原因のいない結果
――静かすぎる。
朝のはずだった。
窓の隙間から差し込む光は確かに柔らかく、空気も穏やかだ。だが、それでもどこかおかしい。
「……」
ソウマは、ゆっくりと目を開けた。
天井が見える。
見慣れた宿の天井。
だがーー
(……ん?)
視界の焦点が、ほんのわずかに遅れる。
目を動かす。
そのコンマ数秒後に、景色が“ついてくる”。
それは無視できるほど小さくはない違和感だった。
「……俺に、か?」
息を吐く。
「こんな要らねぇプレゼント他にねぇよ……」
体は回復している。痛みもほとんどない。
ただ、これは単なる疲労でも、ダメージでもない。
もっと根本的なものだ。
ゆっくりと体を起こすと、軋むような重さが全身を走る。
「……っ」
一瞬、動きが止まる。
痛みではない。
だが、確かに何かが噛み合っていない感覚。
自分の身体なのに、他人のものを動かしているような――
「……気持ち悪りぃ」
小さく呟いて立ち上がり、一歩踏み出す。
床に足がつく。
ーートンッ
わずかに遅れて、着地の感覚が伝わってきた。
「……」
足を止める。
(やっぱり、そうなのか)
これは“感覚の遅延”じゃない。
(俺の行動の順番が……ズレてる)
結果と原因の並びが狂っている。
昨日の突然の戦闘。
理解不能の、不可解としか言いようがない現象。
攻撃が当たってから、音が来る。つまりーー
原因より先に、結果が現れる。
ーー順序が、壊れている。
それが、ソウマに残された。
「どうしろってんだよ……」
呟きながら、扉に手を伸ばす。
扉に手が触れるのを目で見る。
――遅れて、感触が来る。
「……っ」
眉が歪む。
(慣れとかの問題じゃ、ない……)
日常動作すら危うい。
戦闘になれば、致命的だ。
「……」
だが、それ以上に――
(これ、俺だけなのか?)
そこが問題だった。
もし自分だけなら、まだいい。
対処のしようもある。
でも、もし――
コンコン。
ノックの音がした。
「……ソウマ?起きてる?」
リリアの声。
「……ああ」
少しだけ間を置いて、返事をする。
「入るわよ」
扉が開いて、リリアが入ってくる。
「おはよ——」
言いかけて、止まる。
「……なによ、その顔」
困惑している。
「いや、別に」
「別にじゃないでしょ。絶対おかしいわよ」
即答だった。
「……顔に出てるか?」
「出てるわ。ものすごく」
真面目な顔で言われる。
「……そうか」
「それで、何があったの?」
「……」
一瞬、言葉が詰まる。
(言うべきか……?いやでもあの空間のこともあるよな……)
あの空間で言われた、”助けを求めろ”。
(……言うべきだな)
「……ちょっと、違和感があるだけだ」
「違和感?」
「ああ」
短く頷く。
「動きが、少しズレる」
「……?ズレるってどういうこと?」
リリアは首を傾げる。
説明するか迷う。
だが、このままでは余計に疑われる。
(実際に試してもらった方が早いな)
「……試すか」
「……そうね。試した方が早いわ」
手を差し出す。
リリアはソウマの手に触れた。
「……え?」
小さく声が漏れる。
「……遅れた」
自分の言葉に、自分で驚いているような顔だった。
実際かなり驚いたのだろう、目が普段より少し開いている。
「触った感覚が……数拍ぐらい遅れた」
「……そういうことだ。困ったもんだよまったく」
ソウマはわざと軽く言ったあと、小さく息を吐いた。
「……昨日の、あれの影響なの?」
理解が追いついていない顔。
「多分、そうだな」
「……」
リリアが黙る。
そして――
「……最悪じゃない」
率直な感想が飛んでくる。
「そうだな」
「その状態で戦えるの?」
「無理だな」
「即答しないでよ」
「事実だ。この状態でまともに戦ったら、普通に死ぬ」
「笑い事じゃ、ないわね」
「分かってる」
軽く肩をすくめる。
だが――
「……でも」
