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短めです。
門をくぐった瞬間だった。
少量だが最後まで全身にまとわりついていた“圧”が、ふっと消えた。
まるで、見えない水の中から引き上げられたような感覚。
「……っは」
誰かが、大きく息を吸い込む。
それにつられるように、あちこちで荒い呼吸が漏れた。
空気が、軽い。
肺に入るそれが、やけに鮮明に感じられる。
だがーー
誰も笑わなかった。
「……戻った、か」
ラドックが低く呟く。
その声には、安堵よりも疲労が滲んでいた。
ソウマは一歩、また一歩と足を進める。
だが、地面の感触がどこか現実味を欠いていた。
(……本当に、帰ってきたのか)
自分の足で歩いているはずなのに、どこか浮いているような感覚。
頭の奥に、まだ“あれ”が残っている。
あの視線。
あの圧。
あのーー認識。
「おい……」
通りの脇で、誰かが声を漏らした。
「なんだ、あの連中……」
視線が集まる。
当然だった。
血に濡れた装備。
砕けた盾。
歪んだ鎧。
肩を貸し合って歩く者たち。
明らかに“ただ事ではない”帰還。
だがーー
「……どいてくれ」
ラドックの一言で、空気が変わる。
低い声。
だが、それだけで十分だった。
人々は無言で道を開ける。
好奇の視線は消えない。
だが、誰も声をかけようとはしなかった。
その“何か”を、感じ取ったのだろう。
隊はそのまま、ギルドへ向かう。
誰も会話をしない。
足音だけが、やけに大きく響いていた。
ギルドの扉を押し開ける。
軋む音。
それがやけに大きく感じられた。
中は、いつも通りのはずだった。
酒の匂い。
笑い声。
雑談。
だがーー
それは一瞬で消えた。
視線が、一斉に集まる。
帰還した隊。
その人数。
その状態。
それだけで、何かがおかしいと誰もが理解した。
「……戻られましたか」
受付の女性が、ぽつりと呟く。
その目は、すぐに人数を数えていた。
そしてーー止まる。
足りない。
一人、いない。
その事実が、空気を重くする。
ざわめきが起きかけてーー止まる。
ギルドマスターが前に出たからだ。
「……報告する」
低い声。
だが、それだけで場が締まる。
誰もが息を殺す。
「森の奥にて、大規模な魔物の異常集結を確認」
静かな報告。
だが、その内容は異常だった。
「原因はーー」
一拍。
わずかな間。
それだけで、場の緊張が跳ね上がる。
「……支配個体によるもの」
ーー完全に無音状態になった気がした。
「……支配竜ネグラディアだ」
ざわり、と空気が揺れた気がした。
完全な沈黙。
音が消えた。
誰も、反応できない。
理解が追いつかない。
数秒の遅れの後。
「……は?」
誰かが、間の抜けた声を漏らした。
それをきっかけに、空気が弾ける。
「やはり噂通りか……」
「いやいや、冗談だろ……」
「この国に、ましてやこんな近くにいるわけが」
否定の声がする。
だが、それはすぐに消える。
目の前の隊の状態が、すべてを物語っていた。
冗談でこうはならない。
「静かにしてくれ」
ギルドマスターの一言で、再び沈黙が落ちる。
「交戦はしていない」
その言葉に、わずかな安堵が混じる。
だがーー
「……遭遇した」
その一言で、すべてが吹き飛んだ。
遭遇。
それはつまりーー
“生きて帰ってきたこと自体が異常”という意味だ。
誰もが顔を青くする。
「被害は一名のみ」
短い報告。
それ以上は言わない。
だが、それで十分だった。
その一人が誰なのか。
どんな最期だったのか。
想像しようとする者はいない。
したくない。
無意識的に、出来ない。
「以上だ」
報告は終わった。
あまりにも簡潔に。
だが、その内容は言い方に反して重かった。
解散の指示が出ると、隊はその場で崩れるように散った。
誰もが限界だった。
緊張が切れたことで、一気に疲労が押し寄せている。
ソウマも壁に背を預ける。
全身が重い。
指先が震えている。
(……生きてる)
遅れて実感が追いつく。
あの場から。
あの存在の前から。
帰ってきた。
それだけで、奇跡に近い。
「……大丈夫?」
隣に、リリアが来た。
その声は、いつもよりずっと小さい。
「ああ……なんとか」
そう答える。
だが、声に力はない。
リリアも同じだった。
顔色が悪い。
それでも、無理に立っている。
「……ねえ」
少し間を置いて、彼女が言う。
「あいつは……ソウマに何をしたのかな……」
ソウマは答えない。
答えられない。
だがーー
頭の奥に、あの感覚が蘇る。
“弱い”
“だがーー面白い”
あの認識。
あれは、言葉ではなかった。
だが、確かに“理解”として流れ込んできた。
「……何でだよ」
思わず、口に出る。
「ソウマ?」
「いや……なんでもない」
誤魔化す。
だが、誤魔化しきれていないのは自分でも分かっていた。
その時。
「……おい」
低い声がかかる。
振り向く。
ラドックだった。
その目は、真っ直ぐソウマを見ている。
「あの指示は、なんだ」
単刀直入だった。
「見えてたよな」
敵の配置と動きが、とラドックは言う。
否定は、できない。
ソウマは少しだけ視線を逸らす。
「……無意識だ」
短く答える。
だがーー
「嘘つけ」
即答だった。
間もない。
「嘘じゃない……!自分から見ているわけではないんだ……!」
ラドックの目は鋭い。
信じてはいない様子だった。
数秒の沈黙。
だがーー
「……まあいい」
ラドックはそれ以上追及しなかった。
「使えるなら使え」
一歩近づく。
その圧が、わずかに強まる。
「だがな」
声が低くなる。
「無理すんな」
予想外の言葉だった。
ソウマは一瞬、言葉を失う。
「死んだら意味ねぇ」
それだけ言って、ラドックは背を向けた。
その背中は、相変わらず大きかった。
リリアの言った通りだった。
不器用ながらも人のことを考えられている。
ギルドの外に出る。
空気が、やけに軽い。
あの森の中とはまるで違う。
空を見上げる。
青い。
ただ、それだけの空。
だがーー
(……あいつは、いる)
ソウマは、森の方を見る。
遠くに見える木々。
その奥。
確実に、あの存在がいる。
ネグラディア。
そしてーー
(……見られている)
根拠はない。
だが確信だけはあった。
あの視線は、終わっていない。
まだ繋がっている。
「……強くなる」
小さく、呟く。
逃げるためじゃない。
今度はーー
あいつに届くために。
だがーー
その感覚は正しくなかった。
その視線は、ネグラディアのものではない。
別の空間から、別の感情で見られているということに。
そのことに、まだ気づけないでいた。




