プロローグ:歴史の深淵に潜む男
武功と槍働きがすべてを支配する戦国時代において、刀を一度も振るうことなく「智謀」と「人間の心理(利害と恐怖)」を操ることで徳川の天下をデザインした男――本多佐渡守正信(ほんだ さどのかみ まさのぶ)。
後世に「天下の悪知恵」「暗謀の徒」「妖怪」と恐れられた参謀の波乱に満ちた八十年の生涯と、主君・徳川家康との間に結ばれた深い「暗き絆」を描く重厚な超長編歴史小説です。
元和二年(1616年)六月四日。初夏の眩い日差しが、開府から間もない江戸城の黒漆の廊下を濡らしていた。
蝉の声が遠く聞こえる城内の一室で、老人が一人、肘掛けに寄りかかりながら静かに息を吐いていた。
本多佐渡守正信――享年七十九。
その肌は乾いた枯木のように乾き、深く刻まれた目尻の皺は幾重もの陰影を作っていた。
だが、落陽の如き老躯の中に据えられた両眸だけは、まるで研ぎ澄まされた冷徹な漆黒の刃のごとく、鋭い光を放ち続けている。
つい二ヶ月前、駿府にて「神君」徳川家康がこの世を去った。
大名や旗本たちはむせび泣き、徳川の世の終わりを恐れて動揺した。
しかし、正信は涙ひとつ流さなかった。ただ、亡骸の傍らに座し、家康の冷たくなった手を握りしめながら、静かに自らの内なる時計が止まりゆくのを感じていた。
「上様……間もなく、わしも参ります。あなた様が作り上げたこの太平の棋盤、最後の駒の配置を見届けてからにいたします」
武功と槍働きがすべてを支配する戦国の世において、この男は異彩を放ち過ぎていた。
織田信長が苛烈な武力で天下を焼き尽くし、豊臣秀吉が絢爛たる人情と金銀で人心を掌握したとすれば、本多正信は「人間の欲望・恐怖・猜疑心」という目に見えぬ糸を操り、徳川の世を設計した男であった。
刀を抜いて敵の首を挙げたことなど、彼の長い生涯において一度すらない。
にもかかわらず、戦国の諸大名も、江戸幕府の重臣たちも、さらには京の公家や門跡までもが、この白髪の老人の一言に戦慄した。
人は彼を影でこう呼んだ。
「天下の悪知恵」
「暗謀の徒」
「徳川の懐に潜む妖怪」と。
正信自身、そう呼ばれることをむしろ好んでいた。
武勇を誇り、名を後世に残そうとする武士ほど扱いやすい駒はない。
名誉や面目を重んじる者ほど、小さな自尊心をくすぐり、あるいは失脚の恐怖を植え付けることで、容易にその意のままに動かすことができるからだ。
「名など、捨ててこそ役に立つ。天下を治める者に必要なのは、美名ではなく、誰にも見破られぬ冷徹な不変の仕掛けなのだ」
正信の真骨頂は、表舞台に決して姿を現さないことにある。
合戦の陣中においても、彼は常に家康の背後に座し、耳元で短く囁くだけであった。
「殿、ここは攻めるに及びませぬ。敵は自らの猜疑心で自滅いたします」
「あの将には過分な恩賞をお与えなされ。恩に潰され、やがて他の重臣から嫉妬を買って孤立いたしましょう」
その言葉通りに歴史は動き、徳川家康は幾重もの絶体絶命の窮地を脱して天下人へと登りつめた。
家康にとって正信は、ただの臣下ではなかった。
自らの内に秘めた「冷酷な現実主義」と「暗い野望」をそのまま映し出す鏡であり、代わりのきかない「もう一人の己」であったのだ。
ふと、部屋の障子が静かに開いた。
正信の長男であり、今や幕府の権力を握る本多佐渡守正純が姿を現す。
「父上、体調はいかがでございますか。将軍・秀忠様より、お見舞いの品が届いております」
正純の誇らしげで、どこか万能感に満ちた顔つきを見た瞬間、正信の瞳の奥に深い暗雲が立ち込めた。
この息子は頭脳明晰ではあるが、致命的な欠陥がある。己の知恵を誇り、権力の威光を隠そうとしないことだ。
「正純……」
枯れ木のような声が、静かに部屋に響いた。
「はっ、何でございましょう」
「わしが死んだら、決して三十万石などという過分な知行を望むな。そして、徳川の家中で誰よりも低く頭を下げよ。影が光よりも目立とうとした時、その影は自らの光に焼き尽くされるのだ……」
「父上、何を気弱なことを。我ら本多親子の功績は、徳川の世において揺るぎないもの。秀忠様も我らを頼りにしておられます」
正純は笑って聞き流した。その姿を見つめながら、正信は深く、深く心の中で嘆息した。
(見えぬか、正純。お前が掴んでいると思っている権力こそが、お前を呑み込む怪物の口なのだということが……)
己が死した後に訪れるであろう息子の悲劇、そして徳川の世が辿る血生臭い暗闘の予兆を、正信はその冷徹な眼差しで見抜いていた。
だが、正信に悔いはなかった。
三河の異端児として生まれ、主君を裏切り、諸国を流浪し、やがて「妖怪」として天下の骨組みを作り上げた八十年の生涯。
窓の外を見やれば、江戸の城下町からは、威勢のよい職人たちの声や、遊ぶ子供たちの歓声が風に乗って運ばれてくる。
かつて日本全土を覆っていた血と硝煙の匂いは、すでにどこにもない。
「上様……見事な世になりましたな。誰もが刀を捨て、平和に退屈する世でございます」
正信は小さく微笑むと、静かに目を閉じた。
刀ではなく「知謀」という目に見えぬ刃で時代を切り拓き、二百五十年にわたる泰平の礎を築いた男の物語――その波乱に満ちた壮大な記録が、いまここから紐解かれる。




