第1話 召喚先、だいたいロクでもない
魔界の夜は、人間界ほど静かではない。
溶岩の川はごぽごぽと泡を噴き、黒い空には赤い稲妻が細く走る。
髑髏をかたどった街灯が青白く光り、その下を、くたびれた悪魔たちがぞろぞろと歩いていた。
翼はしおれ、尻尾はだらりと垂れ、顔つきはどいつもこいつも仕事帰りのそれである。
そんな街の一角に、魔界派遣公社・召喚対応第七支部はあった。
外壁には、妙に感じのいい看板が掲げられている。
『人間界からの召喚、迅速・誠実に対応します』
「誠実に対応しても、向こうが誠実とは限らないんだよなあ……」
窓口の奥でそうぼやいたのは、下級悪魔のバルタザールだった。
肩までの黒髪は寝ぐせで跳ね、片方の角には「安全第一」と書かれた黄色い札がぶら下がっている。
禍々しい見た目のはずなのに、漂わせている空気は完全に疲れた会社員だ。
机の上には、書類の山が積まれていた。
召喚申請対応報告書
召喚先で無茶振りされた場合の確認フロー
勇者パーティーへの過剰サービス禁止
「昨日なんかさ」と、バルタザールは書類の山に突っ伏したまま言った。
「『世界征服したいので手伝ってください』って召喚されて、行ってみたら小学生だったんだぞ」
向かいの席で笑ったのは、同僚のサキュバス、リリィだった。
つややかな巻き髪に長い爪、しかし鼻先には丸眼鏡。
「それは断ったの?」と、リリィが聞く。
「断ったよ」と、バルタザールは顔を上げた。
「そしたら泣かれた」 「最悪じゃん」と、リリィはけろりと言った。
そのときだった。
支部の天井に埋め込まれた召喚警報ベルが、けたたましく鳴り響いた。
ジリリリリリリリッ!
「うわっ、来た!」と、バルタザールが跳ね起きる。
「深夜二時十三分。最悪の時間帯ね」と、リリィ。
「絶対ろくでもない…」
壁の水晶板が淡く光り、機械的な女性の声が流れた。
『人間界より召喚要請。担当者、バルタザール。案件ランクC。過去召喚記録より一致反応なし。内容:たぶん簡単』
「『たぶん簡単』がいちばん信用できないんだよ!」と、バルタザールは即座に叫んだ。
彼が立ち上がると、床に展開された転移陣が紫色に発光し、ぬめりのある魔力が靴底にまとわりつく。
リリィは慣れた手つきで分厚い冊子を差し出した。
「はい、現地対応マニュアル」
「厚い!」
「クレーム防止用」
「もっと嫌だ!」
転移の光が足元からせり上がる。バルタザールは肩を落とし、ぼそりとぼやいた。
「……せめて、まともな召喚者でありますように」
次の瞬間、彼の姿は光に呑まれた。
「その願い、毎回かなってないけどね」
リリィの声だけが、空しく支部に残った。
◇◇
視界が白く弾けた。
ぐらり、と内臓が持ち上がるような不快感。耳鳴り。喉の奥に鉄の味。
転移酔いに顔をしかめながら、バルタザールは人間界へ降り立った。
――そして、固まった。
「……狭っ」
目の前にあったのは、六畳一間のボロアパートだった。
床にはコンビニの弁当容器。壁紙は半分はがれ、窓際には干しかけて忘れられた靴下。
問題の召喚陣は、その部屋のど真ん中に蛍光チョークで描かれている。
円は微妙にゆがみ、五芒星の一本にいたっては途中で消えかけていた。
その雑すぎる召喚陣を見た瞬間、バルタザールは思わず叫んだ。
「いや雑! 召喚陣の精度って命に関わるんだぞ、こっちは!」
その召喚陣の向こうに、召喚者がいた。
ぼさぼさ頭、よれよれのシャツ、目の下には深い隈。年齢は二十代半ばくらい。
片手に古びた魔導書、もう片手にエナジードリンク。いかにも限界寸前、という顔である。
