順序の不成立
長めです。
――ザッ。
音が鳴る。
「……」
ソウマは、立っていた。
さっきまでの何もない場所とは違う。
木々があり、地面があり、空気がある。
息を吸う。
「……すぅ……」
遅れて、肺が膨らむ。
「……は」
吐く。
吐いたあとに、空気が抜ける感覚が追いついてくる。
今の一連の動きに、違和感があることは分かる。
だが、それをどう扱えばいいのかが分からない。
(……戻ったな)
一歩、踏み出す。
――ザッ。
遅れて、音が鳴る。
変わっていない。
「……」
視線を落とす。
自分の足が、地面を踏んでいる。
その“結果”だけが、はっきりと存在している。
踏み込んだ瞬間は、曖昧だ。
「……っ」
その瞬間。
頭の奥に、何かが引っかかった。
理由はない。
ただ、何かが、そこにある。
「……」
足が止まる。
無意識だった。
止めるつもりはなかったのに、止まっていた。
(……何だ)
考える。
考えようとする。
だが、その“前”がない。
今、何を考えようとしたのか。
それが、分からない。
「……ちっ」
舌打ちが漏れる。
遅れて、舌の動きが伝わる。
苛立ちがある。
理由は分からない。
ただ、ある。
(……気にするな)
無理やり切り捨てる。
考えても、どうせ辿り着かない。
その感覚だけが残っていた。
歩く。
――ザッ。
――ザ。
「……?」
足を止める。
今、音が二回鳴った。
一回目と、二回目。
どちらが正しいのか。
「……またか」
呟く。
自分の声が、わずかに遅れて耳に届く。
判断できない。
一回なのか、二回なのか。
それとも、どちらでもないのか。
(……どうでもいいか)
思考を放棄する。
処理しきれない情報を、切り捨てる。
それしか出来なかった。
歩き続ける。
視界は安定してきた。
木々の間から差し込む光。
揺れる葉。
地面の凹凸。
すべて、普通になってきた。
普通に見える。
――なのに。
瞬きをする。
「……っ」
閉じたあと、視界が来る。
開いた瞬間が、ない。
「……」
何も言わない。
ただもう一度、瞬きをする。
結果だけが、残る。
(……同じか)
それだけ確認して、やめた。
これ以上試しても、同じだ。
そういう確信だけは、あった。
――ザッ。
遅れる。
呼吸。
遅れる。
視界。
わずかに遅れる。
思考。
遅れる。
「……」
全部が、少しずつズレている。
完全に壊れているわけじゃない。
だが、確実にどこかがおかしい。
(……まあいい)
また、切り捨てる。
考えない。
考えるだけ無駄だ。
そうやって、思考を削るしか出来ない。
その時。
『――見損なった』
「……」
足が止まる。
今のは、何だ。
後ろを振り向く。
誰もいない。
最初から、いない。
それでも、確かに聞こえた。
さっきまでの音のズレとは違う。
水のように、直接頭に落ちてくるような感覚。
「……」
何も言わない。
言葉が出ない。
出そうとして、やめる。
だが、胸の奥がわずかに軋んだ。
理由は分からない。
何に対してなのかも、分からない。
ただ、その一言だけが、残る。
消えない。
(……どうでもいい)
無理やり、押し込む。
関係ないと処理する。そうしないと、進めない。
歩く。
――ザッ。
遅れる。
今度は、音が一つだった。
さっきとの違いが、分からない。本人には、その自覚がない。
「……は」
小さく息を吐く。
遅れて、肺が動く。
(……面倒だな)
それだけ思う。
苛立ちはある。
だが、それ以上にはならない。
ならないように、抑えている。
気づけば、右手に力が入っていた。
指が、強く曲がる。掌に爪が食い込む。濁った血が、じわりと滲み出していることにも気づかない。
「……くそ」
痛みは、来ない。
一拍遅れて、鈍い感覚が乗る。
そこで初めて、力を入れていたことに気づく。
ゆっくりと、手を開く。
指が離れる。
遅れて、皮膚の感覚が戻る。
「……勝手に動くなよ」
誰に言ったのか、何に言ったのか、自分でも分からない。
ただ、そう思った。
そのまま、手を下ろす。
歩く。
――ザッ。
遅れる。
止まらない。
止まることはできない。
止まったところで、何も変わらない。
