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夢中  作者: ツノウサギ
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 〈 ○月▲日 〉




 空気が湿ると、身体からイライラが出ていかなくていけない。


「高沢ちゃん、このお店来てまで塩鯖?」


 ダイエットしてるの、という不躾な問いには答えず、小声でいただきますと口にする。


 今朝は遅くまで夢にいたせいで昼食を用意できなかった。

 私は、他人と共にするご飯ほどストレスの募るものはないと思っている。食事こそ一人で楽しみたいものの筆頭であるからだ。

 だけど今日はお弁当を用意し忘れたし、お店で食べることもあまりないしたまには、ということで会社から少し離れた定食屋へとやってきたのだ。


 そこに上司がいた。


 定期的に女社員の尻を覗いている、腹をたっぷりと蓄えた男である。その腹の反面、髪の在庫は少ないようだ。


 普段同僚とあまり話さないし、昼休みの時間に店に入ることも殆どしてこなかったので、この男に贔屓の店があることを失念していたのだ。まあ、忘れていなくてもこの店だということは分からなかっただろう。

 店に入ったところで目を合わせてしまったので無視するわけにもいかず、渋々その上司が座っているカウンター席の横に行ったのだった。


 今、彼──大内(おおうち)部長はさも幸せそうにこの店名物だという豚の生姜焼きを頬張っている。その腹の主成分はそれだろうか。

 水を飲むふりして私の尻に目をやるあたり、盛りのついた狸である。


「そういえば、最近高沢ちゃんよく有給とるよねぇ」


 話し掛けられていることに気付けず、数秒空けた後に「あぁ、はい」と返事をした。


「あぁはい、って……無愛想だなぁ。女性はもっと愛想よくしないとさ」


 部長はキャベツをお茶で強引に胃に流し込むと、私の方を見て「中野と旅行?」と訊いてきた。目を伏せざまに胸に視線をやってくる。あんた尻派じゃないのかよ。


「えぇ、そんなところです」


 中野くんは最近うちの会社を辞め、食品メーカーの開発部に入社した。「あいつも無愛想だったなぁ」と懐かしむように部長が言う。


「最初君らが付き合い出したって聞いたときはびっくりしたもんだよ。仲良さようにしてる素振りなかったもん」

「そうですね、私も告白されたときは少々驚いてしまいました」

「へぇ、中野から行ったんだ。あいつやるなぁ」


 視線と声が気になって塩鯖に集中できない。これだから食事を他人と共にしたくないのだ。


「えーと、なんの話だっけ。あぁ、旅行か。社会人は趣味持ったほうが良いからねぇ。僕は良いと思うよ」

「それはどうも」


 自分が良し悪しを決める側だと思っているのが癪に障るが、有給取らせないぞと意気込まれるよりはマシだと味噌汁を啜る。


「あっ、でも」


 右頬にお椀のようにした手を当て、囁くように部長が、


「あんまりはしゃぎすぎないでね? 出先だと浮かれちゃうかもしれないけどさ、その、デキちゃったりするとこっちとしても人手が減っちゃうから困るわけよ。あくまで、趣味と恋人の範疇に留めておこうね」


