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ep.9 一行の名前

「おはようございます、氷姫様」


「……おはよう、カイン」


朝の回廊で顔を合わせたカインは、完璧な騎士だった。

完璧な礼。完璧な距離。完璧な、何も映さない顔。


…昨夜のことを謝らなきゃ。

そう思って口を開いたのに、カインはもう半歩下がって、護衛の位置についていた。


「あの、昨日の夜のことだけど」


「本日のご予定ですが」


「……っ、聞いて、カイン。わたくし…」


「特に本日は重要な予定はございません。北の報告が入り次第、お伝えします。それまではご自由に城内でお過ごしください」


ぴしゃり。

扉を閉めるみたいに、ぶつりと話を切られた。


もう!と叫びたいのを、ぐっと飲み込む。

悪いのはわたくしだ。分かっている、分かっているけれど。


ちなみに、やりたいことの二番目の、朝寝坊は失敗した。

そもそも一睡もできなかったのだから、寝坊のしようがない。



「……オドから、手紙が来たの」


昼過ぎ、リディエルは思い切って、懐から紙を取り出した。


カインの目が、わずかに見開かれる。

彼は手紙を読み、それから長いこと黙っていた。


「一人で行くつもりでしたか」


「そうしようかと思ってた。あなた、口をきいてくれないし」


「いいえ……お供します」


「いいの?」


「護衛ですから」


務めですから、とは言わなかった。

でも、ほとんど同じ温度の声だった。

それでも、隣にいてくれる。


それだけで、リディエルは少しだけ泣きそうになった。



夜。


氷結院の書庫は、王城の裏手、古い石造りの建物の地下にあった。

蝋燭の灯りが揺れるたびに、背の高い書架の影が、生き物みたいに壁を這う。


「お、お待ちください。夜間は院長の許可がなければ、誰も……」


入り口で夜番の職員が、青い顔で立ちふさがった。


「わたくしに関わる記録を、わたくしが読めないのはおかしいでしょう?」


「で、ですが、氷姫様に関する記録は、すべて禁書棚に……」


「その鍵を開けてちょうだい。それとも、この私を、扉の前で追い返すつもり?」


職員は真っ青なまま、固まってしまった。

そのとき、書庫の奥から、こつ、こつと杖をつく音が近づいてきた。


「……その鍵は、私が開けましょう」


現れたのは、目覚めた日に道ですれ違った、あの老神官だった。


「オドと申します。氷結院におりましたころ、この書庫の鍵を預かっておりました。退くときに返しそびれましてな」


しれっと言って、オドは震える手で鍵束を取り出した。

職員が口をぱくぱくさせているうちに、禁書棚の錠に鍵が差し込まれる。


「あなたが目覚めた日、カイン殿に、まだ大丈夫なのかとお尋ねしました」


錠を回しながら、オドがぽつりと言った。


「北の均衡のことです。私は長年、ここで記録を預かってきた。だから知っておりました。あなたが目覚めれば、何が始まるのか。……そして、氷結院がこれまで、何をしてきたのか」


がちゃり、と重い音がした。



禁書棚の奥は、古い紙と埃の匂いがした。


カインが燭台を掲げる。


狭い通路で、二人の肩が触れそうになった。

昨夜のことが頭をよぎって、リディエルは慌てて半歩離れた。


背表紙を一冊ずつ確かめていく。


百年前の資料は少なかった。

代わりに棚を埋めていたのは、歴代の氷結院が下してきた決定の記録だった。


一冊を開いて、リディエルは手を止めた。


《氷姫の氷が薄れ、北の均衡が乱れたため、氷の適性を持つ者一名を、人柱として北の氷窟に封じ、錨の補強とする。封じられた者は、二度と目覚めなかった。》


日付は、七十年前。

その下に、知らない少女の名前がひとつ。


頁をめくる。五十年前。同じ文面。別の名前。

もう一枚。三十年前。同じ文面。また、別の名前。


日付と名前だけを変えて、同じ一行が、並んでいた。


「……なに、これ」


指先が、冷たくなっていく。


「人柱って……人を、氷に?それって…わたくしみたいに?わたくしの眠りが薄れるたびに、誰かを、北の氷窟に……」


「……二代目から四代目まで」


背後で、カインの声がした。

ひどく掠れていた。


「それぞれの手記に一度ずつ、同じことが書いてあるんです。氷の薄れが、ある年にぴたりと止まった、と。理由は、誰にも分からなかった。父は、首をひねりながら、その年の頁に印をつけていました」