だから、進む。
それしか、選択肢がなかった。
(……どこに行くんだっけ)
ふと、思う。
考える。
だが、答えは出ない。
目的がない。
理由もない。
「……まあいいか」
口が勝手に動く。
遅れて、自分の声が耳に届く。
「どうせ、やることもないしな」
誰に言うでもなく、呟く。
その言葉に、違和感はなかった。
ないはずだった。
なのに――
胸の奥が、わずかに引っかかる。
何かが、欠けている。
何かを、置いてきた。
そんな感覚だけが、残る。
「……」
立ち止まらない。
振り返らない。
その必要がないと、判断した。
歩く。
――ザッ。
遅れる。
そのズレを抱えたまま、ソウマは進み続けた。
ソウマは歩き続ける。
――ザッ。
遅れる。
一定のリズム。
一定のズレ。
それが、逆に安定しているようにも思えてきた。
(……ようやく慣れたか)
無理矢理でも、慣れるしかない。
どうせ変わらないし、変えられない。それなら、こっちが合わせるしかない。
足を出す。
――ザッ。
遅れる。
問題ない。
呼吸。
遅れる。
問題ない。
視界。
遅れる。
問題ない。
思考。
遅れる。
問題ない。
「……」
繰り返す。
同じことを。
同じズレを。
そうやって、“正常”を作る行動を繰り返す。
その時。
ふと、足が止まった。
「……?」
意識していない。
止めるつもりもなかった。
だが、止まっている。
視線を上げる。
木々の間。
開けた空間。
見覚えが――
ない。
(……何だ、ここ)
足が動かない。
進むでもなく、戻るでもなく。
ただ、そこに留まっている。
(……何で止まった)
考える。
理由を探す。
だが、出てこない。
出てくる前に、消える。
「……っ。何なんだ、これ……」
苛立ちが、少しだけ強くなる。
(……行くしかない)
無理やり、足を動かす。
一歩。
――ザッ。
遅れる。
そのまま、もう一歩。
――ザッ。
遅れる。
違和感は、消えない。
だが、気にしない。気にしないことにする。もう、決めたことだ。
歩く。視線は前。
何も考えない。――そのはずだった。
「……灰」
口が、勝手に動いた。自分でも、何を言ったのか分からない。
遅れて、耳に届く。
『灰』
ただそれだけの音だった。
しかし、その音に何か引っかかるものがある。
「……」
足が、また止まる。
(……何だ)
何に反応した。分からない。
だが、確実に何かがあった。
視線を巡らせる。
木。
草。
地面。
空。
他に何もない。
「……何が……?」
視線が一点に止まった。
そこは――
ただの地面。
踏み荒らされた形跡もない。
血もない。
何も、ない。
「……」
じっと見る。何かを探すように。
だが、何も見つからない。
(……何もないのか)
そう結論づける。
それが正しい。正しいはずだ。
なのに。
足が、離れない。その場から動かない。
「……何でだよ」
自分でも、理由が分からない。
理由がない。だから、余計に気持ちが悪い。
分からないことが、そこにある。それだけで、十分不気味だった。
「……っ」
奥歯が、軋む。
気づけば、力が入っていた。
止める。
遅れて、力が抜ける。
(……早く行けよ)
自分に言い聞かせる。
(動け。ここにいる理由は何も無い。何もない場所だ)
そうだろ。そのはずだろ。
「……動けよ……!」
無理やり、一歩踏み出す。
――ザッ。
遅れる。
その瞬間。
胸の奥が、強く引っかかった。
「……っ!」
息が、詰まる。
遅れて、苦しさが来る。
(何だ?今のは……)
理由は、分からない。
「……は、っ」
呼吸が乱れる。
タイミングが合わない。
吸ったと思った後に、吸った感覚が来る。
吐いたと思った後に、吐いた感覚が来る。
順番が成立していない。
「……くそ」
思考が、まとまらない。
何もかもがズレている。
なのに今の引っかかりだけは、はっきりしていた。
(……何なんだよ、これ)
何度考えても、分からない。分かるはずがない。情報が足りない。
そもそも、何を考えればいいのかが分からない。考えようが無い。
「……っ」
その場所から、無理やり視線を逸らす。見るのをやめる。考えるのをやめる。
