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第八章

そんなつもりはなかった。誰も殺すつもりなんてなかった。けれど殺してしまった。三人も殺してしまった。気付けば私は人殺しの化物になってしまった。

 一人目は事故だった。それに最初の被害者は(・・・・・・・)彼ではなかった。いつもとは違う表情と、荒い息遣い。体に伸ばされるその腕に言いようのない嫌悪感を覚え、手を上げてしまった。

それはもう簡単に。驚くほどあっさりと。彼は死んでしまった。知っていたのに。人間という生き物が酷く脆い生き物だと、あの時わかっていたのに。

たかが外れたように嬲って、嬲って。それでも全然気は収まらなくて、死体を嬲り続けて。気付けば彼の顔はぐちゃぐちゃになっていた。

爽快感は少しの間だけ。終わってしまえば、ただただ恐ろしかった。この後自分がどうなるのか。簡単に人を殺して笑っているこの私は、一体何なのか。

壊れてしまったものは、やはり直ることはなかった。壊れかけだったものはもっと激しく壊れだして、周りのモノまで巻き込んでいく。

二人目は、事故でも何でもなかった。自分で声をかけて、意図的に。怯える姿を嘲笑って、何度も執拗に。砕いて、砕いて。命乞いが笑い声に変わって、その声すらも聞こえなくなるまで。

もう未練はなかった。死んだ後、あの人の元へ行けるかはわからないけれど、もうこの世界に未練はなかった。ほとんど、未練はなかった。なかった筈だった。

こうならなかったであろう世界を、何度も夢想した。あの人は生きていて、その隣には私達がいて。そして家を出て学校へ行くと、彼が笑顔で迎えてくれるのだ。

未練はなかった。ほとんどなかった。けれどこの世界には彼が残っていて、今も変わらず私に笑いかけている。

本当に。なんて運の悪い。彼の行いの数々はあんなにも尊かったのに、神様はそんな事ただの一度も見ていなかったらしい。

私はその笑顔すらも、壊してしまった。残っていたわずかな幸せを、自ら壊してしまった。手にはずっとあの時の感触が残っていて、出来るのなら腕ごと切り落としてしまいたかった。

 近いと思われた破滅は、けれど一向に訪れず。人殺しの化物は、今もこうして生きている。自ら死ぬ事も出来ず。罪を告白する勇気もなく。ただただ、正義の死神の到着を心待ちにしている。

いつか、卑怯者と謂れのない事を言われた事がある。もう、いつの事だったかは思い出せないけれど。どうやら、あれは酷く的を射ていたようだ。


 小さな雨粒がフロントガラスを満遍なく濡らしていっては、ワイパーに弾かれていく。大方の予想通り、怪しかった空模様は午後七時を過ぎた辺りからゆっくりと崩れだしていた。しとしとと振り続ける雨は、すぐに止む事はないだろう。

 車内に会話はなく、ワイパーの作動音とエンジンの重低音がやけに耳につく。彼女の顔はどこか険しくて、とても話かけられるような雰囲気ではなかった。

 当然と言えば当然で、あんな話を聞かされたら誰だって気分が悪くなる。先程までは妄想でしかなかったそれは、彼女の情報と交わり今は確かな現実味を帯びていた。

 なんて不幸で酷い話だと。ただただ思った。はたして最初のきっかけは何だったのか。自らの身の上か。上手くいかなかった人間関係か。あるいは――。

 あれこれ憶測を立てる事はいくらでも出来る。けれどそれに意味はない。あれこれ考えても無駄だ。実際に本人に会って話を聞くのが一番手っ取り早い。そう考えた俺達は、木島病院へと向かっていた。

けれど確証は未だないのだ。多くの情報が彼女が真犯人である事を示しているが、彼女に会って否定されでもしたら俺たちに確かめる術はない。ミヤビさんはずっと言っていた。もう確かめる術は限られていると。それは恐らく、こういう事だったのだろう。

病院には例の同僚も来るらしい。それは一緒に彼女の所へ行きたいと、俺が頑なに言い続けたせいだった。

最初はものすごい形相で睨まれて、また何かされるかと思った。けれどそれだけで、最後には彼女は折れてくれた。同僚の人はそのとばっちりを受ける形になる。会ったらきちんと謝っておこう。

車の窓からは白く大きな建物が見え始めていた。控えめな照明に照らされたそれは、建物の隙間を縫う度少しずつ大きさを増していく。面会時間は八時まで。あまり長くは話せない。けれどもし彼女が素直に話してくれたのなら。真実を語るのに、あまり時間は必要ないだろう。


 病室に入ると、そこにはあの時の彼女がいた。

 大きな眼鏡。白い肌。整った顔立ち。細身の体。思い出してみれば、彼女の姿は二年前とほとんど変わっていなかった。

 木島リカ。木島理事長の一人娘。血は繋がっていない義理(・・)の娘で、俺とセイイチの元同級生。

 彼女は病室に入ってきた俺達を見て様々な表情をする。最初は驚いたような表情。次に諦めたような顔になり。最後に小さく笑って。どこか虚ろな目で、こちらを見ていた。


「木島。俺の事、覚えてるか」


 彼女は小さく笑ったまま、少し俯いた。


「はい。あなたは正義の味方。彼と同じ。私には、死神のようですけど」


 自嘲するように彼女は言う。俺達に向けられたであろうその言葉は、しかしどこか独白じみていた。

ミヤビさんに目配せをすると、眉を寄せながらも頷いてくれた。


「木島。お前は、吸血鬼なのか」


 今はあの不快感はない。それは彼女が吸血鬼ではないか、吸血鬼であったとしても人化薬を服用している事を示している。


「はい」


 病室に入った時の表情を見てそんな気はしていたが、彼女はそれをあっさりと認める。


「お前は木島理事長に利用されていたのか。難病の奥さんの治療の為、万能薬の研究に」


 彼女はその言葉に少しだけ驚いた後、力なく笑った。


「利用されていたと言えば、そうなのでしょう。けれどそれは私も同じ。私達は義理の家族である前に、協力関係でしたから」


 それは意外な返事だった。俺は何らかの手段で理事長が彼女を利用して、万能薬の研究をしているものだと思っていた。だがそうではないらしい。


「協力関係っていうのは、一体どういう事だ……?」

「少し、複雑な話になってしまいます。昔話をしても、いいですか」


 その話にどんな関係があるのかはわからない。けれど、彼女は今のところこちらの質問には正直に答えてくれている。黙ったまま頷くと、彼女はどこか遠い目をして話し始める。


「私の本当の両親は、古い考えの人達でした。後藤君は、現代の吸血鬼がどういった形で生活しているか知っていますか」


 それにまた無言で頷く。


「多くの吸血鬼が人と共存する中、父も母も、人との共存に疑問を抱いていました。変わってはいるけど、珍しくもない話です」


 それは以前ミヤビさんも言っていた。多くの吸血鬼は人との共存に賛同的だが、中にはそうではない者もいると。


「両親のそんな考えの元、私達は小さな村で暮らしていました。人との交流は全くなかったわけではないけれど、ほとんどなかったと言っていいでしょう。両親は人を毛嫌いし、私にもそうあって欲しかったようです。あの人達は優しい人達でしたけれど、子供の私にはとても窮屈でした」


