とりあえず逃げたい話
「町本さん。この本図書館に返してもらってもいいかしら?」
放課後。
やることもないし、早く家に帰って新しい問題集でも解こうかと意気込んでいた私に、職員室前ですれ違った社会科の先生が、申し訳なさそうに声をかけてきた。
生徒会の推薦のための点数稼ぎ半分、親切心半分で、快く承諾すると、彼女は、よかった、と笑って、資料集を三冊ほど私に手渡した。
「第三図書室の社会科の棚までお願いね」
「はい、わかりました」
「じゃあ、さようなら。気をつけてね?」
職員室に入る彼女を見届けて、私は、はて?と立ち止まる。
「第三図書室って…どこ……?」
星条の校舎は広い。
教室棟に専門教科棟、体育館が三つに地下には武道場がある。部活棟があれば、レストランに見紛うほど立派な食堂も単体の建物だ。
そして、星条の校舎の中で一際大きな存在感を放っているのが、図書館である。
裏門のすぐそばにある近代建築の大きな建物で、そんじょそこらの市営の図書館と張るくらいには巨大な施設である。
蔵書もかなりあり、大学のほうと兼用になっているため、専門書も多く取り揃えてある。
ただ、確か、ここはふつうに“図書館”と呼ばれていなかっただろうか?第二や第三といった呼ばれ方をしている場所なんて聞いたことがない。
ひとまず入学式の後にもらった校舎案内図を確認するために、私は廊下の脇によってかばんの中を漁ることにした。
「…ファイル……、どこに入れたっけなあ…」
「…おい」
「机の中かなあ…、ないなあ……」
「おい、聞いているのか?おい!」
「教室かあ…、戻るのめんどいなあ…」
「っっ!!邪魔だ!どけ!!人の話を聞けっ!!!」
後ろから、おそらく私に対して声を上げている人物には十分心当たりがあった。十分あったからこそ、私はあえて聞こえないふりをしてその場から意地でも動かなかった。
小さいながらもあのときの仕返しである。
私は小さなため息を隠して、さも今気がついたかのような演技をしながら後ろを振り向く。
口元をひくつかせながら私を見下ろす男は予想通り、あの、俺様暴君であり、私は心の中で二度目の対面を嘆きながらも、表面上は一度難癖をつけられた男に再び迫られておびえるか弱い女子生徒を演じた。
「あ、あの!すみません!お邪魔でした、よね?」
「ああ邪魔だ。こんな職員室の前でかばんの整理なんか始めるな。迷惑だ」
「………」
まあ、あれだ。カチンと来た。
この男は、本当に人をいらだたせるのが上手い、というか、私をいらだたせるのが上手い。
もし私がいつもの調子であれば、負けん気の強さでもって、確実に何かやらかしているだろう。
しかし、私はここが乙女ゲームの世界だということを知っているし、私がヒロインでこの男がメインヒーローであることも知っている。
だから私は彼の挑発に対して真正面からの反発ができない。
地味でおとなしい、何も言い返せないようなつまらない女の子を演じ、無視や勉学での遠まわしの仕返しのみが、私が目立たずに出来る最大の反抗なのだ。
「あの、すみません、でした。では、急いでいますので…」
しかし、そう頭では理解していても、ストレスは一方的にたまり続ける。
発散する手段が微々たる物である以上、私はやはり、あまりこの男と関わるべきではないのだろう。いつ自分の我慢が限界を迎え本性をさらしてしまうかわからない。
放課後の職員室前は以前のときとは異なり、圧倒的にギャラリーは少ないが、しかし、そうなったときが、この世界でも終わりだということは十分理解している。
だから私は今回も、足早にその場から立ち去ることにした。
「おい、待て」
「…」
そしてやはり、世界はそれを許してはくれない。




