確かに在るもの
扉は三枚現れていた。
ソウマは、存在するはずもないその扉たちに一つずつ近づいては、その一枚一枚を睨むように凝視した。
記憶に新しい、目を引くような装飾はどこにもない、無機質な扉。
特別大きいわけでも、異様な気配を放っているわけでもない、あまりにも無用な扉。
その二つとは違う意味で強大な気配を放つ、王城の大扉。
しかし、この三枚は確かに一度、ソウマの視界から、王城という空間から消え去ったはずのものだった。
それが今、こうして揃ってソウマの前に現れている。
その一点だけで、この扉たちには何らかの意味があるのだと、ソウマの本能は静かに告げていた。
「この扉たちは何で俺の前に現れたんだ……?」
ソウマは本能的に、消えた“扉”を、ただの王城の構造の一部として片付けることに違和感を覚えていた。
もっと別の何か。
仮に、この扉たちが意思を持った生き物のような存在だったとしたら――そう仮定すれば、先ほどの自分の問いかけも、あながち的外れではなくなる。むしろ、必然だったとさえ言えるかもしれない。
「あいつのように何かを伝えるためっていうことは考えられないし……。そういえば」
ソウマは三枚の扉を前にして、これまで自分がこの扉たちに対して一度も試みていなかったことに思い至る。
それを確かめるべく、ソウマは足を進めた。
向かった先は、あの亀裂に落ちる前に立っていた、最初の扉だった。
「今度は消えない……それなら行けるか……?」
取っ手を握ると、ひんやりとした感触が掌に伝わった。
金属特有の冷たさだったが、そこには長く放置されたものに触れたようなざらつきも、古びたもの特有の重さもない。
指先に残ったのは、ただ温度だけだった。
軋みも、抵抗もない。あまりにも自然に、扉は開いた。
その先に広がっていたのは――
無機質な白だけに囲まれた、どこか空虚な空間だった。
◇◇◇
ソウマは無意識のうちにその空間へ足を踏み入れようとして、その寸前で踏み止まった。
理覚が小さく告げていたのだ。
ゼロか五十か、と。
その言葉の意味を、ソウマはすぐには理解できなかった。
扉の縁に手をかけたまま、しばらくその場に立ち竦む。疲労し切った脳を、無理やりにでも全力で回転させた。
数字そのものに意味があるのか。
距離を示しているのか。
確率を示しているのか。
あるいは、自分にはまだ理解できない何かの暗示なのか。
そうして辿り着いた答えは――
「ハイリスク、ローリターン……?」
ゼロや五十が正確に何を示しているのかは、依然として分からない。だが、それがどんな意味であったにせよ、"ゼロ"という響きには、良い印象を持てなかった。
ゼロとは、“無”を意味するとソウマは考える。
本質的には、ゼロではその元となるものがあるが、無だと元となるものがないということは分かっている。
器で例えるなら、「ゼロ」では器の中には何もないということだが、「無」だと器そのものがないということだ。
しかしソウマはそれをわかっていても、ゼロは無だと考えている。
それは決して斜に構えているわけではない。
ゼロも無も、どちらも何もないではないかと。
“無“は、この扉の向こうに広がる空間を一目見た時に感じた、あの空虚さとも重なる。
何もない。
何も得られない。
それどころか、二度と戻れなくなる可能性すらある。
今のソウマにとって、それでもなお踏み込む理由としては、あまりにも弱かった。
ソウマは扉を閉めることはせず、開いたままにしてその場を離れた。
振り返り、視線を右へ移す。
そこには、白銀の装飾を纏った大扉があった。
明らかに、他の二枚とは異質な存在感を放っている。
それもそのはずだった。この扉こそ、あの姿のない足音から逃げ惑った前庭と、この王城とを隔てる境界そのものだったからだ。
大きい。
ただそれだけではなかった。
ソウマが腕を伸ばしたところで、扉の中央には届かないほどだった。
視線を上げても、その上端を捉えるには首を大きく反らす必要がある。
この王城へ足を踏み入れる前、ソウマは確かにこの扉を目にしている。
あの姿のない足音から逃げ惑った、前庭。
白い石畳。
止まったままの噴水。
その向こうに広がっていた光景と、この王城とを隔てていた扉。
