⑤
「おはよう乃亜。今日も暑いねえ」
いつもならまだ家で、コーヒーでも飲みながら朝のワイドショーを観ている時間。いや、まだ起床すらしていないかもしれない。そんな時間でも、勇太君は爽やかだ。
参考書の謝罪メールを送れば、すぐに約束は取り付けられた。夏休み中に二日連続会うなんて、家族か陸くらいだと思っていたのに。
「ご、ごめん!遅れちゃったっ」
とかした髪を結う余裕もなく、ほぼ起きたままの状態で息を切らせる私。
「そんなに待ってないよ。急がなくてもよかったのに」
「あ、暑い……」
「あははっ。そりゃそうだ。早いとこ中入ろーっ」
汗だくの私に対し、彼は清涼飲料水のコマーシャルに出演できそうなほどに清々しい。彼で涼をとれそうだ。
館内には多くの人がいた。勇太君は辺りを見回し呟いた。
「今日はけっこう混んでるなあ。こんなにも暑いから、余計なんだろうな」
冷房の効いている図書館は、猛暑日の人気スポット。
「あ、あそこの間、一個だけ席空いてる」
窓辺の席を指さして、彼は言う。
「あそこにもう一脚、椅子を持って行っちゃおうか」
壁際にぽつんと置かれた予備の椅子をそこへと運ぶと、彼は「すみません」と周囲に頭を下げて、設置した。
「乃亜できたよ。座って」
私が着席するまでの間、背もたれを持ち続けてくれた彼に、レストランのウェイターみたいだなと少し思った。
「じゃあ、何かわからないところがあったら、遠慮なく聞いてね」
私の隣、愚民では到底理解できそうもない問題集が、机の上に広げられた。こんなにもハイレベルな人間の傍でやるのが学校の宿題だなんて、今にも顔から火が出そうだ。
夏休み中一度だって触れなかった真白なプリントを、私はそっと取り出した。
「あ」
一問目を解き始めてすぐ。こつんとぶつかったのは、彼の肘と私の肘。私は「ごめん」と慌てて引っ込めた。
「こっちこそごめん。俺、左利きだからこんなに狭いとこで右側に座っちゃダメだよね。あたっちゃう」
席を交換しようと尻を浮かせた彼を、すぐさま阻止する。
「だ、大丈夫だよっ。このままでいいよ」
「え、本当に?」
「うん、平気平気。だから座って」
その言葉で、ゆっくりと姿勢を戻す彼。
「時々あたるかもだけど、ごめん」
彼は再びペンを持った。
席の交換を拒んだ理由はただ、自分の体温が座面に残っていると思い、恥ずかしかったからだ。この温もりは、大して仲良くもない人物とシェアできるものではない。
こつんこつんと案の定、幾度も私達の肘はぶつかった。こつんこつんと触れ合う度に、ふたり目を合わせてくすり、笑っていたけれど、そのうち気にも留めずに学習できたことが、不思議な感覚だった。
それからというもの、週に二度は勇太君から誘いがきて、私は図書館へと向かった。お陰であれだけ山積みだった宿題も、もう終盤。しかし、それ以外の時間を受験勉強に費やせない自分がいたのも事実だ。
暇を持て余しては友人に連絡を入れて、相手をしてもらえたりもらえなかったり。どちらかといえば、断られる方が多かった。
受験生の夏は、夏期講習や短期集中塾などで、皆一様に忙しい。「親が勉強しろって、うるさいんだもん」などと不満を漏らす友もいた。
今日の夜も父は不在、行き先は奈緒さんのスナック。私はひとり、家で過ごす。尻に火をつけてくれる母でもいれば、私も今頃熱心に、机へと向かっていたのだろうか。
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「おい乃亜、そろそろ宿題やらねえとやばいぞ。俺、ひとつもやってない」
とある週末、夜十時。陸からの着信。
「もー、こんな夜に電話してくるなしー」
「ごめんごめんっ。寝てたの?」
「ううん、すっごい起きてた」
「だったらいいじゃんかよ!とにかく作戦会議だ、今からいつもの場所集合なっ」
私がコンビニの前へ着くと、ふたつのカップを手にした陸が待っていた。
「はい、これ。乃亜の分」
湯気立つホットのブラックコーヒー。陸は私の好みを、ちゃんとわかっている。
店の傍に腰を下ろした陸は聞く。
「夏休みの宿題、乃亜もまだ全然やってねえだろ?今年はいつやる?」
陸と会うのは、川辺で子供達の花火を眺めた以来。真剣な話を有耶無耶に終えたにもかかわらず、普段通りに接してくる彼。いや、あの告白がおふざけだからこそ、もしかしたら普通にできるのかもしれない。彼の本音はわからない。
喉を通っていく体温より熱い液体に、汗が滲む。
「今年の宿題はさ、私もうすぐ終わるんだよね」
「おいおいまじかよ。やるならやるって言えよ。俺ひとりだけ焦るだろうがっ」
焦慮した陸をははっと笑って、私も彼の隣でしゃがみ込む。
「でも、長期休みの駆け込み宿題は陸との恒例行事だから、残りは一緒にやろうよ。手伝ってあげる」
その途端、彼は無邪気に微笑んだ。
「よっしゃ!」
「いつにする?」
「明日!俺んち!」
こんな些細なことでガッツポーズまで作るものだから、腹を抱えて笑ってしまった。




