13.城内での日々編 お酒
久々に兄弟喧嘩なんてしてしまった。シセルズは別れた後、後悔にさいなまれていた。下を向いてただまっすぐ自室に戻り、むしゃくしゃしながらベッドに飛び込む。
まだ日は高いのに、さっきの喧嘩でものすごく疲れた。胸の奥がずっと重くて、息が浅い。自身の手を見て、殴ってしまった感覚を思い出す。
――あいつの顔に一発入れるとか、いつぶりだろ……
子供の頃に、一度だけやった気がする。小さかったあいつを平手で殴り飛ばしたら、体ごとぶっ飛んで、「やべぇ」と青ざめたことを思い出す。
あの時も、今日も。結局、何も変わっていない。
「あーーー……俺、何やってんだろ……」
天井を見上げて、シセルズは深く息を吐いた。
気がついたら部屋は真っ暗になっていた。シセルズは後悔を抱えたまま、ベッドの上で眠ってしまったらしい。起き上がり、机の上のランプ型の魔導人工物に光を灯す。暗い部屋に、ほんのり柔らかいあかりが広がった。
せっかくの休みの日なのに、こんな気持ちになるなんて。肩を掴んで無理やり向かせたセフィライズの顔が脳裏に浮かぶ。あんな酷い顔をさせてしまったと思うと、胸がじくりと痛んだ。
「酒でも飲むか……」
棚の上に置きっぱなしのグラスと酒瓶に手を伸ばす。ロックグラスを片手に窓を開け、積もった雪を雑に掬ってグラスへ入れた。
雪国の酒はアルコール度数が高い。じゃがいもを主原料に蒸留され、多種多様な香草で香りづけされたそれは、氷酒と呼ばれ、他国にも出荷される特産品だ。
雪を入れたグラスに注ぐと、常温でもひやりと冷たくなる。アリスアイレス王国の男たちはショットグラスで一気に飲むらしいが、シセルズには到底無理だった。度数が高いから一気には飲めない。
椅子に腰を下ろし、外の雪景色を眺めようとしたが、今日も月明かりひとつない吹雪だ。ランプのほのかな光だけが、静かに揺れている。
シセルズはその光をぼんやりと見つめながら、グラスに口をつけた。喉を通る熱さが、胸の奥のざらつきを少しだけ溶かしていく。
「兄さん、起きてる?」
扉の向こうでセフィライズの声がして、シセルズは思わず酒をこぼしそうになった。返事をして扉を開けると、視線をそらしながらも、そこにセフィライズが立っている。
「お前が俺を訪ねてくるとか、珍しいな」
「さっきは……ごめん」
ちらりとも顔を見ないし、声も小さい。それでも、シセルズには分かった。こいつはこいつなりに、精一杯の勇気を振り絞ってここに来たのだと。
「いや、俺も……ごめんな」
「じゃあ……それだけだから、おやすみ」
踵を返して帰ろうとするセフィライズの左手を、シセルズは思わず掴んだ。その瞬間、気づく。
本来なら、自分と同じように、左手には包帯が巻かれているはずだ。それが、ない。スノウと会った日に、何かがあった。問いただすべきか、黙っておくべきか。喉まで出かかった言葉を、シセルズは飲み込む。結局、選んだのは沈黙だった。
「一緒に飲もうぜ。ちょうどさっき飲み出したところだから」
「……酒?」
セフィライズがシセルズの自室を覗く。確かに机の上には氷酒とグラスが置かれていた。
「あんまり強くないけど……」
「いいって、付き合えよ」
シセルズはセフィライズの左手を軽く引き、部屋の中へと誘い込む。戸惑いながらも、セフィライズは促されるまま椅子に腰を下ろした。シセルズはもう一つのグラスを取り出し、先ほどと同じように窓の外から雪を掬って詰める。
「氷酒しかないけどな」
「度数が高い」
「いけるだろ?」
「少しなら……」