 虚ろな目に変わりはない。しかし口調はどこか穏やかで、まるで昔を懐かしむようなものだった。


「小さな小さな村でした。子供もほとんどいません。隣の村はとても遠かったです。そんな小さく隔絶された村で、人間の子供達と吸血鬼の子供が鬼ごっこを始めるのは、そう不思議な事ではありませんでした」


 気付けばその表情は柔らかいものになっている。病室に入った時の笑顔とは違う、どこか温かみのある表情。


「楽しい時間でした。あれだけ憎悪の対象と教え込まれていた人間は、私達と何も変わりません。笑って泣いて。遊んで喧嘩して。一緒に時間を共有しては、またそれを繰り返して。それまで退屈だった日々は、嘘のように変わりました。本当に楽しい時間でした。あの日までは」


 けれど少しずつ、彼女の表情は翳っていく。


「両親はそれに気付いていなかったわけではありませんでした。彼らなりに、私の意思を尊重していたんだと思います。それを私は上手く隠せていたんだと、ずっと思い込んでいました」


 声は暗くなっていき。そこにはもう笑顔はない。


「些細な勘違いでした。怪我をした私と、それを囲む子供達。彼らはただ私の事を心配してくれていただけなのに。両親の目には、そうは映らなかったようです。大怪我をした子供達を見て、彼らの親とその知り合いの大人達が家に怒鳴り込んできました。普段から両親にあまり良い印象を持っていなかった彼らには、我慢ならなかったのでしょう。私は誤解を解こうと何度も止めました。けれど、もうどうにもなりませんでした」


 彼女の話は悲劇でしかなかった。その悲劇の結末は、何故か容易に想像がついてしまう。


「小さな村でした。住民全員が殺されるのに、そう時間はかかりません。人と吸血鬼に違いはない。そう思っていたけど、違う生き物だと実感しました。とても、悲しかったです」


 彼女の両親は村を一つ、消し去ったという事か。あれだけの身体能力を持っているのだ。小さな村であれば可能なのかもしれない。


「けれど悲しんでいる暇はありませんでした。その二日後にあの人達が来て、両親は呆気なく殺されました」


 木島の視線がミヤビさんに向けられる。あの人達というのは、恐らく執行人の事なのだろう。それが何年前の話かは定かではないが、人を殺した吸血鬼は吸血鬼に殺される。それは昔からの決まりなのだと、ミヤビさんは言っていた。


「抑圧された生活には嫌気を感じていましたけど、私にとって両親の死はとても辛いものでした。彼らは変わった考えの持ち主でしたけど、私には優しかったからです。小さな子のように泣いてしまいました。けれど同時に、それが自然な成り行きだとも思ってしまったんです」


 吸血鬼の子供というのに、あまりイメージがわかない。けれど彼女の言うとおり人も吸血鬼も変わらないのだとしたら。吸血鬼の子供にとって一体それは、どれほどの悲劇だったのだろう。


「両親が死んで、私も死ぬのだと思いました。多くの友達を見殺しにしたんです。それが当然だと思っていました。けれどその前に、あの人に出会ったんです」


「それは、木島理事長?」


 今まで黙っていたミヤビさんが唐突に口を開く。眉間には小さく皺がよっていて、少なからず怒気が感じられる。それに木島は小さく頷いた。


「あの人は執行人ではありませんでした。それどころか吸血鬼でもありませんでした。何故彼らと一緒にいたのかは今も教えてくれません。あの人は目を丸くしながら私に近づいてきて、こう言ったんです『君は吸血鬼かい。もしそうなら私に力を貸して欲しいんだ。もし力を貸してくれるのなら、君の望む物を何でも与えよう』」


 木島理事長は何故執行人と一緒にいたのか。もしかしたら、何か違法な手引きがあったのかもしれない。それならミヤビさんの怪訝な表情にも頷ける。


「人の子供に向けられるような、優しい笑顔でした。けれどそれは、私にとって悪魔のささやきにもとれました。だって、あの人は何人もの人を見殺しにした私に、何でも与えてくれると言ったんです」


 彼女は俯いて、掛け布団を強く握りしめる。その手は小さく震えていた。


「本当に卑しい。それでも私は欲してしまったんです。実現出来なかったものを、手に入れたいと思ったんです。私はあの時の幸福な時間を、吸血鬼ではなく人としての人生を。あの人に、求めてしまったんです」


 その対価が、万能薬の研究への協力という事か。


「ですから私が一方的に利用されていた訳ではありません。私達は互いに互いを利用していたのですから」


 彼女の暗い表情が、少しだけ和らぐ。


「木島理事長はその対価として、お前に研究への協力を求めた。病床の妻の為」


 確かめるようにそう聞くと、彼女は小さく笑いながら答える。


「はい。義理の母の容態は悪く、私が家に迎えられた頃にはもうあまり猶予は残されていませんでした。……本当に、良い人だったのに。神様はそういった事を気にしないんです」


 残酷ですよねと言ってまた小さく、力なく笑う。その目には、どこか無念さが覗える。


「好きだったのか」


 気付けば、そんな事を口にしていた。何故そんな事を聞いたのかはわからない。いつもの悪癖が、こんな所でも出てきてしまう。彼女は一度驚いたような顔をしてから、また笑顔になって話し始める。


「はい、大好きでした。義理の母で血のつながりはおろか、同じ生き物ですらありません。けれどとても温かい人で、吸血鬼の私にも優しく接してくれました。いつか、これは義父には秘密だよと言って、教えてくれた事があります。ずっと子供が欲しかったから、あなたが来てくれてとても嬉しいと」


 いつ死ぬかもわからない体では、子供など望めなかったのだろう。彼らの願望は様々だった。難病の妻を。望んだ人生を。手に入れられなかった家族を。そのバラバラの願望が奇跡的に巡り会い、その願いを叶えた。ただ一人の、願いを別にして。

 木島リカの義理の母親は、二年前に亡くなった。大病院の理事の妻。その難病の妻を想って泣く夫の姿は、ゴシップ記者にとっては恰好のネタだったのだろう。話題は話題を呼び、気付けばニュース番組でも取り上げられるようになっていた。

 亡くなったのは二年前。それは予想外の事実ではあった。けれどそれなら、人間との共存を望んでいた彼女があの凶行に走った事にも納得がいく。恐らく、義母の死もあの悲劇の引き金になってしまったのだろう。

彼女は被害者でもある。けれど俺はそれを、確認しなくてはならない。


「木島。梶コウイチを殺したのは、お前か」


 恐らく、彼女はもう偽らない。何故かそんな確信があった。


「はい」


 彼女は俯いたまま答える。


「辻本タツキを殺したのも」

「はい」


 淡々と虚ろな目で答える。


「沖、セイイチも」


 その名を発するその声は、少しだけ震えていた。


「はい」


 終わった。それはあっさりと終わった。二年前の真犯人は、簡単にその犯行を認めた。あの事件の真相を掴むには、もはや犯人の自供に期待するしかなかった。それが、いとも簡単に得られた。彼女が偽り無く話す確信はあった。けれど。納得がいかなかった。


