④
自室の冷房温度を「弱」にして、ご無沙汰な教科書を開く。コチコチと時計の音しか聞こえない空間で思い出すのは、昔のことだらけ。
コーヒーから立つ白い湯気に母の面影を重ねては、どうせ死ぬんだったらかき氷でも何でも好きに摂れば良かったのに、などと思う。
母に逢いたい想いは、母が死んだあの日から変わらない。
私が近所の商店街を訪れたのは、その日の午後のこと。
受験勉強の何も進まずに午前は過ぎ、ただぼんやりと教材を眺める時間を終えた。
高校に行きたいとは思っていない。しかしそれならば、来年の自分は家で引きこもるのか、働くのか。そのどちらに進む勇気もない。
結局、夢がなくて進学する金が家庭にあるならば、大抵の人間は高校へと入学するのだろう。それがべつに、自分の行きたい道ではないとしても。
かたちだけでも受験生に近付こうと思い、リングノートやマーカーペンを購入した。
「あれっ。乃亜じゃん」
商店街の出口でそう声をかけてきたのは、同じクラスの菊池勇太君だった。
「久しぶりー。勇太君、買い物?」
「うん、ペンの芯がきれちゃって。それだけの為にこんな暑い中、出てきたよ」
「あつー」と左手をうちわにする勇太君。彼は学級委員であると共に、テストでも毎回上位に名を刻む、私とは別世界の人間だ。
「乃亜も買い物?」
「うん。ちょっとノートやペンを」
私が手元に抱えるそれ等を見て、彼は言う。
「乃亜も受験勉強してるんだ。えらいじゃん」
「勉強というか、これからというか……」
天と地ほどの差がある彼を前に、胸を張れることなどない。
彼は「そっかそっか」とひとり頷くと、何かを閃いたように手を叩く。
「買い物ついでに今から図書館に行って勉強しようと思ってたんだけど、乃亜もどう?」
キラキラした瞳を向けられて、あまりにも違う熱意を感じ取った私の首は、当の然、横に振るわれた。
「いや、私はいいや。参考書も何も持ってないし」
「そんなの、俺のを使えばいいよ。何冊かあるよ」
「いいよいいよ、帰る」
「ノートはあるんでしょ?」
「今買ったやつならあるけど……」
「じゃあ行こっ」
そう言うと、彼はくるりと反転し、どんどん図書館へ向かって歩み出す。
「ゆ、勇太君っ。ちょっと」
学校では知り得なかった彼の強引さに、思わず背中を追ってしまう。
タタタと速まる私の足音に、彼は振り向き立ち止まった。
「日陰探しながら、ゆっくり行こー」
その笑顔は、眩しかった。
館内での勇太君は、驚くほど真剣そのものだった。私は彼に貸りた参考書と向き合うふりをしながら、そんな彼の横顔に見入る。
しばらくして、元々皆無に等しかった集中力を更に欠いた私を悟った彼は言った。
「少し、休憩しようか」
図書館一階にある休憩所。ベンチに腰を下ろすとすぐに、彼はトイレに行くと言って席を立つ。ベンチ傍、小さなラック。雑誌を一冊取った私は、ぱらぱら捲って時間を潰した。
「ブラックとミルク、どっちがいい?」
上から降ってきた声に顔を上げると、そこにはふたつの缶を手にした勇太君。
「ありがとう。ブラックがいいな」
「じゃあはい、こっち」
黒の缶を渡した彼は、私の隣に腰を掛ける。
「そういえば俺、乃亜の連絡先知らないや」
白の缶をカコッと開けて、彼は言う。
「交換しようよ」
鞄から携帯電話を取り出す彼に続き、私もパンツポケットから同じ物を取り出した。
「その待ち受け、乃亜んちの犬?」
「ううん、近所の犬。勝手に撮っちゃった」
「あははっ。可愛い」
彼の待ち受け画面は、内蔵されたシンプルなものだった。
「じゃあ、私はそろそろ帰ろうかな」
ポケットに携帯電話を戻した私がそう言うと、彼は「もう?」と肩を竦めたが、席を立つ私が手を振れば、振り返す。
「また一緒にここで勉強しようよ。ひとりでやるより楽しいし」
「え。私、お邪魔じゃない?」
「そんなことないよ。また連絡する」
どう考えても彼の受験勉強に私は不必要だと思えたが、とりあえずは軽めに頷いた。本当に連絡が来れば、断ればいい。
「ばいばい」と彼に別れを告げて、十度は温度差がありそうな表へと出る。
「ほっんと、暑いなあ」
ぼやきながら歩く家路。自宅マンションの前まで来て、右手の違和感にふと気付く。
「あ」
そこには勇太君の参考書。彼とはまた近々会うこととなりそうだ。




