10.城内での日々編 痛み
セフィライズが暮らしているのは、アリスアイレス城の裏手にある、もうひとつの庭園だった。庭園といっても、そこは人の手でつくられた小さな森に近い。森の奥には、ひっそりと木立に溶け込むようにログハウスが建っている。
幼いころ、兄弟はそこで一緒に暮らしていた。だが、シセルズが仕事のたびに外へ出るのを嫌がり、城内に自室をもらってしまってからは、自然とセフィライズだけが残された。
スノウは厚手の防寒具を着込み、その庭園へ足を踏み入れた。昼間だというのに空は暗く、吹雪が視界を白くかき消していく。言われた通りの道を進もうとするが、雪に覆われて境目がわからない。ここは城内とはまるで別の世界だ。
誰ともすれ違わない。音もなく、息をひそめたように静まり返っている。その静けさが、胸の奥にひやりとしたものを落としていった。
孤独。その言葉が、雪よりも冷たく感じられた。
城の裏庭で遭難しかけながら、ようやく白い視界の向こうにログハウスの影を見つける。ドアの前に立ったものの、身体の芯まで冷えきって声が出ない。仕方なく、彼女は指先に残った力で、そっとドアを叩いた。
セフィライズは、床に敷かれたラグの上に横たわり、揺れる暖炉の炎をただ見つめていた。何をする気力も湧かない。体には力が入らず、起きているだけで苦痛だった。時間だけが、音もなく過ぎていく。
目を閉じれば、悪夢に引き込まれる。そんな気がした。いつもこういう時は、決まって嫌な夢を見る。
コン、コン。
扉を叩く音が、遠くから水の底を伝うように耳へ届いた。こんな時に訪ねてくるのは、カイウスの急ぎの伝令くらいだろう。セフィライズは重い体をなんとか起こした。
立ち上がると、処置の悪い左腕に鋭い痛みが走る。一歩踏み出すだけで息が上がり、足取りはおぼつかない。壁に体を預け、沿うようにして進む。声にならない返事を漏らしながら、ようやく扉へ手を伸ばした。
「ぁ……」
吹雪の中を歩いてきたのだろう。配給された赤いコートは、雪をまとってすっかり白く染まっていた。扉の向こうに立っていたのはスノウだった。
想定外の姿に、セフィライズは一瞬だけ動きを止めた。だがすぐに、誰が彼女をここへ向かわせたのか察しがつく。
スノウは、扉を開けたセフィライズの顔色に息をのんだ。血の気がなく、呼吸も苦しげだ。それなのに、彼はいつものように平静を装おうとしている。その無理の仕方が、かえって痛々しく見えた。
「あの、こんにちは。シセルズさんが、様子を見てきてほしいって……」
予想していた名前に、セフィライズは小さく息を吐いた。だが今の彼には、丁寧に応じる余裕などない。
「兄さんに……大丈夫って……言っといて……」
言葉をつなぐだけで苦しい。悟られまいとするほど、声はかすれていく。セフィライズは左手で扉を閉めようとした。その手を、スノウが掴んだ。触れられた瞬間、セフィライズの顔が痛みに歪む。
「……シセルズさんも、同じところに包帯があったんです」
スノウの視線が、彼の左手首に落ちる。麻色の衣服の上に、乾いた血の跡。袖口から、白い包帯がかすかにのぞいていた。
「……」
セフィライズは、何と返せばいいのかわからなかった。兄なら、もっと上手くはぐらかせるのだろう。そんな考えが、ぼんやりと頭をよぎる。
「今……ちょっと……余裕が、ないから。悪いけど……後に……」
帰ってほしい、と続けたかった。けれど、もう声が出なかった。
その瞬間、視界がふっと揺れる。めまいが波のように押し寄せ、扉に体を預けるようにして崩れ落ちる。座り込んだまま、立ち上がる気力がどこにもない。
「はぁっ……はぁ………」
目の前でセフィライズが崩れ落ちるのを見て、スノウは息をのんだ。慌てて部屋に入り、扉を閉める。セフィライズの顔は真っ青で、荒い呼吸が止まらない。何が起きているのか、スノウにはまったくわからなかった。
「どう、どうしましたか。何か、病気ですか?」
「休め……ば……良く……なるから……っ……」
だから帰ってほしい。その先の言葉は、もう声にならなかった。倒れないように支えていた左腕から、じわりと血がにじむ。白い包帯が、赤く染まりはじめていた。
「今、治しますね!」
「待っ……」
スノウは血のにじむ左腕を見た瞬間、迷わずセフィライズの肩に手を回した。詠唱を始める。
セフィライズは、彼女が治癒の力を使おうとしていることに気づき、顔を上げた。
待って。今はダメだ。
そう伝えたかった。けれど、声はもう出なかった。ただ苦痛に歪んだ表情で、彼女を見ることしかできない。
「今この時、我こそが世界の中心なり」
スノウが最後の言葉を紡いだ、その直後だった。出血は止まったはずだと安堵しかけた彼女の目の前で、セフィライズの体から力が抜ける。
糸の切れた操り人形のように、彼は静かに床へ崩れ落ちた。
「セフィライズさん……?」
荒かったはずの息は、今はかすかにしか聞こえない。まるで事切れたかのように、セフィライズは静かに気を失っていた。
スノウはしばらく、その現実を受け止められなかった。肩を揺すってみても反応はない。胸が締めつけられるような不安に駆られ、首の付け根にそっと手を当てる。脈はあった。
その時、シセルズとの会話が頭をよぎる。“収穫された”“家畜と変わらない”。そして、同じ場所に巻かれた包帯。
視線をセフィライズに戻すと、不自然に長く伸ばされた髪が目に入った。シセルズも髪を伸ばしていた。どうして二人とも、髪を切らないのだろう。
……その髪に、価値があるから。二人は、白き大地の民なのだから。
スノウは事実に気づいた瞬間、口元を押さえた。まただ、あの時と同じだ。ギルバートを癒した時と、まったく同じ。
シセルズは髪を切られ、血を抜かれた。セフィライズは、いつも大量の血を奪われている。二人の血肉が特別だと、知っていたはずなのに。
そんな状態の彼に、怪我を治そうとして魔術を使ってしまった。消費されたマナは……いったい、どこから補われたのか。
「わたしっ……」
続けようとした声は、息と一緒に途切れた。
自分の魔術が彼から残りわずかな力を奪ってしまったのだと悟った。