青年は、心底疲れ切った目でバルタザールを見つめた。
「……来た」と、青年が言う。
「来た、じゃないんだよ。呼んだのそっちだろ」と、バルタザールは即座に突っ込んだ。
バルタザールは胸を張った。悪魔として威厳を示す、大事な場面だ。
「我が名はバルタザール! 深淵の焔を統べ、絶望の帳をまとい、千の契約を――」
「じゃあ、ゴミ出し手伝ってもらっていいですか」と、青年が言った。
「は?」
沈黙。
アパートの外で、遠く犬が一回だけ吠えた。
バルタザールは眉間を押さえながら、確認するように聞き返した。
「……今、なんて?」
「ゴミ出しです」と、青年は真顔で答えた。
「いや待て」と、バルタザールは手を上げた。
「世界滅亡とか、王国転覆とか、不老不死とか、そういうのは?」
「ないです」
「復讐は?」
「面倒なので」
「禁断の秘術は?」
「眠いので」
「じゃあなんで悪魔呼んだの!?」
青年は真顔のまま、口元だけをぴくりと動かした。
「明日の朝、燃えるゴミの日なんです」
「知らんがな!」
青年――ユウマは、泣きそうな顔で訴えた。
「三徹でソシャゲのイベント走ってて……もう限界で……でもゴミを出さないと部屋が終わるし……友達いないし……」
「召喚の使い方として終わってるのはお前だよ!」と、バルタザールは頭を抱えた。
抱えた拍子に角が壁にぶつかり、ごつんと鈍い音がした。
「痛っ」と、バルタザールが顔をしかめる。
「大丈夫ですか」と、ユウマが聞く。
「誰のせいだと思ってる!」
だがユウマは、本当に切羽詰まっているらしかった。床に膝をつき、魔導書を抱えたまま頭を下げる。
「お願いします……対価なら払います……」
「へえ」と、バルタザールは腕を組んだ。
「で、何を差し出すわけ?」
「冷蔵庫のプリン」
「軽いな!」
即答したものの、その瞬間、バルタザールの耳がぴくりと動いた。
「……ちなみに、どこの」
「高いやつです」
「くっ」
悪魔は、甘味に弱い。
◇◇
「いいか、人間」と、バルタザールは厳かに言い始めた。
「悪魔との契約というのは本来、魂や寿命や野望を秤にかける神聖な――」
「可燃二袋、不燃一袋です」と、ユウマが言った。
「業務連絡みたいに言うな」
結局、バルタザールは黒いマントの裾をたくし上げ、台所へ向かった。
生ごみの臭いがむわっと鼻を刺す。魔界の瘴気に慣れた悪魔ですら「うっ」となるレベルだ。
シンクには食器が積み上がり、正体不明の汁がぬらりと流れている。
「なんだこれ」と、バルタザールが顔をしかめる。
「たぶんカレーです」と、ユウマ。
「“たぶん”の状態で放置するな!」
バルタザールは翼をばさりと開き、口元に袖を当てた。
「お前、どうしてここまで追い込まれてるのに、召喚陣だけは描けたんだよ」
「ネットで見ました」
「ネットに何が載ってるんだよ最近!」
ユウマはゴミ袋を差し出しながら、少しだけ誇らしげに言った。
「“初心者でもできる悪魔召喚・一人暮らし編”って」
「世も末だな!?」
バルタザールは半目で袋を受け取った。ずしりと重い。
「うわ、なんか液体垂れてる!」
「気をつけてください」
「気をつけるのはお前の生活だよ!」
ドアを開けると、廊下に冷たい夜気が流れ込んだ。
月明かりが安アパートの薄い壁に青白くにじみ、どこかの部屋から小さな笑い声が漏れてくる。
バルタザールはゴミ袋を抱えたまま、階段を下りた。
「はあ……俺、魔界じゃ“災厄の黒翼”って呼ばれてるんだけどな……」
「今は“ゴミ出しの黒翼”ですね」と、後ろからユウマが言う。
「うまいこと言ったみたいな顔するな!」
外のゴミ捨て場に袋を放り込んだ、その瞬間だった。
