6.涙雨と救出編 襲撃
酷く乗り心地の悪い馬車だ。
少女は口をつぐみ、身を縮めて寒さに震えた。周りに気づかれないようにそっと顔を上げると、談笑をしている傭兵が二人。その隣には動く気配すら感じられない魔術師が一人。少女にはまるで死んでいるかのように見えた。
少女が視線を動かすと、離れたところで肘を幌馬車の荷台に付きながら、外をつまならさそうに眺めている黒髪の傭兵を見つけた。
少女は思う。他の傭兵と違いとても華奢な人だと。黒い前髪が顔にかかり、口元を隠す布のせいで表情がよく見えない。
少女の視線に気が付いたのか、傭兵と目があった。銀色の瞳。それがまるで月のように、冷たくて怖い。すぐ視線を逸らされてしまった。少女はしばらくその傭兵を見つめる。
少女は白き大地の民という民族がいる事を知らなかった。だから、ただただその珍しい色に驚いただけだ。
そっと、少女自身も目を閉じ瞼に手を当てる。自らの碧色の瞳も、この世界では珍しい事を知っている。だから……妙な親近感を覚えたのだった。
ただ、その銀色の瞳はなんだかとても。
とても寂しそうで、悲しそうに見えたのは、色のせいだったのだろうか。
雨に紛れてよく聞こえないが、しかし何か音がするのがわかる。なんだろう、とその場にいた者達が思った瞬間、幌馬車が前触れもなく急に止まった。
「きゃあっ!」
誰かの体が他の誰かを押しつぶし、少女もまた誰かに押され、衝撃に耐える。
「何だ!?」
談笑をしていた傭兵の一人が、まるで死んでいるかのように動かない魔術師を跨いで通り、外を確認する為に馬車から身を乗り出した。
その瞬間、何者かによってその男は少女の目の前で頭を半分に破られた。痙攣を起こし呻き声を上げながら絶命する。奴隷の女性達は恐怖で声を押し殺し、もう一人の傭兵は混乱のまま腰を抜かしているようだ。少女は口元に手をあて息を飲む。
しかし、次に少女が見たのは、その頭を割られた傭兵をセフィライズが背中から串刺している姿だ。大量の血がセフィライズにべっとりと付着しているのを見て、少女はさらに絶句した。雨で湿った空気に、鉄が腐ったような生温かい臭気が混じる。
彼は、向こう側にいる人間にまで刃が貫通したのを確認するように手を動かしている。その死体を邪魔な荷物を捨てるかのように馬車の下へと蹴り落としていた。
――――殺された、傭兵を、後ろから、また、殺した……??
セフィライズは一度も振り返らず、馬車から身を翻して飛び降りた。残されたもう一人の傭兵も、怒りをあらわにして彼のあとを追う。
雨に濡れた幌馬車の中には、恐怖におびえてすすり泣く女たちの声と、幌を叩く冷たい雨音だけが残された。
セフィライズは前を走っていた幌馬車へ駆け寄り、中をのぞき込んだ。中にいるはずの傭兵や奴隷たちに声をかける。だが返事はなかった。恐怖に目を見開いた女達が突然叫びを上げて、次々と馬車の外へと飛び出していく。その場に残されたのは、すでに息絶えた傭兵と、うずくまる数人の奴隷だけだった。
一瞬にして状況が変わった。まるで別の世界。その光景を見てセフィライズは静かに目を閉じた。
こんなにも簡単に、こんなにもあっけなく、人が死ぬ。今まで沢山見てきた光景だ。
状況は一瞬で塗り替えられた。まるで、そこだけ別の世界になったようだった。
生きるために奪い合い、利益のために命を踏みにじる。
迫害。搾取。略奪。
誰かが積み荷を奪い、利益をむさぼろうとしたのだろう。そんな者たちは、残念ながらこの世界にいくらでもいる。
マナが消えゆくこの世界で、人間の生きやすい環境は、日ごとに失われている。
だからこそ、生き残るために奪う。
けれど。
セフィライズの中で、静かに、けれど確かに。音を立てて何かが崩れ落ちた。
少女は両手を使ってゆっくりと馬車の中を這った。まるで怒号や叫び声が、遠く違う世界に起きた事のような空気だけが馬車の中に残されている。震え固まる人を避け、血で汚れた床まで。ただゆっくり、ゆっくりと、少女は馬車の外を覗きこんだ。
そこには先程頭を割られ背中に穴が空いた傭兵と、潰されるように倒れている浅黒い肌の骨ばった男がいた。白目をむき、口からは血をたれ流している。それは雨で周囲の泥と同化していくようだ。
「何、何が、?」
