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第2話 温泉まんじゅう消失事件

魔界の朝は、夜より少しだけやる気がない。


溶岩の川は朝からごぽごぽと泡を噴き、黒い空には赤い稲妻が細く走る。

髑髏をかたどった街灯が青白く光り、その下を、くたびれた悪魔たちがぞろぞろと歩いていた。

翼はしおれ、尻尾はだらりと垂れ、顔つきはどいつもこいつも、仕事帰りなのかこれから出勤なのか判然としない顔である。


そんな街の一角に、魔界派遣公社・召喚対応第七支部はあった。


「まだ報告書のダメージが抜けない……」と、バルタザールは低くうめいた。

「悪魔の業務記録に“可燃ごみ二袋”って何なんだよ……」


向かいの席で書類を仕分けしていた同僚のリリィが、淡々と答える。


「事実でしょ」

「事実でも、書類に残したくない事実ってあるんだよ」と、バルタザールは顔だけ上げた。

「こっちは“災厄の黒翼”だぞ」

「昨日は“ゴミ出しの黒翼”だったけどね」と、リリィは涼しい声で返した。

「その呼び方を定着させるな」

「もう支部内でそこそこ通じてるわよ」

「最悪だな、この職場」


机の端には、前夜提出した報告書の控えがまだ置かれていた。


召喚者の願望:生活の立て直し(たぶん)

契約内容:可燃ごみ二袋、不燃ごみ一袋、月見うどん一食

特記事項:プリンはうまかった


バルタザールは報告書を裏返し、深々とため息をつく。


「今日はまともな案件がいい」

「まともって何」と、リリィが聞く。

「せめて悪魔らしいやつだよ」と、バルタザール。

「世界征服とか、王国転覆とか、呪術的なやつ」


そのときだった。


支部の天井に埋め込まれた召喚警報ベルが、けたたましく鳴り響いた。


ジリリリリリリリッ!