それ以上踏み込んだら、何かが壊れる気がした。
壊れていないものが、まだあるのかは知らないが。
それでも。
「……行くぞ」
口に出す。
遅れて、声が届く。
それを合図にするように、同時に足を動かす。
――ザッ。
遅れる。
もう振り返らない。
振り返る理由がない。
理由がないから、やらない。
そう決めた。
歩く。
さっきまでの場所は、すぐに視界から消える。
ただの森に戻る。
何も特別じゃない。
どこにでもある、ただの険しい道。
「……それで」
それでいい。
そうでなければ、困る。
そうでなければ――
『見損なった』
「……っ、うるさい!」
ただのノイズだ。
いらない。
必要ない。
――消えない。
「……」
振り向かない。
振り向けない。
意味がないと分かっているから。
それでも、分かる。
今のは、さっきと同じ。
同じ声。
同じ音。
「……」
何も言わない。
当てはまる言葉を探す。
出てこない。
出す必要がないと、どこかで判断しているとしても。
そもそも、何も浮かばない。
その代わり。
指が、わずかに震えていた。
自分でも気づかないほど、小さく。
(……何だよ)
胸の奥が、ざわつく。
苛立ちとは違う。
不快感とも違う。
もっと、曖昧で、不明瞭なもの。
「……」
歩く。
止まらない。
止まっても、意味がない。
分かっている。
だから、進む。
――ザッ。
遅れる。
その繰り返し。
その中で、ソウマは気づかない。
気づけない。
さっき、自分が立ち止まっていた場所。
そこに――
本来、あるはずだった“欠片”が、完全に消滅していることに。
そして。
その欠片が、これからも無くなっていくことに。
歩く。
――ザッ。
遅れる。
「……」
同じことの繰り返し。
同じズレ。
それが、当たり前のように続いている。
視界は正常。
足も動くし、頭も働く。
音も聞こえる。
何の問題もない。
そのまま、歩く。
何も思わず、歩く。
考えない。
考えないように星を眺める。
そうやって、思考を削る。
――その時。
「……は?」
立ち止まる。
違う――
止まっていた。
周囲を見る。
木。
草。
地面。
さっきと雰囲気は変わっていない。
だが、周りの木などは変わってきていた。
変わってきていた、はずだ。
しかし。
(……ここ、さっきも……)
既視感がある。
「……」
辺りを、疑うように見渡す。
道は一本。分かれ道もない。
目印になるようなものもない。
それでも。
(……通った)
そう確信する。
理由はない。
だが、直感的に分かる。
ここを、一度通った。
「……何でだよ」
口に出る。
遅れて、自分の声が届く。
「戻ってないだろ……」
進んでいる。
そのはずだ。
戻ってはいない。
振り返った記憶もない。
ずっと上を、星を眺めていた。
それなのに、同じ場所にいる。
「……進め」
一歩、踏み出す。
――ザッ。
遅れる。
もう一歩。
――ザッ。
遅れる。
三歩。
四歩。
五歩。
――ザッ。
――ザッ。
――ザッ。
遅れる。
問題ない。
問題ない、はずだった。
視線を上げる。
そして。
「……は?」
同じ場所にいた。
「……っ」
息が詰まる。
遅れて、苦しさが来る。
「……は、は……」
呼吸が合わない。
吸っているのか、吐いているのか分からない。
タイミングが崩れる。
「……何だよ、これ」
声が、震える。
遅れて、耳に届く。
「……何で、戻ってる」
理解が出来ない。
一本道だ。
分かれ道はない。
真っ直ぐ、前に進んでいた。
それなのに、同じ場所にいる。
「……気持ち……悪い……っ、ゲホッ……!」
大きく咳き込む。
ソウマは苦しげに息をするも、ヒューヒューという音が喉から鳴り、息がしづらくなっている。
その場に座り込んで、息を整えようとする。
――整えられない。
正確には、息そのものが安定しない。
そこから息の調子が戻るまで、長い時間を要した。
息が安定してくる。
だが、まだ肩を大きく上げ下げしての息。
深呼吸をする。
大きく吸って、
大きく吐く。
この動作を三回ほど繰り返してようやく、普通に息が出来るようになった。
視線を落とす。
地面。
さっき見たはずの場所。
踏み跡はない。
