差異の保留
歩き続ける。
それだけの行為が、これほど神経を削るものだとは思わなかった。何かが襲ってくるわけではなく、剣を振るう相手がいるわけでもない。それでも、この城では一歩踏み出すたび、自分という存在が少しずつ削られていくような感覚があった。
目に映るものは変わらない。
柱。
窓。
赤い絨毯。
白い壁。
それらは王城として何一つ不自然ではない。
不自然なのは、それらを見ている自分の方だ。
ソウマは左手へ握った剣を僅かに握り直す。革巻きの柄が掌へ食い込む感触は変わらない。その痛みだけが、曖昧になり始める思考を現実へ引き戻してくれる。
どれほど歩いただろう。
時間でも、距離でも測れない。だからソウマは、自分の変化だけを観察することにした。
呼吸は乱れていないか。
歩幅は変わっていないか。
肩へ余計な力が入っていないか。
外ではなく、自分を見る。
そうしている限り、この城はまだ牙を剥いてこない。
少なくとも、そう思えた。
廊下の先で、一枚の扉が目に入る。
書庫ほど大きくはない。
しかし重厚な造りであることは遠目にも分かった。
金属製の取っ手。
繊細な彫刻。
王族の居室なのか、それとも別の部屋なのか。その答えを考える前に、ソウマは思考を止めた。分からないものは、分からないままでいい。近付けば見えるからだ。
一定の歩幅を崩さず進む。
扉は少しずつ近付いてくる。
近付いている。
その事実だけは疑いようがない。
不意に、床へ落ちる自分の影が視界へ入る。長く伸びた影は、柱の影と重なりながら静かに揺れていた。自分が歩いているからそう見えるだけだ。
そう考え、視線を戻す。
その瞬間だった。
前方の柱の陰から、白いものが僅かにはみ出しているように見えた。
人の肩ほどの高さのものが、柱へ身体を寄せるような形で、何かがこちらを窺っている。
しかし、ソウマの足は止まらない。
止めない。
剣を構えることすらしない。
見えたという事実だけを受け入れる。
白いものは動かず、形も変わらない。
やがて柱の前まで辿り着き、ソウマはその脇を通り過ぎた。
何もない。信じられなくとも、振り返ることも確かめることもしない。見えたものが何だったのか、その答えすら求めない。
胸の奥では心臓が速く脈打っている。それでも歩調だけは崩さない。
柱を一つ越え、二つ越え、三つ目へ差しかかった時、不意に疑問符が胸を掠める。
「……?」
今、自分は何に緊張していたのだろう。
剣を左手に握っている。
慎重に歩いている。
それは分かっている。
だが、そうしている理由が曖昧だった。
何かを見た。
そのはずだった。
しかし、その「何か」だけが、霧へ溶けるように輪郭を失っている。
ソウマはゆっくりと息を吐いた。
思い出そうとはしない。
忘れたのなら、それでいい。
そもそもないものなら、失うことはない。
今、目の前には白い柱があり、その先には閉ざされた扉がある。
その事実だけを胸へ残し、ソウマは変わらぬ歩幅のまま、静かにその扉へ近付いていった。
扉の前まで辿り着いても、ソウマはすぐには手を掛けなかった。
書庫へ入る前と同じように、一度だけ周囲へ視線を巡らせる。
白い柱。
赤い絨毯。
壁へ掛けられた燭台。
そして、左右へ続く長い廊下。
何も動いていない。
それだけを確認し、ゆっくりと扉へ向き直る。
重厚な木製の扉だった。
濃い茶色の木目には細かな傷が刻まれ、長い年月を経てきたことは見て取れる。金色の取っ手には書庫と同じような装飾が施されていたが、その意匠を読み取ろうとはしなかった。
模様は模様。
意味は与えない。
ソウマは右手を伸ばし、そっと取っ手へ触れる。
冷たい。
無音の空間であるはずなのに、その冷たさだけは妙に鮮明だった。
少し扉を押す力を込める。
しかし、扉は動かなかった。
「……開かないか」
声は空気へ溶けることなく、自分の口の中だけで消えていく。
もう一度押してみても、やはり反応はない。
今度は手前へ引く。わずかに軋む感触は伝わったものの、扉は閉ざされたままだった。
鍵が掛かっている。
あるいは、それとは別の理由か。
そこまで考えかけて、ソウマは思考を止めた。
理由はまだ分からない。
ならば、分からないままでいい。
