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アルスはくしゃみをした。埃まみれの部屋をずっと掃除していたのだ。あとは水が乾くのを待つだけだ。この部屋は北東の角部屋の半地下にあり、部屋の上部についている窓からは外が見えるのだが、太陽が見えず時間がよく分からないが、今は昼過ぎのようであった。ルジェは両親と会うと言っていたが、アルスのせいで咎め立てされていないだろうかと心配だがアルスには何もできない。
昨夜やってきたロシュフォールによって、アルスはこの部屋に軟禁されていた。どうやら最初に衛兵がやってきた時点で部屋に閉じ込められるはずだったのが、アルスが通常では考えられない立場にいたために衛兵は勘違いしていたらしい。「ランゼールから使者が戻るまでは身柄は拘束させていただきます」という有無を言わさない言葉を受けて激昂するルジェを背に隠すようにして、アルスは粛々とロシュフォールに従った。これぐらいの処置は考えなくても当たり前なのだ。事を荒立てず穏便にしていないと、エーヴェルトからの手紙によってはとんでもないことになりかねない。
とはいえ、軟禁といっても待遇は悪くなかった。扉の外には衛兵が立っているから用があれば呼べばいいし、用便どころか沐浴も許されている。食事は一日に二回だが、一食の調達にも困ることのあったアルスにとっては十分すぎる。アルスは寝台に横たわっていつしか眠りこんでいた。
* * *
ルジェは欠伸を噛み殺した。少しばかり緊張しながら両親に謁見したが、拍子抜けするほどあっさり終了し、今は母ドレイユと昼のティータイム中だ。陽だまりと口の中にほのかに残る甘さが眠りを誘う。
母ドレイユは生まれ育った国柄のせいか新しいものや珍しいものに寛容だ。「面妖な者をお連れになったと聞きましたよ」と、帰城の挨拶を述べた直後、気品溢れる口ぶりの中に好奇心をたっぷりと含めて切り出したのは母であった。横で父王が軽く難色を示していたがそんなことに構っている場合ではない。大国ランゼール王家の血を引く母はその強大な後ろ盾が持ち、ルジェの兄に当たる王太子を産んでいるため、王である父と多少の不和があってもその立場は弱くない。アルスを守ることができると踏んだのは母の存在があったからだ。母を味方につけなければと意気込んでいたルジェにはまさに絶好の状況で、だからこそあっさりと謁見を終えることができたのだ。
こうして長閑に過ごしていると、頭に浮かぶのは軟禁されているアルスのことばかりだ。自分がもっとうまく立ち回ることができればロシュフォールによって軟禁されることもなく、今も一緒に穏やかなお茶の時間を過ごすことができたかもしれないと思うと悔やまれる。17年間、それなりに王宮の中で生きる術を養ってきていたと思っていたが、思えば自分から何か積極的な行動を起こしたのは月白城に隠棲しようとしたときだけだ。いきなり大事に立ち向かうには能力と経験値が低すぎたのだろう。いくら護衛も兼ねているからといって、慣れない環境にいるはずのアルスに助けられてばかりだ。こんなことではいけない、とそっと決意を新たにした。
* * *
アルスとルジェが再会を果たしたのは夕刻のことである。夕食の準備で人々が慌ただしくしている時間を見計らってルジェはアルスのいる部屋の小窓に向かった。外から声をかけるとアルスは驚いたようだった。寝台を窓の下に動かして窓越しに顔を近づけた。
「大丈夫、アルス?」
「なかなか快適に過ごしてる」
今日も変装の化粧はしているが声を変える薬は飲んでいないようで、朗らかに笑いながら言うアルスに安心してルジェも固くなっていた表情をほぐした。
「これ、残り物なのだけれど差し入れよ。ケーキ好き?」
アルスはきょとんとした顔をしてルジェからケーキを受け取りぺろりとクリームを舐めた。途端に驚きの表情の後、顔がくしゃりと歪んだ。醜く化粧を施した顔で顔を歪められるとかなり怖いものがあるのだが、どうやら笑っているらしい。
「甘い」
「ケーキだもの」
「初めて食べた」
今度はルジェが驚いた。
「甘いものは大抵の庶民には高級品なんだ。簡単に手に入るものじゃないし、そういうものを売っている店では門前払いだったんだよ。ありがとう、ルジェ、大事に食べる」
「ううん、また持ってくるわ」
アルスは小さないちごのケーキを幸せそうに食べていた。いつもは男のように振る舞っているのに、アルスはところどころの行動に不思議とかわいらしさがある。ルジェは足早に部屋に戻りながら、くすりと笑った。