目印もない。
「……ふぅ」
それでも、分かる。
同じだ。
間違いない。
「……また意味分かんねぇよ……」
足が、動かない。
さっきまでと違う。
今度は、自分の意思で止めている。
(……考えろ)
思考を回す。
状況を整理する。
出来るはずだ。
どうにかやるしかない。
「一本道」
「分かれ道なし」
「戻った記憶なし」
分かる情報を並べていく。
まるで箇条書きにしていくかのように。
「……じゃあ何でだ?」
そこから先が、繋がらない。
原因がない。
結果だけがある。
「……っ」
頭を押さえる。
頭の奥――“属性”の部分がざわめく。
「……原因がない……?」
呟く。
その言葉だけが、やけにしっくり来た。
原因がない。
なのに、結果がある。
(……同じだ)
石の時と同じ。
過程が消えている。結果だけが残る。
「……」
背筋に、わずかに冷たいものが走る。
今までは、“異常現象”で済んでいた。
しかし今のは違う。
(……俺が)
ソウマ自身が。
「……その対象になっている」
「……は」
乾いた笑いが漏れる。
遅れて、喉が震える。
「……冗談だろ」
誰に言うでもなく、呟く。
否定したい。
そう思っても、目の前の現実は変わらない。
「……やるっきゃないか」
一歩、踏み出す。
――ザッ。
遅れる。
もう一歩。
――ザッ。
遅れる。
三歩。
四歩。
五歩。
進む。
進み続ける。
視線を上げる。
「……」
違う場所だった。
さっきの場所ではない。
「……は」
息を吐く。
遅れて、感覚。
(……進んだ)
そう判断する。
今度は、戻っていない。
正常だ。
正常に見える。
「……大丈夫」
だが、信用できない。
何一つ、真実に見えない。
「大丈夫、だよな。大丈夫だ……」
歩く。
――ザッ。
遅れる。
そのまま、歩く。
今度は、意識して数える。
一歩。
二歩。
三歩。
四歩。
五歩。
六歩。
七歩。
八歩。
九歩。
十歩。
問題ない。
ちゃんと進んでいる。
(……大丈夫だ)
そう思う。
確信に届いた、
その瞬間。
「……何だ、これ?」
手が、何かに触れていた。
「……は?」
視線を落とした。
その視線の先は、自分の手。
その視界の端に、何か棒のようなものが映っている。
自分の手が、木の幹に触れていた。
「……触れてない」
触れた記憶がない。
手を伸ばした覚えもない。
あるはずない。
“していない”のだから。
「……なんで」
遅れて、ざらつきが伝わる。
ざらざらとした、木の感触。
現実だ。
間違いない。
(……順番)
ゆっくりと、手を離す。
離したあとに、感覚が消える。
「……飛んだ」
過程が。
手を伸ばして、触れるまでの一連が。
全て、消えている。
「……」
息を吸う。
遅れる。
吐く。
遅れる。
「……」
ソウマは、何も言わない。
ただ黙っている。
さっきまでの現象とは、違う。
これは――
「……自分が、飛んでる」
ぽつり、と音が零れる。
遅れて、耳に届く。
その言葉だけが、やけに重く残った。
「……自分が、飛んでる」
言葉が、遅れて耳に届く。
その響きに、妙な重みがある。
否定しない。否定できない。
目の前で起きていること。
それがすべてだった。
手を見る。
開く。
閉じる。
遅れて、感触。
問題ない。
そう見える。
「……」
もう一度、同じ動作を繰り返す。
開く。
閉じる。
遅れる。
同じだ。
変わらない。
(今は、だけどな)
そう付け加える。
あの"結果"は、急に来る。
予兆はない。
だからこそ、対策のしようがない。
「――ふぅーー……」
ゆっくりと、息を吐く。
遅れる。
呼吸のリズムを整えようとする。
スゥ。
――ハー。
スゥ。
――ハー。
整わない。
合わせようとしても、ズレる。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
そのまま、顔を上げる。
前を見る。
木々の隙間から、光が溢れている。
問題ない。
何もおかしくない。
そのはずだった。
「……俺は」
勝手に、口が動く。
「俺は、さっき――」
言葉が続かない。
途切れる。
「……?」
(今、何を言おうと……?)
