7.涙雨と救出編 流血
セフィライズは咄嗟に少女を庇い、身を投げ出した。その瞬間、脇腹に鋭い痛みが走る。二人の体はそのまま崖の淵を越え、闇の底へと落ちていった。
落下する中、セフィライズは少女をしっかりと抱きしめ、その身を盾にするようにして包み込んだ。少女はすでに意識を失っているようだった。焦りと痛みに顔を歪めながらも、セフィライズは掠れた声で詠唱を始める。風が渦を巻き、彼らの周囲に立ち昇る。
黎金の光がふたりを包み込んだ。
二人はゆったりと落下していく。しかし、セフィライズの意識もまた、ぼんやりと霞み……遠のいていった。
先ほどより弱まった雨が、倒れた二人の体を冷たく打つ。
雨音の中で、少女がゆっくり瞼を開けた。まぶたの奥は重く、体は鉛のように動かない。
全身の奥から、じくじくとした痛みが滲み出る。
「ん……」
幌馬車が走っていた泥土と違いゴツゴツとした硬い岩と小石だらけ。暗く先の見えない雑木林がその場所を取り囲むように広がっている。雨がさらに視界を悪くし、少し先を黒く塗りつぶしているようだ。
少女は倒れた状態で首だけを動かし周囲を確認した。
確かに、落ちたはずだ。確かに、確かにだ。 見上げている木々の間からどんよりとした灰色の雲が垣間見え、すぐそこに岩の壁があった。
――――どうして、怪我ひとつ、してないの……?
体は痛む。しかしそれでは説明がつかないと彼女は思った。少しの高さを落ちたわけではないのは、見るからに明らかだったからだ。落ちたはずの場所が見えない。この程度の痛みでは済まされないはずだ。大怪我をしていても、死んでいてもおかしくはないはず。
少女は立ち上がろうと腕を動かした。そこで初めて、少女のその腕の上に意識のないセフィライズがうつ伏せに倒れている事に気が付く。少女は残っていない力を振り絞り、なんとかセフィライズを押し退けて、彼の体を仰向けにさせた。
セフィライズの黒髪は血と泥で汚れ、一際白い肌に張り付いていた。少女は手でそっと、黒髪をほんの少しよけてみる。息苦しいのではないかと、彼の口元の布をゆっくりとずらした。さらけ出されたその顔立ちに、少女は強烈な違和感を覚える。端正な顔立ちだが、それが何か……違う気がしたのだ。
他の、今まで出会ってきた人達と、どこか。
「……うっ」
彼の顔を覗き込んでいた少女はセフィライズの呻き声に驚いてしりもちをついた。うっすらと開いた瞼の中の、確かに茶色の瞳と目が合う。
あれは、見間違いではなかったのだ。
セフィライズもまた、重く感じる体を起こした。しかし、彼はすぐに前屈みになり腹のあたりを押さえる。
生暖かい。そして、どろりとした感触。セフィライズの手には鮮血がしたたり落ちるほどにべっとりと貼りついていた。 ああ、久々にこんなにはっきり血を流してしまったなと、セフィライズは自嘲する。
「だ、大丈夫ですか!」
少女の心配そうな声に、セフィライズは思わず目を見開いた。
雨に濡れ、日向の草原のような金髪もじっとりと顔に張り付いている。疲労と困惑が顔色から伺える少女。しかし、その瞳は揺らぐことなく、セフィライズを気にかけているのがわかる。
何故、少女がいるのだろうと一瞬困惑した。一人で、逃げてもおかしくはない状況のはずだ。
「問題ないよ」
セフィライズは、自身の腹のあたりをしっかりと押さえながら、低く落ち着いた声で答えた。
「そう、ですか……」
「問題ない」と聞いたものの、少女は疑っているようだった。この雨の中で、出血は止まりにくい。手についた量を考えても、浅いとは言い切れない。それは、見るからに明らかだった。
少女は何度か息を飲み、次の言葉を選ぶように口を動かしている。しかし声が出ない様子。
――――あの時、何が起きたか思い出せない。でも、確かに……
少女は口をもごもごさせながら、言葉を詰まらせていた。
何かを察したかのように、薄く笑う彼は少女を見つめながら声を発しようと口を開いた、その時。
「あ、あの……!」
少女が手を伸ばし、セフィライズの腕に触れた。しかし少女の迷いに気が付いていたセフィライズは、少女の手から離れるように腕を引く。
「いい、大丈夫だから」
セフィライズは低く落ち着いた声で、またも諭すように少女に告げる。少女が治癒術を使うかどうか迷っていることを察していたからだった。
その力が本当に存在するか確認したい。そう思う気持ちはあれど、力を見せることへの恐怖もわかるのだ。それは、両刃の剣だと知っている。セフィライズ自身が誰よりも深く。
特別な力は時に幸運をもたらすが、同じくらい不幸も引き寄せるのだ。
「少し移動しよう。追って来ないとも限らないから」
セフィライズは周囲を見渡した。今いる場所に覚えがある。確かこの先を進めば川があるはずだ。下流に向かって進めばコンゴッソにつながる壁へ到着する。
「あの、あの……! その傷、早く止血しないと、大変な事になります。わたしに……わたしに、治療させてください」
少女の手がそっとセフィライズへと伸びる。澄んだ碧色の瞳には、真剣で強い光が宿っていた。
セフィライズの中で、少女と初めて目があった時に感じたもの。胸の奥で何かがざわめく感覚。再び静かに蘇るのを感じた。
少女の申し出を断るべきか迷いながらも、その力が本物であるか確認したい気持ちが勝る。セフィライズは黙って目を閉じると、察したのか少女の詠唱の言葉が耳に届いた。
「我ら、癒しの神エイルの眷属、一角獣に身を捧げし一族の末裔なり、この者の穢れを癒す力を我に。今この時、我こそが世界の中心なり」
その言葉とともに、一瞬で痛みが消えた。セフィライズは脇腹に手を当て、確かめる。怪我はどこにもなかった。
本当だった。この金髪の少女は、紛れもなくユニコーンの乙女。治癒術が使える、貴重な人材だ。
これでカイウス王子の事を助けられるはず。この少女を無事に、アリスアイレス王国まで送り届ければいい。