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ep.10 反対意見 B

院長室の扉を叩いたのは、まだ夜が明けきらないうちだった。


「……氷姫様?」


扉を開けたバルドーは、寝間着の上に古い上衣を羽織っていた。

眠っていなかったのだと、ひと目で分かった。

机の上の蝋燭が、根元まで燃え尽きかけている。


「こんな時刻に、何の御用で」


「少し、伺いたいことがあるの」


リディエルの後ろで、カインが無言で一礼した。

バルドーは二人の顔を見比べて、何かを察したように、黙って中へ通してくれた。


壁一面の書架に、革装の記録が隙間なく並んでいる。

古い紙と、燃えた蝋の匂いがした。


リディエルは、椅子も勧められないうちに、まっすぐ切り出した。


「あの三十年前の記録を、見ました」


バルドーの顔から、さっと色が引いた。


「……禁書棚を、開けさせたのですか」


「オドが、鍵を開けてくれたわ」


「あの男……」


老人は、深く、長い息を吐いた。

怒っているというより、どこか観念したような息だった。


「三十年前の頁の余白に、反対意見、B、とあったわ。あれは、あなたのことでしょう?」


長い沈黙。

蝋燭の芯が、じじ、と小さく鳴った。


「……座りなさい。立ったまま聞く話ではない」



「……三十年前、儂はまだ若い研究員だった」


向かい合って腰を下ろすと、バルドーはぽつりぽつりと話し始めた。


「北の集落のひとつが、均衡の乱れに巻き込まれかけていた。凍てつく風が吹き荒れて、畑の作物がひと晩ですべて枯れた年だ」


「それで、人柱を?」


「当時の院長はそう決めた。氷の適性を持つ村の娘を一人、北の氷窟に封じて、薄れた錨を継ぎ足す。それで急場をしのぐ、と」


バルドーの皺だらけの指が、膝の上で組み合わされた。


「選ばれたのは、十六の娘だった。名を、アニカといった」


アニカ。

記録の一行の中に、確かにその名前があった。


「麦わら色の髪を三つ編みにして、よく笑う子だった。儂は反対した。もう一つ、別の方法があるはずだと、何日も書庫にこもって記録を漁った。蝋燭が尽きるたびに継ぎ足し、目が霞むまで頁をめくった」


