1p.聖女の死
聖女さまが殺されたという一報が宿直室で仮眠をとっていた私——アレクシス・バートの耳に入ったのは、クアノス暦八百四年五月二日の朝ともいえない時間帯だった。
使いまわされて綿がつぶれた布団からのそりと顔をあげると、オリバー・アーチボルト先輩が焦った顔で私を見下ろしていた。
堅物と名高い副警視総監である彼がここまで焦った表情を浮かべているのは、私が警察という職業に就いて二十年が経つが初めてのことだ。幼い少女が暴漢に襲われて、無惨な姿で発見された事件でさえ、片眉をひそめるだけだったオリバー先輩は目が合うとおもむろに口を開いた。
「起きろ。聖女さまが殺された」
はて、と首を傾げた。まだ機能しない頭を動かして、オリバー先輩の短い言葉を脳内で反芻させる。
聖女さまといえば、歴代最年少にして教会から称号を得たアリスティア・オルコットさまのことを指しているのはわかった。
けれど、殺されたというのは何事だろうか。
聖女さまの周りにはいつも大勢の人間が付いているのは周知の事実だ。遠目からだが、アリスティアさまが姿を現す際はいつも聖女候補であったご友人方や白騎士たちに囲まれていた。聖女候補であったご友人方は各々が〝癒し〟系統の【祝福】を持ち、白騎士団は聖女さまを守るため、戦闘よりも守護に特化した精鋭部隊だ。
彼らの護衛を掻い潜り、アリスティアさまを害せるものがいるとは思えない。
私はタチの悪い悪戯だと思った。オリバー先輩の性格を誰よりも理解していても、アリスティアさまが殺されたという方が現実味がない。そう結論づけると、もう一度、惰眠をむさぼるため、布団を持ち上げた。
「ご友人達に殺されたんだよ」
そんな私の心を悟ったのか、オリバー先輩は言葉を吐き捨てた。
「いいから起きろ」
命じられて、私は渋々、布団から起き上がった。
ラックからコートと帽子を外して着込みながら「なぜ」と問いかける。
「分からん。現場に急ぐぞ」
そう言ってオリバー先輩は宿直室を出て行こうとするので、私も急いで後を追った。歩を進めるたびに寄木細工の廊下がわずかに軋む音がする。淡い欅の木目と深みのある紫檀が織りなす幾何学模様が、パズルのようだと思っていると署内全体がなにやら騒がしいことに気がついた。すれ違う者の表情は焦りと困惑に満ちており、それは階級が上になるほど顕著であった。彼らの雰囲気に気圧されたのか、反対に留置所にいる囚人はおとなしい。いつものように怒号や壁を蹴る音は聞こえない。
ここでやっと私の意識は覚醒した。
いつもは冷静な先輩や同僚が焦り、自分勝手な囚人ですら空気を読むなど今まで無かったことだ。王家よりも親しまれ、信仰されているアリスティアさまが亡くなる以外ありえない。
「やっと目が覚めたか」
先を行くオリバー先輩は一瞬だけ振り返ると呆れたようにつぶやく。
独り言のようだったので、私は返答せずに、今現在までに得た情報を頭の中で組み立てた。ご友人方に殺害されたと聞いて思い浮かぶのは、いつもアリスティアさまと生活を共にしていた五人の少女だ。
彼女たちは聖女候補生として、アリスティアさまと同時期に教会に選ばれた。聖女の任命期間は【祝福】が衰えるその時まで。先代聖女も高齢となり、その力に衰えが見えはじめたため、大陸全土から〝癒し〟の【祝福】を持つ者が集められた。
集められた少女たちは教会で三年の年月を共に生活する。その中で聖女に選ばれるのはたった一人。もっとも素質がある者だけ。今代の聖女はアリスティアさまが選ばれ、他の候補生は故郷に返されるはずだった。
だが、五人はアリスティアさまの補佐をすると首を振ったため、修道女として教会に籍を置き続けている。
