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【歴史if小説】薩摩の風と城山 西郷どんと生きた人生  作者: 松本 俊介


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第1話:城山の月


**『薩摩の風と城山』**

**第1話:城山の月**


明治十年(一八七七年)九月二十三日——夜。


鹿児島城の背後にそびえる城山は、漆黒の闇と、立ち込める硝煙の匂いに包まれていた。


秋の虫の音が、遠くに見える政府軍の篝火(かがりび)の気配を覆い隠すように鳴いている。昼間の猛烈な砲撃が嘘のように、いまは不気味なほどの静けさが山肌を支配していた。


洞窟の岩肌に背を預け、俺は手拭いで脇差の身を静かに拭っていた。


左肩から血が滲み、着物が皮膚に張り付いて痛む。だが、その痛みを気にする気力すら、もう残っていなかった。


「……吉之助(きちのすけ)さぁ」


俺は、隣に座る巨躯の男に声をかけた。


西郷吉之助——いや、いまは西郷隆盛と呼ぶべきか。


かつて維新の立役者として日本中を動かしたその人は、すっかり痩せ細り、擦り切れた軍服を身にまとっていた。しかし、大きな眼の光だけは、澄んだ秋の月のように静かだった。


「ん……なんじゃ、周蔵(しゅうぞう)」


吉之助さぁは、重々しい声で応えた。


「明日は、いよいよでございますな」


俺の言葉に、吉之助さぁは短く「ふっ」と笑った。絶望の笑いではない。どこか懐かしいものを愛おしむような、温かい笑いだった。


「おはんも、ようここまでついてきたなぁ。……なぁに、明日でようやく、長かった戦も終わりじゃ。何も思い残すことはなか」


そう言うと、吉之助さぁは大きな手を膝の上に置いた。


その右腕には、古く固くなった傷痕が走っている。若い頃、喧嘩の仲裁に入って斬られた、あの傷痕だ。


「……のう、周蔵。覚えとるか」


「何をでございもすか」


「甲突川(こうつきがわ)じゃ。昔もこんな風に、二人して泥と水に濡れて、震えとった夜があったじゃろ」


その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で、カチリと何かが音を立てた。


傷の痛みも、冷たい夜風も、明日訪れる死の運命も、すべてがすうっと遠のいていく。


目を閉じると、まぶたの裏に広がるのは城山の闇ではなかった。


眩しいほどの薩摩の夏空と、きらきら光る甲突川の水面だった。


*


俺たちが生まれたのは、薩摩藩の下加治屋町(しもかじやちょう)。


藩士としては下の方、御小姓与(こしょうぐみ)と呼ばれる下級武士の家が寄り集まった、貧しい町だった。


俺は天保二年(一八三一年)の生まれ。吉之助さぁより四つ年下になる。


一つ上には、利発で少し理屈っぽい大久保の正助(しょうすけ)がいた。


薩摩の郷中(ごじゅう)教育は厳しい。


「負けるな」「嘘を言うな」「弱音を吐くな」。


幼い「稚児(ちご)」たちは、年上の「二才(にせ)」と呼ばれる青年たちに、徹底的に仕込まれる。


その郷中の少年たちの真ん中に、いつも吉之助さぁがいた。


体は人一倍でかく、情に厚く、いつも先頭を走っていた。俺は幼い頃、吉之助さぁや正助さぁの背中を、夢中で追いかけていたのだ。


「吉之助さぁ! 待ってくりゃんせ!」


「ハハハ! 遅いぞ、周蔵! 置いていくぞ!」


甲突川の堤を素足で駆け抜ける、少年たちの笑い声。


川への飛び込み、立ち泳ぎ、竹筒を使った鰻取り。


夜通し歩いた妙円寺詣りの、足の裏の痛みと、やり遂げた誇らしさ。


江戸や京から帰った先輩が聞かせてくれた、見たこともない華やかな都の話。


俺たちのすべては、あの小さな郷中から始まったのだ。


*


「……吉之助さぁ」


俺は目を開け、脇差を鞘に収めた。


「覚えておりますとも。忘れるはずがございもはん。あの川で俺が流されかけたとき、吉之助さぁが、その大きな手で俺の首根っこを掴み上げてくれたとです」


「そうじゃったかのう」


吉之助さぁは満足そうに目を細め、夜空を見上げた。


城山の空に、くっきりと満月が浮かんでいる。


明日になれば、この山は官軍の砲撃で火の海と化すだろう。


あの正助さぁ——いまは大久保利通と呼ばれる男が築いた、明治政府の軍勢によって。


その軍勢を率いる者の中には、俺たちが手を引いてやった、あの岩次郎——砲術を修めた陸軍少将・大山巌もいる。


そして政府には、吉之助さぁの実の弟、信吾(しんご)どん——西郷従道もいる。


兄が山に籠もり、弟と従弟は政府の側に立つ。時代の悪戯(いたずら)というには、あまりにも酷(むご)い結末だった。


「……信吾は、東京でうまくやっておろうか」


吉之助さぁが、月を見上げたまま、ぽつりと呟いた。


俺は、答えられなかった。


吉之助さぁと正助さぁの間に立ち、二人をつなごうと、何度も走った。だが、その手は、最後まで届かなかったのだ。


それでも、走ったことを後悔してはいない。


「吉之助さぁ。あの頃の話を……俺たちが、ただの薩摩のガキんちょだった頃の話を、少しだけ思い返してもよかでしょうか」


「おう。よかぞ」


吉之助さぁは静かに頷いた。


「俺たちの誠の物語は、あの甲突川の風の中にしかなかったのかもしれんからの」


東の空が白むまでの、わずかな時。


俺の意識は、四十年の歳月を一気に巻き戻していった。


それは、天保の改革の嵐が吹き荒れる前。


俺が七歳、吉之助さぁが十一歳。


眩しい太陽と、桜島の煙と、仲間たちの歓声に満ちあふれていた、あの日々へ——。


(第2話へ続く)


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