「……でも、届かなかったのね」


「あの時は若すぎた。誰も、儂の話など聞かなかった」


バルドーは、窓の外の、まだ暗い北の空に目をやった。


「決定の日、アニカは泣きも喚きもしなかった。冷えきった石の広間で、両手を膝の上でぎゅっと握りしめて。それから、儂の目をまっすぐに見て、こう言った」


一瞬、老人の声が詰まった。


「かばってくれて、ありがとうございました、と」


リディエルは、息を止めた。


「指先が、小刻みに震えていた。それでも、あの娘は笑っていた。……儂の方が、先に目を逸らした。その翌朝、アニカは氷窟に封じられ、二度と戻らなかった」


「……っ」


何も言えなかった。

十六歳。百年前の自分より、若い。


震える指で、笑って、お礼を言って。

わたくしも、そうだった。お母様に、誇りをもって眠りますと書いた。笑って、背筋を伸ばして。


でも誰も、止めてくれなかった。



「その時、儂は誓った」


バルドーの声が、少しだけ強くなった。


「いつか自分がこの椅子に座る日が来たら、二度と同じ選択はしないと。……そして今から十年前、本当にその日が来た」


「十年前の記録。見送り、って書いてあったわ」


「氷姫の氷の薄れが、規定に達した。次の人柱を選べと、手順が動き出した。儂は、院長として、それを止めた」


「じゃあ、十年前に人柱が出なかったのは、あなたのおかげで」


「ええ…。そして、そのせいで」


バルドーは、リディエルの目をまっすぐに見た。


「あなたは目覚めた」


「……え?」


「続けねば一気に崩れる。三十年前、五十年前、七十年前に重ねた補強が、この十年で、残らず剥がれ落ちた。氷はもとの薄れ方に戻り、そのまま解けた」


カインが、低い声で口を挟んだ。


「……初代の計算どおりの時期に、戻ったということですか」


「そうだ。アルヴァレス家の見立ては、継ぎ足しさえなければ、最初から正しかったのだ」


カインの拳が、膝の上で固く握られた。

父の代の手記に、薄れが速すぎると怯えた頁があった。

何度も計算をやり直した跡があった。


その答えが、今ここにあった。


「十年前、儂は誓いを守った。誰も氷窟に送らなかった。……その結果が、これだ」


バルドーは、自嘲するように口の端を歪めた。


「北に影が出て、十万の民が怯え、儂はあなたに、もう一度眠れと言った。方法はひとつ、と。三十年前、アニカを氷窟に送った男とまったく同じ口調でな」


「院長……」


「言い終えた瞬間、背中が冷たくなった。かつて憎んだ男の口癖が、いつの間にか、儂の舌に染みついていた」



リディエルは、しばらく黙っていた。

それから、ふと思い出したことを口にした。


「ねえ。謁見の間で、儀の支度に五日かかるって言ったわよね。ヴェッセルは、二日で整うって言っていたのに」


バルドーは、ぴくりと眉を動かした。

それから、観念したように目を閉じた。


「……支度は、二日で済む。五日と言ったのは、儂の嘘だ」


「やっぱり……」


「あなたが眠りを拒んだとき、儂は、どこかでほっとしていた。アニカは拒まなかった。拒めなかった。……あなたには、せめて考える時間を渡したかった」


「だったら、どうして眠れなんて」


「他の道を……知らんからだ」


老人の声が、かすれた。


「誓いは守った。だが、その先の答えを、すべを、儂は持っていなかった。……三十年前と同じだ」


リディエルは、膝の上で拳を握った。

怒鳴りたかった。どうして、と。なのに、出てきたのは別の言葉だった。


「……ありがとう」


「何をだ、感謝されることなど……」


「十年前、止めてくれて。おかげで、わたくし、起きられたわ。焼き菓子も食べられたし、月も見られたし、ほら、お断りしますって、ちゃんと言えた」


バルドーが、目を見開いた。


「それに、あなたはアニカを忘れなかった。三十年も。……わたくし、それが、一番うれしいの」



バルドーは、長いあいだ黙っていた。

それから、机の引き出しを開けて、古い書類の束を取り出した。

黄ばんで、端が脆くなっている。


「三十年前、アニカのために書庫を漁っていたとき、見つけたものがある」


広げられた紙に、円い紋様と、細かな術式の書き込み。

カインが、はっと身を乗り出した。


「これは……我が家の術式です」


「アルヴァレス家が、氷結院に何度も持ち込んできた申し立ての写しだ。代々、夢物語として突き返されてきた。だが、儂は読んだ。読んで、ひとつ気がついた」


バルドーは、紋様の外側に書き足された、輪のような式を指でなぞった。


「この術式で力を重ねると、流れが逆に跳ね返ることがある。結晶が砕けたのは、おそらくそのせいだ。それを一方向に逃がすための式を、儂は組んだ。……環の式、と呼んでいた」


「三十年前に?」


「ああ、けれど、上には認められなかった。だから、ずっとここにしまっていたんだ」


カインは、黄ばんだ紙を見つめたまま動かなかった。

五代かけて、誰にも相手にされなかった家の術式。それを、たった一人、読んでいた人がいたのだ。


「……夢物語では、なかったんですね」


「少なくとも、理屈の上ではな」


リディエルは、思わず立ち上がっていた。


「だったら、手伝って!その環の式があれば、結晶が育つかもしれないんでしょう?」


「台座を使うには、院長の許しがいる。だが、儂一人の判断で、十万の民を実証のない術に賭けるわけにはいかん」


バルドーは、まっすぐにリディエルを見上げた。


「しかし……陛下の御前で、それだけの理由を示せるならば。……そのときは、儂も腹を括ろう」



院長室を出ると、廊下の窓の外が、うっすらと白み始めていた。

並んで歩きながら、リディエルは隣の横顔を盗み見た。


「ねえ、カイン。昨日の夜、書庫で……手、握ってくれて、ありがとう」


「ええ、護衛ですから」


「……また、それ」


むっとして頬をふくらませる。

でも、文句を言える立場じゃないことも分かっていた。


あの人の代わりなら、いくらでも務めます。

そう言わせたのは、わたくしだ。


窓の下を見下ろすと、塔のまわりに、氷結院の紋章をつけた兵士たちが立っていた。


昨日よりも、明らかに数が増えている。


階段を駆け上がってきたレオンが、息を切らして言った。


「隊長!塔の兵がまた増えました!ヴェッセル参事官の命令だって。院長の許しは取ってないみたいです!」


リディエルは、くるりと踵を返した。

院長室の扉を、もう一度叩く。


「院長。ひとつだけ教えて」


扉の隙間から、バルドーの疲れた顔が覗いた。


「ヴェッセルは、どうしてあんなに、わたくしを眠らせたがるの? 北の民のため、だけじゃないでしょう。あの人、ずっと何かを握りしめてる。擦り切れた封筒みたいなものを」


バルドーの顔が、強張った。

長い沈黙のあと、老人は、ひどく小さな声で言った。


「……アニカには、弟がいたんだ」


影が第二監視塔に届くまで、あと四日。

眠りの儀まで、あと二日。


【続く】


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