思い出せない。
直前まで、浮かんでいたはずの言葉が消えている。
口を閉じる。
もう一度、開く。
「俺は――」
そこで、止まる。
続かない。
繋がらない。
「……何を言おうと……?」
思考が抜ける。
そこに、空白が残る。
何があって、何が消えたのか分からない。
(……今のも)
飛んだ。
言葉になる前に。
いや、なった後かもしれない。
どちらでもいい。
結果として、その部分が消えている。
「……は」
短く息を吐く。
遅れて、感覚。
(考えすぎるな、深追いするな。……ますます分からなくなる)
それ以上、考えない。
切り捨てて、また歩き出す。
「……」
黙ったまま、歩く。
――ザッ。
遅れる。
一歩。
二歩。
三歩。
進む。
問題ない。
今は、何も起きていない。
(……今は)
また、付け足す。
それが、もう前提になっている。
「……」
そのまま、歩く。
視線は前。
何も考えない。
思考を遮断する。
それが、一番安全だと分かったから。
だが、完全な"無"ではない。
(……さっきの)
勝手に、思い出そうとしてしまう。
止めようとしても、止まらない。
「……同じ場所に戻った」
事実。
「……手が勝手に触れていた」
事実。
「……言葉が消えた」
事実。
情報を一つずつ、カードのように並べる。
整理する。
「……原因がない」
結論。
「……順番がない……?」
その時。
背中に、冷たいものが流れる。
「――っ!?」
足が止まる。
(……違う)
何かが違う。
今までの現象とは。
一層も二層も異なっている。
「……分からない」
どう言葉に表せば良いのか、分からない。
だが、分かる。
これは、また――。
「……パラドクシア……?」
口が、乾く。
唾を飲み込む。
遅れて、喉が動く。
「……」
辺りを見渡す。
誰もいない。
最初から、いない。
木と草だけ。
何も変わらない。
「……」
それでも、あいつがいる気がする。
あの存在。
"残滓"を残した存在。
今のズレの、元凶。
視線の外側。
認識できない場所。
そこに、存在している。
振り向かない。
振り向く必要がない。
見てもいない。
それでも、分かっている。
「……っ」
無意識に、肩に力が入っていた。
止める。
遅れて、抜ける。
(……いない、いない、いない、いない、いない……)
そう自分に言い聞かせて、思い込ませる。
そうしないと、動けない。
進まないといけないのに、進めない。
「……」
歩く。
無理やり、思考を切る。
だが、完全には消えない。
背中の“それ”は、残る。
じっと、見られているような感覚。
追われているわけじゃない。
ただ、そこにある。
「今はやめろ……!空気を読んでくれ……!これ以上ない程悪い気分なんだ……!」
足を速める。
そんなことは意味がない。
分かっている。
それでも、止めることは出来ない。
――ザッ。
遅れる。
――ザッ。
遅れる。
――ザッ。
遅れる。
リズムが崩れる。呼吸が乱れる。
「……は、っ」
吸っているのか、吐いているのか分からない。
苦しい。息がしづらい。
「……くそ」
止まろうとする。
だが、足は動いたまま、止まらない。
本人が止まろうとしているのに、足が勝手に前に行く。
「どうしてだよ!止まれ、止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ!」
それでも、前に進み続ける。
まるで、そこから逃げるように。
そんなことをしても、“それ”は消えない。
背中にある。感じてしまう。
「……」
ゆっくりと、振り向く。
必要がないと分かっていても。
確認しないと、進めない。
振り向く。
視界が、遅れて追いつく。
そこには、何もいない。
木々。
草。
暗闇。
それだけだった。
「……」
分かっていた。
最初から。
いるわけがない。
「……は」
乾いた息が漏れる。
遅れて、喉が動く。
(……気のせいだ)
そう結論づける。
それ以外に、選択肢がない。
「……」
もう一度、前を向く。
歩き続ける。
――ザッ。
遅れる。
その一歩で、さっきまでの感覚が、少しだけ薄れる。
完全には消えない。
だが、弱くなる。
「……」
今は、それで十分だった。
それ以上は、求めない。
求めたら、壊れる。
そんな気がしていた。
歩き続ける。
ズレを抱えたまま。
欠けたまま。
理解できないまま。
それでも、止まらずに。
ーーザッ。
音が鳴る。
同じ繰り返し。
同じズレ。
それでも、進んでいる。
進めている。
「……」
そう思う。
思おうとする。
それしか、出来ることはない。
視線を真っ直ぐに持っていく。
木々の間。光が差し込んでいる。
少しだけ開けている。
「抜けた……?」
足を進める。
森を、そのまま抜けた。
「……抜けた」
視界が開ける。
整備された道。
その道の周りには、草原が広がっている。
(ガルネスと同じような感じだな)
ある種の懐かしさを感じながら、ソウマは歩いた。
人影が見える。
こちらに向かってくる。
一歩。
二歩。
相手に向かって進む。
相手も、こちらに気づいたらしい。
顔が、向く。
「……」
何か言っている。
口が動いている。
だが――
音が、来ない。
「……?」
(距離の問題か?)
