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認識の果てに

 

 小さな、音がした。


 ソウマは反射的に身を引いて、その扉から距離を取った――否、取ろうとして、しくじった。

 足は動き、身体も後ろへ下がった。

 それでも、意識だけが扉から離れなかった。


 この扉から、音が確かに聞こえた。

 ソウマはしばらく扉を凝視し、それから、その音の正体を確かめるように、慎重な足取りでゆっくりと近づいた。

 取っ手へ手を伸ばし、触れる。

 冷やかな感覚が手に伝わる。

 少なくとも、触覚だけは嘘をついていない。

 押しても、扉は動かない。

 引いたとしても、結果はわかっている。

 今度は両手を使い、体重を掛ける。それでも扉は微動だにせず、まるで開閉という機能そのものを拒絶しているかのように、そこに静止していた。


 ソウマは手を離した。

 開かない。それだけなら、何もおかしくはない。

 鍵が掛かっているのかもしれないし、向こう側から押さえられているのかもしれない、あるいは、そもそも扉として存在していても、開くことを目的としていないのかもしれない。

 だが、確かに音がした。


 ソウマは扉を見る。

 あの音が、扉の向こうから聞こえたのか、扉そのものから発せられたのか、それとも扉を見たことによって、聞こえたように感じただけなのか――現時点では、どの可能性も否定できない。

 だからこそ、まずは目の前にあるものを調べる。

 扉は全て、例外なく開閉のための構造を持っているに違いないのだ。それは時に形状や材質を変えながらも、「扉」という存在を成立させるために不可欠な、部品という名の臓器によって構成されているはずだ。


 縦枠。

 下枠。

 戸板。

 蝶番。

 取っ手。

 それぞれが固有の役割を担い、それらが相互に噛み合うことで、一つの「扉」という形態を成立させている。


 ソウマは理覚を展いた。

 すると、薄い線が浮かび上がった。

 扉の輪郭に沿って走る線、戸板の内部を通る線、そして取っ手から伸びて枠へ繋がる線――一見すれば、これまで見てきた扉と何ら変わらない構造が、確かにそこには存在している。

 在る。

 構造は、確かに存在している。


 ソウマは取っ手から伸びる線を追った。

 戸板。

 枠。

 蝶番。

 そこまでは、自然だった。

 だが、その先で線が途切れている。


 ソウマは目を細めた。

 蝶番ならば、その先には扉を固定するための構造が必要になるはずで、それは壁であれ柱であれ、少なくともそれに相当する何かへ接続されていなければならない。

 しかし、線はそこへ繋がっていなかった。

 唐突に途切れている。

 何かに断ち切られたような不自然さではない。

 むしろ、最初から、その先など存在していなかったかのような途切れ方だった。


 ソウマは理覚を閉じると、扉の横へ手を伸ばし、指先を壁でも探るように横へ滑らせた。しかし、その手に触れるものはない。さらに上へ、下へと確かめたあと、扉の裏側へ回ってみても、そこに壁は存在していなかった。

 扉は、白の中に立っている。

 何かへ嵌め込まれているわけでもなく、何かに吊られているわけでもない。

 それでも、倒れない。


 ソウマは扉の上を見上げた。

 白い。

 下を見る。

 床らしきものがある。

 だが、扉の下にも、それを支える構造は存在していない。


 ならば、この扉は何によって、ここに存在している?


 答えは出なかった。

 出せない、というよりも、答えを導くために必要な前提そのものが、この場所では成立していないように思えた。


 ソウマは扉から一歩離れ、再び理覚を展いた。

 今度は扉だけを見る。

 浮かび上がった構造線を目で追いながら、ソウマは自分の位置を少しずつ変えていく。

 一歩。

 二歩。

 三歩。

 扉との距離は変わっている。

 当然だ。

 だが、その当然の事実に反して、構造線そのものが、どこか奇妙だった。

 線は扉に属している。

 それでも、ソウマが横へ動くと、視界に映る線の位置まで僅かに変化する。


 ソウマは足を止め、確かめるようにもう一度だけ横へ移動した。

 線がズレる。

 戻る。

 線も戻る。

 空間に固定されているわけではない。

 とは言っても、自分についてきているわけでもない。

 その中間にある。


 ならば、この線は何を基準として存在している?


