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いつからそこに石長姫巫女が在るのか問われたとして、正確に応えを返せる者は宇良部本家に存在しない。
ただ、本人の言や生前の物と言うその装いから現代より千年を越えて過去の時代を生きた巫女であろうと推察されていた。
『永の時の河を下りここに在る自覚は持つが、己が子孫として異国の血混じりの『異能の巫女』とあいまみえる事になろうとは、よもや夢想だにもせなんだな』
苔むした岩の上にふわりと漂うように幻の身を浮かせ、石長姫巫女は感慨深げに呟き自分の前に佇む少女を瞳に映す。
かつては人であった存在。今は蔵の中に鎮座する大きな岩を依代にその精神を住まわせる遥かな先祖にして、同じ『異能の巫女』だった女を前に、沙耶は大事な玩具が入った手提げ袋を抱きしめるようにして身を固くした。
思えばこの、宇良部の家の守り神のような存在と沙耶がたった二人きり対峙するのは初めてのこと。
『……時の移ろいとは、人の世をかくも広く狭くするものかと驚きに堪えん』
言葉を紡ぐ石長姫巫女の表情はあくまでも穏やかで、今の時代では見慣れぬ装束に小柄な体を包んでいるが、その馴染みの無さは美鈴が着ける巫女装束も沙耶にとっては似たような物。等しく「コスプレ?」の一言に終わる。
美鈴の母の遼子はこの石長姫巫女の存在を酷く恐れただでさえ苦手な宇良部本家から更に足を遠のかせているが、沙耶は別段石長姫巫女に恐怖や嫌悪の気持ちは抱いていない。そうでなければ夕べ達郎らと連れ立ち来訪の挨拶に訪れた時、お気に入りの玩具を見せる約束をしたりはしなかっただろう。
『其方には幾度とまみえているが……さるにても、そのをかしき灰色玻璃の眼が己らと同じ像を結んでいるとは怪なことよ』
苔むした岩の上にふわりと浮かび、紅唇を微かな笑みの形に感慨深げに呟く人ならざる女の瞳は澄んだ黒茶。
実際には触れることのない繊手が、つ……と、自分の頬へと伸ばされるのを強張った顔で待ち受け、どことなく従姉や自分らと似通った顔を見上げながら、沙耶は一瞬の躊躇の後、俄かに干上がった喉をコクリと鳴らして口を開いた。
酷く言いにくい事ではあったがどうしてもこの宇良部の巫女らの先達にして本家の精神的支柱である石長姫巫女に、沙耶はそれを伝えないわけには行かなかったからだ。
千年を越える時の移ろいは、同国言語による人と人との意志の疎通すら困難にさせる。
「イワナガさまなに言ってるのか……全然わかんないの。に……日本語で、おk……」
ハの字に眉の端を下げた子孫の弱り切った表情に、石長姫巫女は短い瞬きを二つ、三つ。
『おお、これはしたり』
と驚きの言葉とは裏腹に、泰然と笑んだ。
巫女装束の紅い袴の下にチラリとのぞく白いこはぜの足袋に包まれた足。そのつま先を眺めながら、美鈴は小さくため息を吐いた。
屋敷の離れの一室は占者の巫女としての彼女の仕事場。今日はこの部屋に入ってから一体幾度の溜息が彼女の口から零れただろう。
「落ち着かない……」
美鈴が『占者の巫女』として宇良部本家で機能しはじめてから既に年単位での時が経過している。初めての仕事から暫くの間は緊張に顔を強張らせながら無我夢中でこなして来たが、今となっては来客の予定時間直前にこの部屋に入りそれなりの余裕を持って依頼者を出迎える事が出来ていたと言うのに、今はまるで昔に戻ったような……いや、正直に言えばそれよりも落ち着かない状態だ。
その原因は、勿論この日の朝に蔦子が唐突に彼女に告げたアレである。