「……何でそんなに簡単に認める?何で否定しない?何であいつを、殺したんだ……!」


 凄惨な幼少期、両親の死、同級生からのいじめ、義母の死。彼女の境遇には同情を覚える。けれど、だからといって納得も理解も出来ない。何故あいつを。何であんなに良いやつまで、殺してしまったのか。


「……本当にごめんなさい。きっとあなたには、いくら謝っても足りはしない」


 同情はしている。けれど淡々と語る木島に、言い様のない怒りを覚える。


「あいつがお前に何をしたっていうんだ。…何で、あいつまで死ななきゃいけなかった」


 聖人のような奴だった。およそ人に憎まれる事なんてなかった。とても殺されるような奴じゃなかった。世の中にはあいつより悪い人間なんて腐る程いるというのに。


「きっとあなたには、何を言っても言い訳になってしまう」


 それでも聞きたいかと、その虚ろな瞳が告げていた。俺は黙ったまま、彼女をにらみ続けた。


「殺す気なんて、なかった」


 その白々しい発言に、頭に血がのぼる。けれど声を荒らげる前に、唐突に彼女の目から涙が溢れる。それを見て、怒りのぶつけ方がわからなくなってしまった。


「だってそうでしょう。あんな人を殺そうだなんて、一体誰が思うって言うの。あんな良心の塊のような人を、誰が憎むって言うの。殺す気なんてなかったに、決まってるじゃない……!」


 ぼろぼろと涙を流す目は、俺には向けられていない。彼女は俯いたまま、俺ではない誰かに向かって怨嗟を吐いていた。


「それなのにあの日、あの場所、あの時間に。あの人は来てしまった」


 淡々と殺人の供述をする彼女に、つい熱くなってしまった。木島にセイイチを殺す気がないのは、何となくわかってはいたというのに。

 六月八日。恐らく、沖セイイチは運悪く辻本タツキの殺害現場を目撃してしまった。その後錯乱した木島リカは沖セイイチを拉致したのだろう。その場で殺す事はせずに。


「塾ですら孤立していた私を気にかけてくれる、優しい人だった。ただの作業でしかなかった毎日の出来事が、彼と出会ってから楽しくなった。そんな人を、殺してしまった」


 セイイチを殺せなかった木島は、あの廃倉庫へと向かった。それは苦肉の策だったのだと思う。殺す事も出来ず、かといって見逃す事も出来ず。恐らく彼女の言っている事は真実だ。木島にセイイチを殺す気はなかった。殺すつもりなら、目撃された時点で殺してしまえばいい。


「少し目を離した瞬間だった。彼の手には携帯電話が握られていて、私は反射的に彼の首を絞めてしまった。当たり前の行動なのに、気がおかしくなってしまった私は、彼にすら裏切られたと思ってしまった」


 通報されると思った彼女は、セイイチの首を粉々に砕いてしまった。その後動かなくなったセイイチを見て、木島は倉庫から逃げ出したのだろう。そこへ西条アマネがどういった訳かやってきた。偶然かとも思ったが、もしかしたら何か理由があったのかもしれない。


「あなたの話も何度も聞きました。唯一無二の親友だと。……本当に、ごめんなさい」


 そしてもう一度、彼女は謝る。けれどもうそれはいい。謝った所で何が変わるわけでもない。そんな事よりも、彼女には聞かなくてはならない事がある。


「それだけ罪の意識を感じているのなら、何で出頭しなかった」


 木島が真犯人である事を名乗り出たとしても、大して何も変わらなかっただろう。西条アマネの罪が消え、それ以降の執行人達の仕事が慎重になる程度の影響。けれどそこまで自分を責めているのなら、名乗り出れば良かった。悪いと思っているのなら、そう考えるのが普通ではないのか。


「私は、卑怯者なんです」


 小さな声で木島は言う。


「どうせ名乗り出なくてもいつかは執行人達に見つかるだろう。それまでは卑しく生きよう。最初は、そんな甘えた考えでした。けれど一切光のない、絶望だらけの世界で、もう少しだけ生きたいと思ってしまったんです」


 もう彼女の目から涙は流れていなかった。


「義母が死んでから、それまで私には不干渉だった義父が、別人のように変わりました。もしかしたら、義母が死に際に何か言ったのかもしれません」


 虚ろな目で、窓の外を眺める。その顔は、どこか穏やかだった。


「以前は最低限の会話しかありませんでした。けれど義母の死後少しづつ会話が増え、あの人は笑顔で接してくれるようになりました。実験動物でしかなかった私は、ようやくあの人の娘になれたんだと思いました。私はもう少しだけこの人の元で、人間として生きたいと願ってしまったんです」


 それは彼女の子供の頃からの願い。壊れてしまったと思ったその願いは不自然に均衡を保ち続け、叶い続けた。いつ破滅に向かってもおかしくないその願いに、壊れるまで浸っていたかったのかもしれない。


「それが許されないとわかっているから、貴方は真実を話してくれたのでしょう」


 ミヤビさんがそう言って、彼女に近づいていく。俺は何だか嫌な予感がして彼女に話しかけようとするが、彼女は片手でそれを制したのだった。


「はい。お願いです、正義の死神さん。今すぐこの化物を殺して下さい」


 木島の言葉に、しかしミヤビさんは首を振る。


「いいえ、すぐには殺さないわ。貴方には公的な場で真実を語ってもらう。そこで西条アマネの無実を証明してもらう。その後、我々の司法の手に委ねる」


 司法の手に委ねる、というのは裁判にかけるという事だろうか。そんなものがあるというのも驚きだし、彼女がすぐに木島に出を出さないというのも少し意外だった。


「私は人を殺したんですよ?そういった吸血鬼は誰であろうと殺すんでしょう」


 それは木島も同じようで、どこか納得のいかない顔をしていた。


「いいえ。貴方は二年前に三人を殺したけれど、今はもう人を殺す気がない。珍しい例ではあるけれど被疑者に危険がない以上、おいそれと殺す事は出来ない。もっとも、貴方に逃げる気があれば話は別だけれど」

「私には、危険がないですか」


 木島は自嘲するように言う。


「ええ、あるのならこんな所に篭っていないでしょう」


 それに彼女は何の躊躇いも無く、断言するのだった。


「けれど身柄はすぐに拘束させてもらうわ。病床のようだけれど、吸血鬼である貴方がそんな訳はないわよね」

「……これは義父の言いつけですから」


 言いつけ、という言葉に少し違和感を覚える。万能薬の実験に関係することなのだろうか。


「ただ、少しだけ待ってもらえませんか」


 木島はベッドから出てそんな事を言う。


「許されるのであれば。最期に、少しの間だけ義父と話をさせて下さい」


 彼女は小さく笑って懇願する。笑顔にはどこかやるせなさがあった。許されるのならと、彼女は言った。それが叶わないと思っているからこその、その表情なのだろう。


「わかった。ただ、部屋の外で待たせてもらうわ」


 けれどこの人はこういう人だ。吸血鬼であるし。吸血鬼を殺しもする。けれどこの人はそういう人なのだ。


「……後悔しますよ?」


 冗談っぽく言って、木島は病室を出て行く。我々も続いて病室を出た。

 病室の外ではミヤビさんの同僚が待っていた。名は轟シュウセイと言うらしい。豪快な名前に見劣りしない体躯の男だった。顔は厳しいし、物静かな雰囲気は以前聞いていた通り少々近寄りがたい。


