自明の亀裂
意図的な文字化けがあります。
ソウマは歩き出した。
王城へ続く石畳を、一歩、また一歩と踏みしめる。
乾いた靴音が静かな王都へ溶けていく。
それは本来なら、雑踏の中へ紛れて消えてしまうほど小さな音だった。
だが今、その音を遮るものは何一つ存在しない。
人の話し声も。
荷馬車の車輪が軋む音も。
鍛冶場から響いていたであろう鉄槌の音も。
市場の喧騒も。
子どもの笑い声も。
全て失われていた。
音だけではない。
王都そのものが、呼吸を止めていた。
ソウマは立ち止まり、ゆっくりと辺りを見回した。
先ほどまでは人々で埋め尽くされていた大通り。
今は、無数の人影がそこにある。
ある、という表現しか思い浮かばなかった。
誰も動かない。
避難するため駆け出した男は、大きく踏み込んだ姿勢のまま止まっている。
その隣では、幼い娘の手を引いた母親が、必死に振り返ろうとしていた。
頬を伝う涙が途中で止まり、小さく開いた口元にも、叫びの続きを閉じ込めたまま時間だけが失われていた。
その光景には、死とは違う痛々しさがあった。
死には終わりがある。
だが彼らは終われない。
生と死、そのどちらにも辿り着けず、世界から切り離された一枚の絵になってしまったようだった。
思わず目を逸らす。
視線の先には、横倒しになった荷馬車があった。
砕けた木箱から林檎が飛び出し、そのうちの一つは地面へ落ちる寸前で止まっている。
重力さえ、この世界では役目を忘れてしまったらしい。
ソウマはその赤い実を見つめる。
妙に鮮やかだった。
まるで時間だけが色を失い、赤だけが取り残されたかのように。
やがて視線を外し、再び歩き始める。
歩かなければならない。
理由は分からない。
白い世界で出会った銀髪の剣士。
最後に交わした言葉。
『王城へ行くこと』
それだけだった。
何が待っているのか。
誰がいるのか。
何一つ教えてはくれなかった。
それでも、あの声には逆らえなかった。
あの場所で聞いた言葉は、不思議なほど胸の奥へ沈み込み、疑うという選択肢そのものを奪っていた。
王城へ。
その言葉だけが、今のソウマを動かしている。
ゆっくりと顔を上げる。
灰色の空を背負った王城は、停止した世界の中でも圧倒的な存在感を放っていた。
高い城壁。
幾つもの尖塔。
白い石造りの外壁は崩れかけているにもかかわらず、不気味なほど威厳を失っていない。
どこか、生き物に似ている。
巨大な獣が身を伏せ、静かにこちらを見下ろしているようだった。
その錯覚を振り払うように、ソウマは小さく息を吐いた。
冷たい空気が肺へ流れ込む。
木々の葉も、燃え上がる炎も止まっている。
それでも空気だけは冷たい。
冬の朝とも違う。
洞窟の奥へ足を踏み入れた時のような冷たさだった。
肌ではなく、身体の内側から熱を奪われていく。
ソウマは無意識に腕をさすった。
寒い。
そう感じた瞬間、脳裏へある感覚が蘇る。
黒い滲み。
右腕を這い上がってきた、あの得体の知れない侵食。
皮膚の上ではない。
もっと深い場所。
血液でも、骨でもない。
自分という存在そのものへ触れられたような、言葉にできない嫌悪感。
思い出しただけで喉の奥がひりついた。
右腕を見る。
服の袖に隠れたそこは、何も変わっていない。
変わっていないはずだった。
それでも、あの時の感触だけは、身体が忘れてくれない。
ソウマは拳を握る。
爪が掌へ食い込む痛みが、僅かに現実を思い出させてくれた。
「……行こう」
誰へ言うでもなく、小さく呟く。
返事はない。
あるはずもなかった。
その声は石畳へ落ち、静かな街並みへ吸い込まれていく。
◇◆◇
ソウマは再び歩き出した。
王城との距離は、確実に縮まっている。
それなのに。
近付けば近付くほど、城は遠ざかっているようにも見えた。
道は真っ直ぐなはずだった。
視界を遮るものもない。
なのに、不思議と辿り着ける気がしない。
夢の中で出口を目指して走っても、いつまで経っても景色が変わらない。
そんな焦燥感だけが、胸の奥で静かに膨らみ始めていた。
ソウマは歩き続けた。
王城へ近づくにつれ、通りは少しずつ広くなっていく。
王都の中心へ向かう大通りなのだろう。
両脇には石造りの建物が規則正しく並び、割れた窓から差し込む薄い光が床へ細長い影を落としていた。
いや。
影ではない。
光もまた、止まっている。
窓から差し込んだ陽射しは床を照らしたまま微動だにせず、宙を舞う細かな埃も、その中へ閉じ込められていた。
思わず手を伸ばす。
指先が光を横切る。
何も起こらない。
それは当たり前のことだった。