「うわっ、来た!」と、バルタザールが椅子から跳ねる。

「朝から景気よく鳴るわね」と、リリィ。

「こっちは景気よく呼ばれたくないんだよ!」と、バルタザールは即座に言い返した。


壁の水晶板が淡く光り、機械的な女性の声が流れた。


『人間界より召喚要請。担当者、バルタザール。案件ランクC。過去召喚記録より一致反応なし。内容:たぶん簡単』


バルタザールは、その文面を聞いてほんの一瞬だけ肩の力を抜いた。


「一致反応なし……」と、彼は小さくつぶやく。

「少なくとも昨日のあいつじゃない」

「そこに安心するあたり、だいぶ傷が深いわね」と、リリィ。

「当然だろ」と、バルタザールは顔をしかめた。

「またゴミ出しなんてさせられたらたまったもんじゃない」


足元に転移陣が展開し、紫色の光がじわりと広がる。ぬめりのある魔力が、靴底にまとわりついた。


リリィは机の端から分厚い冊子を取り上げ、いつものように差し出す。


「はい、現地対応マニュアル」

「うわ、またそれか」と、バルタザールは露骨に顔をしかめた。

「見ただけで気が重くなるんだけど」

「持っていきなさい」と、リリィはあっさり言う。

「あとで『聞いてない』は通らないから」

「その言い方だと、もう何か起こる前提じゃないか」

「今まで何も起きなかったこと、あった?」

「ないのが嫌なんだよ!」


転移の光が足元からせり上がる。バルタザールは冊子をわきに抱え、最後にぼやいた。


「……頼むから今度は、悪魔を呼ぶ理由に最低限の筋が通ってますように」


次の瞬間、彼の姿は光に呑まれた。

あとに残ったリリィは、空になった転移陣を見下ろし、小さく肩をすくめる。


「その願いも、だいたいかなってないのよね」


◇◇


転移の光がほどけた瞬間、鼻をついたのは硫黄の匂いだった。


ひやりとした山の朝の空気。湿った石畳。白くたなびく湯けむり。

少し先には、木造の大きな温泉旅館が静かにたたずんでいる。


バルタザールは一度だけ瞬きをした。


「……旅館?」


見上げれば、瓦屋根。磨かれた木の外壁。手入れの行き届いた庭。

どう見ても、落ち着いた温泉宿だった。


「ずいぶんまともそうな場所に呼ばれたな」と、バルタザールは低くつぶやく。

「いや、まともそうな場所が悪魔を呼ぶ時点で、もうまともじゃねえのか」


そのとき、裏口のほうから慌てた足音が近づいてきた。


「あ、あの……!」


駆け寄ってきたのは、紺色の作務衣を着た若い娘だった。

バルタザールの姿を見て目を見開き、それからぺこりと頭を下げる。


「急な召喚に応じていただいて、ありがとうございます。私、湯ノ花亭の若女将見習い、篠原カンナと申します」


バルタザールは胸を張った。悪魔として威厳を示す、大事な場面だ。


「我が名はバルタザール!深淵の焔を統べ、絶望の帳をまとい、千の契約を――」


「た、助けてください」と、カンナが言った。


バルタザールはぴたりと止まった。

カンナははっとして、ぶんぶんと両手を振った。


「す、すみません! でも本当に困っていて!」


「困ってるのはわかる!」と、バルタザールは即座に言い返した。

「わかるが、せめてこっちが名乗り終わるまで待て! 悪魔にも段取りってもんがあるだろうが!」


そのやり取りの途中で、旅館の勝手口から年配の男が足早に出てきた。

落ち着いた身なりの男は、召喚陣の跡とバルタザールを見比べ、ぎょっと目を丸くする。


「カンナさん、裏庭で何を――って、本当に呼んだんですか」


「高木さん」と、カンナが振り返った。

「こちら、召喚で来ていただいたバルタザールさんです」


高木はひと呼吸だけ迷ってから、腹を決めたように頭を下げた。


「湯ノ花亭で番頭をしております、高木です。どうぞよろしくお願いします」


「どうも」と、バルタザールはやや不機嫌そうに返した。

「で、何の用件だ。」


カンナはこくりとうなずいたが、言い出しにくそうに少しためらった。


「あの……客室に置いた温泉まんじゅうが、朝になると消えてるんです」


沈黙が落ちた。


バルタザールは無言でカンナを見た。

カンナも真剣な顔で見返してくる。


「……今、饅頭って言ったか」と、バルタザール。


「言いました」と、カンナ。

「温泉まんじゅうです」


バルタザールは片手で顔を覆った。


「そんな理由で悪魔を呼んだのかよ!」


「で、でも宿としては大問題なんです!」と、カンナは思わず声を大きくした。

「お客さま用に置いたものがなくなるなんて、印象が悪いですし……」

「旅館として困るのはわかるが…」


そこで高木が、軽く咳払いをした。


「それだけではないのです」と、高木が言った。

「実は二階の客室、二〇三号だけなのですが、夜になると障子が勝手に揺れたり、湯がぶくぶく音を立てたりしまして」


バルタザールは声を上げた。


「そっちを先に言え!」


カンナがびくっと肩をすくめる。


「す、すみません……」


「最初は私たちも、配管か建てつけの問題だと思ったんです」と、高木が続けた。

「大工も呼びましたし、配管も見ました。ですが異常は見つからなくて」


「それに」と、カンナが言った。