「貴方もついてきて」


 その男――シュウセイさんに対しミヤビさんは言う。彼は何も言わず、ミヤビさんに付いていく。あまり言う必要のない事だが、彼らの身長には恐らく40センチメートル程の差がある。他に対比物のない場所に二人を置いて遠目から眺めたら、一体どんな風に映るのだろう。

 全てが終わったせいか、そんな呑気な事を考えてしまう。木島リカは自分が犯人である事を認めた。彼女に対し怒りがないかと問われれば、全くないと断言する事は出来ない。けれどあの事件はいくつかの不幸が重なった結果で、彼女にセイイチを殺す気はなかった。やり場のない気持ちはあるが木島はもう逃げる気はないし、罰を受けると言った。ミヤビさん達に任せておけば、彼女にはそれ相応の罰が下る。それなら俺は納得が出来る。

 理事長室は病院の最上階にあるらしい。辺りを見渡せば、もう見舞客はほとんどいなくなっていた。それは当然で時刻はもう午後八時を過ぎている。ふと窓から外を見ると、雨脚は随分強くなっていた。


 木島が理事長室に入ってそろそろ十分程経つ。俺達は揃いも揃って黙り込んでしまっていて、少々気まずい。


「ミヤビさん。木島に対する罰って、どういったものになるんですか」


 沈黙に耐えきれず、気になっていた事を聞く。



「もう危険がない以上、死刑はあまり考えにくい。死刑がないのだとしたら貴方達と同じで、どこかに収容されると思う」


 それはつまり吸血鬼専用の刑務所でもあるという事か。わかっていはいたが、吸血鬼というのは本当に人間として生きているのだと実感する。生き方に加えて司法までも人間に準じている。それは人間になろうとした結果なのか、それともそれ程までに人間社会のルールが優れているのか。


「けれど死刑がないとも言い切れない。もう彼女に人間を殺す意思がなかったとしても、三人を殺した事実は変わらない」


 それは、恐らく仕方がない。どんな理由であれ木島リカは人を殺した。そこは人も吸血鬼も変わりはしない。殺人という行為には、それだけの代償が伴う


「木島リカを、どう思う」


 ミヤビさんは唐突にそんな事を言う。それは彼女にしては珍しい、漠然とした質問だった。

 どう思うか。頭の中でなら整理がつく気持ちも、言葉にしようとすると難しい。上手く答える事は出来そうにない。


「……正直自分でもよくわかりません。憎いとも思うし、不憫だとも思う。罰は受けて欲しいですけど、許されるのなら幸せになって欲しいとも思う」


 まるで矛盾したそれらは、けれどどれも本当の気持ちだった。上手く言葉には出来ない。彼女は沖セイイチを殺した。どんな理由があれその行為には怒りを覚える。けれど、それがあった後でも。事情を知ってしまった俺は、木島リカという人物を嫌いにはなれなかったのだ。


「酷い矛盾。……わからなくも、ないけれど」


 小さな声で、そう付け足す。俺とミヤビさんは事件を調べる内に彼女の人生を俯瞰してしまった。個人的な憎しみはある。けれど客観的にその人生の一部を見てしまった今、彼女を一方的に責める事は出来なかった。彼女も恐らく、似たような気持ちなのだろう。


「執行人としては、よくない考えよね」


 ため息を付くようにそう言う。ため息と共に漏れ出たそれは、一種の愚痴だった。彼女がそんな事を言うのは珍しい。というより初めてではないだろうか。何故か顔がにやけてしまう。詳しい理由はよくわからないが、俺は何でかそれが。彼女がそう言った事を話してくれるのが、とてつもなく嬉しかった。


「少し、遅いわね」


 ミヤビさんが時計を確認する。そろそろ二十分程経つだろうか。木島は「十分程下さい」と言って部屋に入っていった。義理とはいえ親子なのだし積もる話もあるのだろうが、確かに少し遅い。

 ミヤビさんは扉に近寄っていき、二回軽くノックする。しかし返事はない。嫌な予感がして、緊張が走る。

 ミヤビさんは表情を険しくしてドアノブに手をかける。鍵はかけない約束だったので、あっさりとドアは開いた。

 部屋の中に入ると、椅子に座った木島理事長がこちらに視線を向けてくる。彼は何も言わない。嫌な予感が的中する。部屋の中を見渡すが木島リカの姿はどこにもなかった。


「理事長。娘さんはどこですか」


 ミヤビさんは険しい表情のまま理事長に問いかける。けれど彼は答えない。彼は表情を変える事無く、こちらをじっと見据えていた。

 部屋の中を見渡すと、本棚の横に扉がある事に気付く。


「……判断を誤った」


 ミヤビさんもそれに気付いたらしい。小さく歯噛みして理事長へと歩み寄っていく。


「もう一度お尋ねします。娘さんは、どこへ行きましたか」


 しかしやはり彼は答えない。ミヤビさんの表情が更に険しくなっていく。


「……付いて来てシュウセイ。彼女を追うわ」


恐らく木島リカはあの扉から別の部屋に移動し、そのまま逃げ出した。あれほど、罪の意識を感じていたというのに。


「ミヤビさん」


 いてもたってもいられずに声をかけるが、ただ彼女は首を振った。


「これは私の失態。貴方の仕事はもう終わり。よくやったわ」


 それは、そうなのかもしれない。俺が彼女達に付いていったとしても、やれる事は何もない。人化薬を服用している彼女を感知する事も出来ない。けれど俺は本当に、この状況で何もしなくてもいいのだろうか。


「……そんな顔をしないで。ギイチ、貴方はよくやった。けれどここから先貴方に出来る事はない。私達に任せて」


 一体俺は、どんな顔をしていたのだろうか。自分ではわからなかった。


「未認可の実験、戸籍のない吸血鬼への幇助。後で貴方にも詳しい話を聞くわ」


理事長を一瞥しそう言って、ミヤビさんはこちらに歩み寄ってくる。


「……彼に逃げる術はない。何か協力したいというのなら、部屋の外で彼を見張っていて。すぐに仲間を向かわせるから」


 耳元でそう呟いて、ミヤビさんは部屋を出て行く。その前に、頑なに口を閉じていた理事長が口を開いた。


「見逃しては、くれないか。ただ一人の娘なんだ。もう私には、あの子しかいない」


 ミヤビさんは振り返るが、何も答えなかった。もしかしたら答えられなかったのかもしれない。俺の矛盾した言葉に呆れつつも、わからなくもないと言った。そんな彼女には何も言えなかったのかもしれない。