それでも、どこか安心した。
自分は動ける。
触れられる。
この世界から完全に切り離されたわけではない。
その思い込みだけが、辛うじてソウマの心を繋ぎ止めていた。
石畳には、剣が一本落ちていた。
騎士のものだろう。
柄には王家の紋章が刻まれている。
逃げる途中で落としたのか。
それとも――。
考えかけて、やめた。
この王都では、想像が現実へ近づき過ぎる。
余計なことは考えない方がいい。
そう思った。
ソウマは剣を跨ぎ、そのまま歩き続ける。
視界の端で、何かが揺れた気がした。
反射的に振り向く。
誰もいない。
止まった人々がいるだけだった。
母親は子どもを抱き寄せたまま。
老人は杖を突いたまま。
兵士は剣を構えたまま。
誰一人として動いていない。
見間違いか。
そう結論づけようとした、その時だった。
違和感が胸へ引っ掛かる。
ソウマはもう一度、兵士を見る。
剣を構えている。
その切っ先。
向いている方向が、妙だった。
敵ではない。
王城でもない。
兵士は一本の細い路地へ剣を向けていた。
一人だけではない。
少し離れた場所にいる別の騎士も。
瓦礫へ身を隠すように止まっている男も。
逃げ遅れた住民も。
皆、同じ方角を見ている。
まるで、その路地の奥から何かが現れた瞬間を切り取ったようだった。
ソウマはゆっくりと視線を移す。
路地は狭い。
昼間だというのに靄がかかったように薄暗く、石壁の奥は途中から見えなくなっていた。
そこには何もない。
少なくとも、見える範囲には。
それでも、胸騒ぎだけが強くなる。
あそこへは行くべきではない。
理覚がそう訴えていた。
ソウマは目を逸らす。
王城へ向かう。
それが目的だ。
寄り道をしている場合ではない。
歩き出そうとした瞬間、ふと足元が目に入る。
石畳の隙間。
黒い滲み。
先ほど見つけたものと同じだった。
一本の細い筋。
それが路地の奥から流れ出るように伸びている。
墨を垂らしたような黒ではない。
もっと粘り気がある。
生き物の血管にも似ていた。
それは石畳の上を這い、枝分かれを繰り返しながら通り全体へ、いや王都全体へ広がっている。
ソウマはしゃがみ込む。
今度は少し近くから観察してみる。
石の表面へ染み込んでいるわけではなかった。
表面に付着している。
違う。
石畳と黒い滲みの輪郭の境が曖昧だ。
侵食。
その言葉が頭を過る。
石を覆っているのではない。
石そのものが、その液体へ変わろうとしている。
そんな印象だった。
ぞわり、と背中を冷たいものが走る。
右腕が疼いた。
まただ。
「くっ……」
思わず袖の上から押さえる。
何も起きていない。
分かっている。
それでも、皮膚の内側を細い虫が這っているような感覚だけは消えなかった。
視線を上げる。
王城へ続く大通り。
そこにも黒い滲みは伸びている。
細い筋だったものが幾重にも重なり、一つの川のようになっていた。
その先は――
やはり王城だ。
王城だけが、黒を引き寄せている。
そんな光景だった。
ソウマはゆっくりと立ち上がる。
無意識に拳へ力が入る。
王城へ近づけば近づくほど、この異常は濃くなる。
だが、引き返す理由にはならなかった。
むしろ逆だった。
答えがあるとすれば、あそこしかない。
そう確信してしまうほど、この街の異常は一つの場所へ集まっていた。
ソウマは静かに息を吐く。
その時だった。
――コツ。
小さな音がした。
石と石が触れ合ったような、乾いた音。
ソウマは足を止める。
今の音は、自分のものではない。
自分は動いていない。
呼吸まで止め、耳を澄ませる。
何も聞こえない。
静寂だけが広がっている。
気のせいだ。
――気のせいなら。
どうしてこんなにも、身体は逃げたがっているのだろう。
◇◆◆
ソウマはその場から動けなかった。
耳を澄ませる。
自分の呼吸だけが、妙に近く聞こえる。
胸が上下するたび、服の擦れる小さな音まで耳へ届いた。
それ以外は何もない。
歩く人も。
鳥の羽ばたきも。
遠くで崩れる瓦礫の音も。
世界から切り取られてしまったような静寂しかそこにはない。
やがて、ソウマはゆっくりと息を吐いた。
張り詰めていた肩から少しだけ力が抜ける。
聞き間違い。
そう思うことにした。
そうでもしなければ、一歩も前へ進めなくなる。
ソウマは足を踏み出す。
石畳へ靴底が触れる。
コツ。
その音が返ってくる。
続いてもう一歩。
コツ。
足音は規則正しく王都へ響いていく。
先ほどまで感じていた違和感も、少しずつ薄れていった。
自分が神経質になっているだけだ。
