認識の外壁
ギルドを出たあとも、ソウマの足取りはどこか覚束なかった。
石畳を踏みしめる感触が、妙に遠い。
足は確かに地面に触れているはずなのに、その実感が薄い。
まるで、薄い膜を一枚挟んで歩いているような――そんな違和感。
「……ソウマ」
隣を歩くリリアが、小さく声をかける。
「ほんとに大丈夫?」
「うん、大丈夫だ」
即答した。
だが、その声は、自分でも驚くほど乾いていた。
リリアは一瞬だけソウマの顔を見つめ、それから何も言わずに視線を前へ戻した。
代わりに、ほんのわずかだけ距離を詰める。
その距離感が、不思議と安心感を与えた。
(……落ち着け)
ゆっくりと息を吸う。
空気が軽い。
あまりにも軽い。
森の中で感じていた“圧”が嘘のように、肺の奥まで空気が流れ込む。
――いや。
(……違う)
軽いんじゃない。
“あれ”と比べてしまっているだけだ。
あの森の奥。
ネグラディアの存在圧。
あれと比較してしまえば、どんな場所でも軽く感じてしまう。
(……引きずられてる)
思考を断ち切る。
考えるな。
思い出すな。
思い出した瞬間――また、あの“認識”に触れてしまう気がした。
街は、いつも通りの顔をしていた。
荷車が行き交い、商人が声を張り上げる。
焼きたてのパンの匂いが漂い、子供たちの笑い声が響く。
何も変わらない日常。
ほんの数時間前、自分たちが“あの場所”にいたことが嘘のようだった。
だが――
「……なあ」
ソウマは、無意識に口を開いていた。
「ん?」
リリアが振り向く。
「……いや」
言葉が続かない。
何かがおかしい。
だが、それが何なのか、はっきりと掴めない。
(……視線?)
背筋に、じわりとした感覚が走る。
ソウマは振り向く。
通りの向こうで、行き交う人々がこちらを見ている。
当然だろう。
血に濡れた装備のまま歩いているのだから、目立たないはずがない。
だが――
(……違う)
個人を見るよりも。
もっと、曖昧で。
もっと、広い。
(気のせいか)
そう思った瞬間だった。
ざわっーー
頭の奥が揺れた。
「……っ」
呼吸が一瞬止まる。
心臓が、不自然に強く打つ。
「ソウマ?」
リリアの声が、遠く聞こえた。
違う。
これは――
理覚。
おそらく、叡属性によるもの。
ソウマは属性を自分で抑制出来ないでいた。
しかし、今までのそれとは明らかに違っていた。
敵の位置。
動き。
数。
そういった戦闘に必要な情報ではない。
もっと曖昧な――
“方向ですらない何か”への反応。
(……なんだ、これ)
無意識に、意識を向けていた。
その瞬間。
ざわ、ざわ、と。
頭の内側を、何かが撫でるような感覚が広がった。
「……やめろ」
思わず、声が漏れる。
「ん?どうしたの?」
リリアが怪訝そうな顔をする。
「あ、いや……何でもない」
すぐに誤魔化す。
だが、感覚は消えない。
むしろ――
強くなる。
(……っ)
理解する。
これは、“見る”ことで強まる。
関心を持つほど強くなる。
意識を向ければ向けるほど、向こう側に近づいてしまう。
(……まずい)
本能が警鐘を鳴らす。
触れてはいけない。
関わってはいけない。
これは――ネグラディアとは別種の危険だ。
ソウマは、無理やり意識を切った。
思考を止める。
何も考えない。
何も感じない。
強引に、理覚の流れを遮断するイメージ。
すると――
すっと、感覚が遠のいた。
「……っは」
肺の奥に溜まっていた空気を、一気に吐き出す。
「……無理は禁物ね」
その様子を見ていたリリアが言う。
今度は、ちゃんと近くに聞こえた。
「ああ……ちょっと、疲れてるだけだ」
嘘ではない。
だが、それだけでもなかった。
再び歩き出す。
だが、先ほどとは違う。
無意識に、意識を抑えている。
あちら側に触れないように。
“何か”を見ないように。
まるで、深い水の底に沈んだものに気づかないふりをするように。
それでも――
完全には消えない。
遠く。
だが確実に。
“何か”がある。
(……距離?)
そんな考えが浮かぶ。
森から離れたことで、弱まっているのか。
それとも――
(……違うな)
直感が否定する。
あれは、距離の問題じゃない。
もっと――
(世界の概念そのもの……?)