燭台の炎が、ぶるりと震えた。


「七十年前。五十年前。三十年前。……全部、合っています」


カインが、燭台を握る手に力を込めた。関節が白くなっている。


「氷結院は、あなたの目覚めを、決して起こらない事態として扱ってきた。……そう思っていました。違ったんですね。本当に、起こらないようにしていたんだ。そう、人を、継ぎ足して…」




「この子にも、家族がいたはずでしょう!? 笑った日も、泣いた日も、あったはずでしょう!?わたくしを眠らせ続けるために!?冗談じゃないわよ!」


リディエルは、記録の上に手を叩きつけていた。


悲しみより先に、怒りが噴き上げた。

足元の石床に、ぱきぱきと霜が走る。


「氷姫様」


オドが、静かに別の綴りを差し出した。


「こちらも、ご覧ください」


古い紙の束だった。表紙に、見覚えのある絵が描かれている。

市場で子供たちが広げていた、あの教科書。その、下書きだった。


頁をめくると、余白に、事務的な字で書き込みがあった。


《北の村の子らには、氷姫の頁を繰り返し読ませること。人柱の選定に際し、本人の同意を得やすくするため。》


そして、その頁に載っていたのは。


わたくしは、誇りをもって眠ります。

百年前、リディエルがお母様に宛てて書いた、あの手紙の一文だった。


「使われてた……?」


声が、ひっくり返った。


「わたくしの手紙が……あの、強がりの一文が……女の子たちを、氷に入れるために……?」


膝から、力が抜けた。

書架に手をつこうとして、空を掴む。


倒れる、と思った瞬間、腕を掴まれた。


引き寄せられて、気がつけば、カインの胸に抱きとめられていた。


「……っ」


「大丈夫です。立てますか」


「……分からない」


本当に分からなかった。

足が震えて、頭の中がぐちゃぐちゃで、何が本当なのかも分からない。


カインは、はっとしたように腕の力をゆるめた。


「……失礼しました」


離れていこうとする。昨夜みたいに。


リディエルは、とっさに彼の手を掴んでいた。


「離さないで」


「……氷姫様」


「今だけでいいから。お願い。……離さないで」


しばらく、カインは動かなかった。

それから、ゆっくりと、掴まれた手を握り返してくれた。

硬くて、温かい手だった。



オドが、もう一冊、黄ばんだ記録を差し出した。

百年前のものだった。


「お辛いでしょうが、こちらも、知っておかれるべきかと」


蝋燭の灯りに、かすれた文字が浮かび上がる。


《王女殿下のお申し出に先立ち、氷室の支度を整える。殿下は必ずお申し出になる。》


日付を見た。

リディエルが、自分から氷に入ると言い出した日より、何日も前だった。


「……え?」


もう一度読む。何度読んでも、同じだった。


殿下は必ずお申し出になる。


わたくしが言い出す前から、氷室は用意されていた。


誰も、眠れとは言わなかった。でも、誰も、眠るなとも言わなかった。

お父様も、大臣たちも。


みんな、わたくしが言い出すのを、ただ待っていたのだ。


国を守れるのは自分しかいない。誰に言われたわけでもない。

気がついたら、そう信じていた。


気がついたら?

違う。そう思うように、されていたのだ。


「わたくし……自分で、選んだと思ってた……」


声が、ほとんど音にならなかった。


「怖くて、震えて、でも自分で決めたんだって。それだけが、わたくしの誇りだったのに……!」


握った手に、ぎゅっと力がこもる。

カインは何も言わなかった。



「もうひとつ、ございます」


オドが、三十年前の頁を開き直した。

人柱の一行の横。余白に、小さな字で書き込みがあった。


《反対意見 B》


「……B?」


「当時、たった一人だけ、この決定に反対した者がおりました。名前の頭文字だけを残して」


それから、オドは最後の綴りを開いた。

十年前の日付だった。


《氷姫の氷の薄れ、規定に達す。人柱一名の選定を——》


その先に、一行だけ、別の字で書き足されていた。


《院長の決裁により、見送り。》


リディエルは、顔を上げた。


「見送り……? 十年前、人柱が、止められたの?」


「さようです」


「誰が?」


オドは答えず、ただ静かに、書庫の天井を見上げた。


その上、王城の方角を。氷結院の院長室がある方を。


影が第二監視塔に届くまで、あと五日。

眠りの儀まで、あと三日。



【続く】

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