開かない。
それが今の状況の最適解だ。
そう判断して手を離そうとした、その時だった。
視界の端で取っ手の金色が微かに揺らいだ。
反射。
そう片付けるには証明が不十分だ。光はずっと止まっており、先ほどだけ動くというのは明らかに不自然。
見間違い。
そう断じるには、確かに見えたという感覚が残っている。
ソウマは取っ手から手を離し、一歩だけ後ろへ下がった。
何もせず、ただ見るだけ。
金色の取っ手は静止している。
木目も変わらず、扉も閉じたままだ。先ほどの揺らぎは、もうどこにも残っていない。それでもソウマはしばらく視線を外さない。何かが起きるのを待っているのではなく、何も起きないことを確認したかった。
長い沈黙の末、ゆっくりと息を吐く。
少なくとも、この扉は今は開かない。
それが事実だと確認できた。
ソウマは静かに踵を返す。
「次だ」
その判断に迷いはなかった。
しかし一歩を踏み出した瞬間、背中へ奇妙な圧迫感が生まれる。
誰かが扉の向こう側へ立ち、こちらを見つめている。
そんな感覚がソウマに背後から襲いかかってきた。
気配ではない。
視線でもない。
もっと曖昧で、それでいて確かに背中へ触れてくるような違和感。
ソウマは立ち止まったが、振り返ろうとはしない。振り返る理由を、自分へ与えたくなかった。
開かない扉がある。
その向こうに何かがいるかもしれない。
その二つを結び付けた瞬間、この城はまた認識へ入り込んでくる。
だから歩く。
一歩。
また一歩。
圧迫感は距離とともに薄れていき、やがて最初から存在しなかったかのように静寂へ溶けていった。
ソウマは一度も後ろを見なかった。
扉を潜った先も、世界は変わらず沈黙していた。
赤い絨毯が真っ直ぐ伸び、その両脇へ白い柱が規則正しく並ぶ。壁へ掛けられた燭台の炎は揺らぐことなく静止し、窓から差し込む光もまた、空間の中へ縫い付けられたように動かない。
ソウマは足を止めなかった。
書庫で得たものは答えではなく、ただ一つの指針だった。
(比較するな)
過去を見ず、今だけを、変化だけを拾え。
その考えだけを胸へ刻み込み、剣を握る手へ僅かに力を込める。
歩幅は一定。
呼吸も一定。
余計なことは考えない。視線だけが、廊下をゆっくりと舐めるように進んでいく。
柱。
燭台。
窓。
衛兵。
柱。
燭台。
窓。
衛兵。
配置だけを覚える。
意味は考えない。
それだけで十分だった。
しばらく歩いたところで、ソウマは足を止める。
廊下の中央の、一本の柱の根元へ何かが落ちていた。
「……」
古びた金属片だった。
どこかの装飾だろうか。金色の縁取りだけが残り、中央は欠けている。紋章らしきものも刻まれているが、半分以上が砕け、何を示していたのか判別できない。
ソウマはしゃがみ込み、それを拾い上げようとして、指先を止めた。
(必要か)
自問する。
答えはすぐ出た。
(いらない)
持っても意味はなく、情報にもならない。ただリスクを背負うだけなら、触れない。この空間では、一つ判断を増やすだけでも認識へ隙が生まれる。
必要なこと以外はしないと決め、静かに立ち上がる。
その時だった。
視界の端で、廊下の奥を何かが横切った。
白い。
そう思った。
だが次の瞬間には、その印象は霧散していた。
(違う)
白かったのか。
暗かったのか。
人影だったのか。
布だったのか。
「くそ……またやってしまった……」
頭の中で疑問符が無数に湧き、それらはいつしか頭の中を覆い尽くし、思考そのものを綺麗さっぱり消し去ってしまった。
ソウマは反射的に駆け出すことを堪えた。
前なら追っていた。
だが今は違う。
一歩ずつ。
一歩ずつで良い。
視線だけを前へ据えたまま、何事もなかったように歩き続ける。
長い廊下は、どこまでも同じ景色を繰り返していた。
同じ柱。
同じ燭台。
同じ窓。
同じ赤い絨毯。
だが、それらを「同じ」と認識した瞬間、ソウマは心の中で首を振る。
(決めつけない)
同じかどうかは分からない。
分かる必要もない。
今見えている柱。
今見えている燭台。
今見えている窓。
それだけだ。
