「プロローグ」
二度の縁談で、相手国が滅ばなかったことが一度もない。
その原因と噂されている第四王女アシュリー・ド・メネスは、現在――王城の地下牢で静かに暮らしている。
――本人に言わせれば、「とても快適」らしいが。
メネス王国の王城、その中枢から垂直に切り取られたような地下深く。
陽光の欠片すら届かぬ『地下牢獄・第四層』。そこは、かつて王国を揺るがした大逆罪人や、正気を失った狂人たちが最期を迎えるために用意された、生ける屍の安息所であった。
石造りの壁面は絶えず冷たい湿り気を帯び、耳を澄ませば、どこか遠くで地下水が滴る微かな音だけが、時を刻む時計の代わりを務めている。
唯一、外界との繋がりを示すのは、天井の隅に穿たれた、針の穴ほどに小さな換気口だ。そこからは、地上の熱気を含んだ「光」が、埃の舞う細い筋となって、申し訳程度に影を照らしている。
世間は、この場所に幽閉されている王女のことを、畏怖と憐憫を込めてこう囁き合っていた。
「二度も政略結婚に失敗した王女」、「嫁ぎ先を灰にして戻ってきた第四王女」と。
だが、その冷徹な静寂のただ中で。
第四王女、アシュリー・ド・メネスは、特注の黒い寝椅子に深く身を沈め、至福の溜息を漏らしていた。
「……ああ、快適ですわ。この静寂。この冷気。実家はやはり、私に一番優しい場所ですこと」
彼女の肌は、数年も太陽を忘れたかのように白い。時折、細い肩を震わせて漏れる咳は、喉の奥に何かが詰まっているかのように苦しげだ。他人の目には、今にも命の灯が消えそうな、不治の病を抱えた薄幸の王女に見えるだろう。
「お嬢様、本日の『お飲み物』でございます」
「……ありがとう、サリー。やっぱりここの温度が、一番落ち着くわね」
侍女のサリーが捧げた銀杯には、地上の人間が口にするものとは一線を画す、独特の芳香を放つ液体が満たされている。
アシュリーはそれをゆっくりと口に含み、影の中に溶け込むように目を閉じる。
カツン、カツンと。
静寂を切り裂く、迷いのない、そして圧倒的な威圧感を伴った足音が、石造りの廊下に響き渡った。
鉄格子の向こう側に現れたのは、現国王ガドフリー。大陸最強の武闘派国家を力で束ね、戦場では数多の英雄を屠ってきた、真の強者だ。
「……アシュリー」
「陛下。……わざわざこのような場所まで、何用でしょうか」
アシュリーは、義務を果たす王女の顔を作り、ゆっくりと立ち上がった。その足取りはおぼつかなく、今にも膝から崩れ落ちそうだ。
「三度目の縁談が決まった。……魔法大国エシャンだ」
ガドフリーの言葉に、アシュリーは静かに目を伏せた。
三度目。もはや世間では「曰く付きの王女」とすら呼ばれている自分に、まだ使い道があるのかという驚きが、僅かに胸を掠める。
「エシャン。……聞き及んでおります。豊かな魔力を誇る、誇り高き魔法の国だと」
「ああ。一昨年に第一姉(長女)が北方の公国へ、昨年には第二姉と第三姉がそれぞれ東の強国へ嫁いだ。……今、このメネスに残り、王女としての責務を果たせるのは、お前しかいない」
ガドフリーの声は、宣告に近い。
他のお姉様方は、すでにそれぞれの領地や国家の礎として出荷された後だ。実力至上主義のメネスにおいて、利用価値のない王女に居場所はない。
「……陛下の命とあらば。王女としての役割を果たすために、私は行かねばなりませんものね」
その言葉は、運命を諦めた者のように力なく、だが静かに響いた。
ガドフリーは娘の答えに満足したのか、それとも三度目の正直を願う事務的な思いからか、短く鼻を鳴らした。
「いいか、アシュリー。今度こそ、もし帰ってくるのなら、ただ行って帰ってくるだけにしろ。お前が行く先々で国が消えれば、私の事務作業が増えてかなわんのだ。……頭の痛いことはするな」
娘を恐れるのではなく、増える領土と戦後処理の煩雑さを嫌う。それがこの国の王の、そして父のスタンスだった。
「善処いたしますわ、陛下」
アシュリーは優雅に、そして儚げに一礼し、闇の奥へと消えていった。
それからわずか7日後。
地下牢獄から引きずり出されたアシュリーを待っていたのは、数ヶ月ぶりに浴びる地上の空気と、見送りの列だった。
城の正門前には、漆黒の馬車が鎮座している。
そこで待っていたのは、アシュリーの弟であり、――第三王子エレベルであった。
「姉上。ようやく、その湿っぽいお部屋から出ていらしたのですね」
エレベルは、抜けるような美貌に爽やかな笑みを浮かべていた。だが、その足元には、たった今彼に始末されたばかりであろう暗殺者の残骸が転がっている。周囲の兵士たちは、それを道端の石ころでも見るかのような無関心さでやり過ごしていた。
「……三度目のお嫁入り、本当におめでとうございます、アシェリー姉様」
エレベルは、姉の手を恭しく取った。その仕草は貴族的な礼節に満ちているが、彼が発する魔圧は、周囲の空気を物理的に歪ませるほどに鋭い。
「ありがとう、エレベル。……今度は、静かに魔法を楽しめるスローライフが送れるといいのだけれど」
「ええ。エシャンに行ったら、手紙は毎日くださいね」
エレベルは、姉の頬に触れんばかりの距離で囁いた。その瞳には、監獄にいた姉を敬うような、それでいて異常な執着を孕んだ過保護が渦巻いている。
「アシェリー姉様から手紙が来なければ、僕は『何かあった』とみなします。エシャンは魔法大国……こちらとは色々勝手が違うでしょう。不便があれば、どんな小さなことでも手紙で知らせてください。――不便、というのは、つまり『誰かが姉様を不快にさせた』という意味も含めて、ですよ?」
その言葉の裏にある『何かあれば、僕がその国を地図から掃除しに行く』という意図を、アシュリーは正確に読み取った。
監獄にいた姉に対して、これほどまでの過保護。世間から見れば、それは狂気じみた矛盾に映るだろう。だが、この修羅の国において、アシュリーという存在は、エレベルにとって決して他人に傷つけさせてはならない『至宝』でもあったのだ。
「心配いらないわ。仲良くやってみるわね。……魔法、見せてもらえるといいのだけれど」
アシュリーは親しみやすい、そして弱々しい笑顔を返し、馬車の闇の中へと身を隠した。
扉が閉まり、外界の光が遮断される。
「エシャン……魔法の国。魔法って私にも使えるのかしら。楽しみだわ」
アシュリーは魔法大国に思いを馳せながら、揺れ始めた馬車の中で静かに瞳を閉じた。
彼女が求めているのは、魔法へのささやかな知的好奇心と、誰にも邪魔されない平穏な居場所。
――そのささやかな願いが、わずか一週間後にエシャン国王の悲鳴と共に打ち砕かれることなど、この時の彼女はまだ、知る由もなかったのである。
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