しかし、考えれば考えるほどご友人方がアリスティアさまを殺害するだなんて思えない。
オリバー先輩に詳細を聞こうと顔をあげた時、自分が玄関口にいることを理解した。オリバー先輩の後に続き、手配された馬車に乗り込む。私が椅子に座ると同時に、対面に腰掛けたオリバー先輩は事件の概要を喋りはじめた。
「アリスティアさまは所属なされる教会の祭壇に背を預ける形でお亡くなりになっていた」
ということはこの馬車が向かうのは教会だ。教会は国の中央に位置しており、警察署からはそう遠くもない。
ただ、早朝とはいえ、国の中心部は人でにぎわっていることだろう。
その中をあえて馬車で向かう理由とは、帰りは囚人である少女たちを乗せるということだ。
馬車の大きさから、定員はおよそ六名。地位の低い警部である私は帰りは馬車を降りて徒歩になることを覚悟した。
「異変に気付いたのは掃除夫で、いつものように教会の掃除に向かった。扉を開けるとご友人方が膝をつき、祭壇に向かって祈りを捧げていたそうだ」
馬が嘶くと共に馬車が走りだした。カーテンをめくり、外を観ながらオリバー先輩の話に耳を傾ける。
「掃除夫が友人方に話しかけても、彼女達は一言も発しなかった。……おい、聞いているのか?」
「聞いていますよ。ただ、霧が濃いなと思いまして」
ガロン連合王国の首都エアブルク州。海に囲まれたこの国は一年中、全体が霧に包まれているのだが今朝は特にひどい。少し先の風景ですら濃霧に包まれて、建物の輪郭すらおぼろげだ。
聖女さまが亡くなられた日だというのに、いや、亡くなられた日だからだろうか。国全体が落ち込んでいるようにも見えた。
「霧などいつものことだろう」
「そうですね。それで、続きは?」
オリバー先輩はあからさまにため息を吐くと肩を落とした。
けれど、私の態度に言及するのは無駄だと理解しているのか、気難しい表情のまま話を続けた。
「喋らないご友人方を異質だと感じながら、掃除夫は祭壇へと近づいた」
私は脳内でその状況を思い浮かべた。水の張ったバケツに掃除用具を携え、教会の扉を開けた掃除夫は、まずはその光景に言葉を飲み込んだことだろう。
微かな陽光すら集めて七色に輝くステンドグラスの下、聖母カイラの彫像と十字架が荘厳な雰囲気の中で佇んでいる。
その前で友人方は五人で仲良く並び、床に膝をつき、指を絡ませて、頭を深く下げていた。
掃除夫が彼女達に近づく。
そして、反射的に足を止めた。バケツの水面が揺れて、跳ね上がった水滴が床を濡らした。白亜の床を広がる血溜まりと混じり——。
そこまで想像したところで不満げな視線が突き刺さるのに気がついた。面をあげると、オリバー先輩が私を睨めつけている。深緑の瞳は怒りで濁り、彼の心情を表しているようだった。
「その悪癖を直せ」
「つい癖で。話は聞いていますので、続きをどうぞ」
はあ、と大袈裟に息を吐くとオリバー先輩は肩を落とした。言いたいことはたくさんあるようだが、これ以上は言及せず、膝の上に置かれた拳へと視線を落とす。
「聖女さまのご遺体は、異質といっていい有様だった」
オリバー先輩は顔をしかめた。
「祭壇を背に亡くなったと言っていましたが、なにかされたのですか?」
「腹を裂かれていた」
オリバー先輩は自らのみぞおちから下腹部までを指でなぞった。
「今現在、裂傷はこの一カ所のみと報告があった」
現場検証が終わっていないため、アリスティアさまの亡骸は未だ教会に安置されている。その後、検死がされる予定なのだが、アリスティアさまは聖女である。そのお身体は聖母カイラさまのものであり、同性であっても触れることは許されない。