「昨夜のお客さまが、『何か小さいものが走った気がする』って……」


バルタザールは腕を組んだ。


「なるほどな。配管でも建てつけでもない線は濃くなってきたか」


「これ以上続けば、宿としてかなりまずいです」と、高木。

「部屋にお客さまをお通ししづらくなりますので」


「なるほど」と、言いながらバルタザールは旅館を見上げた。

「二〇三号を見せろ。くだらない原因なら笑う。」


「優しくないですね」と、高木が言った。


「C案件に優しさを期待するな」


◇◇


二〇三号は二階のいちばん奥にあった。


廊下はよく磨かれていて、歩いてもほとんど音がしない。

障子越しの朝の光はやわらかく、旅館全体にきちんと手が入っていることがわかる。


高木が襖を開ける。


「こちらです」


室内は整っていた。

畳はきれいにそろい、座卓の上の茶器も片づいている。床の間には山茶花が一輪。

客がくつろぐには申し分ない、静かな和室だった。


だが、バルタザールは一歩踏み込んだところで足を止めた。


「……いるな」


カンナの肩が小さく跳ねる。


「ほ、本当に何かいるんですか」と、カンナが声をひそめた。


「何かわかるんですか」と、高木も息をのんだ。


バルタザールは答えず、部屋の空気をひとつ吸いこんだ。

湯気、畳、古い木の匂い。そこに甘い香りが混じっている。


「饅頭くさい」


「温泉旅館なので……」と、高木が言いかける。


「それにしても香りが強い」


バルタザールは座卓の下をのぞき、押し入れの前にしゃがみこんだ。

畳の隅から、小さな食べかすが転々と押入れまで落ちていた。押し入れの前には包み紙の切れ端。

人が座って食べ散らかしたというより、小さいものが少しずつ食べたような跡だった。


バルタザールは襖に手をかけた。


「下がってろ」


カンナと高木が、すぐに数歩下がる。

襖がすっと開いた。


「きゅうっ!」


赤茶けた影が勢いよく飛び出した。


丸い胴体。湯気みたいにふわふわした尻尾。豆粒みたいな翼。

そして前足には、しっかりと温泉まんじゅうが抱えられている。


「盗品持ってますね」と、高木が言う。


「怪異っていうか、つまみ食いの現行犯じゃねえか!」と、バルタザールが吐き捨てた。


小さな迷い魔は、きゅいっと鳴きながら畳の上を疾走した。

見た目は丸いのに、動きだけは異様に速い。座卓の脚をすり抜け、掛け軸の影へ潜り、障子の桟を器用によじ登って天井近くまで跳ね上がる。


「うわ、速っ」と、カンナが声を上げる。


「小型の迷い魔は逃げ足だけはいいんだよ」と、バルタザールは舌打ちした。

「見た目で油断するな」


迷い魔は天井板の隙間へ飛びこもうとした。

その直前、バルタザールの指先から紫の火花が走る。


ぱちん、と乾いた音。


部屋の四隅に小さな魔法陣が浮かび、薄い網のような結界が一気に張られた。

逃げ道を塞がれた迷い魔は、空中でくるりと向きを変える。

そのまま床の間へ急降下し、花瓶の横をかすめ、障子の裏へ回りこみ、押し入れへ戻ろうとして――


べちっ。


封鎖紋に真正面からぶつかり、情けない音を立てて張りついた。


「だ、大丈夫なんですか」と、カンナが思わず聞く。


バルタザールはそれを一瞥して、顔をしかめた。

「死んじゃいねえよ。」


だが次の瞬間、迷い魔は毛を逆立て、小さな翼をぶるりと震わせた。

床下の配管がぶくぶくと鳴り、障子がばたばたと揺れる。

湯けむりが生き物みたいに這い上がり、部屋の空気がむっと熱を帯びた。


「うわ……!」と、カンナが息をのむ。


「まだやるのかよ」と、バルタザールが低く言う。


彼の足元に、より大きな紫の魔法陣が広がった。

室内の空気が一気に引き締まり、暴れていた湯気がぴたりと押し返される。


「障子を揺らして饅頭を盗むのが精いっぱいの迷い魔が、こっちに張り合えると思うな」


バルタザールが片手を握る。

それに合わせて結界が縮み、迷い魔の体がふわりと宙へ持ち上がった。


「姿を見せた時点で負けなんだよ」


迷い魔は「きゅっ」と短く鳴き、今度こそ動きを止めた。


カンナは目を丸くしたまま、しばらくバルタザールを見ていた。

それから、思わずというふうに口を開く。


「……すごい…悪魔だ…」


「今まで何だと思ってた」と、バルタザールが即座に返す。


カンナが少しだけ気まずそうに目をそらした。

「……口上の長い人かと」


「印象が最悪だな、おい」


室内の熱はすうっと引いていった。

障子の揺れも、床下の異音も止まる。残ったのは、湯の匂いと甘い菓子の香り、それから結界の淡い紫の残光だけだった。


◇◇


捕らえられた小さな迷い魔は、宙吊りのまましょんぼりしていた。

それでも前足には饅頭を抱えこんでいるあたり、執着だけは本物らしい。


「それで……これは何なんですか」と、カンナが恐る恐る聞く。


「硫煙ネズミだ」と、バルタザールは答えた。

「硫黄臭い場所、あったかい場所、甘い匂いのする場所に寄ってくる低級の迷い魔だ。湯気と硫黄があって、客室に菓子まで置く旅館は、こいつらが寄りつく条件が揃いすぎてる。しかも居つかれると、夜中に物音を立てるわ、菓子はかじるわで、宿としてはたまったもんじゃねえ」