リリアが、少しだけ声を落とす。
「それだけじゃないでしょ」
「……」
視線が刺さる。
「さっきから変だわ。それだけじゃない顔してる」
リリアが一歩近づく。
「何を、隠しているの?」
言葉が出ない。
(……鋭いな)
誤魔化しきれない。
だが――
(全部は、言えないな)
あの存在のこと。
あの言葉のこと。
まだ、自分でも分かっていない。整理すら出来ていない。
「……」
少しだけ、間を置いて。
「……夢を見た」
それだけ、口にした。
「どんな夢を見たの?」
「それが、自分でもよく分からないんだよ」
嘘ではない。
「ただ——」
そこで、一瞬だけ止まる。
思い出す。
あの空間と暗闇。
あの声の似合わない爽やかさ。
あの言葉の不気味なほど的確なアドバイス。
“助けを求めろ”。
「嫌な感じだった」
短く、そう言った。
「……」
リリアが黙る。
しばらくしてーー
「……無理、してない?」
小さく、そう言った。
「……」
ソウマは、答えない。
(無理は……している、と思う。でもここで認めてしまったら、何かが崩れる気がする)
理由は分からない。だが、そう思った。
「……してない」
結局、そう答えた。
「嘘ね」
即答だった。
「……すぐバレるよな」
「当たり前でしょ」
ため息をつく。
「ほんと、分かりやすいわよね」
「そうか?」
「そうよ」
呆れたように言う。
だが、その目は、少しだけ優しかった。
「……まあいいわ」
小さく息を吐く。
「死なないでね」
「……助かる」
「ただし」
指を立てる。
「必要な時にはちゃんと話しなさい」
「おう」
「約束なんだからね」
「分かった」
リリアは、そう聞いて小さく頷いた。
「……で」
リリアが少しだけ空気を切り替える。
「どうするの」
「何が」
「その感覚よ」
ソウマを見る。
「何とかしなきゃいけないでしょ。慣れるようなものじゃないのは、私も分かるわ」
「そうだな」
頷く。
そして、少しだけ考える。
(原因はあの戦闘中の現象。そして——)
あの言葉が脳裏に浮かぶ。
“君たちの近くにいる”
「……」
目を細める。
(フィア……か?)
可能性はある。
あの理屈とあの発想。
前の戦闘、選択しなければいけない場面のことを、その前に聞いてきた。
だが――
(あいつが全部知ってるとは思えない。それでも、何かは一つは知ってるはずだ)
そう判断する。
「……会いに行くか」
「え?」
リリアが首を傾げる。
「誰に?」
「フィアだ」
「やっぱり」
即答だった。
「そうだと思ったわ」
「分かったのか?」
「うん」
頷く。
「技のことも聞きたいし、どっちにしろ行くつもりだったわよ」
「じゃあ決まりだな」
「そうね」
短く頷く。
「……?」
リリアが、首を傾げた。
「どうした?」
「……いや」
少しだけ考えてから。
「今、なんか……変な感じしなかった?」
「変な感じ?」
「うん」
周囲を見渡す。
「一瞬だけ、音がズレた気がした」
「……」
ソウマの表情が、厳しくなる。
「……気のせいじゃ、なかったな」
「え?」
「……やっぱりまだ、続いてる」
静かに言う。
「……そうね」
ゆっくりと、窓の外を見る。
穏やかな朝。
何も変わらない景色。
だが、
(続いてる)
確実に、あの“順序”は、まだこの世界に残っている。
「……行くか」
「そうね」
小さく頷いた。
二人は、部屋を出る。
数歩、歩き出す。
その直後になるはずの足音は聞こえない。
ーーコツッ。
ーーコツッ。
ーーコツッ。
やはり数秒遅れて、音が鳴った。
「……っ」
ソウマの目が細くなる。
(やっぱりか)
静かに、息を吐く。
(これで、確信が持てた)
「やっぱり、怖い?」
「いーや、怖くはない。ちょっと気持ち悪いだけだ」
宿を出た瞬間、空気が変わった。
いや、正確にはーー
(……前と、変わってない)
何も変わっていない街並み。
朝の光。
人の気配。