明らかな他殺であり、犯人も自白しているので満足のいく検視もされないまま埋葬されそうだ、と思った。実際に王族や貴族が亡くなった際には検死と呼ぶのも甚だしい、体裁を整えるために行われた場面を何度も見ている。
私は呆れてため息を吐く。オリバー先輩が胡乱げに眉を持ち上げてみせたので、急いではりぼての笑みを浮かべた。彼の説教は長くてねちっこい。今まで散々味わってきたため、それを回避すべく、神経を尖らせた。
「ご友人方はまだ年若い女性ですよ。人の腹を刃物で裂くだなんて無理では?」
「五人もいるんだ。不可能ではない」
「押さえつけた跡はありましたか?」
「それは、まだ報告に上がっていない」
「上はどこまで検死をするつもりですかねぇ」
私の言葉に、オリバー先輩はなにも答えない。彼もアリスティアさまの検死は形式上のものであると理解しているようだ。
重たい雰囲気から意識をそらすべく、私は窓の外を眺めた。アリスティアさまの死を知らない国民が眠そうに往来を歩いている。後に事件の内容を知った彼らはどれほど取り乱し、未来を悲観するだろうか。ぼんやりとくだらないことを考えていると馬車がゆっくりとスピードを緩めた。
薔薇の蔓が這うアーチの向こうには白亜の教会がそびえ立っている。この国が建国した時代から現在まで残されている建物は、十数年に一度、改修を繰り返しているため、今もなお美しい外観を保っていた。
「聖女さまが殺害されたなんて思えない光景ですね」
「本当にな。悪夢を視ていると言われたほうが嬉しい限りだ」
アーチの前に馬車が停まった。
オリバー先輩に続いて、私も下馬する。
「確かに。まだ夢の中ならどれほど良かったものか」
私はアーチに絡まる薔薇へ手を伸ばした。朝露に濡れた薔薇の蕾はもうしばらくしたら大輪の花を咲かせるだろう。
本当に、今日がガロン連合王国において〝最悪〟と形容される歴史的な日になるとは到底思えない。
「遊んでいないで早くしろ」
鋭い言葉が飛んできた。私は急いでオリバー先輩の元へと向かった。
教会に近づくにつれて、空気が張りつめるような、肌がちりちりと焼けるような異様な雰囲気があたりを包み込んでいることに気が付いた。耳を澄ませば、困惑がにじむ男性の声やすすり泣く女性の声が聞こえる。
「気を引き締めろ」
オリバー先輩は短く忠告すると教会の扉を開けた。薔薇の色濃い匂いを、異国の情緒を感じさせる匂いが塗り替えていく。
おかしい、と直感的に思った。私は鼻が利く人間ではないが、多くの事件現場を見てきている。その特有の空気は誰よりもよく理解していた。
「遅くなって申し訳ございません。ガロン警視庁、副警視総監オリバー・アーチボルトと申します。隣にいるのは部下のアレクシス・バートです」
気を引き締めるとオリバー先輩を真似て、敬礼する。この場にいた二十数名の視線が私達に突き刺さる。
「お待ちしておりました。こちらへ」
祭服に身を包んだ男が落ち着いた動作で前に進み出て、頭を下げた。歳の頃は四十を少し過ぎた頃だろうか。頭髪は薄く、くすんだ金髪の中に白い毛が混じっている。目元には色濃い隈があり、たるんだ目尻や頬がブルドッグのようだ。
男は大司祭を務めるアイザック・フェルトンと名を名乗った。
私は驚いた。アイザックさまは爽やかな容姿の持ち主で、歴代でもっとも慈善活動に力を入れた大司祭として名を馳せている。極度のストレスからだろうか、その顔はやつれて美男子と持て囃された面影がない。
「聖女さまはどちらにいらっしゃられるのですか?」
「……こちらです」
アイザックさまは少し考える素振りをみせると踵を返して、教会の奥へと進んでいく。祭壇を囲むように集まっていた者達がざっと左右に分かれて、道を作ってくれた。