これは正式な見合いではないのだから気楽に構えていればいい……と、秀子も達郎も口をそろえてそう言った。確かに相手の写真も釣書も渡されず、それどころか互いの自己紹介などの予定もなく、ただ普段通りの先読みの依頼者に将来的に美鈴と、そしてことによれば沙耶の伴侶候補となりうる人間が一緒に同席しているだけの事のようだ。
相手方の意志表示。
そう言う意味合いの事なのだと蔦子を始め、宇良部本家の人々は言う。
それはそうなのかもしれないが、将来の相手となる意志を軽く表示されるだけでもまだ若くしかも異性馴れしていない少女にとっては大事だと言う事を、大人は理解していない。
いや、むしろ理解していながら動揺する若い巫女の様を面白がっている様子がどこかにあるようなのが美鈴にはやりきれなかった。
唐突にそれを告げられた朝食時には驚きのあまり箸に掴んだ菜を落とすような無様を晒してしまった美鈴だが、その後は極力表情に出さぬよう……努力虚しく達郎の口許には随分とニヤニヤ笑いの気配が漂っていたが……大人達に何か言われぬうちにと着替えを口実に部屋へ引きこもった。
宇良部本家での仮住まい。美鈴へと割り当てられた部屋に入った後も落ちつかず、結局まだ来客まで時間があるのを分かっていながら手持ち無沙汰に彼女の仕事着である巫女装束へと着替えを済ませ、そのまま黙って座しているのにも耐えられず随分と早い時間にこの部屋……屋敷の裏手にある離れの一室、巫女と先読みの依頼者である客人との対面の為の部屋へやって来て、美鈴はサクサクと清しい香りの藺草の畳を行きつ戻りつ彷徨っていた。
少し広めの茶室と言った作りの部屋は青々とした畳敷き。
茶室や一般的な和室であれば床の間がある部屋の奥側は巫女の座と来訪者とを区切れるよう天井がら御簾が下げられているのだが、この御簾は宇良部家を庇護する家々……過去には『十家』と呼ばれた権勢持つ家系の直系の依頼者と相対する時は顔の半分が見える程度に巻き上げられ、十家の紹介で訪れる来訪者との対面時には完全に下ろされるのが通例になっていた。
今日の場合は顔の半分を晒す位置に巻かれて用意されている。
美鈴は懐から出した小さな鏡の面に映した自分の顔を覗き込んだ。
この部屋に入る前に丁寧に梳った黒髪に一筋の乱れもない。専門の職人作のお気に入りの桜模様の毛抜きで整えた眉もきれいに直線に近い山を描いている。
長い睫が縁どる黒に近い濃い色の瞳に、青緑の光沢を持つ黒い絹糸髪。シミ一つ無い白肌に若干血色が足りないものの、美鈴の造作は美しい。
自分でも幾分かの自負を持つ顔が問題なく映し出された鏡をまた懐にしまいながら、美鈴はそんな自分の行動に苛立ち唇を噛んだ。
同じ世代は当然のこと、同じような富裕な……そしてそれなりの家柄を持つ階級に属す級友らとの間にすらも自分と彼女達は違うのだと心に壁を作り、一歩引いた場所から冷めた目で周囲を見ると言うのが常の美鈴。
だがそれも所詮は作られたポーズに過ぎず、一皮むいたところにいるのは年齢なりのモノ馴れぬ少女。
擬態と現実の乖離を突き付けられる不快に美しい顔を歪めるも、だからと言って一転、落ちつき払って時を待つ平静が訪れるわけもない。
多少なりとて気持ちを紛らわすよすがを求め、来訪者側にある障子戸を薄く開ければ目の前に田舎家にはいささか雅な和式の庭が夏の植物の深い緑に染まる景色。