「宿が、俺が違った、か」
ソウマは、わずかに目を細めた。
「……どうしたのよ」
隣を歩くリリアが、訝しげに見る。
「いや」
短く返す。
「少し、警戒してるだけだ」
「……それ、今さら?」
「今だからだ」
小さく頷く。
「見えたところで結果が先に来るなら、防ぎようがない」
「最悪ね」
「だろ」
苦笑する。
だが――
(問題は、それだけじゃない)
“近くにいる”
(近くって、どこまでだよ)
距離の問題なのか。
それとも、もっと別のーー
(……考えても仕方ねえか)
今は、動くしかない。
「……ソウマ」
「ん?」
「一個、聞いていい?」
「内容による」
「断ることは許しません」
「じゃあ答えない」
「答えなさい」
即詰められた。
「……なんだよ」
ため息混じりに返す。
「安心して、そんなとんでもないこと聞くわけじゃないわ。ただ、昨日の」
少しだけ声を落とす。
「あの現象、また起こると思う?」
「……」
ソウマは、一瞬だけ黙る。
(起こる)
ほぼ確信していた。理由は単純だ。
(逃げた、というか無くなっていないから)
倒した手応えがない。
消滅した感覚もない。
あの最後の“ズレ”。
あれは、明らかに退いた動きだった。
「来るだろうな」
迷うそぶりもなく答える。
「やっぱり」
リリアも、特に驚かない。
「逃げたんでしょ?」
「おそらく、そうだろうな」
「倒せてない?」
「倒せてはいない」
「……はぁ」
リリアは深く息を吐く。
「ほんと面倒なのに目つけられたわね。ソウマの運が悪いのか、それとも私の……」
「……?リリアの?」
「ううん!なんでも、ないの」
明らかに強がりだ。
でも、それ以上は聞かない。
(俺だって、話してないことがあるからな)
そしてそれをリリアはとやかく聞いてこない。
「……そういや」
ソウマは、少しだけ目を細める。
リリアはソウマの方に振り向く。
「完全に一方的ってわけでも、ない」
「え?」
「あっちも、完全じゃない」
「……どういうこと?」
「最後、逃げた」
「それはさっき聞いたけど……」
「それだけじゃない」
少しだけ、言葉を選ぶ。
「うーん、どう言えばいいか……。“捕まった”感覚があった」
「捕まったって、どういうこと?攻撃が当たったってこと?」
ソウマは首を横に振った。
「いや、もっと根本的なもの……。“存在の位置”を、掴んだ感じだ」
「……なにそれ」
リリアは全く理解出来ていない様子だ。
「分からないわ、そんなこと」
「俺も詳しくは分からん」
即答する。
「だが、そういう感覚だった」
「……つまり?」
「やられっぱなしではないってことだ。やりようは、ある」
「……本当?」
「さあな」
あっさり言う。
「ただの感覚に基づく勘だ」
「不安しかないわね」
「だろうな」
「でも、信じるわ」
同時に頷いた。
そのまま二人は通りを進む。
人通りが増えてきた。
商人の声。
足音。
生活の気配。
ソウマの足が地面に着く。
一拍遅れて、
コツ。
音が鳴る。
「……っ」
思わず、眉が歪む。
(鬱陶しいな……)
常にソウマの神経を削る順序だった。
「慣れないわよね……」
ソウマの少し苛ついた様子を見たリリアが言う。
「生まれてきてからずっとあった順序がおかしいんだから」
「慣れる方が狂ってるだろ、こんなの」
その時――
「——あれ?」
リリアが、ふと足を止めた。
「どうした」
「……今」
周囲を見る。
「人の声、変じゃなかった?」
「……」
ソウマも足を止める。
耳を澄ます。
――ざわざわ。
普通の雑踏。
特に異常は――
「……いや。一瞬だけ、ズレてるな」
「やっぱり?」
「ああ」
リリアの顔が、わずかに強張る。
「これ……街全体に広がってるの?」
「……可能性はあるな」
「冗談でしょ」
「冗談ならよかったんだが」
視線を巡らせる。
普通に会話し、普通に歩いている。