——その先では白い薔薇が咲いていた。
否、薔薇ではない。少女だ。ウェデンググレスを身にまとった美しい少女が祭壇に背中を預けて眠っていた。
「彼女が今代聖女アリスティア・オルコットでございます」
アイザックさまの説明に相槌も打たず、私達は彼女の美しさに呆然とした。滑らかな肌は綺羅をまとったように白く輝き、まろやかな頬は桃色に染まっている。そっと閉じられた長いまつ毛は目尻に陰を落とし、わずかに開いた桜唇からは今にも吐息が聞こえてきそうだ。
死んでいる、と事前に告げられていなければアリスティアさまは眠っていると錯覚してしまうほど、安らかな顔をしていた。
「……なぜ、聖女さまはウェデングドレスを?」
重々しい口調でオリバー先輩はつぶやく。
アイザックさまは目を細めながら答えた。
「《《犯人たち》》に聞いても答えてはくれませんでした」
「ご友人方はどちらに?」
「地下に貯蔵庫があります。そこにみなさんが来るまでの間、見張りをたてて閉じ込めました」
オリバー先輩とアイザックさまが口早に会話をする横で私は静かにアリスティアさまの元へ歩み寄った。その御身体に、床に散らばる髪すら触れることがないよう、一メートルほど距離をとって立ち止まる。
柔らかな肢体を包むウェデングドレスは巷で流行りのフリルをふんだんに使われた意匠だった。
乳白の絹地には金糸で蔦文様が刺繍され、裾は幾重にも折り重なるレースが波のような形を作る。細い首元を真珠のネックレスが飾り、黄金の髪は複雑に編み込まれ、先が肩から床に流れている。ほつれた髪の隙間からは紅玉が妖しく煌めいていた。
「薔薇?」
ウエディングドレスと同化していて気が付かなかったが、近付いたことでアリスティアさまが白薔薇を抱きしめていることに気が付いた。
少し横にずれると腹部の絹地が縦に裂けており、白薔薇の隙間からは柘榴のごとき赤い肉が顔を覗かせている。切り口が血で汚れていないところをみると、少女たちはアリスティアさまを殺害した後に血抜きをしたのだろう。
「アレクシス、なにか気になることがあったのか」
極限にまでひそめられた声が聞こえた。私は肩をすくめながら声の方向を振り返る。
アイザックさまとの会話を終えたらしい、オリバー先輩が気難しい顔をしていた。
「びっくりさせないでくださいよ」
私も声をひそめて答える。
「神秘的だな、と思いまして」
オリバー先輩が口元を歪ませた。これは彼が怒る直前だということを意味している。
私は急いで先ほどの発言の意図を補足した。
「本来、聖女さまが着ることのないウエディングドレスに白薔薇とは。これを意味する事とはなんでしょう」
聖女とは生涯、清らかな身であることを求められる。その任を解かれても誰かと交際することも、結婚することも許されてはいない。
そんなアリスティアさまに純潔の象徴たるウェディングドレスを着せる意味とはなんだろうか。いくら小柄な少女であっても、亡くなった人間の衣服を着替えさせるのは簡単ではない。それも体の血を抜くというひと手間があるのに。
「聖女さまは結婚に憧れがあった、または——」
「口を慎め。いつもの妄言なら後でたっぷり聞いてやる」
妄言ではない。私が口にするのは、私がこの目で見て、この耳で聞いて、この頭で考えた末の言葉のみである。
まあ、これを言ってもお咎めが飛んでくるのは経験上、理解しているため私は唇を噤む選択をとった。
私が黙ったのを確認すると、オリバー先輩はアイザックさまの元へと戻っていく。この後の予定を話すのだろう。
「……幸せそうだな」
殺されたはずなのにアリスティアさまは幸せそうな顔をしているのが不思議に思った。