そう考えたソウマは少し近づく。
相手が、手を上げる。
何かを示すような動き。
口が動いている。
「……」
音が、来ない。
足が止まる。
(……何で)
分からない。
距離は、もう十分近い。
普通なら、聞こえる。
聞こえない理由は、ないはずだ。
「……」
相手が、眉をひそめる。
何か違和感を感じたらしい。
口が動く。
「……」
その瞬間。
音が来た。
「よう、ブラザー」
「……っ」
一瞬だけ、遅れて理解する。
声だ。
ちゃんとした、人の声。
「……おう、兄弟」
答える。
遅れて、自分の声が耳に届く。
「大丈夫かよブラザー。顔色悪いぜ?」
「……ああ、大したことじゃない。大丈夫だ」
問題ない。
会話は、成立している。
そう見える。
「どこから来たんだ?」
相手が、続ける。
「ガルネスだ」
「すまねぇ、悪い知らせだ、ブラザー。ここらはもう――」
言葉が途切れる。
「……?」
(何だ、今何を言った……?)
最後まで、聞こえない。
「……もう、どうなったんだよ?」
聞き返す。
「……?」
相手が首を傾げる。
「さっき言った通りだよ、マイブラザー」
「……いや、聞こえてない。悪いがもう一度言ってもらっても良いか?」
「……?別に構わねぇが」
さっきと同じ反応が返ってくる。
「ここらはもう、人があまり通らねぇ。魔獣もそこそこいるから気を付けろよ」
「……分かった」
今度は最後まで聞こえた。
だが、さっきは聞こえなかった。
途中で声が消えた。
「……」
視線を逸らす。
考える。
整理する。
(……俺の問題か)
そう結論づける。
その方が合理的だ。
相手の異常じゃない。
自分の問題。
そうすれば、説明がつく。
「……」
それでもなお、違和感は消えない。
「本当に大丈夫かよブラザー。あんまり考えすぎても良くないぞ?気楽に行こうぜ気楽に」
「……ああ。大丈夫だ!逆にそこまで心配してくれて嬉しいよ。悪かったな」
そう言って、作り笑いをする。
相手が気づいたのか気付かなかったのかはわからない。
ただ、触れてはいけないものだと察してはいた。
「……気をつけろよブラザー。途中も、到着後も」
「ああ。色々ありがとう。兄弟も体に気を付けろよ」
「おう!希望を絶やすなよ!」
腕を大きく振りながら去っていく。
ソウマも振り返して、背を向けて歩き出す。
(……普通だ)
あれは、普通の人間。
何もおかしくない。
「……」
自分だけが、おかしい。
自分だけが、現象に巻き込まれている。
歩く。
――ザッ。
遅れる。
そのまま、進む。
会話は終わった。
その会話の中で、気になる言葉がある。
「……到着後も?」
すなわち、アストレアルに着いた後、ということだろう。
正直意味がわからない。
首都なのだからある程度の治安はあるだろうし、騎士団だっていると聞いてある。
何も心配することはない。
そう思っていたのだが――。
「何も準備してないぞ」
何なら戦闘なんてする気もなかった。
「……まずいな」
遅れて、自分の声が届く。
その響きだけが、やけに現実的だった。
目を閉じる。
閉じた“後”だけが分かる。
「……」
開く。
視界が、遅れて戻る。
何も、整理できない。
その時。
視界の端が、歪んだ。
「……?」
何かが、違う。
空間が、少しだけ歪んでいる。
空気が、揺れているような。
熱の上にある景色のように。
「……」
目を凝らす。
焦点を合わせた――
その瞬間。
地面が消えた。
「は……?」
しかし。
もう何もない。
元に戻っている。
「……意味分かんねぇ」
今のは、何だ。
(見間違い……)
そう考える。
だが、
(……違う)
確信がある。
確実に、あの瞬間に地面が消えた。
