09 ズル休み
時期的には少し遡りますが、夏が始まる少し前のお話しです。
なにも気にせず、ただバイクで走る1日は最高ですね。
海。
別に、海なんてそれほど珍しくもない。
内陸部に住んでいても、この国の周りは全て海なのだから、バイクに乗って2、3時間も走ればどこかしらの海に辿り着けてしまう。
それでも、海を目にするとなんともいえない気分になる。
ここには私達、1人と1台だけしかいない。
平日の午前中にこんな何にも無い場所で海を見ているヒマなヤツは私達ぐらいのものだ。
打ち寄せる波の音が周囲を満たす。
私は何をするでもなく、バイクの隣りに腰を下ろし、海を眺めた。
潮の香りがする風は、いつも感じているそれとは違う。
ゆっくりと立ち上がって疲労した尻と腰をストレッチする。
さて、もっと休日を楽しもうか。
…その朝は、目に痛いほど空が青かった。
家族サービスと雨の休日が続いていたせいか、このところあまりバイクに乗る時間をつくれていない。
それが、今日になってこの青空だ。
私は庭先で鉢植えに水をやりながら、雲ひとつ無い空を無言で眺め、笑い出しそうな口元を引き締めた。
チラリと時計に目をやる。出勤時刻まであと2時間ある。
何気ない風を装って、いつもと同じように新聞を読みながらヒゲを剃った。
テレビのニュースと天気予報をBGMに朝食を食べ、ゴミ出しを済ませて着替えをする。
「いってきます」
「いってらっしゃーい」
いつもと何も変わらない一言を口にし、背後にいつも通りの言葉を聞きながら家を出た。
格好も普段どおりだ。
仕事用のスラックスにYシャツ、その上からバイク用のメッシュジャケットを羽織り、足下はライディングブーツ。
普通のサラリーマンの通勤スタイルにしては異質で、しかしライダーとしては中途半端な、私の通勤スタイル。
駐輪場でバイクからカバーを外し、チェーンロックを外す。
ライムグリーンの車体を引っ張り出し、路肩までゆっくりと押した。
少ない荷物をリアボックスへ放り込み、スタートボタンを押してエンジンをかける。
250ccの単気筒エンジンは、すぐにトトトトと小気味良いリズムを刻み始めた。
暖機運転をしながらオイルや車体周りをチェックする。
OKだ。
私は満足してヘルメットを被り、グローブをつけた。
シートに跨り、静かにクラッチを繋いで走り出す。
いつもと同じ道を走り、2つ目の交差点で職場とは逆方向にウィンカーを出す。
ヘルメットの中で頬が緩んだ。
実は、今日は休暇をもらってある。
家族には内緒で、休日出勤の振り替えを今日にしておいたのだ。
のんびりと家から遠ざかっていく私と、いつもと変わらない通勤の車の流れが、ミラーの中で距離を広げていく。
サラリーマンをお休みし、夫でも、父親としてでもなく、久し振りの、自分の為だけの休日。
気持ちが徐々に加速を始めた。
右手のアクセルを開く角度が大きくなっていく。
エンジンがそれに応えて鼓動を高め、マフラーが歌いだした。
さあ、どこへ行こうか…
通勤で向うのとは逆方向、東へと伸びる道の先に目を向ける。
‥このまま海まで行ってみるか。
このバイクに乗り始めてから、山や湖、河川敷など水のある景色にはどこか惹かれるものがあり、よく出かけていく。しかし、海にはまだ行ったことがない。
よし、目指すは東へ直線距離で約80km先にある太平洋だ。
燃料タンクの中にはまだ8割以上のガソリンがある。
私はメーターパネルの端の時計に目をやり、大きくアクセルを開いた。
その朝の相棒はちょっと不思議だった。
彼は朝、私のところにやって来る時はいつも機嫌が良い。
しかし今日は特にご機嫌のようだった。
いつもと同じように私の体からカバーを外し、路肩まで押していってからエンジンをかけるのだが、心なしか足取りが軽く、口元は今にも笑い出しそうに緩んで見える。
私がエンジンのウォーミングアップをしている間も、いつもより丁寧に車体のチェックをおこなっていた。
さて、そろそろ良いぞ。今日も行こうか、相棒よ。
私の声が聞こえるかのように彼はヘルメットをかぶり、グローブをつけ、シートを跨いだ。
ギアを1速に入れ、クラッチを繋ぐ。
私はゆっくりと走り始めた。
毎日通る彼の職場への道だ、どこを通ってどこを曲がるのかはすっかり覚えている。
…が、彼は途中でいつもとは逆の方向にウィンカーを出した。
おや?と思った。
天気が良いと相棒はよく遠回りや寄り道をしながら職場へと向うのだが、それにしたって今日は遠回り過ぎないか?
私達は彼の職場からどんどん、どんどん遠ざかっていく。
ここで、私はようやく気がついた。
相棒は仕事へ行く格好をしているが、今日の目的地は職場ではないのだ。
おそらく、仕事でもない。
職場に電話を入れる様子も無いので、最初から休みをとってあったのだろう。
そう考えれば、朝からの上機嫌にも納得ができる。
なんだ、そういうことか。
今日は家族に内緒のツーリングなんだな?