この世界へ迷い込んでから、理解できないことばかり続いている。
気を張りすぎれば、聞こえない音まで聞こえた気になってしまう。
そう考えるほかなかった。
ソウマは自分へ言い聞かせるように頷き、そのまま歩き続ける。
道は緩やかに右へ折れていた。
段々と建物が高くなる。
陽の光は石壁に遮られ、辺りは少しずつ薄暗くなっていく。
路地が増えた。
どの道も狭く、人が二人並んで歩けば肩が触れそうなほどだった。
その奥は見えない。
曲がり角が幾つも続き、途中から完全に闇へ溶け込んでいる。
ソウマは無意識に視線を逸らした。
(……)
見たくなかった。
あの奥に何かがいる。
そんな気配がした。
もちろん、根拠はない。
(俺以外は動けない世界だ。何かが潜んでいるはずなどない……だろ?)
そう理解している。
それでも、路地というだけで、胸の奥がざわついた。
まるで暗く冷たい深海へ足を踏み入れる時のような、本能的な拒絶だった。
歩きながら、ソウマはふと気付く。
止まっている人々は、皆どこかへ視線を向けていた。
恐怖に震え、逃げようとしている者。
勇敢に立ち向かおうとしている騎士。
崩れた建物を悟ったように見上げる老人。
その視線はばらばらだった。
しかし、どこか奇妙な共通点がある。
ソウマは立ち止まり、一人一人を見比べた。
違う。
何も違わない。
何かがおかしい。
胸の中へ小さな棘が刺さる。
その正体が分からない。
もう一度、最も近くにいた騎士を見る。
二十代ほどの若い男だった。
剣を両手で握り締め、今にも振り下ろそうとしている。
その表情には隠しきれない恐怖が浮かんでいた。
何かを見ている。
いや、見上げている。
ソウマもつられて顔を上げた。
何もない。
崩れかけた建物の剥がれた屋根。
空に溶けず浮かんだままの煙。
何もかも覆い尽くすような暗い灰色の空。
それだけだった。
ならば、何を見ていたのか。
ソウマは騎士の目へ視線を移した。
その瞬間だった。
「……っ!?」
背中がぞくりと震えた。
騎士の瞳。
そこへ映り込んでいるものがある。
黒く、細長い影。
瞳の中にだけ、何かが立っている。
「いるのか……!?」
ソウマは騎士の視線を辿った。
しかしその先には何もない。
止まった街並みだけが広がっている。
ソウマはゆっくりと騎士へ向き直る。
その瞳はまだ不気味な影を映している。
ソウマは気のせいだと自分に嘘をつく。
しかし、ソウマの心臓は納得してくれなかった。
ドクン。
鼓動が一つ、大きく鳴る。
その音に重なるように。
――コツ。
――聞こえた。
今度ははっきりと。
一歩。
誰かが石畳を踏んだ音だった。
ソウマは動かない。
呼吸も止める。
耳だけが音を探している。
静寂。
何もない。
数秒。
あるいは数十秒。
時間の感覚が曖昧になり始めた頃。
――コツ。
同じリズムの足音がする。
ほんの数十メートル先。
王城へ続く大通り。
その先からだった。
ソウマは喉を鳴らす。
乾いた音が、自分でも驚くほど大きく聞こえた。
足は動かない。
進むことも。
逃げることも。
できなかった。
それでも視線だけは、ゆっくりと大通りの先へ吸い寄せられていく。
まだ何も見えない。
見えなくても――
胸の奥では、確かな確信が生まれていた。
あそこに、誰かいる。
ソウマは目を凝らした。
王城へ続く大通りは、真っ直ぐ伸びている。
場違いなほど明るい緑の街路樹。
まだ水を出し続けている噴水。
動かない人々。
その向こうには王城の白い城壁が霞んで見える。
それだけだった。
自分以外、動くものは存在しない。
それは分かっている。
それでも、"何かいる"という感覚だけは消えなかった。
視線を外した瞬間、その"何か"を見失ってしまう。
そんな焦りが胸を締め付けていた。
ソウマはゆっくりと息を吐いた。
喉が乾いている。
唾を飲み込む音さえ、この静寂では異様なほど大きく響いた。
自覚するほど明確な恐怖と数ミリの困惑が、ソウマの頭の中を支配していた。
「何もない……そうだ、何もないんだ……」
何度も何度も繰り返す。
自分に嘘を吐く。
それが嘘であっても、思い込ませるほかなかった。
思考が恐怖へ飲まれ始めると、人は何でも異常に見えてしまう。
今までだってそうだった。
森でも。
ガルネスでも。
ネグラディアの時だって。
恐怖は勝手に姿を作る。
だから今回も同じだ。
そうして、自分を騙した。
ソウマは再び歩き始めた。
コツ。
一歩。
コツ。
また一歩。
違和感が生まれる。
ほんの僅か。
本当に僅かな違和感。
ソウマは歩みを止めた。
(何だ……。今、何が突っかかった……?)