もう一度、見る。
何もない。
普通の景色。
「……行くぞ」
一歩、踏み出す。
――ザッ。
遅れる。
その瞬間。
視界が、弾けた。
「……っ!」
気づいた時には。
数歩、進んでいた。
「……ふざけんなよ」
記憶がない。
歩いた記憶が、ない。
だが、自分の位置は変わっている。
「……」
息が、浅くなる。
遅れて、苦しさがソウマを蝕んでゆく。
「またかよ……。また、飛ばされた……」
周りを見る。
何も変わらない。
同じ景色。
同じ空間。
だが、連続していない。
本来必然的にあるはずの因果が、スキップされたような感覚。
その時、ソウマはふと思う。
(……どこかで経験した気が……?)
「……いつだ」
思い出そうとする。
記憶の中で、何かが引っかかった。
だが、出てこない。
喉元まで、出かかっている。
しかし、そこから詰まったまま動かない。
代わりに、あの言葉が浮かんだ。
『順番を、間違えた』
「……っ」
息が止まる。
思い出したわけじゃない。
ただ、浮かび出た。
背中に、あの感覚が戻る。
さっきよりも、はっきりとした感覚。
かなり近い。
「……煩い」
それでも、振り向かない。
振り向けない。
“近づいている”
その感覚だけが、強まっていく。
「……早く」
足が動く。
無意識に。そこから、逃げるように。
止まらない。
止まれない。
その中で、視界がまた歪む。
消えない。
揺れている。
空間が。
現実が。
その瞬間。
一瞬だけ、“何もない場所”が見えた。
「……っ!」
足が止まる。
「……」
そこには。
一瞬見えた場所には――
何もなかった。
色も。
形も。
光も。
音も。
空間も。
何もかも。
“無い”
「……」
瞬きをする。
遅れても、視界が戻る。
元の世界に戻る。
木々。
草。
空。
「……」
だが、今のは確実に見た。
理解する。
してしまう。
「……」
これは、"あの場所”に繋がっている。
喉が、乾く。
そして、あの声が蘇った。
『君はようやく、スタートラインに立った』
そのまま、この世界から切り離されるように体が消えていった。
「……また、飛ばされた」
呼吸。
視界。
音。
全部が、揃っていない。
その時。
「また、ここに来たんだね」
「……」
声がする。
距離も、方向もない。
それでも、確かに聞こえる。
「……お前か」
口が動く。
その瞬間に、音が聞こえた。
遅れない。
ここでは、遅れがない。
「そうだよ」
即座に返ってくる。
時間のズレがない。
「……」
違和感がない。
それが逆に不気味だった。
「……ここは」
「君が踏み外した場所だ」
「……やっぱり意味分からないな」
理解は出来ない。
だが、前よりは分かる。
意味が形を持っている。
「……もう戻る。来たくてここに来たわけじゃない」
短く言う。
迷いはない。
ここにいる理由なんてない。
「前と変わらず、戻ることはできるよ。でも、本当にそうかな?」
「何だと?」
「君は分からないことがあったから、ここに来たんじゃないのかな?」
「……うるせぇ。お前には関係ない」
語気を強める。
実際、ソウマには思い当たる節があった。
「安心してくれ。君が聞かないなら、僕は答えない」
「聞くことはない。戻らせてくれ」
言った後、足を動かそうとする。
だが、動かない。
進めない。
「……何でだ」
「簡単なことだよ」
声が続く。
「君がまだ何も決めていないから」
「……何を」
「どちらに行くか」
「……?」
意味が分からない。
戻る。
それでいいはずだ。
それ以外の選択肢は選ばない。
「……俺は戻る」
少し苛立ちながら、繰り返し言う。
「それはしたことの付属品だよ」
