と、傷のある短剣。
売れば、三日は食えた。
ガルドはその夜、久しぶりに温かい飯を食った。
拾ったものは、戻さなければならない。
残ったものは、受け取っていい。
言葉が、少しだけ形を変えた。
レンは水路の脇に座った。
石の上は冷たい。
冷たさは、自分のものだ。
記憶は違う。
次の記憶では、ガルドは道を覚えていた。
第三横穴。
古い階段口。
東側の崩れ道。
魔物が通る時間。
新人が足を滑らせやすい石。
叫び声が届きにくい窪み。
最初は、避けるために覚えた。
その次は、見つけるために覚えた。
誰かが帰ってこないと聞く。
ガルドは場所を思い浮かべる。
あそこなら、死体が残る。
あそこなら、魔物が荷物までは食わない。
あそこなら、ギルドの捜索が来る前に入れる。
そして拾う。
剣。
薬。
財布。
形見。
木札。
戻せるものは戻す。
戻せないものは残る。
残ったものは、受け取っていい。
ガルドは、そう繰り返した。
記憶の中のガルドは、もう泣かない。
死体の顔を見ない。
装備を見る。袋を見る。薬瓶の数を見る。
レンは目を閉じた。
ガルドの目で見ると、冒険者は荷物を持って歩いているように見えた。
あの革鎧は売れる。
あの薬瓶は未使用。
あの短剣は親族に戻る。
あの銅貨袋は、残れば自分のものになる。
あの靴は、小さいから売れない。
人ではなく、残るものを見る目だった。
余計だ。
レンはそう思った。
だが、消えない。
さらに奥の記憶が来る。
若い冒険者が三人いる。
ガルドに道を聞いている。
「第三横穴の入口なら、薬草が残ってる。奥へは行くなよ」
ガルドはそう言う。
言葉だけなら、忠告だ。
間違いではない。
だが、ガルドは知っている。
入口近くの石は沈む。
沈めば、奥の魔物が動く。
逃げ道は細い。
新人は慌てる。
一人は落ちるかもしれない。
それでも、ガルドは言う。
奥へは行くなよ。
言った。
止めた。
だから、自分は悪くない。
新人たちは進む。
ガルドは離れて見る。
腰の袋を少し緩める。
まだ死んでいない。
だが、袋は開けやすくしておく。
レンはそこで目を開けた。
地下の水音が聞こえる。
ガルドの記憶の中では、まだ叫び声が続いている。
助けられた。
その場面が、何度もある。
手を伸ばせば届いた。
薬瓶を投げれば間に合った。
大声を出せば、別の冒険者が気づいた。
石を投げれば、魔物の向きが変わった。
だが、ガルドは待った。
弱いから。
間に合わないから。
巻き込まれたくないから。
どうせ助からないから。
死んだら拾わなければならないから。
理由はいくつもあった。
どれも少しずつ本当だった。
だから、汚れていた。
レンは立ち上がった。
地下の壁に手をつく。石の隙間に、水が薄く染みている。
ガルドの記憶には、使えるものが多かった。
第三横穴の奥にある割れ目。
死体が見つかりにくい窪み。
古い荷袋を隠した場所。
魔物が避ける湿った道。
新人が間違えやすい分岐。
ギルドの捜索隊が見落とす影。
それらは、汚い。
だが、役に立つ。
居場所を守るには、使える。
レンはその事実を否定しなかった。
ガルドは悪い。
だが、ガルドの知っていた道は悪くない。
道はただ、そこにある。
使い方が汚れていただけだ。
なら、使える。
レンはそう判断しかけて、止まった。
ガルドも、最初はそうだったのかもしれない。
死者の荷物を戻す。
必要な仕事。
残りを受け取る。
規定。
死にやすい場所を覚える。
役に立つ知識。
危険な新人を見る。
助けるより、待つ。
少しずつ、形が変わる。
レンは自分の手を見た。
手は人の形をしている。
だが、そうでなくなることもできる。
取り込むこともできる。
ガルドの最後の感覚が、短く残っていた。
石の冷たさ。
水音。
革袋が落ちた音。
腕を包まれた時の恐怖。
目の前にいるものが、人間ではないと気づいた瞬間。
そして、最後に浮かんだ考え。
俺は、拾われるのか。
レンは目を閉じた。
拾ってはいない。
戻してもいない。
取り込んだ。
それは、帳面のどこにも置けない。
地上へ戻ると、マスターが裏口の前にいた。
まだ寝ていなかった。
明かりは薄い。酒瓶もない。腕を組み、扉にもたれている。
「遅いな」
「下にいた」
「何か拾ったか」
レンは少し黙った。
「余計なものを」
マスターの目が細くなった。
「捨てろ」
「使える」
言ってから、レンはその言葉の重さを見た。
使える。
ガルドも、何度もそう思っていた。
この道は使える。
この場所は使える。
この死体は使える。
この制度は使える。
マスターは低く言った。
「使える汚れが、一番残る」
レンは答えなかった。