シセルズはセフィライズ用のロックグラスに氷酒を注ぎ、ためらわせないように、自分のグラスを軽くぶつけて乾杯した。
「飲めよ」
「わかってるよ……」
セフィライズは小さく息を吐き、グラスを持つ手をほんの少しだけ震わせながら、口をつけた。
シセルズは次の言葉が出ないまま、氷酒を一気に飲み干す。そして、間を埋めるように二杯目を注いだ。
「大丈夫……?」
セフィライズが心配そうに覗き込む。シセルズの顔は、血行が良くなったのか赤く染まっていた。
「明日、仕事じゃなかった?」
「あー、いいんじゃねぇ。別に、大丈夫っしょ」
気まずさを酒で流すように、シセルズはまた口をつける。止まらない。ランプの灯りだけの薄暗い部屋で、互いの表情はよく見えないのに、距離だけは妙に近い。沈黙に耐えられなくなったのか、シセルズはぽつりと口を開いた。
「お前、スノウちゃんの事、どー思ってんの?」
唐突な質問だった。セフィライズは少し考える。どうと言われても、うまく言葉にできない。自然と会話ができる。他の人とは少し違う。一緒にいて苦ではない。けれど、なぜそう感じるのかは自分でもよくわからない。
シセルズがこの質問をしたのは、スノウが、本人はまだ気づいていないだろうけれど、セフィライズのことをだいぶ好きなんじゃないかと感じていたからだ。
練習場での会話、セフィライズを見るときの目、ふとした仕草。確信ではない。けれど、なんとなくわかる。こんな偏屈で、根暗で、何考えてるかはすぐに顔に出る弟を、気にかける子が現れた。それだけで、シセルズには奇跡みたいに思えた。だからこそ、スノウはセフィライズを変えてくれる“起爆剤”になるんじゃないか。そんな期待すら抱いていた。
「前向きで、真面目で。あと、少し頑固……」
「あはは、お前よく見てるな。当たってるんじゃね」
スノウの話をするセフィライズは、どこか、優しい顔をしていた。
白き大地の民というだけで、誰からも好奇の目で見られる。そして近づいてくる人間は、どこか裏がある。そんな世界で、セフィライズはずっと孤独だった。だから、いつか弟が誰か他人に心を許す日がきたなら、せめて最初くらいは、裏切られないほうがいい。そのいつかが、彼女なら安心できる。シセルズはそう思っていた。
願わくば。
人間味がなかった弟が、ゆっくりと、ひとつずつ。ろうそくの火を灯すように、心に光を宿して。そして最後に、人を愛するというろうそくを、スノウが灯してくれないだろうか。そう、静かに願う。
シセルズは、少しずつ氷酒を口にするセフィライズを横目で見た。柔らかな光に照らされて、肩にかかる銀髪が静かに輝いている。自分の髪に触れてみて、改めて色の違いを認識する。そして、気づけば手が伸びていた。弟の髪へ。
「何……?」
「いや、俺も……ほんとはこんな色なんだなって……」
この銀髪に、どれだけ苦しめられたか分からない。呪われた色。この国に来てすぐ、シセルズは髪の色を変えた。話し合いの場で、一人はそのままの色で活動することになったとき、躊躇う兄を察して、真っ先に名乗り出たのはセフィライズだった。まだ六歳の、あの小さな弟が。
あの頃は、兄弟らしいことなんてほとんどしていなかった。心のどこかで、全部こいつに押しつけてしまえばいいと思っていたのかもしれない。自分じゃないことにほっとして、「ああ、よかった」なんて、無責任に思っていた。
「ごめんな……」
昔を思い出して、謝ってしまった。セフィライズは苦笑しながら「さっき聞いたよ」と言うけれど。それじゃないんだ。本当に謝りたいのは、もっとずっと前のことだ。けれど、その言葉は喉の奥でつかえて出てこなかった。




