23話 月
私はお祭りにはいかなかった。
上機嫌で出て行った兄がいない間に、やるべきことがあったから。
いつもよりゆっくりと風呂に入った後、スマホに届いたメッセージを見て、ほっと溜息をつく。
『いいよー。いつでもおいで』
私は、しばらく友達の家に留まらせてもらう事にした。
これ以上あの状態の兄とこの家に居たら……いつか、大きな間違いが起きてしまいそうで。
『ありがと。本当に助かる。早ければ明日にでもお願いするかも』
——何となく、分かっていた。
この前の恋愛相談から、一人でブツブツと呟いていた『花火大会』『キス』という言葉。
十中八九、無理だと思う。
……ううん、断言しても良い。無理だ。
ただ、その現実を兄が突き付けられた時……一体どうなってしまうのか。
今から……怖い。
* * *
兄が返ってきた。
いつもと違ってとても静かで、ゆっくりと階段を登ってくる音が聞こえる。
ギシリギシリと廊下の床が軋む音。
(お願いだから、立ち止まらないで)
そんな願いが通じたのか、兄はまっすぐ部屋へと入っていったみたいだ。
ほっと息をついて、荷造りの手を再開する。
(……きっと、長い家出になるよね。着替えや下着も多めに持っていこう……)
音を立てないように、気配を消しながらスーツケースに荷物を詰めていく。
大体考え付く物を入れ終わり、兄に勘付かれないようにクローゼットへと荷物を隠した時だった。
「ああああああああああッ!!!! あああああああああああああああッッッッ!!!!!」
「ッ……」
隣の部屋から微かに聞こえて来ていた兄の嗚咽が、絶叫に変わった。
続けて何かを滅茶苦茶に殴りつけるような音と振動が、壁伝いに聞こえて来る。
(やば……。やっぱり駄目だったんだ。……まぁ、当たり前だけど)
聞くに堪えない叫び声を無視するようにイヤホンで耳を塞ぐ。
お気に入りの歌手の曲を流しながら、ベッドに横になった。
「……あははは。あはははははははははっ!!!!」
……ベッドは兄の部屋と面する壁に置いてある事もあって、イヤホンを貫通して狂ったような笑い声が聞こえる。
無言で音量を上げる。
「どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてえええええええええっ!!!!」
「……うるさ」
寝返りを打ち、少しでも距離を取るようにして音量を最大にする。
ただ、鼓膜を刺激する音楽は不思議と頭に入ってこない。
一緒に口ずさむくらいには好きで、不機嫌な時でもこの曲を聞けば収まるのに、ずっと兄の慟哭が響いている気がして――。
「はぁ……」
若干、兄が哀れに感じていた。
もちろん勝手に勘違いして、病的なまでに思い込んで、勝手に振られて悲しんでいる。
動画の同級生の人にも、奈々さんって人にも迷惑をかけている。
本当なら私もあの人達に頭を下げなきゃいけないんだと思う。
でも……当の本人があれじゃあ……どうにもならない。
慰める気もない。今の兄なら……。
考えるだけでも背筋が冷えてしまう。
風呂上りに遭遇した時の視線。
勝手に部屋に踏み込んできた時の視線。
家族に向けるものじゃない……もっと邪な危険な視線。
今奈々さんという幻想を失った兄は……もしかしたら、私に……。
「……っ」
そこまで考えて、無理やり思考を止めた。
あり得ない。
そんなの、あり得るわけがない。
——そう、思いたいだけだ。
イヤホンからは大音量で音楽が流れているはずなのに……何も聞こえない。
壁の向こうから、まだ音がする。
何かを引きずる音。
何かを叩く音。
そして——笑い声。
ぞわり、と背筋が粟立つ。
「……無理」
小さく呟いて、体を丸める。
ここに、いたくない。
本能みたいなものが、ずっと警告している。
——逃げろって。
『ごめん、やっぱり今夜からお願い』
友達にメッセージを送り、ゆっくりと起き上がる。
音を立てないように、慎重に。
クローゼットを開けて、隠していたスーツケースを引き出す。
キャスターが床を擦る音が、やけに大きく感じた。
(……今なら)
静かにドアへ向かい、廊下に出る。
家の中は、異様なくらい静かだった。
さっきまでの音が嘘みたいに。
その静けさが、余計に怖い。
音を立てないようにゆっくりゆっくりと階段を降りて、玄関のドアを前にして一度だけ振り返る。
階段の上。
重苦しい空気が漂っている気がする。
「……っ」
もう振り返らない。
そのままドアを開けると、爽やかな夏の夜の空気が流れ込んできた。
さっきまでいた場所と、同じ世界とは思えなかった。
スーツケースを引いて、歩き出す。
振り返らない。
絶対に、振り返らない。
(……もう、戻らない)
心の中で、そう決めた。
その背後で。
——カチャ。
小さな音が、確かに聞こえた。
鍵の開く音。
足が、止まりそうになる。
でも——止めない。
止まったら、終わる気がした。
ゆっくりと、一歩。
また一歩。
振り返らない。
絶対に、振り返らない。
背中に、視線を感じた気がした。
それでも私は——歩みを止めなかった。