誰も気づいていない。
(……感じてるのは、俺たちだけか。それとも、気づけてないだけか)
「……ソウマ」
リリアが、小さく呼ぶ。
ソウマはリリアに視線を向ける。
「これ、放っておいていいやつじゃないわよね」
「だな」
即答する。
「広がる可能性がある」
「……最悪じゃない」
「最悪だな」
短く頷く。
そして――
「急ぐわよ」
「分かった」
二人は、足を速めた。
しばらくして。
街の中心部を抜け、少し外れた区域へと入る。
人通りが減る。
静けさが増す。
「……この辺りだわ」
リリアが周囲を見回す。
「演習場じゃないんだな」
「知らなかったの?今演習場は封鎖されてるわよ。なんでも異常が見つかったらしいわ」
「そうなのか」
フィアの住む場所は、他の冒険者があまり近づかない少し外れた一角。
「……相変わらず、近寄りがたいわね」
「リリアは、フィアと昔から知り合いなのか?」
「うん、そうよ。昔から何かと関わりがあったの」
フィアは、どこか空気が違う。
澄んでいながらも、他と調和しきれない。
「行くぞ」
ソウマが一歩踏み出す。
――その瞬間。
視界が、わずかに歪んだ。
「……っ!?」
反射的に、足を止める。
「どうしたのよ!」
「……今」
だが――
(今のは……)
ただのズレじゃない。
もっと、直接的な――
「……ソウマ?」
「……来るかもしれない」
「え?」
「ここで、また来るかもしれない」
リリアの表情が一気に強張る。
「ちょっと、冗談でしょ……」
「冗談なら、良かったのにな……」
暗い声で返す。
そして、ゆっくりと構える。
「……」
静寂。
風の音すらない。
数秒。
何も起きない。
「……気のせい?」
リリアが小さく呟く。
「……いや」
ソウマは、首を振る。
「……来る」
その瞬間。
「——っ!!」
ソウマは、反射的にリリアを引き寄せる。
――数秒後。
フュン!
近くの壁に、針が数本刺さる。
「……っ!?」
リリアが息を呑む。
「これ……!」
「…….来やがったな……!」
「どう対応するの!?」
「……でも」
ソウマは、わずかに目を細める。
「昨日より、弱い」
「……それ、本当なの?」
「多分な」
確信はない。
だが、感覚としてそうだった。
(……削れてるのか?)
昨日の攻撃が効いているのか。
それとも――
(ここだからか?)
この場所だから。
フィアの近くだから、何かが違うとしたら……。
「……っ、もう一回来るぞ!」
その声に応じてリリアが構える。
「来るぞ!」
やはり結果が、先に来た。
「——っ!」
ソウマの腕から、血が弾ける。
だが――
まだ、何も聞こえない。
「ソウマ!」
「……大丈夫だ!」
歯を食いしばる。
(やっぱり、同じか……!)
だが、違う点が一つ。
(……何となく、位置が分かる)
ほんの一瞬、“そこ”にあったことが分かる。
「……そこか」
小さく呟く。
「え?」
「掴んだ」
ソウマの目が、鋭くなる。
魔力を引き出す。
光が、収束する。
「ちょっと、ここでやる気!?」
「仕方ないだろ!」
短く返す。
「感謝するぞ、叡属性。今だけは、な」
そして――
「——単一光」
光が、沈む。
ソウマの手の一点へ。
――そして。
わずかに、“何か”が軋んだ。
「……っ!」
手応え。
確かにある。
「……当たった!」
リリアが叫ぶ。
だが――
「……いや」
ソウマは、首を振った。
「駄目だ、浅い」
「え?」
「……逃げるか……?」
その瞬間。
空間が、ズレた。
“そこ”にあったはずの何かが、滑るように位置を変える。
「……っ!」
「また逃げるの!?」
「いや……。これは、誘ってる」
「……え?」
「あっちに、俺たちを……」
その視線の先にあるのは――
「……フィアのところ……?」
「……そうだ」
あいつの考えがますます分からなくなる。
(……狙いは、あいつか?それとも……あいつを使う気か?)