「それは……大迷惑ですね」と、高木が言う。


硫煙ネズミが、きゅい、と小さく鳴く。


「何て言ってるんですか」と、カンナが聞く。


「“ここ、あったかい”“いい匂いする”“饅頭ある”だな」と、バルタザールは面倒くさそうに通訳した。


「でも、それで客室に出られるのは困ります」と、カンナはきっぱり言った。


「追い払うだけでもいいが、こういうのは居心地のいい場所を覚えると戻ってくる」と、バルタザール。

「次はもっと上手く隠れるかもしれないしな」


カンナは少し考え込み、はっと顔を上げた。


「裏の捨て湯の近くならどうでしょう」


「捨て湯?」と、バルタザールが聞き返す。


「使い終わったお湯を流す石組みの向こうです。硫黄の匂いが強いし、人もほとんど来ません。客室からも離れています」


高木は腕を組み、少し考えてからうなずいた。


「たしかに、あそこなら困る人はいませんね」


「おまんじゅうの売り場からは遠いですけど」と、カンナは硫煙ネズミを見た。

「余った分を少し置くくらいならできます。毎日は無理でも、たまに」


硫煙ネズミの耳がぴんと立った。


「露骨だな」と、バルタザールが言う。


「交渉材料がわかりやすいのは助かります」と、高木が言った。


バルタザールはため息をつき、結界の中でもぞもぞしている硫煙ネズミを見下ろした。


「条件を言うぞ」と、彼は低く言った。

「二〇三号には二度と近づくな。客室で騒ぐな。饅頭は盗るな。どうしても居着きたいなら、裏の捨て湯のそばだけにしろ」


硫煙ネズミはひげをぴくぴくさせながら話を聞いている。


「その代わり、たまに甘いものがもらえる」と、バルタザールはぶっきらぼうに続けた。

「ただし余り物だ。客の分に手を出したら、今度はもっと強く封じる」


「きゅっ!」


硫煙ネズミは勢いよくうなずいた。


「高木、案内しろ。指定場所まで連れていく」

「わ、わかりました」


三人は裏庭のさらに奥、石段の先にある捨て湯の流れ場へ向かった。

山の朝の空気は冷たいが、石のあいだから立つ湯気があたりを白く包み、硫黄の匂いが濃く漂っている。客の姿もなく、旅館の喧騒から切り離されたような場所だった。


「ここならどうだ」と、バルタザールが言う。


硫煙ネズミは結界の中で鼻をひくつかせ、それから急に満足そうな顔になった。


「きゅう」


「気に入ったみたいですね」と、カンナが少し笑う。


「安上がりで助かる」と、バルタザールは言った。


彼は地面に指先で小さな円を描く。

紫の印が石の上に浮かび、すぐに薄く沈んだ。


「簡易の境界印だ」と、バルタザールが言う。

「ここを居場所と認める代わりに、旅館の客室側には入りにくくなる。完全じゃないが、何もしないよりはましだ」


「そんなことまでできるんですね」と、カンナが感心したように言う。


「簡易版だ。大したもんじゃねえ」


結界が解かれると、硫煙ネズミはぽすっと石の上に落ちた。

そのまま逃げるかと思いきや、くるりと振り返り、前足に抱えていた饅頭を地面に置く。


「返すのか?」と、高木が目をしばたたいた。


次の瞬間、硫煙ネズミはその饅頭をひと口だけかじってから置き直した。


「食いかけにするな!」と、バルタザールが即座に怒鳴る。


カンナが吹き出した。

高木もとうとうこらえきれず、肩を揺らす。


「最後まで食い意地は張ってるんですね」と、高木が苦笑した。


硫煙ネズミは「きゅっ」と鳴くと、捨て湯の湯けむりの向こうへぴょこんと飛び込み、白い霧の中へ消えた。


騒がしかった気配は、もうない。

残ったのは、流れる湯の音と山の静けさだけだった。


◇◇


その夜、二〇三号では何も起きなかった。


障子は揺れず、湯も静かで、置いてあった温泉まんじゅうは朝になっても一個も減っていない。

むしろ高木が「念のため」と言って数を二度確認したせいで、旅館の従業員のほうが落ち着かなかったくらいだった。


「……本当に収まりましたね」と、翌朝、カンナがほっと息をつく。


裏庭の縁台で、バルタザールは湯気の立つ茶を前に座っていた。

山の鳥の声が遠くから聞こえる。魔界の朝よりはるかにまともだ、と彼は思ったが、わざわざ口には出さなかった。


「おかげさまで苦情も止まりました」と、高木が頭を下げる。

「二〇三号に泊まられたお客さまも、昨夜はぐっすりだったそうです」


「ならよかった」と、バルタザールは言う。

「こっちも帰って報告書を書けば終わりだ」


「魔界も、ずいぶん事務的なんですね」と、カンナが苦笑した。