「あの子はずっと、後悔し続けている」

「貴方それを……」


 ミヤビさんの表情が再度険しくなって、何かを言いかける。けれど彼女は押しとどまった後、身を翻した。


「ただの時間稼ぎ……行くわよ」


 そして今度こそ部屋を出て行く。それに続いて、俺も部屋を出る。


「……最初はただ利用するつもりだった。だが、もう違うんだ」


 去り際、背後からそんな言葉が聞こえた。


*****


 それは初めての失態だった。

 親友と両親を失い、秩序を守らない吸血鬼を狩る道を選んだ。叔父に反対されながらもその道を選び、歩み続けてきた。失敗は今までなかったと思う。けれど、今回は失敗してしまった。

 雨が額を伝い、何度も視線を遮る。それを手の甲で拭って、町中を走る。

 こんな事今まではなかった。何故私はあの時、彼女が義父と話すのを許してしまったのだろう。今までもああいった事がなかった訳ではない。命乞いをされた事もある。そのことごとくを、切り捨てていったというのに。

――許されるのなら、幸せになって欲しいとも思う。

 理由は、わかっている。私も彼と同じように彼女の人生を垣間見てそう思ってしまったのだ。その不幸を知ってしまい、同情や慈悲といった感情を抱いてしまった。やるのなら徹底的にその感情を切り捨てろと、叔父に言われたというのに。

 やはり向いていないのだろうか。決意はしたし、もうそれを覆す気はない。けれど今でも飛び散った肉片を見るとあの時の事を思い出す。吐き気がする。私は今も、バラバラになった彼女の死体を幻視する。

 そうだ。それを思い出せば、向いていないだなんて思う必要はない。私はあの悲劇を二度と起こさない為に、この道を選んだのだ。それを思えば、吐き気程度ならいくらでも我慢出来る。

 迷いを振り切って地面を蹴る。一刻も早く彼女を見つけなければならない。しかし人間サイズのものをこの土砂降りの中探し出すのは困難だった。しかも相手は吸血鬼である。応援は要請したが、彼らが来るまでに彼女はどれくらい遠くまで逃げるだろうか。

 いつかは捕まる。けれどそれでは駄目なのだ。彼女が逃げた理由はわからない。二年前の殺人も故意ではなかったし、悔いてもいた。私見ではあるが、それは嘘ではない。けれど彼女は人を憎み、殺した。その事実だけは変わらない。

 彼女の姿は見つからない。恐らく別れた轟シュウセイも見つけられてはいないだろう。雨は一層強くなっていく。自分への怒りと、見つからない事への焦り。それらも相まって濡れて重くなっていく服に苛立ちを覚える。

 唐突に、背後から大きな音がした。それは誤って何かを倒したような、大きな音だった。

 振り返ると、200メートル程後方。何者かが脇道へと入っていくのが見えた。まるでこちらから隠れるように。

 その姿には見覚えがある。淡い水色のパジャマ姿の、髪の長い少女。脇道へと逃げていったその人物は、木島リカで間違いなかった。

 不可思議とも言える程の幸運に疑問を抱きつつも、急いで彼女を追う。脇道へ入ると、彼女は角を曲がってまた別の細道へと入っていく。足はこちらの方が早い。長い病院生活で彼女の足は鈍っているのだろう。個体差があるにしても、その差は歴然だった。

 見逃してはくれないか。あの子はずっと後悔している。そう、父親であるあの男は言っていた。恐らく、木島理事長は娘の殺人を知っていた。木島リカの肌は青白く、その足は酷く細かった。二人の間にどういったやり取りがあったのかはわからないが、彼女はもう随分長い間病院に居続けていたのだろう。

 後ろ姿は捕捉している。距離も詰まっている。しかしまだ足りない。必要ないとは思うが、念の為腰に挿していた拳銃に手をかけておく。

 彼女がまた角を曲がり、路地裏へと入っていく。急いで後を追って角を曲がる。

「え」

 申し訳程度の街灯に照らされた、小さな路地。そこには、何故こんな場所にいるのか。見ず知らずの女性に走り寄る、木島リカの姿があった。

 女性は驚いた様な顔をしていた。ただ不思議なものでもみるかのような顔。逃げる事はしない。当然だ。彼女は知らない。目の前の細身の少女が、吸血鬼である事を。

 走り寄る余裕はない。拳銃を構え、照準を合わせる。度々視界を遮る雨に、苛立ちを覚える。

 木島リカの右腕が、女性へと振り上げられる。目を見開いて驚いてはいるものの、まだその表情にはいくらか余裕がある。当然だ。その細い右腕が自分の首をもぐ程の怪力だとは、人間(・・)は(・)思わない(・・・・)。

 左足首と右上腕に、狙いをつける。訓練には出来るだけの時間を費やした。この距離ならば外す事はないだろう。当たれば吸血鬼であっても重症は負うだろうが、死ぬ事はない。引き金を一回、二回と慎重に絞る。二度の小さな衝撃と、轟音。

 一発目は狙い通り左足首に命中し、彼女の左足は巨大な弾丸によって千切れた。二発目も右上腕部を貫き、右腕は宙を舞った。

 彼女は左足を失いバランスを崩したのか、地面へと倒れ込む。女性は倒れた彼女を見て不審な顔をした後、アスファルトを伝う血を見て悲鳴を上げ、地面へとへたり込んだ。

 倒れた彼女へと走り寄る。多少手荒になってしまったが仕方がない。吸血鬼の再生能力を持ってすればすぐに血は止まるだろうし、後で治療すればどちらも問題なく元通りになるだろう。


「どういう、事……?」


 しかし。倒れている彼女の傷を見て愕然とする。彼女の傷は、微塵も再生などしていなかった。


「何で……!」


 うつ伏せに倒れている彼女を仰向けにし、ベルトを外して彼女の腕に巻く。けれど出血は止まりはしない。ここでは何も出来ないし、このままでは助からない。そう思い、携帯電話へと手を伸ばす。しかしその手を、木島リカが左腕で止めた。


「もう、無理です。もう、終わりにしましょう」


 口から血を吐き出しながら、彼女はそう言った。苦しそうに呼吸する彼女は、何故か笑っていた。


「傷は治りません。再生しないんです。だからもう、終わりなんです」

「どういう事……?貴方は、吸血鬼なのに……」


 彼女はその質問には答えない。苦しそうな呼吸のまま、ただ雨空を見上げていた。


「人殺しの化け物なんて、生きてちゃいけない。お父さんように、お母さんのように。正義の味方に、正しく退治されきゃ、いけないんです」


 傷が治らない理由はわからない。ただ彼女は暗にこう言っている。最初から、死ぬつもりだったと。


「後悔していたんです。本当に、ずっと。けれど自分から死ぬ事なんて出来なかった。あの人との生活は、病院の中でだけだったけれど、本当に楽しくて。自分から終わらせるなんて事、とても出来なかった」


 言葉は少しずつ途切れ途切れになっていく。足元のアスファルトは真っ赤な雨水に侵食されていた。血は際限なく流れ続けている。シュウセイに医療班を送るようメールは送った。……けれど出血量からして、手遅れである事は明白だった。


