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第二部:三河一向一揆の決断

急進的な三河統治を進める松平家康に対し、宗教的権利を守ろうとする寺院と民が一斉に立ち上がり、未曾有の内乱「三河一向一揆」が勃発する。

「人間は義理や情ではなく、利害と恐れで動く」という冷徹な思想を持ち、家康の側近に上り詰めていた本多正信。しかし、国を二分するこの大乱において彼が選んだのは、主君への忠義ではなく「一揆勢への加担」であった。

正信は信仰のためではなく、主君・家康の「若さと甘さ」、そして「支配者としての器」を自らの謀略で極限まで試すべく一揆の参謀となる。家康の性格や城の弱点を完璧に把握した正信の心理戦と伏兵の策により、家康は二度の銃撃を受けるなど、討ち死に寸前の窮地へと追い詰められていく。

泥にまみれ、死の淵で自らの過慢と向き合った家康は、苦闘の末に人間として大きく脱皮し、一揆を収束へと導く。敗者となった正信は、主君の成長と器を確かめ届けると、一切の赦しを請うことなく、十五年に及ぶ流浪の旅へと姿を消すのだった――。

一、暗雲の三河と不穏なる兆し


 永禄六年(1563年)秋。桶狭間の戦いにて今川義元が倒れて以降、松平家康(後の徳川家康)は今川家から独立し、三河国の統一に向けて急速に自らの支配力を強めていた。

しかし、急進的な集権化は、古くから三河の地に根を張る武士や領民たちの激しい反発を招く。

特に最大の火種となったのが、圧倒的な財力と自立性を誇る「一向宗(浄土真宗)」の寺院勢力であった。


三河の主要な一向宗寺院――本証寺、上宮寺、勝鬘寺などは、それまで「不入の権(領主の検地や警察権の介入を拒否する特権)」を認められていた。

だが、財政難と戦資金の確保に追われる家康の臣下が、一向宗寺院の境内に踏み込んて米を強制徴発する事件が発生する。


「不入の特権を侵すは、仏法への不敬! 仏敵・松平家康を討て!」


寺院の呼びかけに応じ、何万もの門徒(信徒)が一斉に立ち上がった。


三河一向一揆の勃発である。


 この報せは、松平家臣団に巨大な亀裂をもたらした。三河武士の多くが一向宗の熱狂的な門徒であったからだ。

夏目吉信、酒井忠尚、内藤清長、そして本多一族の多く――普段は家康に忠誠を誓う武士たちが、「主君への忠義」と「阿弥陀如来への信仰」という二者択一の板挟みにあい、苦悩の末に次々と一揆勢へ身を投じていった。


本多正信の屋敷でも、兄・正重と父・俊宏が重苦しい空気の中で対峙していた。


「正信! お前はどうするのだ!」


兄の正重が、血走った目で正信を詰問した。


「我が本多一族は代々の本証寺の門徒。阿弥陀様を裏切れば、あの世で無間地獄に落ちるぞ! 殿(家康)の今回のやり様はあまりに横暴だ!」


正信は、机に広げた三河の地図から目を離さず、静かに、そして素っ気なく返した。


「兄上。地獄か極楽かなど、死んでみねば分からぬことです」


「なに……! ではお前は殿の側に残り、一族に向かって槍を向けるというのか!」


正信はゆるりと顔を上げ、冷ややかな眼差しで兄を見つめた。


「いいえ。わしもまた、一揆勢に与いたします」


父・俊宏が驚いて身を乗り出した。


「正信! お前は殿に『利害で人を縛れ』と進言し、側近として重用されていたではないか! なぜ殿を捨てる?」


正信は薄く微笑むと、静かに地図の上の一点を指差した。


「殿のやり方は焦り過ぎにございます。三河の武士の本質は『愚直なまでの信仰と身内の情』。

それを強引に力で屈服させようとすれば、自らの土台を突き崩すことになる……。わしは一揆勢に入り、殿の『若さと青さ』を底の底まで叩き潰してまいります」


父も兄も、その言葉の意味を正しく理解できず、ただ寒気を覚えるばかりであった。

正信が一揆勢に投じたのは、純粋な信仰心からではなかった。

家康という器が本当に天下を盛るに足りる人物なのか、自らの知略をもって徹底的に試すための、冷酷な実験であったのだ。

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