「……行くぞ!」
「え、ちょっと!」
ソウマは、踏み出す。
ズレる空間の先へ。
その奥へ、真っ直ぐに。
「待ちなさいって!」
リリアも、追いかける。
二人は、駆ける。
ズレた空間の先へ。
“何か”に導かれるように。
足音が鳴る。
――遅れて。
コツ、コツ、と響くそれが、妙に耳障りだった。
「……っ、ほんとに気持ち悪いわね!」
リリアがかなり苛つきながら言う。
「文句は後だ!全くもって同感だが!」
ソウマは短く返す。
視線は、前に向いている。
(……そこだ)
空間の歪みが、わずかに引きずられている。
完全に消えていない。
まるで――
(“痕”が残ってるみたいだな)
それを追って、曲がり角を抜ける。
細い路地に入る。
人影は、もうない。
二人を除いて。
「……ここよ」
立ち止まる。
そこにあったのは、見慣れない古風な扉と、古びた外壁。
静まり返った空気が辺りに漂っている。
「……フィアが住んでいるところ」
リリアが、小さく呟く。
「……ああ」
ソウマは、ゆっくりと息を吐いた。
「……遅い」
突然、前から声がした。
「……っ!?」
二人の視線が、同時に動く。
いつの間にか扉の前に人影がある。
「……フィア……!」
淡々とした表情。
感情の起伏が薄い、あの少女。
「来ると思ってた」
「……分かってたのかよ」
ソウマが、眉をひそめる。
「だいたいだけどね」
あっさりとした返答。
その視線が、ソウマを捉える。
「うーん……。噛まれてるね」
「……は?」
ソウマは顔をしかめる。
「噛まれてるって何だよ」
「物理的じゃなくて、内で噛まれてる」
フィアは腕の傷を見る。
「それ、“レムナント”」
「レムナント……?」
「そう」
淡々と頷く。
「因果の順序を崩すタイプの干渉だね」
「……っ」
ソウマの目が細くなる。
(また、そういう系か)
「で、噛まれたことで君は今順序がおかしい。違うかな?」
「合ってるよ。だからそれも含めてフィアを訪ねた」
「そう」
簡潔すぎる説明だった。だが、的確だった。
「単刀直入に聞く。これは、治るのか?」
ソウマが、少しだけ緊張した声で聞く。
フィアは、少し考えてから――
「無理」
と答えた。
「は!?」
「正確には、自然に治ることはない」
「……じゃあどうすんのよ!」
リリアが一歩前に出る。
だが、フィアは動じない。
「方法はある」
「……」
ソウマは黙っている。
「あるけど」
少しだけ、間を置く。
「レムナントをつけた存在、”パラドクシア”を引きずり出す必要がある」
「……パラドクシアっていうのが、俺にそれを残したと。でも、やっぱりそうなるのか」
予想通りだった。
「外に出さない限り、剥がせない」
「……面倒ね」
リリアが眉を寄せる。
「しかも、もう一回来る」
「だろうな」
ソウマは即答する。
「さっき、誘われた」
「うん」
フィアは頷く。
「ここに来たのは正解だよ」
「……?」
リリアが首を傾げる。
「どういうことよ」
「ここは“場”がいいからね」
「場?」
「そう」
一瞬、沈黙が落ちる。
「……で、どうする」
ソウマは問う。
フィアは、考えていたが、突然視線を上げて――
「来る」
その瞬間。
――世界が、ズレた。
「っ!」
今度は、明確だった。
空間が裂ける。
音はない。
だが、“何か”がそこにいる。
「ソウマ、下がりなさい!」
「分かってる!」
即座に距離を取る。
その直後――
ソウマの腕が、弾けた。
血が舞う。
――遅れて。
——ザシュッ。
斬られた感覚と、音が来る。
腕が動かない。
左腕が切断されていた。
落ちた右腕は、赤い鮮やかな血を流している。
皮と筋肉、骨の断面が見えるほど綺麗に切断されていた。
まるで、糸で斬られたかのような、一直線な傷跡。