中から缶が一本、ころりと転がり落ちた。
カラン、ころころ。
「分別ーーーっ!!」と、バルタザールの絶叫が夜の住宅街に響き渡った。
彼は血走った目で振り返る。
「ユウマァァァ!! 缶は資源ごみ!」
「えっ」と、ユウマが目を瞬く。
「えっ、じゃない! 常識!」
「魔界にもあるんですか、分別」
「あるよ! 地獄の方がコンプラ厳しいわ!」
結局、缶を拾い、ペットボトルを分け、紙ごみを縛り直し、バルタザールは一通りの作業を終えた。
両手はべたつき、プライドはずたずたである。
部屋に戻ると、ユウマがこたつの前でふらふらしながら待っていた。
「ありがとうございました……これ、対価です」
ユウマが差し出したのは、小さなガラス容器に入ったプリンだった。
表面はつやつやと黄金色に光り、底のカラメルは深く艶めいている。
バルタザールはごくりと喉を鳴らした。
「……本当に高いやつだ」
「駅前でたまに買うやつです」
「お前、いいもん食ってるな……」
スプーンをひと口入れる。
とろり、とろける。
卵の濃い香りが舌の上でふわりとほどけ、カラメルのほろ苦さが上品に追いかけてくる。
「うま……」と、バルタザールは目を見開いた。
「でしょう」と、ユウマは少し誇らしげにうなずく。
「うま……」
「それで、契約成立ですか」
「プリンで成立する契約、前代未聞だよ」
◇◇
こたつの熱で、部屋はぬるくあたたかかった。
さっきまでただの地獄みたいだった室内が、ゴミがなくなっただけで、少しだけ“人の住処”に見える。
空き缶の山は消え、床が見え、シンクの悲鳴もいくらか弱まっていた。
ユウマはその場にへたり込み、ぼそりとつぶやいた。
「助かりました」
「……まあ、今回は特別だ」と、バルタザールはそっぽを向いて言う。
「悪魔って、もっと怖いと思ってました」
「怖いよ本来は!」と、バルタザールは即座に言い返した。
「威厳あるし、禍々しいし、契約には重みがあるし!」
「でもプリンで動いてましたよね」
「そこだけ切り取るな!」
ユウマは、くたびれた笑いを漏らした。
「なんか、ちょっと元気出ました」
「は?」
「誰かに怒られると、逆に目が覚めるというか……」
「それでいいのかお前の人生」
バルタザールは腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。
「いいか、人間。召喚ってのはもっとこう、覚悟を持ってやるものだ」
「はい」と、ユウマは素直にうなずく。
「次に呼ぶなら、せめてちゃんと部屋を片づけてから呼べ」
「次も来てくれる前提なんですか」
「来るか!」
そう言い切った瞬間、ユウマの腹がぐう、と鳴った。
しばし沈黙。
バルタザールは怪訝そうに聞いた。
「……飯、食ってないのか」
「カップ麺ならあります」
「それは飯じゃなくて延命措置だろ」
バルタザールは額を押さえた。なんで自分がここまで面倒を見ているのか、まるでわからない。
悪魔としての誇りが泣いている。たぶん。
だが、口から出たのはこんな言葉だった。
「卵はあるか」
「あります」と、ユウマ。
「ネギは」
「少し」
「鍋出せ」
「えっ」
「月見うどんくらいなら作ってやる!」
ユウマが目を丸くする。
「悪魔なのに?」
「うるさい! 魔界でも当番制で炊き出しくらいするわ!」
台所に立ったバルタザールは、慣れた手つきで湯を沸かした。黒い爪で器用に卵を割り、だしの香りが部屋いっぱいに広がる。
白いやわらかな湯気が立ちのぼり、荒みきった空気を少しだけ洗っていく。
こたつからその様子を見つめていたユウマが、ぽつりとつぶやく。
