象位の前景
映り込んだ自分の肩の向こうで、何かが横切った。
「――」
声は出さない。
反射的に振り返ることもない。
まず、硝子から目を離し、それから静かに首を巡らせる。
廊下には誰もいない。甲冑も、柱も、燭台も、何一つ変わっていなかった。
ソウマは再び窓へ目を向ける。
映っているのは、自分一人だけだった。
(……違う)
見間違いとも、誰かがいたとも言わない。
映った。
それだけを胸へ刻み込み、ソウマは窓から離れる。
王城は何かを見せてくる。だが、それに意味を与えた瞬間、自分の認識は崩される。
だから見えても追わない。
考えない。
決めつけない。
その繰り返しだけが、この王城という異形の空間で、正気を保つ唯一の術になりつつあった。
窓から離れたソウマは、再び廊下の中央へ戻った。
歩く。
その行為だけを繰り返す。
足を前へ出し、重心を移し、また足を出す。
意識するのは、その単純な動作だけだった。
人は考え続ければ疲弊する。ならば考えなければいい。少なくとも、この城ではそれが正しい。
視線は自然と前方へ向いている。柱が一本あり、その向こうには燭台。さらに奥に大窓。廊下は緩やかに続き、行き止まりは遥か先。
不意に、左手の壁へ大きな絵画が掛けられていることへ気付く。
黄金の額縁。
人の背丈を優に超える大きさ。
王族の肖像画だろうか。
ソウマは視線を逸らしかけ、途中で止めた。絵を見ること自体は危険ではない。危険なのは意味を探すことだ。形だけを見る限り、認識が乱される気配はないと判断した。
額縁は長方形。
人物らしき輪郭。
背景。
それだけを拾う。
絵の中には、一人の男が立っていた。
王冠にも似た飾りを戴き、長い外套を羽織っている。
左手には細身の剣。
右手は胸へ添えられていた。
その表情までは見ない。
見ようとしない。
ソウマはそのまま歩き続ける。絵画は一枚では終わらなかった。
二枚。
三枚。
四枚。
等間隔で並び、廊下の先まで続いているが、どれも構図は似ていた。
一人の人物。
豪奢な衣服。
静止した姿勢。
それ以上は見ない。
数歩進んだところで、不意に胸の奥へ微かな違和感が走った。
誰かとすれ違った。
そんな感覚だった。
肩が触れるほど近くを、誰かが通り過ぎた。
そう思った。
だが、風はない。
気配もない。
当然、音もない。
振り返る理由はどこにもなかった。
それでも身体だけが、本能的に立ち止まろうとする。
ソウマはその衝動を押し殺した。
(反応するな)
自分へ言い聞かせる。
(感じた)
それだけだ。
(いたわけではない)
そこまでは言えない。
胸の鼓動だけが、僅かに速くなる。それを落ち着かせるように、小さく息を吐いた。
歩調は崩さない。
崩してはならない。ここで乱れれば、自分の中の法則まで崩れてしまう。
廊下はなおも続いていた。
やがて前方に、これまでより一回り大きな両開きの扉が見えてくる。
白木で造られた重厚な扉。
表面には雪の結晶を思わせる精緻な彫刻が施され、中央には見覚えのない紋章が刻まれていた。
閉じられている。
今見えている事実は、それだけだった。
ソウマは扉の前まで歩み寄るが、すぐには手を掛けない。
まず周囲を見る。
柱。
燭台。
窓。
甲冑。
何も変わらない。
それを確認し終わった時、ソウマはようやく静かに右手を伸ばし、冷え切った取っ手へ指を掛けた。
取っ手へ触れた瞬間、掌へ冷たさが伝わった。
金属の感触。
それは確かだった。
ソウマはすぐには力を込めない。
まず、その感触だけを受け止める。
冷たい。
硬い。
動いていない。
それだけを頭の中で静かに並べる。
それから、ゆっくりと押した。重厚な扉は、予想に反してほとんど抵抗を見せない。
静かに。
本当に静かに。
少しずつ隙間が生まれ、暗い室内が姿を現していく。
ソウマは一歩退いた。
中へ入るためではない。
まず、見るためだった。
部屋は広い。
廊下よりも薄暗く、窓は一つしかない。
壁際には棚が並び、その上には壺や箱、金属製の器が整然と置かれている。王侯貴族の収蔵室だろうか。それとも祭具を納める保管庫なのだろうか。
そんなことは考えず、形だけを見ていた。
棚。
箱。
壺。
机。
それだけを拾っていく。
やがて部屋の中央に置かれた長机へ視線が止まった。
机上には何枚もの羊皮紙が散らばり、その一枚だけが宙へ浮いたまま静止している。
落ちる途中で時間だけが止まっている。
ソウマは部屋へ足を踏み入れた。
何故だか絨毯は敷かれておらず、硬い石床が靴裏へ感触を返してくる。
一歩。
また一歩。
部屋の中央まで進んでも、認識が揺らぐ気配はない。
(書庫と似ている……)
そう考えかけ、そこで思考を止めた。
(似ている……それは比較だ。今見えている部屋だけを見ろ)
その教訓は、既に身体へ染み込み始めていた。
長机の脇を通り過ぎようとした、その時だった。
宙に浮いた羊皮紙の裏側へ、何か黒い染みのようなものが見えた。
文字ではなく、紋様でもない。
ただ、黒い。
それだけだった。
ソウマは無意識に顔を近付ける。