美鈴のいる離れが茶室の体裁で造られている関係か、庭のこの一角もまたそれに準じた構成を成しているのだろう。本棟側から点々と配された飛び石が続き、午前中から気温の高いこの季節の最中にも涼し気な気配を漂わすつくばいが大小の庭石と柳の木陰に水を湛えていた。
つくばいから滴る水はちょろちょろとあるか無しかの流れを作り数匹の錦鯉が悠々と泳ぐ池へと至る。その後ろ側、宇良部本家の守り神にも等しい石長姫巫女の御在所へ続く竹林の小道へ抜ける裏木戸をくぐる、見慣れた麦わら帽子の後ろ姿を美鈴は見つける。
「沙耶……」
彼女があそこにどうしているのか……との美鈴の疑問は一瞬。浮かぶと同時に昨日の沙耶と石長姫巫女のやり取りの内容に思い至って消え去るが、消えた疑問に代わって胸に湧きあがる苛立たしさが眉間に縦の皴を刻んだ。
自分も沙耶も同じく宇良部の巫女なのに、なぜ従妹だけこの緊張を強いられる状況から一人逃げ出すことが許されるのか。
沙耶はまだ十歳にも満たぬ子供であることは分かっていても、思うに任せぬ自分の心への苛立ちに便乗する形で半ば八つ当たりな腹立たしさを禁じ得ないが、その苛立ちも子供相手の八つ当たりを自覚するに従い自分に対する呆れに変わった。
への字に唇を歪め渋々認める自分の心の幼さ。細く息を吐き出し心の平静を取り戻すべく、八つ当たりの原因である落ちつかなさ、緊張の原因から意識を逸らそうと美鈴は沙耶が向かった先へと思いを馳せた。
麦わら帽子の下から消炭色の髪を軽やかに揺らして歩く従妹の行く手に、石長姫巫女と呼ばれる存在は在る。
宇良部の家の行く末を見守るため、自身の死を契機にその魂を聖地にある大岩に憑依させた異能の巫女が現代『石長姫巫女』と宇良部の家で呼ばれるモノの正体だとは、以前達郎から聞いた話だ。
彼は宇良部の巫女を支える仕事をしながら本家に数多残された代々当主や巫女、過去の異能の巫女らが残した書簡や日誌、覚え書等の文章資料を解読し、それを研究するのをライフワークにしている少々変わった人物だ。
達郎は時おり美鈴らに研究の成果と思しい話を披露してくれるのだが、たいていの場合
「全くつくづく俺は生まれ間違ったものだ」
と言うボヤキ言葉で結ばれる。
もしも達郎が女として生まれその上で巫女としての能力を持っていたなら、石長姫巫女と直接言葉を交わす機会を得る事も出来たのに……と言うのがその言葉の真意である。
達郎は石長姫巫女と言葉を交わすことを許されていないのだ。……いや、彼だけでなく秀子にしても美鈴の父の圭司にしても、言葉を直接賜る機会はほぼ無いと言って良い。
美鈴にしても言葉を掛けられたのは彼女が占者の巫女としての能力を発現させてすぐの一度きり、彼女と同じく占者の巫女にしてこの家の現当主たる蔦子であっても言葉を賜る機会は年に幾度かあるなしだとか。
石長姫巫女に軽々しくみなが言葉をもらえないのはそれ相応の理由があるのだとは言え、石長姫巫女と言葉を交わす機会を得るのは特別なこと。
その特別をあの従妹は許されているのだと思うと、これから程なく行われる顔合わせで落ち着かぬままの美鈴の胸に、何とも薄暗く嫌な影が加わった。
有象無象、同世代の少女らの中、自分だけは特別な存在だとの思いが甘く蜜の香りを香らせる少女期に、自分以上特別な存在は蜜の甘さに不要な苦味を加える。
その感情の正体は言葉にしてしまえばとても簡単で単純な物ではあるが、高い自尊心があればこそ、美鈴は自分が時折従妹に抱く感情に気付かぬそぶりで竹林の小道に消えてゆく沙耶の後ろ姿を見送りながら、深まった眉間の皴の理由をもうすぐこの部屋に訪れるだろう来客らのせいに、大きくまた一つ溜息を吐いた。