厚みのある木材を幾重にも重ねたような重厚な造りに、それを横から押さえ込むように走る鉄の補強。
扉の縁には白銀の装飾が施され、その色は白い王城の中にあっても埋没することなく、輪郭だけを静かに浮かび上がらせている。
中央に施された意匠も、ただ飾るためだけのものではない。幾つもの部材が噛み合い、一枚の巨大な扉そのものを支えるように配置されている。
以前見た時と何一つ変わらぬまま、扉そのものが一つの境界としてそこに立っている。
単なる出入口ではなく、向こう側と、こちら側とを分かつという目的をありありと感じさせられる境界線。
ソウマはゆっくりと、その大扉へ歩み寄った。
視線を上から下へと滑らせる。
大きさは以前と変わらない。
鉄の補強にも、白銀の装飾にも、不自然な損傷は見当たらなかった。
それでも――
「この扉も、消えていたのか……」
王城に足を踏み入れて以降、ソウマは一度もこの大扉と再会していなかった。
それもそのはずだ。
肖像画が並ぶあの廊下、そして今なお歩いているこの夢幻の廊下、その他の場所には一度も足を運んでいない。廊下から抜け出せずにいたことも一因ではあったが、この先にきっと何かがあるという期待と好奇心の方が、はるかに大きな理由だった。
「じゃあ、もしかしなくても……」
ソウマは取っ手へ手を伸ばす。
この扉の先を、自分は知っている。
知っているはずだ。
以前、まさにこの扉の先から逃げ出してきたのだから。
扉が開く。
軋み一つない、なめらかな開き方だった。
ソウマの推測通り、その先には前庭が広がっていた。
白い石畳。
左右に整えられた庭木。
止まったままの噴水。
以前目にした景色と、何一つ変わってはいない。
前庭は静まり返り、あの足音も、今は響いていない。
ソウマはしばらく白銀の大扉の前に佇み、理覚の反応を探ろうとした。
しかし――
「反応が、ない?」
以前ならば、何かがあれば理覚は必ず反応した。
危険。
異常。
違和感。
何かしらの指標が、確かにソウマの中へ落ちてきたはずだった。
それが、ない。
目の前には確かに前庭が広がっているというのに、その先について理覚は何一つ告げてこない。沈黙を保ち続けるだけだった。
ソウマはしばらく困惑し、呆然と立ち尽くす。同時に、この大扉をくぐって前庭へ踏み出すべきかどうかを考え始めた。
「行きたくは、ないな……」
情報はまだ不完全だ。
今すぐ直感だけで踏み込むのは無謀に過ぎる。
それに、扉はまだもう一枚残っている。
そちらを確かめてから決断する方が、よほど合理的だろう。
ソウマはそう判断し、大扉を開いたまま、一度距離を取った。
そして背後を振り返る。
白い空間へ続く扉。
前庭へ続く大扉。
そして、その右側に残された、最後の一枚。
どれを選ぶべきなのか。決められているようで、決められていない。
あるいは――
すでに答えは決まっているのに、自分がまだそれに気づいていないだけなのか。
そんな考えが頭をよぎった瞬間、ソウマは小さく首を振った。
考えすぎだ。
今はまだ、そこまで踏み込むべきではない。
しかしこの時、ソウマの内心には、薄らと焦りが滲んでいた。
早く抜け出さなければ。
早く結果を出さなければ。
そのために、早く行動を起こさなければ。
その焦燥感は、夢幻の廊下を永遠に彷徨い続けるソウマの中で、どれほど強く育っていくのだろうか。
◆◆◇
ソウマは白銀の大扉から離れ、その右隣にある扉へと近づいた。
他の二枚とはまた違う存在感を放つ扉だった。
この扉もまた、最初に開いた扉と同じように、これといった特徴は何一つない。
材質も、模様も。
色も、取っ手も、蝶番も、大きさも、装飾も、木目さえも。
どれを見ても、特別だと言えるものは何一つない。
全てがどこまでも平凡な、何もない扉だった。
近づいてみれば見るほど、どこにでもありそうな扉に思えてくる。
古びているわけでもなければ、新しいわけでもない。
傷が目立つわけでもなく、かといって完全に無傷というわけでもない。
手入れが行き届いているようにも見えるのに、誰かがそれを使っている気配はどこにもない。その曖昧さこそが、この扉の奇妙さそのものだった。
しかしこの扉には、どこか一線を画す明確さがある。
同じ"扉"であるにも関わらず、“扉”としてすでに完成されていた。