「なんか……お母さんみたいですね」
「帰るぞコラ」と、バルタザールは即答した。
◇◇
食後、ユウマはこたつに突っ伏し、そのまま寝落ちした。
寝息は静かで、顔つきは召喚したときよりずっと穏やかだった。
魔導書は床に落ち、ページがぱらりと開いている。
バルタザールはそれを拾い上げ、表紙を見た。
『はじめての悪魔召喚 暮らしに役立つ実践術』
「禁書の方向性がおかしいだろ……」
窓の外では、東の空がわずかに白み始めていた。
朝が来る。そろそろ帰還の時間だ。
バルタザールは眠っているユウマを見下ろした。こたつ布団から出た手は少し赤く、爪の間にはまだインクが残っている。
どうしようもなく冴えない人間だ。野望も覇気もない。なのに、妙に放っておけない。
「……次は、ちゃんと人間に頼れよ」
もちろん返事はない。
バルタザールは小さくため息をつき、指先で空中に魔法陣を描いた。淡い紫の光が部屋の隅に走り、紙切れが一枚ふわりと現れる。
それは生活改善メモだった。
・水は飲め
・寝ろ
・ゴミはためるな
・召喚は最終手段
「よし」
満足げにうなずき、転移の光を呼び起こす。
その瞬間、ユウマが薄目を開け、寝ぼけた声で言った。
「……また困ったら呼んでいいですか」
「ダメに決まってるだろ」と、バルタザールは即答する。
「プリンあります」
「…………」
「二個」
「くっ」
バルタザールは顔をしかめ、マントを翻した。
「そのときは! 召喚陣を! ちゃんと描け!!」
「はい……」
紫の光が弾け、悪魔の姿は消える。
残された部屋には、だしの香りと、少し片づいた朝の気配だけが漂っていた。
◇◇
魔界派遣公社・召喚対応第七支部。
転移陣から戻ってきたバルタザールを見て、リリィが顔を上げた。
「おかえり。どうだった?」
「聞くな」と、バルタザールは椅子に崩れ落ちるように座った。
「世界征服系?」
「ゴミ出し」
「……は?」
「ゴミ出し」
「そんなことある?」
バルタザールは魂が抜けたような顔で、リリィが差し出した報告書を見つめる。
記入欄にはこうある。
召喚者の願望:
契約内容:
特記事項:
「なんて書くんだよ、これ……」
震える手で羽ペンを取り、彼は書き込んだ。
召喚者の願望:生活の立て直し(たぶん)
契約内容:可燃ごみ二袋、不燃ごみ一袋、月見うどん一食
特記事項:プリンはうまかった
それをのぞき込んだリリィが、ついに吹き出す。
「なにそれ、傑作」
「笑うな……」
「で、もう会わないの?」
「会うか」
「でも顔が『また行くかもしれない』って言ってる」
「言ってない!」
そのとき、支部の召喚警報ベルが再び鳴り響いた。
ジリリリリリリリッ!
バルタザールはびくっと肩を跳ねさせる。水晶板が淡く光り、機械音声が流れた。
『人間界より召喚要請。担当者、バルタザール。案件ランクC。過去召喚記録より一致反応を検出。召喚者名、佐伯ユウマ。内容:たぶん簡単』
「またお前かよォ!!」と、バルタザールは机を叩いた。
リリィが腹を抱えて笑う。
「ほら、やっぱり同じ子じゃない」
「早すぎるだろ! 今帰ってきたばっかりだぞ!」
「プリン二個で味をしめたんじゃない?」
「最悪の学習能力だな!」
バルタザールは立ち上がった。文句は言っている。だが、転移陣へ向かう足取りは、ほんの少しだけ前回より軽い。
「……今度はせめて、風呂掃除くらいで済みますように」
魔界の朝焼けの中、下級悪魔バルタザールは、今日もまた不本意な召喚先へと消えていった。
初めて小説を書きます。
拙いところもあると思いますが、よろしくお願いします。