そう意識を切り替えた瞬間、不思議なことに胸を締め付けていた息苦しさが少しだけ薄れた。この空間は、答えを出そうとする者へ牙を剥く。ならば答えを求めなければいい。その考えは、少なくとも今のところ間違ってはいないらしい。
廊下は緩やかに右に折れていた。
曲がり角の向こうは見えない。
ソウマは壁へ背を預けることもなく、そのまま一定の歩幅で角へ近付いていく。
そして曲がる、その寸前。
床へ細長い影が落ちていることへ気付いた。
誰かが立っている。
そう判断しかけた思考を、自ら切り捨てる。
影だ。
ソウマはゆっくりと角を曲がった。
そこには誰もいなかった。
ただ、無音の空気だけが、変わらず王城を満たしていた。
誰もいない。
その事実だけを受け止め、ソウマは視線を巡らせた。
先ほどまで歩いてきた廊下と大きな違いはない。
赤い絨毯。
等間隔に並ぶ白い柱。
壁に掛けられた燭台。
窓から差し込む縫い付けられた光。
そのどれもが、時間から切り離されたように静止している。
だが、一つだけ違っていた。
壁際に、甲冑が並んでいる。
実際に人が身に着けるためのものではない。
歴代の名騎士が用いた、展示用の甲冑なのだろう。いくつもの戦傷の残る、古びた銀色の鎧が、台座の上へ一定の間隔を空けて並び、廊下の奥まで続いている。
ソウマは歩調を変えず、その脇を通り過ぎていく。
数は数えない。数え始めれば、それが正しかったかを確認したくなる。確認は比較を生み、比較は認識を乱す。見たものを、視覚のみを信じる。
左。
甲冑。
右。
柱。
正面。
廊下。
それだけを順番に拾い続ける。
銀色の鎧は、一体ごとに微妙に意匠が異なっていた。
肩当ての形。
胸当ての装飾。
腰に垂れる金属板。
だが、その違いを理解しようとはしない。
つくりが違う。
それだけで十分だ。
やがて一体の甲冑の前を通り過ぎようとした、その時だった。視界の端で、兜の隙間が黒く見える。
空洞。
ただ、それだけ。
それだけのはずだった。
しかし一歩進んだ瞬間、その暗闇の奥で何かがこちらを見返したような錯覚が走る。
ソウマは足を止めない。
止まれば見てしまう。
見れば確かめたくなる。
だから歩く。
歩きながら、呼吸だけを一定に保つ。
(見た)
それだけだ。
(見返された)
そこまでは言えない。
自分がそう感じただけかもしれない。
まだ仮定の時は、確証のない時は切り捨てる。
廊下には依然として音がない。自分の足音さえ存在しない世界では、歩いているという感覚すら曖昧になる。それでも、靴裏から伝わる絨毯の柔らかさだけは確かだった。その感触だけが、自分は前へ進んでいるのだと教えてくれる。
進行方向の先に大きな窓が見えた。
天井近くまで届く縦長の窓。
その向こうには、停止した王都が広がっている。
石畳の街路。
噴水。
古風な街並み。
城壁。
すべてが一枚の絵画のように動かない。
「綺麗だ」
ソウマは窓へ近寄った。
しかしそれは外を見るためではなく、硝子を見るためだった。
ゆっくりと視線を上げると、そこには当たり前に自分の姿が映っていた。
腰に刺した剣の持ち手を握る少年。
少し疲労の滲んだ表情と、乱れた黒髪。
血の跡が微かに残る服と、黒く澱んだ瞳。
見慣れた自分だった。
そのまま視線を逸らそうとした瞬間。
映り込んだ自分の肩の向こうで、何かが横切った。
【今回の小ネタ】
もし、目の前に一枚の扉があったとします。
その向こうには誰かがいるかもしれません。
誰もいないかもしれません。
扉を開けるまでは、どちらなのかは分かりません。
私たちは「分からない」という状態を、「どちらかが正しいだけ」と考えがちです。
ですが、量子力学には「シュレディンガーの猫」という有名な思考実験があります。
箱を開けるまでは、猫は「生きている状態」と「死んでいる状態」が重なっている、と表現されます。
もちろん、実際に猫がそんな状態になるという話ではなく、量子力学の不思議さを説明するための例えです。
大切なのは、「観測する」という行為です。
見る前と、見た後では、世界の捉え方が変わる。
私たちは普段、「見ること」は事実を知るための行為だと思っています。
でも、本当にそうなのでしょうか。
「見る」ということは、もしかすると「一つの答えを選んでしまう」ということなのかもしれません。