良いじゃないか、たまには自分の立場を忘れて思いっ切り走ろうじゃないか。
相棒が大きくアクセルを開ける。
私はエンジンの鼓動を高め、リアタイヤで路面を強く蹴り出した。
平日の朝に仕事に行く格好で家を出てから1時間半、私と250ccの相棒は霞ヶ浦を横切る橋の上を通過していた。
まだ海までは少し距離がある。
直線距離では100kmも無いが、道のりにするとそれなりに遠くなる。
それでも、空は気持ち良く晴れ、大きな道路を避けて選んだルートには渋滞も無く、のんびりと流して走るにはちょうど良い。
アクセル開度は全開よりも手前に留め、相棒のエンジンは余裕を持った鼓動音で気持ち良く回り続けている。
私自身も景色を眺めながら柔らかい陽射しと風を体に受け、感覚が外へと向って開いていくのを実感する。
こんな開放感を味わうのはいつ振りだろう。
毎日の仕事に追われ、家に帰れば父親として子供達に勉強や日常生活のアドバイスをし、妻の相談相手となり、いつの間にか疲れて居眠りを始め、けだるい体を何とかベッドまで歩かせてその日の眠りに就く。
別にイヤという訳ではない。
家族といると安心するし、幸せな気持ちにもなる。
それでも、自分の時間が欲しいと思う時だってある。
他の何者でもない、ただ1人の自分自身に戻って、流れる時間の中に感覚を解き放ちたい。
バイクに乗ってアクセルを開ける時、少しだけそんな自分に戻れる。
今日はまだそんな時間がたっぷりとある。
もちろん、夕方にはいつもと同じ顔でいつもの私に戻らなければならないが、今は気にすることも無い。
家族に内緒だという少し後ろめたいドキドキを感じながらも、少年の頃の、いたずらをしているような楽しさがこみ上げてくる。
アクセルを開くと、背中に羽でも生えたかのように軽やかに相棒が加速する。
霞ヶ浦は広い。
まるで海のようにも見えるが、波がなく、水面は穏やかだ。
これは今日の私が求めていた景色ではない。
大きくアクセルを開いて加速する。
海はこの道のさらに先だ。
霞ヶ浦の大きな橋を渡ってから1時間ほど走った。
周囲に流れる風の匂いが変わったのを感じる。
どうやら海が近いようだ。
相棒が案内標識を見ながらウィンカーを出す。
私は民家の脇の細い路地を抜け、香りのする方へと近づいていった。
エンジンの音に別の音が重なる。
と、急に視界が開けた。
「おおっ」
相棒が私の背で息を呑む。
海が目の前一杯に広がっていた。
道の先に急に現れた砂浜には、うねる様な外海からの波が打ち寄せている。
私は相棒を背に乗せたまま、砂浜に降りる手前のアスファルトまで進み、エンジンを止めた。
「…‥」
相棒は無言のまま海を眺めている。
ゆっくりと私の背中から降りてヘルメットを脱ぐ。
1台と1人、共に言葉が出なかった。
かつていたショップのバイク達から海のことを聞いてはいたが、目にするのは初めてだ。
この国の周囲は全て海だというから、それほど珍しいものではないのだろうが…‥その存在感は圧倒的だった。
ヘルメットを脱いだ相棒は、私の隣りで近くにあったコンクリートブロックに腰を下ろし、ボンヤリと海を眺めている。
砂浜に打ち寄せる波はいつまでも途切れることがない。
不思議な感覚だった。
いつもなら相棒はデスクに向って仕事をし、私は駐輪場で彼を待っているはずの時間に、こうしてボンヤリと海を眺めている。
いつまでも途切れることのない波の音と、無言の相棒、私のマフラーの放熱音がその中にキン、キン、とかすかに混じる。
どのくらいそうしていただろうか?
相棒が思い出したように「うーん」と伸びをし、立ち上がる。
ポケットからカメラを取り出して、海をバックにして私へレンズを向け、シャッターを切った。
「よし…っと」
カメラの液晶画面を見ながら頷き、次いで照れくさそうに笑う。
さあ、夕方までまだまだ時間はたくさんあるぞ。
もっと走ろう。
私も、もっと見たことの無い景色を見てみたい。
その日、海を眺めて言葉にならない『何か』を取り戻した私は、目的地を決めずに走った。
海を見た茨城県の鉾田市付近から太平洋沿いを北上し、大洗港で船を眺めながらソフトクリームを食べた。
内陸へ向けて西へと折り返し、水戸市を通り抜け、笠間市で笠間稲荷に参拝し、キツネ蕎麦を食べた。
国道を西へと走り、途中すれ違ったジュベル250のライダーとピースサインを送り合い、栃木県に入る。
いつも立ち寄る『道の駅まくらがの里こが』で一休みし、またもソフトクリームを食べ、夕刻になって帰宅した。
胃袋も心もお腹一杯だ。
こうして私の秘密の休日は幕を下ろした。
「ただいま…」
『おかえりなさーい』
玄関を開けると妻や子供達の声が返ってくる。
自然に笑みがこぼれた。
さて、父親に戻る時間だ。
少し長くなってしまいましたが、家族に内緒で、夫と父をズル休みした1日はとても開放的でした。
ほんの少し若返ったような気持ちになれたのは、意外な発見でしたね。