考えた瞬間、またざわりとした感覚が走る。
(……やめろ)
即座に思考を切る。
これ以上は危険だ。
理解しようとした時点で、踏み込み過ぎてしまう。
宿が見えてきた。
見慣れた建物。
それだけで、ソウマは少し安心した。
「……もうすぐね」
リリアが小さく言う。
「そうだな」
短く答える。
だが、その一言すら、妙に遠く感じた。
(……戻らない)
違和感が、消えない。
森を出た。
門をくぐった。
ガルネスに戻った。
それでも――
“何か”がついてきている。
そんな確信があった。
宿の扉を押し開ける。
木の軋む音。
中から漏れる、食事の匂いと人の声。
一気に現実へ引き戻される感覚。
「おかえりなさい」
店主が軽く手を上げる。
その声が、やけに“普通”に聞こえた。
(……普通、か)
その感覚に、わずかな違和感を覚える。
普通とは、こんなにも軽かったか。
こんなにも、何も感じないものだったか。
階段を上がり、部屋の前に立つ。
扉に手をかける。
その瞬間。
ざわっーー
また、来た。
さっきよりも、はっきりと。
(……っ!)
思わず、手が止まる。
「どうしたの?」
リリアが不思議そうに見る。
「……いや」
何でもない、と言いかけて――
言葉が止まる。
分かる。
これは、前と同じ。
だが、違う。
もっと――
“近い”。
「……いや」
ソウマは短く答え、無理やり手を動かした。
扉を押し開ける。
軋む音と共に、見慣れた部屋が視界に入る。
ベッド。
小さな机。
窓から差し込む夕方の光。
何も変わらない。
――はずだった。
(……)
一歩、踏み入れる。
床の軋み。
空気の温度。
すべてが“普通”だ。
だが――
(……おかしい)
視線ではない。
もっと曖昧で、
もっと逃れようのない“何か”。
空間そのものに、薄く混じっているような感覚がする。
「ソウマ?」
リリアが後ろから覗き込む。
「入らないの?」
「いや……入る」
一歩、さらに中へ。
その瞬間。
ざわっ――
頭の奥が、大きく揺れた。
「っ……!」
思わず壁に手をつく。
息が詰まる。
「ちょっと、大丈夫!?」
リリアが駆け寄る。
「平気だ……少し、目眩が……」
嘘ではない。
だが、原因は明らかだった。
(……近い)
街道の時よりも、明らかに。
(何でだ……?)
森から離れているはずだ。
ネグラディアからは、確実に距離を取っている。
なのに――
(……違う)
理解した。
これは、あいつじゃない。
ネグラディアの圧とは、質が違う。
あれはこちらを押さえ込む、押し潰す圧迫感があった。
だが、これは――
覗き込まれるようなものだ。
視線と似ている。
むしろほぼ同じ。
「座っていなさい」
リリアに促され、ソウマは椅子に腰を下ろす。
柔らかい感触。
現実に意識が行く。
「水、持ってくる」
そう言って、彼女は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
――静寂。
その瞬間だった。
また、ざわり、と空気が揺れた。
「……っ」
反射的に顔を上げる。
誰もいない。
当たり前だ。
ここには、自分一人しかいないはずだ。
なのに――
(……見てる)
なぜ?
どこから?
分からない。
上でもない。
横でもない。
後ろでもない。
“方向が存在しない”。
それでも、確かにこちらを向いている。
(……なんだよ、これ)
理覚が、微かに反応する。
だが、情報として処理できない。
敵ではない。
物でもない。
位置もない。
なのに――
“対象”として認識されている。
(やめろ……)
考えた瞬間。
ざわっ――
一気に強まる。
まるで、こちらの意識に“反応した”かのように。
「……っ!」
頭を押さえる。
痛みではない。
圧迫感。
思考を、内側から掴まれるような感覚。
(見てる)
違う。
(見られてる)
それも違う。
(――見ていることを、認識されている)
その瞬間。
ぶつん、という音がした。
何かが繋がった。
――視界が歪む。
色が抜ける。
音が消える。
世界が、一瞬だけ薄くなる。
(……は?)
目の前の部屋が、揺らぐ。
壁が。
床が。
空間そのものが。
ほんのわずかに、ずれる。
その隙間に――
“何か”が見えた。
黒い。
いや、違う。
黒ですらない。
“定義されていない何か”。
形がない。
輪郭がない。
だが――
確実に、“こちらを見ている”。
「ーーっ!!」
思考が弾ける。
瞬間的に、理覚が暴走した。
情報が流れ込む。
だが、それは今までのものとは比べ物にならない。
位置も。
動きも。
意味も。
何一つ“理解可能な形”をしていない。
それでも、無理やり押し込まれる。
(やめろやめろやめてくれーー!)