 空間か。

 扉か。

 それとも、自分の認――。


 最後の可能性が浮かんだところで、ソウマは思考を止めた。

 まだ決めるべきではない。

 理覚が映しているものを、自分の知っている概念へ無理に当て嵌めてしまえば、見えているものを理解するどころか、自分が理解できる形へと勝手に変換してしまう可能性がある。


 ソウマは一本の線だけを選んだ。

 細く、扉の枠から伸びており、途中で終わっている線。

 まずは、それだけを認識する。

 線は消えない。

 ソウマはさらに意識を向け、そこにあるものの意味を探ろうとした。


 これは何で、

 何を構成しているのか。

 どこへ繋がろうとしているのか。

 そうして、その意味を掴もうとした瞬間。

 線が消えた。


「……」


 ソウマは動かなかった。

 理覚を閉じ、しばらく間を置いてから再び展く。

 線はない。

 待っても、現れない。


 ソウマは先ほどの線を思い出し、その形だけを頭の中に浮かべた。

 意味は考えない。

 ただ、そこにあったものとして認識する。

 そしてもう一度、理覚を展く。

 線が現れた。


 ソウマの呼吸が一段深くなる。

 もう一度、意味を考える。

 線が消えた。

 それでも、それ以上試さなかった。

 偶然ではない。

 そう判断するには十分だったが、それでも「認識すると消える」と断定するには材料が足りず、問題は、何を認識した瞬間に線が消えたのかという一点に残されていた。

 線そのものなのか、線の意味なのか。

 それとも――。


 ソウマはそこで思考を切った。

 この空間では、理解しようとすること自体が、対象へ何らかの干渉を及ぼしているのかもしれない――そう考えた瞬間、理覚の奥に、先ほどまでとは異なるものが浮かび上がった。


 五十


 ソウマは目を開いた。

 この数字だけは、最初から消えない。

 白の中へ入った直後から、理覚は何度もこれを示している。

 ゼロか、五十か。

 意味は不可解だが、不変な数字。


 ソウマはまず扉から離れ、十歩ほど進んでから振り返った。

 扉はまだ見える。


 五十


 今度は扉へ戻る。

 近づく。


 五十


 距離が変わっても、数字は変化しない。

 少なくとも、距離を直接示しているわけではない。

 ならば、自分自身はどうか。


 ソウマは胸へ手を当て、心臓の鼓動を確かめ、呼吸をし、腕を動かし、指を曲げた――身体は確かに自分の命令へ従っている。

 それでも――


 五十


 変わらない。

 自分の状態を示しているわけでもなさそうだった。

 だが、そこでソウマは疑問に行き着いた。

 そもそも、変わらないからといって、固定されていると判断していいのだろうか。

 自分が変化を捉えられていないだけではないのだろうか。

 ソウマは数字を見つめた。


 五十


 何かを示している。

 それだけは確かだ。

 しかし、それが何なのかを考えようとすると、先ほどの線が脳裏をよぎる。

 意味を与えようとした瞬間に消えた。

 ならば、この数字にも同じことが起こる可能性がある。


 ソウマは考えることをやめた。

 今は、五十という結果だけを残す。

 意味は保留する。

 それ以上、踏み込まない。


 ソウマは歩き出した。

 今度は、何も検証しなかった。

 白い床を踏み、一歩、二歩、三歩と進むうち、自分の足音すらほとんど聞こえなくなり、四歩、五歩と重ねる頃には、自分がどれほど歩いたのかさえ曖昧になっていった。

 やがて振り返る。

 扉がある。

 少しだけ安心した。

 少なくとも、帰る場所は残っている。

 そう思った、その直後だった。


 ソウマは、僅かに眉を動かした。


 扉が遠い。


 先ほどよりも、ほんの僅かに、しかし、確かに。

 ソウマは目を細め、距離を測ろうとしたが、やはり数字にはならなかった。それどころか、自分が先ほどまでどこにいたのか、扉がどこにあったのか、その二つを結びつけるための基準そのものが、いつの間にか曖昧になっていることに気づいてしまった。


 ソウマは一歩戻った。

 扉が近づく。

 もう一歩。

 近づく。

 距離そのものは、存在している。

 ならば、空間が完全に破綻しているわけではない。

 そう判断したところで、ソウマは足を止めた。


 何かがおかしい。


 扉を見ている。

 確かに見ている。

 それでも、どこか扉そのものよりも「扉がある」という事実を見ているような感覚があった。

 それは視覚の問題なのか、それとも認識の問題なのか、ソウマには判別できなかった。だが、それでも目の前の扉を見失わないようにするかのように、意識を一点へ固定する。

 扉。

 白い扉は、ここにある。

 そう認識する。

 そして、瞬きをして、次に目を開いた時――


 扉は消えていた。


 音はしなかった。

 動いた気配もない。

 ただ、そこにあったはずのものだけが、白へ溶け込むように消えている。


 ――否。

 消えたというより、最初からそこには何もなかったかのように、扉が存在していたという事実だけが、周囲の白へ静かに塗り潰されていた。ソウマの心は、静かどころか、激しいざわめきを起こしていた。


 ソウマは、不用意にしくじったことを悔い、無力感を覚えた。

 すぐに振り返る。

 白。

 右を見る。

 白。

 左を見る。

 白。

 前を見る。

 白。

 眼下には、白だけが広がっている。


 ソウマは理覚を展いた。

 構造線を探す。

 扉を構成していた線も、その周囲へ伸びていた線も、何一つとして残っていない。


 ソウマはゆっくりと理覚を閉じた。

 消えたと、そう思った。

 だが、その言葉をすぐには信じられなかった。

 消えたのなら――


 いつ?