「何で、傷が……」


 何故か、上手く言葉が出てこなかった。


「これは……義父からの……最初のプレゼント、です」


 そう言って、彼女は自らの左腕を眺める。心底名残惜しそうに。


「最初は……あの人に裁いてもらおうって……思ってました。私を嫌いなあの人だったら……きっと何の躊躇いもなく……裁きの場に連れて行ってくれるって……思ったんです」


 彼女が濡れないよう、ある程度体で覆ってはいるものの、覆いきれずに彼女の顔は雨に濡れていく。注視しても確かめようはない。彼女は涙を流しているような気がした。


「けれどそれは……ただの勘違いで……本当に、意外でしたけど……あの人……私の事が嫌いじゃなかったんです」


 目は虚ろで、もしかしたらもう何も見えていないかもしれない。


「後で聞いたら……どう接していいか……わからなかったそうです……他人の子で……しかも吸血鬼……無理もない話だと思います……元々不器用な人だと義母も言っていました……あの人は、ずっと義母が死ぬまで彼女の為に尽くしてきました……手一杯で……私の事まで手が回らなかったのかも……しれません」


 背後から足音が聞こえ、振り返るとそこには轟シュウセイが立っていた。無言でこちらを見ている彼に、小さく首を振る。彼はこちらに歩み寄り、上着を脱いでそれを彼女の体へかける。彼女に反応はない。


「あの事件の後……人として……生きたいと泣きつく私に……義父はこの体を……あの薬を作ってくれました……この体は、未だ血を必要としては……いるけれど……それ意外は、少し頑丈なだけの人間の体……そのものです。再生は…しないんです」


 その話には、疑いを持たざるを得ない。けれど事実として彼女の再生能力は失われているし、そうであるなら先程の身体能力の低さにも納得がいく。しかし。仮にそんな物があるというのなら、吸血鬼の世界に大きな影響を与える。快く思う者もいるし、そうでない者もいるだろう。けれど確実に、人と吸血鬼の共存を躍進させる。


「だから……もう……終わりなんです」


 諦めるように言って、彼女は笑う。そして、何かを求めるように宙へと手を投げ出す。


「もう少し……上手く……生きたかったな……」


 もうほとんど聞き取れない声でそんな事を言う彼女を見て、いてもたってもいられなくなる。思わず、その手を握ってしまった。


「あなたは……優しい人です……ね」


 すると彼女はそんな事を言う。自らを撃った、私に向かって。


「何で……そんな……優しい人が……執行人に……?」


 言い様のない罪悪感に襲われ、自然と答えてしまう。


「私は完璧な……人と吸血鬼の共存を目指しているから」


 彼女はそれを聞くと小さく笑った。少しずつ、握っていた手が下がっていく。


「それは……とても素晴らしい……夢ですね……」


 唐突に、握っていた手が重くなる。木島リカは私の手を握ったまま、絶命していた。


*****


 彼が来たのは、ミヤビさん達が部屋を出てから十五分程経った頃だった。


「君がギイチ君だね。初めまして…と、ごめんね。少し遅くなっちゃったよ」


 ミヤビさんの同僚を名乗るその男は、ひょうきんな表情でそんな事を言う。謝る必要がどこにあるというのか。たった十五分。連絡を貰ってからたったそれだけの時間で、彼はこの病院までやってきた。謝る必要なんてどこにもない。


「いえ、正直もっとかかると思ってましたし。謝る必要なんてないですよ」


 正直に言うと彼は満足気に笑った。その笑顔や仕草は柔らかく、とっつきやすい。自己紹介の時にも感じたが、とても話しやすい人だった。正直に言って、ミヤビさんやシュウセイさんよりも遥かにとっつきやすい。


「いやー、天羽君の言う通りはっきりものを言うねぇ。じゃあついでに無遠慮に聞かせてもらうけど、僕の事もわかるの?」

「……ええもう、そりゃばりばりに」


 ただし彼は人化薬を服用していないらしく、先程からずっとあの不快感に襲われていた。まあ、例によってこの人も吸血鬼というわけだ。彼の人柄そのものには好感を覚えるのだが、こればっかりは体質なので仕方がない。


「あー、ですよねぇ。さっきからずっと苦い顔してるし。けどゴメン、僕薬とか嫌いなんだ。病気とは無縁の吸血鬼だからね、これまでほとんどそういった薬品は飲んだ事がなかったし、格好悪いけど少し怖いんだ。そもそもどこも悪くないのに薬を飲むのってどこかおかしな話だとも思うし」


 確かに言われてみればそうである。薬というものは元来病気や怪我の為仕方なく飲むものであって、健康な人にとっては毒にもなる。俺個人は不快感を感じているが、この人はこの人で薬を飲む事に不快感を感じるのだ。


「言われてみればそうですね…正直、考えた事もなかった。結構目から鱗です。そのうち慣れると思いますから、気にしないで下さい」

「うん。理解のある後輩で助かるよ。けどきつかったら言ってね。一応持ってきてはいるから。これ結構即効性あるんだよ?」


 満足気にくしゃりと笑って、胸ポケットから錠剤の入った小袋を取り出す。それはいつか興梠が持っていたものと同じものなのだろう。形も似ている。

しかし、本当にすらすらと言葉が出てくる人だ。ミヤビさんだったら最後の一言は絶対に言わない。知っている執行者と言えば彼女とシュウセイさんぐらいだったので、基本無口なイメージだったのだがそうでもないらしい。先程の三人の気まずさを思い出す。恐らくあの場にこの人がいるだけで、ああはならなかっただろう。


「じゃ、僕はちょっと理事長と話をしてくるから、少しここで待っててくれるかな」


 そう言う彼に返事をして、椅子に座る。壁にかけてある時計を見る。そろそろ二十分程経つだろうか。彼女の事だから何の問題もなく上手くやっているとは思うが、どうにも落ち着かない。

 木島理事長は「見逃してくれ」と言っていた。娘のリカの言う通り、義母の死後は二人で上手くやっていたのかもしれない。父親として、娘を庇う事はさしておかしな事ではないと思う。例え、それが殺人犯だったとしても。

 木島リカが捕まった後、彼の生活はどんなものになるのだろうか。ふと、そんな事を考えてしまう。もうあの子しかいないと、大の大人が懇願していた。そんな彼から娘を引き離したらどうなるか。しかも正しい事とは言え、そのきっかけは俺だ。少し胸が痛い。

 一人悶々と考え込んでいる内に、時間は過ぎていく。五分程経った頃、理事長室の扉が開いた。


「いやー、ごめんごめん。じゃあ理事長連れて行くから君も……」


 部屋から出てきた彼がそう言いかけた瞬間、携帯電話が鳴る。それはひょうきんな彼の物だった。


「ん、ちょっとごめんね。…はいはい、シュウセイ君?どう?終わった?」


 こちらに手を上げつつ電話に出る。相手はシュウセイさんらしい。シュウセイさんは話した所をまだ一度も見ていない程の無口なのだが、やはりこの人は先程と同じようにあっけらかんと話していた。