拒絶する。
だが、止まらない。
「がっ……!」
喉から、掠れた音が漏れる。
膝が震える。
視界が明滅する。
“何か”が、近づく。
いや――
最初から、そこにいた。
ただ、見えていなかっただけだ。
その時。
ガチャ、と。
扉が開く音。
「ソウマ、水――」
リリアの声。
その瞬間。
ぶつん。
音が戻る音がした。
色が戻る。
視界が戻る。
部屋が、元に戻る。
ソウマはその場に膝をついていた。
荒い呼吸。
全身が汗で濡れている。
「ちょっと!?どうしたの!?」
リリアが駆け寄る。
「……だい、じょうぶ……」
声がうまく出ない。
「絶対そんなわけないわ!」
肩を掴まれる。
その感触で、ようやく現実を引き戻す。
(……消えた?)
さっきの“何か”。
完全に、気配がない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
だが――
(……違う)
消えたんじゃない。
また、見えなくなっただけだ。
確信があった。
「本当にどうしたの?」
リリアの声は、心配だけではなかった。
明らかに不安を含んでいた。
「……ちょっと、疲れてるだけだ」
無理やり立ち上がる。
足元がふらつく。
「休みなさい。絶対安静よ」
「……分かった」
ベッドに倒れ込む。
天井を見上げる。
何もない。
ただの天井。
――そのはずなのに。
(……見てるのか?)
考えた瞬間。
ざわっ。
ほんの微かに、反応がある。
「……っ」
すぐに思考を切る。
やはりこれ以上は危険だ。
理解しようとすれば、また繋がる。
(なんなんだよ……)
ネグラディアじゃない。
魔物でもない。
存在がない。
定義がない。
それなのに――
確実に、“こちらを認識している”。
(……なんで俺なんだ)
理由が分からない。
だが、一つだけはっきりしていることがある。
さっきの感覚は、偶然じゃない。
理覚に反応している。
もしくは――
(……あの時か)
森の奥。
ネグラディアと視線が交わった瞬間。
あの時、何かが引っかかった。
それが――
今に繋がっている。
「……寝ておきなさい」
リリアの声が、すぐそばで聞こえた。
いつの間にか椅子に座っている。
「大丈夫、ここにいるから」
その言葉に、大きな安心感を覚える。
「ああ……」
目を閉じる。
だが――
眠れる気はしなかった。
暗闇の中。
意識が沈む。
だが、完全には落ちない。
半端なまま、浮かんでいた。
その状態で――
“それ”は来た。
ざわっ。
(……っ)
目は閉じている。
だが、分かる。
しかも、開いている時よりもはっきりと。
(……やめろ)
拒絶する。
だが――
遅い。
向こうが、こちらを覗き込んでいる。
ざわっ――
それは、音ではなかった。
だが確かに、“何かが動いた”と理解できる感覚。
(……来る)
思考よりも早く、本能がそう告げた。
暗闇の中。
目は閉じている。
だが、見えている。
いや――
“見せられている”。
ソウマの意識は、どこか別の場所に引きずり出されていた。
上下も、前後もない。
空間の概念そのものが曖昧。
立っているのか、浮いているのかすら分からない。
ただ一つだけ、はっきりしていることがあった。
(……いる)
“それ”は、確実にそこにいる。
理覚が静かに反応していた。
だが、今までとは違う。
警告でもなければ、情報でもない。
ただ――
“接続されている”という事実だけを伝えてくる。
(……切れ)
念じる。
遮断しろ。
戻れ。
だが――
切れない。
『……見ているな』
耳で聞いたわけではない。
頭に流れる。
声でもない。
ただの音。
だが、確かに言葉として理解できた。
(……っ!?)
思考が止まる。
今までとは違う。
これは、一方的な流入じゃない。
“対話”だ。
『弱い』
あの時と同じ言葉。
ネグラディアの時と同じ認識。
だが――
決定的に違う。
あの時は、評価だった。
だが、今は――
“確認”だ。
(……違う、これは)
ネグラディアじゃない。
確信した。
あれはもっと生きていた
だが、これは――
もっと、曖昧で。
もっと、根源的な存在。
「だが」
一瞬の間。
ほんのわずかな揺らぎ。
それだけで、全身が総毛立つ。
その瞬間。
理覚が、完全に開いた。
「ッーー!!」
言葉にならない悲鳴が、内側で弾ける。
流れ込む。
情報ではない。
概念。
理解不能な“何か”。
それが、直接思考に叩きつけられる。
(ーーっ、やめろぉぉぉ!)