 目を逸らしていたわけではない。

 瞬きという、ほんの刹那の時。

 瞬きの前にはあった。

 瞬きの後にはない。

 ただ、それだけだった。

 ならば、自分が見ていない僅かな瞬間に消えたのか。

 それとも、自分が「扉を見る」という認識を失った瞬間に、扉そのものが成立しなくなったのか。


 ソウマは焦る気持ちを抑えるように、目を閉じた。

 あの扉の記憶を辿る。

 白い戸板。

 枠。

 取っ手。

 蝶番。

 確かに覚えている。

 触れた。

 押した。

 開かなかった。

 音も聞いた。

 だから、そこにあった。


 ――本当に?


 疑問が浮かんだ瞬間、ソウマは、自分が思い出したはずの扉の輪郭を、ほんの僅かに掴み損ねた。

 確かに覚えているはずなのに、その「確かに」という感覚だけが、妙に頼りない。

 ソウマは目を開いた。

 白。

 何もない。

 記憶にはある。

 しかし、今は見えない。

 理覚にも映らない。

 音もない。

 触れることもできない。

 存在していたという証拠が、記憶の中にしか残っていない。

 そして、その記憶さえも――本当に自分のものなのか。

 確かめる術がない。


 ソウマはその事実に気づき、初めて背筋に冷たいものを感じた。

 この場所では、何かが消えることより――


「消えたものを、自分が本当に知っていたのか確かめられない……?」


 その時、小さな音がした。

 ソウマの身体が硬直する。

 聞き間違いではなく、先ほどと同じ音。

 扉から聞こえた、あの音。

 だが、扉はない。


 ソウマはゆっくりと周囲を見回した。

 前。

 白。

 後ろ。

 白。

 右。

 白。

 左。

 白。

 どこから聞こえたのか分からない。

 音だけが、確かに残っている。

 ソウマは耳を澄ませた。

 もう一度。

 ――何も聞こえない。


 ソウマは動かなかった。

 そして、理覚を展く。

 白の中に、薄い線が一本だけ浮かんだ。

 扉の線ではない。

 構造を示しているようにも見えない。

 ただ、一本。

 白の中に存在している。

 ソウマはそれを見つめた。

 意味を考えない。

 何なのかを決めない。

 ただ、そこにあるものとして見る。

 線は消えなかった。


 ソウマは息を潜め、その線の先を見る。

 何もない。

 それでも、線だけは、どこかへ続いているはずなのだ。何かに繋がるために、その線は、『構造線』は在るはずなのだ。


 五十


 ソウマはハッとした。

 扉があった時も。

 扉が消えた後も。

 構造線が消えても。

 音の方向が分からなくても。

 この数字だけは変わらない。


 ソウマは、初めてその数字を恐ろしいと思った。

 意味が分からないからではなく、意味が分からないまま、最後まで残っているからだった。


 五十


 理覚は変わらず、その数字を示していた。

【お知らせ】

諸事情により投稿頻度が低くなります。

ごめんなさい。

【今回の小ネタ】

今回のテーマは、「認識すること」です。

私たちは普段、目の前にあるものを見ているつもりでいます。

しかし実際には、見たものすべてをそのまま認識しているわけではありません。

人間の脳は、視界に入った情報を取捨選択し、過去の記憶や知識と照らし合わせながら、「これはこういうものだ」と意味を与えています。

だからこそ、少し不思議なことが起こります。


例えば、探し物をしているとき。

目の前にあるのに、それが探している物だと認識できず、見落としてしまうことがあります。

いわゆる「灯台下暗し」ですね。

逆に、一度その存在を意識すると、それまで気にも留めなかったものが、急に目につくようになる。

世界そのものが変わったわけではありません。

変わったのは、「何を見るのか」という自分の認識です。

では、もし認識することによって世界の側が変化するとしたら?

もし、「理解した」という瞬間そのものが、対象を変えてしまうのだとしたら?

そのとき、私たちは果たして、自分が見ているものを本当に「見ている」と言えるのでしょうか。


見えるもの。

触れられるもの。

記憶に残るもの。

そして、それらが本当に同じ存在を指しているのか。

数字は、ただそこにあるだけなのか。

それとも、最初から何かを示していたのか。


答えは、まだ白の中にあります。


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