「仕事だからな」と、バルタザールは言う。


カンナがバルタザールの前に立派な木箱を置いた。

ふたを開ければ、中にはきれいに並んだ温泉まんじゅう。もちろん未開封だ。


「こちら、ささやかですがお礼です」と、カンナが言う。

「食べかけじゃないものを用意しました」


「そこは最重要事項だ」と、バルタザールは真顔でうなずいた。


「ずいぶん甘いものに厳格なんですね」と、高木。


「甘いものにだけは誠実なんだよ、こっちは」


カンナはくすりと笑ってから、少し真面目な顔になった。


「あの……最初は本当にどうしようかと思ってたんです。お客さまに迷惑はかけられないし、でも何が起きてるのかもわからないし」


「そういうときの外注だ」と、バルタザールはぶっきらぼうに言った。


「十分すぎるくらい助かりました」と、カンナは頭を下げた。

「ありがとうございました、バルタザールさん」


その礼は妙にまっすぐで、バルタザールは少しだけ視線をそらした。


「……礼はもう箱で受け取った」


「じゃあ、また何かあったら」と、カンナが言いかける。


「縁起でもないこと言うな」と、バルタザールは即答した。


カンナは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


「はい」


その返事と同時に、バルタザールの足元に紫の召喚陣が浮かび上がる。

契約終了による自動帰還だ。


「それじゃ」と、彼は木箱を抱え直す。

「もう客室で饅頭を消されるなよ」


「気をつけます」と、カンナが答える。


「裏の捨て湯のほうは、たまに様子を見ます」と、高木も言った。


「ほどほどにしておけ。ああいうのは構いすぎると図に乗る」


光が強まる。

湯けむりの向こうで、旅館の木の匂いが薄れていく。


「……でも」と、カンナが最後に言った。

「昨日より、悪魔ってちょっとだけ頼もしいんだなって思いました」


バルタザールは顔をしかめた。


「『ちょっとだけ』をつけるな」


その言って、彼の姿は紫の光の中へ消えた。


◇◇


魔界派遣公社・召喚対応第七支部に戻ると、事務室は相変わらず薄暗かった。

黒い空には赤い稲妻。溶岩の川はごぽごぽと眠そうに泡を立て、髑髏の街灯は朝と同じ顔で青白く光っている。何もかもいつも通りで、さっきまでいた温泉旅館の静けさが、むしろ夢みたいだった。


バルタザールは自席に戻るなり、木箱を机に置いた。

それを見たリリィが、書類から顔を上げる。


「報酬だ。」と、バルタザールは言う。


「前回よりだいぶ進歩したじゃない」と、リリィ。


「比較対象が終わってるんだよ」


リリィは小さく笑い、報告書の用紙を一枚差し出した。


「はい、今回の分書いて」

「現場から帰ってきたばっかなんだけど」と、バルタザールは顔をしかめた。

「だからよ。あとになるほど面倒くさくなるでしょ」

「それはそう」


バルタザールは渋々ペンを取り、報告書に書き込み始めた。


そのとき、またしても召喚警報ベルが鳴り響いた。


ジリリリリリリリッ!


「いや、早いだろ!」と、バルタザールが顔を上げる。


「今日は景気がいいわね」と、リリィが淡々と言う。


「こっちは全然よくないんだよ!」


壁の水晶板が淡く光り、機械的な女性の声が流れた。


『人間界より召喚要請。担当者、バルタザール。案件ランクC。過去召喚記録より一致反応なし。内容:たぶん簡単』


バルタザールはしばらく無言だった。

 それから机の上の温泉まんじゅうの箱を見て、水晶板を見て、最後にリリィを見た。


「……せめて一個食わせろ」


「口に入れる前に行ってきなさい」と、リリィが言う。


「悪魔にも労働基準法ってないのかよ」

「ここ魔界よ」

「知ってるよ!」


再び足元に広がる転移陣。

 バルタザールは未練たっぷりに木箱を見下ろし、それから観念したように冊子をわきに抱え直した。


「帰ったら絶対食う」


「その台詞、毎回不穏だからやめなさい」と、リリィ。


「縁起でもないこと言うな!」


光が弾け、バルタザールの姿はまた人間界へ消えていった。


机の上には、書きかけの報告書と未開封の温泉まんじゅうだけが残る。

リリィはそれを見て、ひとつ肩をすくめた。


「……まあ、次もだいたいろくでもないんでしょうね」


壁の水晶板には、冷たく無慈悲にこう表示されたままだった。


内容:たぶん簡単

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