拒絶。
だが、意味がない。
“向こう”は、ソウマの拒絶すら理解していない。
ただ、観測しているだけだ。
見られている。
違う。
“観測されている”。
その違いを理解した瞬間。
ソウマの何かが、決定的に壊れかけた。
(――駄目だ)
このままじゃ、戻れない。
直感する。
一度、完全に“向こう”に引き込まれたら――
何もかも終わり。
人間としても。
――存在としても。
「……まだ」
声が、続く。
「足りない」
ぶつん。
何かが、切れた。
視界が弾ける。
意識が、一気に引き戻される。
「ーーはっ!」
ソウマは跳ね起きた。
荒い呼吸。
心臓が暴れるように脈打っている。
全身が汗で濡れていた。
「ソウマ!?」
すぐ隣。
リリアの声。
現実だ。
部屋だ。
戻ってきている。
(……戻った)
だが――
安堵はなかった。
「……大丈夫よ」
肩を掴まれる。
その温もりが、現実を繋ぎ止める。
「ああ……」
声が掠れる。
「……夢だ」
嘘だった。
だが、そう言うしかない。
「ただの、悪夢だ……」
(……夢じゃない)
分かっている。
あれは。
現実だ。
でも、信じたくなかった。
現実ではないと、否定したかった。
あれは――
“現実の外側にあるもの”だ。
「……顔、真っ青だわ」
リリアの声が、わずかに震えている。
「本当に大丈夫……?」
「ああ……少し、疲れてるだけだ」
同じ言葉を繰り返す。
だが、その中身はまるで違っていた。
(……観測)
あの言葉が、頭から離れない。
見られているんじゃない。
“観測されている”。
つまり――
(……対象にされている)
何の?
なぜ?
分からない。
だが、はっきりしていることがある。
あれは、無差別じゃない。
ソウマを――
“選んでいる”。
「……なあ」
気づけば、口を開いていた。
「ん?」
リリアが顔を上げる。
「もし、自分じゃない何かに見られてるって思ったら……どうする」
唐突な問いだった。
リリアは少しだけ考える。
「……私なら、とりあえず気にせずに過ごすかな。こっちから関われないなら、気にしたところでどうにもならないでしょ?」
「なるほど……」
「疲れてるんだと割り切ると思うわ」
核心から少し外れているが……
「……だよな」
苦笑する。
これ以上は言えない。
言えば――
巻き込むだろう。
(……駄目だ)
自分に言い聞かせる。
これは、自分一人の問題だ。
誰かに共有していいものじゃない。
理解できるものでもない。
リリアが立ち上がる。
「少し休みなよ。今日はもう休もう」
「そうだな……」
素直に頷く。
今は、それしかできない。
リリアが部屋を出る。
扉が閉まった。
再び、一人になる。
静寂。
(……いるのか?)
考える。
やはり。
ざわっ。
ほんのわずかに、反応があった。
「……っ」
確信する。
消えていない。
“向こう”は、まだいる。
ただ――
“今は見ていないだけ”。
(……足りない、か)
あの言葉。
頭の奥で、反芻される。
何が足りないのか。
考える必要はなかった。
直感で分かる。
力だ。
理解だ。
あるいは――
もっと深く見ることだ。
「……ふざけんなよ」
小さく、吐き捨てる。
恐怖はある。
当たり前だ。
理解不能なものに触れた。
だが、それ以上に――
引っかかる。
あの一言が。
『弱い』
『足りない』
評価されている。
上から、一方的に。
「……舐めてんじゃねえよ」
低く、呟く。
その声には、はっきりとした苛立ちが混じっていた。
怖い。
だが、それ以上に――
悔しい。
(……見てるなら、見てろ)
視線を、天井に向ける。
何もない。
だが、それでもいい。
「……強くなる」
今度は、はっきりと口に出した。
逃げるためじゃない。
守るためでもない。
“届くため”だ。
あの場所に。
あの領域に。
そして――
“あの存在“に。
だが。
その決意は、あまりにも危うかった。
なぜなら――
“見られている者”が、
“見る側”に回ろうとした時。
それはもう、人が実現出来ることでは無いからだ。
でも、もし人でなくなったら。
もし、人を超えたら。
その時は、分からないかもしれない。