「……うん。そう。わかったよ。じゃあとりあえず遺体(・・)の収容と現場の保持は君に任せるから、彼女はもう帰してやって…何?もうそうした?けどこっちに向かってる?いやはや、どっちも流石だねぇ。先輩少し呆れちゃうなぁ」


 彼は先程と同じひょうきんな様子で、しかし不穏な言葉を口にする。今確かに、この人は遺体と口にした。


「うん、了解。じゃあ彼にも事情を伝えるから、そっちは任せたよ。はいはーい」


 電話を切って、彼がこちらに向く。少し困ったような表情をしていた。


「あの……」

「まあまあ、あんまり怖い顔をしないでよ。気持ちはわかるけど、少し落ち着こうね」


 一刻も早く事情を知りたくて話を聞こうとすると、そう言って軽く肩を叩いてくる。


「聞いていたと思うし、文脈からもわかったとは思うけど。残念だけど木島リカが死んだ」


 その言葉に、目眩がする。一体何故、そんな事になったのか。彼女には、生きて罰を受けてもらいたかったというのに。


「一種の事故だったらしい。彼女は元々死ぬつもりだったみたいでね。通行人を襲って、仕方なく天羽君が撃った。ただ、それだけなら本来彼女は死なない。吸血鬼だからね。頭や胴体でも吹き飛ばされなければ、死ぬ事はない。けれど、詳しい状況はまだわからないんだけどね?どうやら木島リカからは再生能力が失われていたらしい」


 それで死に至ったと、彼は言った。それは一体どういう事なのだろう。


「木島リカは吸血鬼じゃなかったって事ですか……?」

「ん、いやそうじゃない。何らかの方法、もしくは理由で、吸血鬼である彼女からは再生能力は失われていたようだ。採取した細胞も少し変わっていはいたけど、吸血鬼のものだったそうだしね。再生能力が無く、人間並みの強度になっていただけなんだ。……まあ、だけなんだと言いつつ、随分不穏で不思議な話なんだけどね」


 ならそれは彼の言う通り、事故なのだろうか。


「……まあ、珍しくもない話だよ。今回のは少し特殊だったけれど、相手は吸血鬼だ。やらなければ誰かが死ぬかもしれないし、もしかしたら自分がやられてしまうかもしれない。後者は、まあ彼女だったら考えられないけどね。今回のは前者に該当する。木島リカに猶予を与えた彼女にも責任がないとは言えないけど、執拗に問われるような事はないだろうね」


 木島リカが死んでしまったのは本人に原因があるという。扉の向こうにいる彼は、それを聞いて一体どんな顔をするだろうか。やるせない気持ちは、一向に消えてくれない。


「ただね、ちょっと困った事があって」


 だと言うのに、彼はそんな事を言う。


「はっきり言っちゃうと彼女ね、こういった失態は初めてなんだ。たまに抜けてるけど、基本的に完璧人間なの、知ってるでしょ?」


 俯きながらも、小さく頷いた。


「随分ショックだったみたいでね。シュウセイ君から見ても落ち込んでいたらしい。ああ、一応彼女の名誉の為に言っておくけれど、仕事でそんな風になっちゃうのも初めてだからね?」


 変な所でプライド高いから、と付け足す。

ミヤビさんが落ち込んだ姿、か。確かにそれは想像できなかった。けれどそれは俺の中で彼女が失敗しない人間だから、ではないのか。そんな人間がもし失敗してしまったら、どんな気持ちになってしまうのだろう。


「だからさ、ちょっと予定変更。君には一緒に付いて来てもらって後で合流する予定だったけど、病院に残ってもらっていいかな。帰っていいって言ったのに、彼女律儀に君を迎えにここに向かってるみたいだから。本当に、呆れる程律儀な子だよ」


 それには同意する。天羽ミヤビというのは、そういう人物だ。彼女に自分の事情は関係ない。そんな場面に遭遇した事などまだ一度もないが。恐らく彼女は酷く辛い時であっても、誰かとの約束を守り、それを全うしようとする。


「これは個人的なお願いなんだけど」


 そう言って、彼は大げさに手を合わせた。


「彼女、君の事は気に入ってるみたいだからさ。上手く慰めてやってあげてよ」


 彼は頭を下げる。……少し、躊躇ってしまう。それを断るつもりはない。彼女がショックを受け、誰かの助けが必要だと言うのなら喜んで手を貸す。けれど、自分には上手く出来るかわからないのだ。


「……上手く出来るかはわからないですけど、やってみます」

「うん、ありがとう。大丈夫だよ、普段通りに話しかければいいから」


 そう言ってまた肩を二度叩いて、彼は身を翻した。


「それじゃあ僕は理事長を連れていくから、後は頼んだよ。多分酷い顔をして入ってくるだろうけど、気負わずにね」


 理事長室の扉が開く。恐らく、理事長は数秒後に娘の死を知る。そんな彼の顔を見たくなくて、一足先にその場を後にした。


 一階ロビーから正面玄関へと出る。外へ出て耳を澄ませると、雨の音は少しずつ弱くなっていた。この分なら今夜中にこの雨は止むかもしれない。

 俺は彼女に、なんて言葉をかければいいのだろうか。

 話を聞けば直接的な原因は木島リカが人を襲った事だという。彼女の上司の言う通り、本来であれば――木島リカから吸血鬼としての能力が失われていなければ、それは正しい行動である。そうしなければ、木島リカに襲われたであろう人間は彼の言う通り死んでいたかもしれないのだから。

 けれど彼女に全く責任が無い訳じゃないというのも、理解出来る。俺と同じように彼女もまた、木島リカに同情してしまった。そして義父と話す猶予を与えた。こんな事、言葉にもしたくないが。結果だけ見れば、彼女はその優しさで木島リカを死に追い込んでしまった。

 天羽ミヤビという、ともすれば気難しい人物にどういった言葉をかければいいのか。俺にはわからなかった。上司であるあの人はいつも通りで良いと言ったが、今回の状況はシビアだ。冗談で笑い飛ばすなんて事は出来ない。死んだ彼女にも、彼女の義父にも不誠実だ。

 刻一刻と時間は過ぎていく。頭はめぐるが取り留めのない考えばかりで答えはまるで出てこない。

 数分して黒い車が玄関前に止まった。時刻は午後九時を過ぎている。面会時間はとうに終わっている。だとすれば、その車に乗っている人物は一人しか考えられない。

 彼女は傘を差さずに車から降りて、こちらへと歩いてくる。いつもの無表情で、そこに変わりはない。けれど普段とは明らかに様子が違っていた。

いつもはまっすぐに前を向いて歩く彼女は、下を向いて俯いている。いつもは確かな足取りが、今はどこか力ない。いつもは自信しか無いような瞳は、どこか虚ろだった。

正面玄関の明かりはまだ点いている。こちらに気付いても良さそうなのだが、10メートルの距離に近付いても彼女は気付かない。


「ミヤビさん」


 とにかく彼女に顔を上げてもらいたくて、雨音に掻き消されないよう大きめに声をあげる。すると彼女はこちらを見て驚いた様な顔になる。

 そしていつもの様に軽く手を上げて、不器用に小さく笑ったのだった。

 こういう人だと、わかっていたのに。いつもとは違うと、気付いていたのに。励まさなければいけないって、思っていたのに。

 彼女は木島リカに同情していた。情けをかけた。その人物を、誤って自らの手で殺してしまった。彼女が精神的に強くとも、動揺しないわけがない。そして強い心を持つ彼女は、きっとそんな事表に出そうとはしない。

