8.涙雨と救出編 壁越え
「……そう言えば、名前、聞いてなかった」
「え……? えっと……スノウ、です」
少女はどうして今、名前を聞くのかと驚いた表情をした。
癒しの力を確認するという目的が達成され、思わず考え無しに言葉を発してしまった。今起きた出来事を考えれば、驚いて見せるのが正解だった。セフィライズは咄嗟に後悔する。
「そうか、スノウ。……ありがとう、スノウ」
セフィライズはまっすぐにスノウを見つめた。だがすぐに、彼女が何かに戸惑っているのがわかった。魔術を使ったというのに、体内のマナが減らなかった事に気が付いたのだろう。
この世界ではマナが著しく薄くなっており、魔術を行使する際には術者自身の体内のマナを消費する。そのため、術の使用後には体の奥から何か大切なものが抜け落ちたような、奇妙な疲労感が残るのが常だった。
だが、今のスノウはそれを感じていないはずだ。それは、セフィライズが白き大地の民という特殊な存在であるが故。
「……行こうか。君をコンゴッソまで送り届けないと行けない」
スノウの気を逸らさなければ。白き大地の民としての特徴に気が付かれては困る。しかし、セフィライズの発言に、スノウが絶望したのが手に取るようにわかった。
セフィライズはスノウに背を向け、黙って歩き出した。しばらくの沈黙のあと、スノウもそのあとを追う。二人はごつごつした石の、道とは言えない道を進む。雨が集まって流れを作り、川に向かっていく跡を追った。
「足元、気をつけて」
セフィライズはときおりスノウに手を差し伸べ、道を進むのを助けた。スノウは戸惑いながらも、かすかに頷き、その手を取る。
雨音のほかに、別の響きが混じり始めていた。地の底から鳴るような、低く重い音。やがてそれは確かなうねりとなり、木々の隙間から姿を現す。濁った茶色の川。激しく渦を巻き、荒れ狂う水の帯だった。
二人は流れに呑まれぬよう、川岸から離れながら下流へと沿うようにして慎重に歩を進める。
空は果てしなく灰色に沈み、昼と夜の境さえ見失わせる。ただ、しとしとと落ちる雨の音だけが、世界をひとつに覆っていた。
スノウの体はずぶ濡れのままで、酷く悪寒を感じ始めているようだった。
「少し雨が弱くなってきた、もうすぐ着くから……それか、背に乗せて行こうか?」
「え、えっ? そ、それは、それはちょっと……」
スノウが慌てて身を動かすのを見て、セフィライズは胸の奥でひそかに息をついた。まだ大丈夫そうだ。
ややがて視界の先、黒々とした木々の隙間から光が滲み出した。青白く澄んでいるのに、その奥には複数の色が揺らめきながら混じり合っているような、穏やかな光。それは、コンゴッソへと抜ける壁だった。
スノウは立ち止まると、ためらいもなくその光へ手を伸ばした。刹那、セフィライズは思わず声を荒げ、彼女を制する。
「触るな、絶対に」
この壁に触れれば、もう戻ってこられない。触れてしまったその瞬間、その人はまるで最初からいなかったかのように消えてしまうのだ。そんなことは、この世界に生きる者なら誰もが知っているはずだった。少なくとも、セフィライズはそう思っていた。けれどスノウは、ごく自然に、その光へ手を伸ばそうとしたのだ。
スノウは小さく「ごめんなさい」とつぶやいて、そっと彼の背後へ移動する。その彼女をちらりと見て思った。壁を、知らないのかもしれない、と。
「この先ですか?」
スノウは壁に向かって指を差す。セフィライズは、返事をしないまま黙って壁を見つめた。
この壁に穴を開けて、向こうへ行く。たったそれだけのこと。けれどセフィライズは迷っていた。
壁に一人で穴を開けられる人間はかなり珍しい。高位の魔導人工物か、マナを補填する供物か、生贄か。普通は多くの魔術師で開けるものだ。
しかし、白き大地の民である彼には出来る。
「スノウ、目を閉じていてくれないか。手を引くから、ついてきて欲しい」
そう言うと、スノウは黙って指示に従ってくれた。差し出された彼女の手をすぐに掴もうかと思ったが、しかし。
スノウは、本当なら誰にも見せたくないはずの治癒術を使って、セフィライズの傷を癒してくれた。
あの時、ひとりで逃げることだってできたのに、彼女はそうしなかった。それに、スノウの目にはきっと、セフィライズもまた、あの尊厳を踏みにじってきた者達のひとりに見えているはずだというのに。
それでも彼女は、まるで迷いも恐れもないかのように、まっすぐ立って目を閉じている。
「いや……いい」
しばらく悩んだのち、セフィライズは言葉を発した。スノウの碧色の瞳が、再び彼を見る。真っすぐで、透き通った、強い灯を宿した色。
セフィライズは静かに壁へと向き直り、手をかざした。
「我ら、世界を創造せし魔術の神イシズに祈りを捧げ、我の前に立ち塞がりし残痕を払う力を我に」
彼の言葉で、マナが可視化され集まってくる。体に存在するマナだけではなく、周辺の大地のマナまでもが集るような輝きの流れだ。
セフィライズの黒髪が、夜明けの黎金でゆっくりと銀色に輝いていく。あの時、スノウが見間違えた、月のように深くて美しい銀色の瞳のように。
「今この時、我こそが世界の中心なり!」
セフィライズが腕を高く振り上げると、壁に小さな穴がゆっくりと開いた。その穴は、人が通れるくらいの大きさで、中は眩しくてよく見えなかった。
表情を変えずに、セフィライズは静かに前へ歩み出す。手を高く突き出して、穴を持ち上げるようにして間に立った。
「壁に当たらないように、通って」
「は、はいっ!」
スノウが走り抜けるのを確認し、セフィライズもまた壁の穴を通った。それを閉じるように手を地面まで下げる。
壁を越え、世界が一変した。先ほどまで小降りといえど、雨だった。鬱蒼と茂る木々の先は黒。空は泥の混じった地面より少しは明るさを感じる灰色、寒さすら感じていたというのに。そこには澄み渡った夕焼け空、乾いた黄土色の大地と痩せた木々に土煙、その間を割るようにして流れる大人しい川があった。
コンゴッソの大地に来たのだ。
セフィライズはおそらく、スノウが驚いているだろうと思った。
何を聞いてくるだろうか。きっとあまり答えたくない質問だ。何を聞かれてもうまく誤魔化さないといけない。そう思いながら振り返ると、碧色の澄んだ瞳が真っ直ぐセフィライズを見ていた。
「お名前を、聞いても。いいですか?」
芯の通った声だった。
淀みのない、しっかりとした強い色を秘めた瞳。
事情を知っているセフィライズと、何も知らない彼女。
もっと聞きたい事があるはずなのだ。もっと、疑っても、怪しんでも、憎んでも、恨んでもいいはずなのに。今まで出会ったどんな人間とも違う。
スノウは、最初の言葉にこれを選んだのだ。
驚きと、戸惑いと、そして小さな興味が沸いた。彼にとってそれは、初めての感覚かもしれない。
セフィライズは驚いて目を丸くし、そして次の瞬間。
今まで他人に見せたことのない、ふんわりと優しい、自然な笑顔をスノウへ向けていた。