彼女が視線を前に移すと、三台の幌馬車が倒れていた。その幌馬車に乗っていたであろう人達が泥まみれで地面を這いずりながら逃げ回っている。
泥と血。
腹の底から湧き上がるような畏怖の声と、狂気に満ちた雄叫びが、次々と、次々と。
ぎゃああー!! と響く声が少女の耳の届く。恐怖で手が震え、耳を塞いだ。聞きたくない、聞こえたくない。首を振り、現実に思わず涙が出た。
「こっちか? おらぁ! てめーら全員顔上げろ!」
男の低い叫び声がすぐ真後ろで聞こえ、少女はすぐさま振り返った。馬車に乗せられた多くの人が、その声のする方を見ている。
「ほぉーう、結構べっぴん揃いじゃねぇかよぉ」
馬車に足をかけ、今にも乗り込もうとする男。ギッ……と足をかけた木枠が軋む音と、声を潜めながらも恐怖の息が聞こえる。男は大きく湾曲した剣をわざとらしくちらつかせていた。
「お前かぁ? 例の、女は」
舌なめずりをする浅黒い肌の男は、先程セフィライズによって絶命させられた男とよく似ていた。妙に細く長い手と足、そして首。
武器を持たない方の手が少女に伸びた。すぐに後ずさるも、逃げる場所もなく腕を掴まれてしまう。
「おい、手を出すなよ。清らかな乙女でないと、なんの価値もないんだから」
少女から姿は見えないが、もうひとり声がした。次の瞬間、少女は馬車から引きずり出され、頭を足で踏みつけられる。泥の味がする、滑らかな金髪も、服も、全て汚されていくようだ。
「他の奴らはいらねぇ、好きにしていいぞ」
その言葉の意味を理解したのは、何もその男達の仲間だけではなかったようだ。
「いやっ……いやぁあ!」
体を震わせ動けない者、神に祈りを捧げる者、泣き叫びながら馬車から飛び降り逃げる者。
彼女は泥に汚れた視界で見た。逃げ出した女性が何人かの野盗に背中から切りつけられ、鮮血を吹き上げながら崩れ落ちていくのを。
「おらおら、なんの楽しみもねぇぞ、こらぁ!」
大声で笑いながら、自らの獲物を振り回す男。仲間たちもまたニヤニヤと、嫌な笑みと声で笑う声が聞こえる。
雨の音に交じる、悲鳴、怒号、叫び、嘲笑。少女は、体が泥土と一体になってしまったかのような気持ちだった。
「うるさい」
そのセフィライズの声に、何人が反応できていたのだろうか。それぐらい一瞬で、野盗が蹴り飛ばされ、少女の視界から消えた。
「なんだ、なんだお前は!」
少女の頭を踏みつけていた足が無くなり、体をゆっくりと支えなが起こした。目に入る泥が、視界を悪くしてよく見えない。しかし、おそらくそれは一瞬であった。
数人いた野盗が全て、地面でうめき声を上げていたのだ。その中に、ひとり佇んでいるのは黒髪のセフィライズ。憂いを帯びた瞳は冷たく、長い時間、彼は自身が叩きのめした野盗を見つめていた。はっと、気が付いたかのように顔を上げ、彼は少女を見る。
「大丈夫か?」
そうセフィライズに声をかけられた少女は、今の出来事に思考が追いつかず、返事ができなかった。目をこすり、もう一度彼を見る。
長い黒髪は雨と泥と血で濡れ、瞳は少女が見た時と違い茶色に染まってた。
「え……?」
思わず声が漏れ、少女ははっとして口元をおさえた。あの時、馬車の中で見た彼の瞳は確かに、銀色に輝いていた。外の月明かりが反射していたのかもしれない、と自分に言い聞かせる。けれど。
あの時、空には月など出ていなかった。
いまもなお、冷たい雨が降りしきっているのだから。
少女はふらつく足に力を込め、よろめきながらも立ち上がった。彼に、黒髪の傭兵に、何かを言おうとして、そっと口を開いたその瞬間。
野盗の叫び声が耳を劈く。
短剣を振りかざし、獣のような勢いでこちらへ突進してくる。
逃げなければ。そう思ったのに、少女の体は言うことをきかなかった。その場で足をもつれさせながら後ずさった。その刹那――――
ドンッ――――
少女の視界に映る、それは人。
セフィライズが、彼女を庇うかのように野盗との間に入ったのだ。
少女は目の前に、光るものが見えた気がした。
赤いものが見えた気がした。
頭で理解するよりも先に、体だけが押し飛ばされる。雄叫びが、遅れて耳に届くような錯覚。
「きゃぁあーーー!!」
確かにある泥土にすぐ倒れるはずの少女の体は、セフィライズと共に奈落へ。
少女のすぐ後ろは、崖だった。