「……っ!!」
歯を食いしばる。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
(……いる)
“そこ”だ。
ズレの中心。
「フィア!」
「分かってる」
短く返す。
次の瞬間――
フィアの周囲の空間が、歪む。
いや、違う。
魔力を溢れさす。
するとーー
“固定される”。
「……そこ」
小さく、呟く。
その一言で――
世界が揃った。
「――今だ!!」
ソウマが踏み込む。
ズレが消えた一瞬。
完全な“現在”が訪れる。
「——単一光!」
光が、収束する。
逃げ場はない。
“固定された位置”へと、叩き込む。
――直撃。
「……っ!!」
空間が、軋む。
今度は、確かだった。
「……当たった……!」
リリアが息を呑む。
だが――
「まだ」
フィアが、静かに言う。
その瞬間。
“それ”が、姿を持った。
輪郭だけ。
“そこにあるはずの順序”が、崩れている。
影のようで、影ですらない。
「……なにあれ……」
リリアが、呆然と呟く。
「パラドクシア」
フィアが、淡々と言う。
「順序を食べる」
「……そんなもん食うなよ」
ソウマが吐き捨てる。
その間にも、“それ”は揺らいでいる。
消えかけている。
だが――
「……逃げる」
フィアが言う。
「今ならまだ逃げ切れるからね」
「……っ。仕留めきれねえか」
「無理」
即答だった。
「今の状態じゃ」
「……だろうな」
ソウマも理解している。
今の一撃で、確実に削った。
だが、決定打には足りない。
そして――
“それ”は、歪みながら後退する。
空間に溶けるように。
「……待て!」
踏み出そうとする。
だが、止まる。
(……無理だ)
追えば、またズレる。
今度こそ、致命的になる。
「……逃げたね」
静かに呟く。
その場に、静寂が戻る。
ズレも、消えている。
「……終わった?」
リリアが、慎重に聞く。
「……いや」
ソウマは、首を振る。
「“一回”引いただけだ」
「……はぁ……」
リリアが大きく息を吐く。
「ほんと、面倒なのに絡まれたわね」
「同感だ」
短く返す。
そして――
「……で」
リリアがフィアを見る。
「これ、どうなるの」
「また来る」
「だろうな!」
「でも」
少しだけ、ソウマを見る。
「さっきので繋がったよ」
「……繋がった?」
「位置と、その存在」
フィアは続ける。
「次は、もっと掴める」
「……繋がりたくねぇ」
ソウマは、小さく息を吐いた。
(完全に見えない相手じゃない)
それが分かっただけでも、大きい。
「……ただし」
フィアが続ける。
「放っておくと、広がる」
「……やっぱりか」
「街全体に行く可能性ある」
「最悪ね」
リリアが即答する。
「だから」
フィアは言う。
「次で、終わらせないといけない」
静かな声だった。
だが、その言葉には確信があった。
「……やるしかねえか」
ソウマは、軽く肩を回す。
まだ、ズレの感覚は残っている。
完全には戻っていない。
だが――
「さっきよりは、マシだ」
「削れてるから」
フィアが言う。
「寄生が弱まってるね」
「……なら、いけるな」
小さく笑う。
リリアが、呆れたように見る。
「その状態で前向きなの、ある意味どうかと思うわよ」
「今さらだろ」
「それもそうね」
ため息混じりに笑う。
そして――
ソウマは、空を見上げた。
何も変わらない朝。
だが、その裏側で、確実にパラドクシアが動いている。
(……次だな)
今度こそ、仕留める。
そう、静かに決める。
――そして。
見えないどこかで、パラドクシアもまた、こちらを見ていた。
削られながらも、確かに存在を保ちながら。
次の“順序”を、歪めるために。
牙を、研いでいた。