「使ったら、楽だ。早い。誰にも見えん。だから残る」
「しまう」
「しまえるうちはな」
マスターは、レンから視線を外さなかった。
「ガルドのことか」
レンは黙った。
マスターはそれ以上、名前を追わなかった。
「報告は」
いつもの問いだった。
レンは、地下で見たものを思い出した。
隠された荷袋。
届けられなかった髪飾り。
死にやすい道。
待つ男。
使える汚れ。
報告すれば、仕事になる。
仕事になれば、誰かが見に行く。
見に行けば、また拾うものが出る。
だが、全部を飲めば、レンの中に残る。
レンは少しだけ考えた。
「ある」
マスターの眉がわずかに動いた。
「何だ」
「第三横穴の奥。荷袋が残っている」
「ガルドのか」
「たぶんな」
「中身は」
「死んだ者のもの」
マスターは息を吐いた。
「明日、回収記録を作る。レン、お前は行くな」
レンはマスターを見た。
「なぜ」
「拾うな」
短い言葉だった。
レンは黙った。
「戻す仕事にする。お前の腹に入れる仕事じゃない」
マスターはそう言った。
強くはない。
だが、線を引く声だった。
「分かった」
レンは答えた。
奥で、小さな物音がした。
リーネだった。帰ったはずだったが、帳面棚の前に立っていた。手には古い記録紐を持っている。
眠そうではない。
聞いてしまった顔でもない。
ただ、何かを探していた顔だった。
「明日の回収記録ですか」
リーネが言った。
マスターは少しだけ苦い顔をした。
「まだ何も言ってない」
「言いました」
「聞こえたか」
「少しだけ」
リーネはレンを見た。
「第三横穴の奥に、未処理回収品があるんですね」
レンは頷いた。
「ある」
「所有者照会が必要です」
「そうだな」
「回収者は」
リーネはそこで止まった。
ガルドではない。
レンでもない。
まだ、誰でもない。
リーネは少し考え、帳面を開いた。
「ギルド回収扱いにします。明日、正式に人を出します。回収者個人の残余受け取りはなし。未返還品は保管」
マスターが頷いた。
「それでいい」
レンは帳面を見た。
ガルドの知っていた場所が、ギルドの仕事になる。
それなら、戻る。
少なくとも、レンの中だけには残らない。
リーネはペンを置いた。
「レンさん」
「どうした」
「その場所を、明日教えてください」
「行かない」
「はい。場所だけでいいです」
「分かった」
リーネは少しだけ間を置いてから言った。
「拾ったものは、戻しましょう」
それは、ガルドの言葉に似ていた。
だが、違った。
ガルドの中で、その言葉は少しずつ汚れていった。
リーネの言葉には、帳面の場所があった。
レンは短く答えた。
「はい」
翌朝、ギルドは正式な回収記録を作った。
第三横穴奥、未処理回収品確認。
所有者照会。
残余受け取りなし。
保管期間延長。
担当、ギルド回収班。
レンは同行しなかった。
受付台の横で、水瓶を運び、壊れた椅子を直し、依頼札の端を揃えた。
いつも通りだった。
だが、地下の道は覚えている。
ガルドの記憶も残っている。
消えない。
使える。
だから、しまう。
昼前、回収班が戻ってきた。
袋が三つ。
髪飾りが一つ。
木札が二枚。
錆びた短剣。
薬瓶。
リーネが一つずつ記録する。
戻せるものを戻すために。
レンはそれを見ていた。
拾ったものは、戻さなければならない。
その言葉は、まだ中にある。
だが、少しだけ場所が変わった。
ガルドの袋の中ではない。
レンの腹の中でもない。
帳面の上に置かれている。
夕方、マスターが確認印を押した。
「報告は」
レンは少しだけ考えた。
ガルドの記憶。
死にやすい道。
使える汚れ。
しまう場所。
まだ、全部は言えない。
だが、全部を飲んではいない。
「今日は、ある」
マスターはレンを見た。
「言え」
「残っている場所が、他にもある」
マスターは深く息を吐いた。
「明日、帳面にしろ」
「分かった」
リーネがペンを取った。
「では、未処理回収品確認予定として、仮欄を作ります」
レンは頷いた。
帳面に、余白ではなく欄ができる。
汚れは消えない。
だが、全部を腹に入れなくてもいい。
レンはそう判断した。
夜、裏口を閉める前に、レンは掃除箱を見た。
中は空だった。
紙もない。
袋もない。
礼の品もない。
それでも、何かが来る場所であることは変わらない。
レンは蓋を閉めた。
背後でリーネが帳面をしまう音がする。
拾ったものは、戻す。
戻せないものは、しまう。
しまえないものは、帳面に置く。
レンは裏口の鍵をかけた。
今日のギルドには、報告があった。
それでも、全部ではない。
全部ではないから、まだ回っている。