考える。
思い出す。
空。
違う。
相も変わらず暗く厚ぼったい灰色しかない。
景色。
違う。
風景は何一つ変わっていない。
なら、何だ。
しばらく考えた末、ようやく気付く。
自分の足音だ。
コツ。
そう聞こえた。
だが。
その音が、ほんの一瞬だけ長く尾を引いていた。
まるで、もう一つ足音が重なっていたような――
まるでソウマの足音に連動するような――
「……」
耳を澄ます。
何も聞こえない。
試すように、右足だけ踏み出す。
コツ。
静寂が流れ出す。
左足。
コツ。
静寂が流れ出す。
やはり気のせいだった。
自嘲気味に笑おうとした、その瞬間。
――コツ。
足音が、遅れて聞こえた。
そのリズムは――
その音は――
ソウマの足音と、全く同じだった。
「はっ……?」
ソウマの身体が凍り付く。
自分の足音だと思うほど。
何も変わらなかった。
変わるはずもないのだ。
莉悶〒繧ゅ↑縺、繧ス繧ヲ繝樊悽莠コのものなのだから。
ソウマは考えていた。
あの音を。
不可解な足音を。
今のは、確かに自分が歩いた後だった。
一拍遅れて、誰かが同じ場所を踏んだような音がした。
振り返っても、誰もいない。
止まった王都だけが広がっている。
入り組んだ路地。
王都らしい壮厳さの漂う家屋。
何もしない、何も出来ない止まった避難民。
何も変わらない。
「……違う」
思わず呟く。
聞き間違いだ。
そうでなければ説明がつかない。
もう一度試す。
右足。
コツ。
静寂が流れ出す。
数秒待つ。
何も起きない。
「やっぱり気のせいだ……」
そう安心した、その時だった。
――コツ。
聞こえないはずの、音が聞こえた。
さっき聞こえた音と、全く同じリズム。
全く同じトーン。
全く同じ音だった。
しかし、さっきより音が小さく聞こえた。
遠いのではない。
響き方が違う。
石畳の下から聞こえたようにも。
建物の壁の向こうから聞こえたようにも。
王城から響いたようにも聞こえる。
音の場所が分からない。
方向を持たない音。
ソウマは呼吸を忘れていた。
人は音で距離を測る。
左右を判断する。
危険を察知する。
だが今の音は違った。
どこにも存在している。
どこにも存在しない。
それでも、確かに聞こえた。
ソウマはあることに気付く。
止まった人々の顔。
誰一人として、音の方向を向いていない。
悲鳴を上げる者も。
剣を構える騎士も。
母親も。
老人も。
前だけを見ていた。
まるで、あの音は自分にしか聞こえていないかのように。
ソウマの喉が、小さく鳴った。
【今回の小ネタ】
私たちは毎日、無数の「当たり前」を信じて生きています。
床は踏めば支えてくれる。
物は落とせば地面へ向かう。
時間は昨日も今日も、同じように流れていく。
こうした「疑うまでもなく正しい」とされる前提は、哲学や数学では「自明」と呼ばれることがあります。
普段、私たちはそれを証明しようとはしません。
証明する必要がないほど、当たり前だと思っているからです。
しかし、もしその「当たり前」が、ほんの少しだけ揺らいだとしたら。
世界は変わっていないのに、自分が知っていた世界ではなくなってしまう。
本当に恐ろしいのは、魔獣でも人型でもありません。
「当たり前」が当たり前ではなくなる、その瞬間なのかもしれない。
そんなことを思って、「自明の亀裂」というタイトルをつけました。