 いてもたってもいられなくて、屋根のある入り口から外へと出る。雨は少し冷たかった。彼女はびしょ濡れだった。吸血鬼なのだからそんな事はない筈だけれど、どこか震えているようにも見えた。


「え……ちょっと」


 俺は馬鹿だ。どう励まそうかなどと頭を抱えて、まるで被害者を気取っているみたいじゃないか。辛いのは、彼女の方だと言うのに。


「……ギイチ。これは一体、どういう事かしら」


 それは頭で考えた結果の行動ではなかった。言い訳をするのなら自然と体が動いた、と言うしかない。俺は以前彼女にそうされた様に、雨に濡れる体を抱きしめていた。

 きっと同意してくれる人もいるだろう。反対する人だっているだろう。もしかしたら責められる事だって、あるかもしれない。けれど俺はこれを言わなければならない。少し恥ずかしいけれど、彼女にそれを伝えなければならない。


「ミヤビさんは、悪くないです」


 彼女は何も答えない。この体勢では表情も窺えなかった。以前と同じ様に、時間だけがゆっくりと過ぎていった。


「……私は、判断を誤って木島リカを死に追い込んだ」


 それは事実だった。けれど俺は否定する。


「判断は誤ったかもしれません。けどそれは優しさで、そこに悪意は微塵もなかった」


 抱きしめた小さな体は、いつも以上に小さく感じた。


「……私はそういった事を、徹底的に押し殺さなければいけないのに」


 それもまた事実なのだろう。彼女達は私情を持ち込んではいけない。けれど俺は否定しなければならない。


「それはきっと、そうなんでしょう。けれど間違いという訳では…なかったと思います。少なくとも俺はミヤビさんのそういった所が好きだし、間違っているとは思いません」


 これは利己的な考えでしかない。木島リカやその父親の感情を度外視した、一種のエゴイズム。きっと少なくはない数の人間から反感を買うだろう。けれど今は論理的な思考を放棄させて欲しい。俺はただ、彼女にいつも通り前を向いて欲しかった。


「……貴方は出来れば彼女に幸福になって欲しいと言った。私は彼女を破滅に追い込んだ。それでも、悪くないと言うの?」


 それもまた、事実だった。俺は木島リカの悲劇を俯瞰してしまった。彼女には更生してもらって、義父と末永く暮らして欲しかった。

 けれど終わってしまったんだ。それは不意に、俺も彼女も望まない形で。そこには恐らく誰の悪意も存在しはしない。責任は色んな所に点在していて、誰か一人のせいには出来はしない。だからそれを、彼女が一人で背負う必要なんてない。


「はい。本当に、そう思ってました。けれどミヤビさん一人が、彼女の死の責任を背負う必要なんてありません。あなたは自分の正しいと思う事をしただけです。それが間違いだと言うけれど、俺はそうは思いません。何度でも言います。あなたは悪くありません」


 沈黙が続いて、雨の音だけが耳に入ってくる。数秒して、彼女のため息が聞こえてくる。


「……年下に泣かされるだなんて、思いもしなかった」


 そして、彼女はそんな事を言うのだった。


「え、ミヤビさん泣いてるんですか!?」

「五月蝿い」


 心配になって彼女の顔を窺おうと体を離そうとするが、いつの間にか彼女の両腕は俺の腰に回されていて、万力に固定された様に動かなかった。今でも不思議に思う。一体この小さな体のどこに、そんな力があるというのか。


「あの、少し力が強いというか。正直に言ってすごい苦しいというか」


 冷静になってみれば、俺は今現在好きな人と抱き合っている。けれど男なら誰でも歓喜するようなそんな状況は、彼女の怪力によって割りと台無しになっていた。


「あの、ホント」

「黙って。これはただの照れ隠しだから」


 言っている事は非常に可愛い。しかしそろそろ真面目に洒落にならない。夕食の前で良かった。こんな場面で嘔吐するとか、彼女に責任があったとしてもそんな事はあってはいけない。


「……貴方には悪いけれど、私はこの責任を負い続けるわ」


 そして唐突にそんな事を言う。


「けれど、腑抜けにはなったりしないから安心して。私は彼女の死を受け止めつつ、今まで以上に邁進する」


 また落ち込んでしまうのかとも思ったが、そうではないらしい。そうだ。この人は強い人で、優しい人で、誠実な人なのだ。きっと、本当に今まで以上に働くのだろう。


「今回の結末、貴方はどう思った?正直に言って」

「あの、正直に言うんで。力抜いて下さい」


 心なしか腕に力を込める彼女にそう言う。彼女は何を言うでもなく少しだけ力を抜いてくれた。


「……いやまあ、避けられるのなら避けたい結末でした。良いか悪いかで言ったら確実に悪いです。あ、でもミヤビさんは……」

「それはもういい」


 一応訂正しておこうとすると、過去最高レベルの腕力で腰を締められる。もはや呼吸が出来なかった。


「私もそう思う。今後は絶対に避けなければならない。私は最善を尽くそうと尽力してきたつもりだった。けれどまだ足りない。私はもっと邁進しなければならない。貴方が協力してくれるというのは嬉しい。けれどこれから先は、貴方にとってきついものになるかもしれない。それでも貴方は、協力してくれる?」


 彼女は今、自らの信念を再確認し向上心に燃えている。答えなんてとっくに決っているし、彼女の願いは叶えてあげたい。しかしだ。


「勿論、協力します……けど……この状況でその問いは…脅迫になるんじゃないですか」


 限界だった。もはや呼吸もままならない。


「あ。確かにそう、ね」


 彼女は珍しく間の抜けた事を言って、ぱっと勢いよく腕を離す。拘束を解かれた瞬間、苦しさのあまり俺は地面へと倒れ込んでしまった。


「……大丈夫?」


 心配そうに顔を覗き込んでくる。自分が招いた事だと言うのに彼女の表情は心底不安そうで、つい吹き出してしまう。


「いやこれ、ミヤビさんのせいじゃないですか」

「……元を辿れば貴方のせいでもあるけれど」


 拗ねた様に言って、彼女は右腕を差し出してくる。それを言うなら落ち込んでいた彼女のせいなのだが、話がややこしくなりそうなので黙っておく事にした。


「それじゃあ、改めて」


 差し出された右手を、右手で握り返す。こうして彼女の手を握るのは何度目になるだろう。未来の事なんてわからない。けれど多分、この先も彼女は律儀に手を差し出し、俺はそれを握り返すのだと思う。そんな、確かな予感があった。

 ふと、彼女が空を見上げた。釣られて空を仰ぐ。気付けば雨はもう止んでいた。


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