 と言った。


 私が味噌汁で口を塞いでいなければ、それは盛大な溜め息が放たれたことだろうと思う。




 バスが揺れると、窓の外の街灯が伴って線を走らせるのが好きだ。夏前の仄暗い午後七時。


 バスから降りると、その日一日の記憶を全て息に乗せて吐き出す。それでも受けた言葉や感触は脳みその皺の奥底に沈殿していて、簡単に取れてはくれない。

 私を舐めた視線も。私に掛けられた声も。私の視界に入った腹も。

 食事時に嫌な他人がいるだけで、こうも奥底まで侵されるのだ。誰だよ人と食べるご飯は美味しいなんて言ったやつ。


 今日はもう軽いシャワーと歯磨きだけしたらすぐ寝ることにしよう。そしたら、夢の中で今日と同じようなことをするのだ。

 塩鯖の味、帰りのバスの中から見た景色。


 少し弾んだ足取りで、マンションの玄関口に飛び込む。その先で、夢が大手を広げて待っているのだ。




 〈 ★月☆日 〉




 カチン、と音がして、互いのグラスが透明な火花を散らした。中で赤黒い液体が波と揺れる。


 グラスを傾けると口内に芳醇な香りが充満した。そして、真っ白なテーブルクロスが汚れないよう、口から垂れそうになったワインを拭った。

 酒は嫌いではないが苦手だ。アルコールもカフェインも抜けにくいたちなのだ。


 窓のほうを見れば真っ黒い中にいくつも光が瞬いている。このレストランはお酒のレパートリーもだが夜景も人気らしい。

 うむ、ずいぶんなビューティフルビューだが、一つ一つに残業している同士の影があると思うと社会人として手を合わせたくなる。ファイトー。


「やはり綺麗ですね。このレストランを選んでよかった」


 中野くんも窓の外へ目線を配っている。その顔には微笑みが浮かんでいて、表情筋が柔らかくなったもんだな、と思った。あの鉄仮面をどこに落としてきたのだ。


 なんとなく「お酒、好きなんだっけ」と訊いてみる。


「なぜ?」

「いや、告白してくれた日も居酒屋帰りだったでしょ? んで今日もお酒の豊富なお店」


「あぁ、なるほど」と中野くんは言って、「ただ、何かしようと思った時にお酒の力を借りているだけです」と言った。


「そっか」


 そうこうしている内にお料理が届いた。


 丁寧に所作をなぞって白身魚のクリームソースがけを口に運ぶ中野くんには、彼元来の堅物さが滲んでいるように見える。


 そもそも私が彼に興味を持った──まだ告白される前のこと──のは、堅物のくせしてまだ生まれたてのような、その不器用さからだったと思っていた。でも違っていたのだ。だからあのイルミネーションの日にドバドバと腑に落ちたのだ。

 そっか、ずっと勉強ばっかりしてたんだね。失敗で、自分をどっかに見失っちゃったんだね。今の君はまだ七歳なんだね。私は別にシンパシーとか感じてなかったよ。

 彼は不器用で、堅物で、他人の人生を生きていた。それはまさしく彼だけの積み重ねをした果ての人生なのだから、たぶん私は羨んでいたのだ。


 私たちはパクパクパクパクと、金平糖を口に投げ込むみたいに性急に食事にかかった。

 プラスチックボールでの会話のキャッチボールをして、上っ面に笑った。


 料理を食べ終えると、中野くんが小箱を開いて、銀色のリングを私に掲げた。


「結婚してくれませんか」


 その指輪はまるで、あの日首を吊った海岸で見た夕陽のようだった。


「ずいぶんと生き急ぐんだね」


 まだ付き合って半年過ぎたくらいだっていうのに。


「お互いアラサーに足を突っ込んでますし、巷では交際半年での結婚も珍しくないと聞きます」


「へぇ、」と吐息が音を帯びる。巷ねぇ。


「結婚適齢期のうちにゲットしとけ的なかんじ?」

「まさか。真剣に考えた末のプロポーズですよ」


 その真剣に、と、考えた、の間に「いろんな人間の意見を取り込んで」が入るんでしょう。そういうところだよ、君になんの興味も抱かなくなったのは。

 不器用さを捨てて思考をネット記事に頼ってデートのたびに恋愛に器用になっていく君は、君自身を捨ててるも同義なんだよ。


「お返事はいつでも構いません。ですけど僕の精神衛生上、半年以内に頂けると嬉しいです」

「うん」

「お返事を貰う前でも旅行にはいつだって付き合いますし、相談にだって乗ります」


 じゃあ、私に告白する前の君に戻す方法、相談していい。君の印象って言ったほうがいいね。


「デザート食べよう」


 とびきりたかいやつ、と私は言った。


 中野くんに告白される前の私は、彼の独自性に惹かれていたのかもしれない。堅物と不器用と仕事人間のハイブリッドな彼に。

 でも私に告白してきて、私といるとき妙に酒を呷るのも、仕事中も仏頂面を固めながら私に目線をやったのもただの恋情だと知って、心底興醒めしたのだ。そんな、誰でも抱く感情に振り回されるんだァ、と。

 恐らくあの冬の日に、私の現実への興味は枯れ果ててしまったのだろう。それでも元来真面目で仕事第一な人間だし恋人らしいことは好まないだろうと思ったから付き合ったのだが。


 中野くんはケースをテーブルに置き、開いた口をこっちに向けたままメニューに目を通している。ケースの中で、銀の輪っかが小さな宝石と調和していた。


 かつては、この人はどんな人間なんだろう、という興味の対象。

 そのあとは母から出てくる結婚話を避けるための人。

 そのあとは旅行に出るため、上司に旅行云々を突っつかれたときの言い訳のための供人。


 中野くんはケースの開いた口をこっちに向けたまま、パタンとメニューを閉じた。




 〈 ★月◆日 〉




 溺れてしまいたい、と思った。それは言ってしまえば溺れていることの裏返しなんだろう。

 夜道の深い黒はまるで海みたいだ。

 女一匹で夜道を闊歩するなんて夢の中でもない限りできはしない。


 サイダー片手に夜の住宅街を練り歩くとは、どこの半グレ学生だ。だが酒を飲む気分にもなれなかったので仕方ないだろう。

 プシュッ、と音がして、暗い湖面にゆるゆると広がる。

 久しぶりに飲んだサイダーは記憶通り、舌の上で辛かった。


 コツコツと、足音が響く。

 呼吸音が風に乗る。

 独りの心地がゆっくり身体に染み込んでいくようだ。


 人生を生きてると思えた。


 そこから、ゴールも決めずルートも決めず、惹かれるままに歩いた。細い踏切を渡り、線路沿いでスキップし、道に迷った。

 どこからともなく、赴くままに歩いて、


 その日の朝は寝坊した。



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