だが、あと一歩というところで足が止まる。
(近付く理由はあるか)
自問する。
情報が得られる保証はない。
むしろ認識を乱される可能性の方が高い。
ならば十分だ。
見えた。
それだけを事実として残すのみ。
ソウマは静かに距離を取った。
その判断が正しかったのかどうかは分からない。だが、不思議と胸騒ぎだけは少し遠のいた。
部屋の奥には、さらに小さな扉が一つだけ設けられていた。
他の扉よりも質素で、飾り気がない。王城には似つかわしくないほど簡素な造りだった。だからこそ、目を引く。
ソウマはその扉を見つめる。
見つめたまま、動かない。
理由を探さない。ただ、今そこにあるという事実だけを受け止める。
しばらくして、ゆっくりと歩き出した。
歩幅は変わらない。
呼吸も乱れない。
小さな扉との距離が、一歩ごとに縮まっていく。
やがて手を伸ばせば届く場所まで来た、その時だった。
扉の向こう側から、誰かが、こちら側へ手を掛けたような気がした。
ソウマは伸ばしかけた手を止めた。
扉の向こうから誰かが触れた――そう思ったのは、ほんの一瞬のことだった。その感覚は、思い返そうとした途端に輪郭を失い、最初から存在しなかった夢のように頭の中から溶けていく。
(違う)
そうではない。
消えたのではない。
消えたと判断すること自体が、この王城の思う壺だ。
触れられたように感じた。
その事実だけを胸へ留め、ソウマはゆっくりと息を吐く。
呼吸は乱れていない。
剣を握る左手にも余計な力は入っていない。
恐怖が消えたわけではない。ただ、その恐怖へ名前を付けることをやめただけだった。静かに指先へ力を込める。古びた取っ手は冷たく、長い年月を経た金属特有のざらつきを残していた。そのまま、ゆっくりと押し開けても、軋む音は聞こえない。それでも重い扉は少しずつ内側へ動き、暗かった隙間へ淡い光が差し込んでいく。
部屋ではなかった。
その先に続いていたのは、細い石造りの通路だった。
王城の豪奢な廊下とは明らかに趣が違う。
白い壁も、赤い絨毯もない。
積み上げられた灰色の石。
低い天井。
壁へ一定の間隔で取り付けられた燭台。
そこに灯る炎もまた、他と同じように時間の中で停止している。
「……」
ソウマは入口へ立ったまま、しばらく中を見つめた。
通路は真っ直ぐではない。
緩やかに右へ折れ、その先は見えなくなっている。
幅も狭かった。
大人二人が並んで歩けば肩が触れる程度しかない。
視界が利かない。
逃げ場も少ない。
そんな単純な情報だけを拾い上げ、頭の中へ並べていく。
(……入る)
理由は考えない。
この城で「なぜ」を探すことは、自ら認識を手放すことと同義だった。
ソウマは静かに一歩を踏み出す。
石床は廊下よりも冷たく、靴越しにもその温度が伝わってくる。空気まで違っていた。湿っている。埃ではない。長い年月、人の出入りが絶えた地下遺跡へ足を踏み入れた時のような、重く淀んだ空気が肺へ流れ込む。
それでも息苦しさはない。むしろ、これまで歩いてきた王城の廊下よりも思考は澄んでいた。
不思議だった。
認識を乱す圧迫感が、ほんの僅かだけ薄れている。だからといって安心はしない。その変化さえ、罠かもしれないからだ。
ソウマは歩幅を変えず通路を進む。
壁。
床。
燭台。
曲がり角。
見えるものだけを確認し続ける。途中、壁面へ細かな傷が刻まれていることへ気付いた。剣で斬ったような跡。いや、それとも工具で削った跡か。
そこまで考えかけて、思考を止める。
傷がある。
それだけで十分だ。
通路は坂になっていた。
気付かぬほど僅かではあるが、確かに下っている。
王城の地下へ向かっているのか。ただの地形なのか。
それも判断せず、ただ前へ進む。
やがて曲がり角へ差しかかった、その時だった。
壁の向こうから、淡い光が漏れていることへ気付く。
燭台の炎とは違う。
もっと白く、柔らかな光だった。
ソウマは足を止めない。
ゆっくりと角を曲がり、その光の正体を確かめようと視線を向ける。
そこには、小さな石室が静かに口を開けていた。
【今回の小ネタ】
砂山から砂粒を一粒取り除いても、それはまだ砂山と言えますか?
もちろん、それはまだ砂山だ。
そう答える人は多いと思います。
では、その作業を一粒ずつ繰り返していくと、砂山と言えなくなる瞬間はいつなのでしょうか。
これは「ソライティーズ・パラドックス(砂山のパラドックス)」と呼ばれる哲学の問題です。
一度に大きく変われば、私たちはその変化に気付けます。
しかし、変化があまりにも小さく、それが積み重なっていくと、「どこで変わったのか」を明確に答えることはできません。
実は、こうした曖昧さは私たちの日常にも数多く存在します。
少しずつ伸びる髪、毎日少しずつ変わる景色、あるいは人の考え方や記憶もそうです。
気付いた時には変わっていても、「いつ変わったのか」は分からないことが少なくありません。
世界は、いつも劇的に姿を変えるわけではありません。
だからこそ、人はゆっくりと進む変化ほど見落としてしまうのです。