白い空間へ続いていた最初の扉には、どこか欠落した印象が漂っていた。白銀の大扉には、境界としての明確な役割があった。
そして、この扉には――
そこに何かがあるという、妙な確信だけがあった。
扉として作られた。
扉として存在している。
扉として、確かにその先へと続いている。
しかし、一つの扉にしては強大すぎる存在感を放っていた。
「嫌に惹かれる……」
ソウマは気づけば、その扉の前に立っていた。自ら近づいたというより、気がついた時にはもうそこまで歩みを進めていた、という方が近い。
そのままその場で視線を落とす。
取っ手。
蝶番。
木目。
どれも平凡で、無個性だ。
それでも、その平凡さだけは妙に正確だった。
木目の走り方も、部材同士の継ぎ目も、取っ手の位置も、何一つ目立つところがない。それらがあまりにも自然に噛み合っているせいで、かえって最初からそこに存在することだけを目的として作られたようにも見えた。
何もないはずなのに、曖昧さがない。
むしろ、何もないからこそ、そこに確かに“在る”という事実だけが際立って見える。
ソウマはしばらく取っ手を見つめたあと、ゆっくりとそこへ手を伸ばした。特徴のないその取っ手に指をかけ、静かに扉を開く。
その先に広がっていたのは――
夢幻の廊下だった。
ソウマは自分が思っていたほどには驚かなかった。
心のどこかで、すでにそうなることを予感していたのかもしれない。
事実、扉を開いた先に広がる光景は、その扉が本来あった場所をそのまま示しているのだろう。
根拠は決して多くはない。
だが、白銀の大扉の前には前庭が広がっていた。
最初の無個性な扉を開いたのは今回が初めてだったが、今開いたこの扉は、これまで何度も歩いてきたあの廊下と同じ扉だ。
つまり、廊下はずっと途切れることなく続いていたのだと言ってもいいだろう。
ソウマは扉の縁に手を添え、その向こうを見つめる。
見慣れた廊下。
もはや見飽きてしまった廊下。
どこまでも続き、どこまで進んでも同じ景色を返してくる、この夢幻の廊下。
扉一枚を隔てたところで、その事実は何一つ変わらないようだ。
「この先で俺に何をさせるつもりなんだ……?」
戦闘か。
否。
幻惑か。
否。
対面か。
否。
「謎解き……?」
この先には、必ず何かしらの謎がある。
姿のない足音の正体。
ただ白があるだけの、あの異空間。
どこまでも無限に続く、この廊下。
これらの謎を解き明かすことこそが、求められているのだとしたら。
「筋は通る、か」
謎には必ず、その原因がある。それを見つけ出して初めて、“謎解き”は完成する。
観察して。
考えて。
仮説を立てて。
それが正しいかどうかを確かめる。
これまでもずっと、そうやって進んできたのだ。
だが――
「そんな時間は、俺にはないようだな」
その視線の先には――
「よお、リリア。いや――“リリア”」
「久しぶり、かな。――神凪ソウマ」
【今回の小ネタ】
もし、何もない白い空間に閉じ込められて、そこから一生出られなかったらどうなるでしょうか。
最初のうちは、きっと「何もない」ことに耐えられるでしょう。
壁も、床も、天井もない。音もなく、景色も変わらない。
それでも、自分の記憶や考えがある限り、退屈することはあっても、すぐに壊れてしまうわけではないはずです。
では、それが一日ではなく、一週間、一か月、一年と続いたらどうなるのでしょうか。
人間は、周囲から得られる情報をもとにして、自分がどこにいて、どれほど時間が経ったのかを認識しています。
何も変化しない空間では、その基準そのものが失われていきます。
朝も夜もない。
歩いても景色が変わらない。
音も匂いもない。
誰かと話すこともない。
そうなったとき、「時間が経っている」という感覚さえ、少しずつ曖昧になっていくのかもしれません。
そして、もっと怖いのは――
そこにいる自分自身まで、確かなものではなくなっていく可能性があることです。
何もないからこそ、自分の記憶だけが世界を形作る。
しかし、その記憶が本当に正しいのかを確かめるものは、どこにもない。
もし、そんな場所に長く居続けたら。
最後まで残るのは、自分でしょうか。
それとも――自分が「自分だ」と思っていた何かでしょうか。