「……は?」
「理由がない。ただの結果だ」
「……」
ソウマの言葉が止まる。
「君は、何も選んでいない」
「……黙れ」
否定できない。
理由を言えない。
「……煩い」
ただ、戻りたい。
それだけでいい。
それが、理由だと思っていた。
『理由がない』
だが、それでは足りないと言われた。
「……」
胸の奥が、ざわつく。
何かが、引っかかる。
思い出そうとする。
ここに来る前、何をしていたかを。
何を、失ったを。
「……何だ……?」
浮かぶのは、断片だけ。
"リリア"。
銀色。
風。
「……思い出せない……」
それ以上は、出てこない。
分からない。
思い出せない。
思い出したいのに、思い出そうとしているのに。
それでも、無意識に足がわずかに前に動いた。
「……何で」
自分でも、分からない。
何を選んだのか。
何を思ったのか。
何が変わったのか。
だが、その一歩で、“無”が少しだけ近づいた。
「……っ」
本能が拒否する。
受容しまいと抵抗する。
「……やめろ」
口が、勝手に動く。
止まれと。
「……」
足がその場で止まる。
戻る。
そう決める。
理由はない。
だが、それでいい。
少なくとも、今はそれでいい。
「……戻れ」
三度目の決意。
"空間"を越すように、踏み出して行った。
次の瞬間。
感覚が戻った。
音が、戻る。
視界が、戻る。
「……っ!」
遅れて、膝が折れる。
地面に手をつく。
衝撃がソウマの体を支配する。
「……は、っ……!」
呼吸が乱れる。
遅れて、苦しさが来る。
「……っ、は……!」
肺が痛む。
空気が、重い。
それでも。
戻った。
そう、思った。
「……は……」
呼吸が、落ち着かない。
時間をかけて、整わせる。
顔を上げる。
森。
木々。
草。
全部ある。
「……よし」
現実。
そう認識する。
「……行くか」
一歩、踏み出す。
――ザッ。
遅れる。
「……やっぱり変わらないな」
変わらない。
その時。
ふと、思う。
(……俺は何を選んだ)
「……戻ることを」
それは分かる。
だが。
「なぜ……?」
その理由は出てこない。
足は、止まらない。
前に進む。
「……」
選んだ。
それだけが、残った。
歩く。
――ザッ。
遅れる。
その繰り返し。
その中で、胸の奥に微かな違和感が残る。
完全には、消えていない。
“あの場所”が。
そして、もう一つ。
「……」
頭の奥に、残る言葉。
『見損なった』
意味は分からない。
何に対してかも。
何のことを言っているのかも。
だが、今なら少しだけ分かる。
それは、“選ばなかったこと”に対して。
そう思った。
そのまま、止まらずに。
「目指せ、首都アストレアル!」
ソウマは夜も明けてきた薄明るい空に向かって、空元気で叫んだ。
だが、ソウマはまだ気づいていない。
ついに“内側”に足を踏み入れたことが。
ただの現象ではないことに。
それが――
取り返しのつかない“選択”の一部であることに。
[最初に]
二週間ほどお休みさせていただきます。
少しやらなければならないことが出来ました。
[今回の小ネタ]
序盤に出てきた咳の症状は現実にも存在し、喘息と言われます。(作者がそうです)
ソウマの咳は関係ないとは思いますが、気持ち悪さによる喘息の発作という可能性もあります。(ご想像にお任せします)
急な発作が出た場合は、温かいお湯を飲むと気管が広がり息がしやすくなります。
発作が起きた場合は、医療機関の受診を強く勧めます。
症状が伝われば吸入器が処方されると思うので、それを発作が起きた時に使いましょう。
以上、体験談でした。
また二週間後にお会いしましょう。




