第七章
わかってはいた。頭ではわかっていた。そうなる事はずっと前から理解していた。その襲い来る衝撃に、ずっと備えていた。
それなのに、私の心は壊れてしまいそうだった。待ち構えていても意味はなかった。足の踏ん張りなどまるで効かずに、今にも崩れ落ちそうだった。その日、私の世界は一変してしまった。
こんなにも悲しいと思わなかった。こんなにも辛い事だとは思わなかった。こんなにも大切で、欠かせない人だとは思わなかった。
本当の親じゃない。血の繋がりはおろか、同じ生き物ですらない。そう生きたいと願いはしたけれど、あの人と私は違う生き物だった。それなのに。
あの人は珍しく声をかけてきて、一緒に泣いてくれた。そんな事初めてで私は嬉しかったけれど、それ以上に私の心は壊れてしまったのだ。
もう恐らく、直る事はないだろう。きっとあの人は私の心の一部だったのだ。死んでしまえばもう取り戻す事は出来ない。壊れたまま、繰り返し、繰り返し。堪えて、堪え続けて。この人生は、酷く無価値な物になるのだろう。
そうなってしまうのは、実は仕方がない事なのかもしれない。怪物が人間として生きようだなんて高望みしたのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。そう考えるだけで悲しかったけれど、それが当たり前の結果だとしたら受け入れるしかない。
ただ、後一年と少し。彼は笑った顔が素敵だと言ってくれた。少なくとも、彼の前では笑う事にしようと思う。
梅雨の時期まではまだ随分あるというのに、本日の空模様はあまりよろしくない。昨日の晴天はどこへやら。雨こそ降ってはいないが、陽の光は一切なく空の色はコンクリートばりにくすんでいた。一昨日から雨、晴れ、曇りと、なんだか落ち着きのない天気模様だ。海に近いと天気も変わりやすくなるのだろうか。
ビニール傘を腕に提げて、とある場所で立ち尽くす。なんの変哲もないバス停の前だ。正確な時刻はわからない。先程学校を出たのが三時半頃だったので、今は四時前ぐらいだと思われる。
何故こんな場所で時間もわからないような状況で立ち尽くしているかというと、話は二四時間ほど前まで遡る。
昨日ミヤビさんと一緒に二年前の事を調べ直す事が決まった後、とりあえず当面の予定を立てる事になった。俺はやる気と不安の中それなりに気を張ってはいたのだが、ミヤビさんの建てた予定はというと、思っていたよりも地味なものだった。
『まずはもう一度現場の再調査。二年も前だからほとんど収穫はないかもしれないけれど一応ね。それと近隣への聞き込み。……何?思っていた以上に地味?』
ついぽろっとこぼれ出てしたまった感想に、訓練教官殿は酷く呆れていた。いい加減こういった事は控えたいのだが、染み付いた悪癖は中々直りはしない。
『そういった事の繰り返しで私達は犯人に辿り着くしかないの。地道に、犯人がさも人間であるかのように聞き込みをして、その積み重ねでようやく到達出来る。…ああごめんなさい、貴方には関係のない話だったわね』
思った以上にあれは失言だったらしい。気づけばニヒルな笑みは軽蔑したような無表情になっていて、やけに切れた皮肉までとんでくる。本当、今後は気を付けようと思う。
そしてギクシャクしながらもやる気に満ちていた我々はというと、四時にこの場所で待ち合わせ金井市に向かう運びとなった。ミヤビさんは仕事を切り上げて車でここまで迎えに来てくれるらしい。
無意味に空を仰ぐ。時間を確認したいが確認する術がない。昨日ミヤビさんに確認したところ、結局スマートフォンはほぼほぼお亡くなりになっていた。これも吸血鬼パワーなのか、単に運が悪かっただけなのか、有り得ないだろうが押収品管理の杜撰さの結果か。画面はステンドグラスの如く割れていたらしい。一応今日持ってきてもらう予定ではあるが、恐らく処分する事になるだろう。便利で欠かせない程の物にはなったが、この脆弱さだけはどうにかならないものか。
空を仰ぐのにも飽きた頃、他の車に比べて少しだけ大きい、けれど不快ではないエンジン音が聞こえてくる。その音の主であろう黒い車は、エンジン音とは裏腹に車体が少し小さい。二人乗りだろうか。
その車は当然のように減速し、バス停のすぐ傍に止まる。確かに、彼女らしいと言えば彼女らしい車だった。
「ごめんなさい、待たせたかしら」
窓が開いて、彼女のそんな声が聞こえてくる。時間がわからないので、彼女が遅れてきたのかどうかもわからない。
「いえ、さっき来たばかりです」
ミヤビさんからは吸血鬼の気配を感じない。今日も人化薬を飲んで来てくれたらしい。彼女曰く、先日の一件の際、俺はとんでもなく不快な顔をしていたらしい。俺としては勿論それを感じてはいたのだが、正直二の次も二の次だった。
人化薬は吸血鬼を劇的に人に近づけてしまうという。そこで少し疑問に思ったのだが、なら吸血鬼を探し出す際、彼女から吸血鬼としての能力を失わせてしまっては不味いのでは?と思ったのだ。しかし彼女曰く人化薬を飲んだ所で、その身体能力は失われる事はないらしい。人化薬にも色々あるそうで、今彼女が飲んでいるのは知り合いの医師による特別製だという。それとは別の話ではあるが、人化薬の中には一部誇張が含まれているものもあって「そもそもそんなものがあるのなら私達は苦労しない」のだそうだ。
「それじゃあ乗って」
ミヤビさんの言葉に従って助手席に乗る。乗る前から何となくわかってはいたのだが、恐らくこの車は高級車の部類に入る。まだ縁遠い高校生から見ても落ち着いた内装には気品が感じられる。腐っても男子なのでこういった車には少なからず憧れてしまうのだが、価値のあるガラス細工に座っているようで如何せん少し居心地が悪い。新車のように綺麗な内装と塵一つ落ちていない車内を前にすると、少しでも汚した瞬間その価値を一気に下げてしまいそうな錯覚に陥ってしまう。
「やけに肩肘張っているけれど。やっぱりあの現場に行くのは緊張する?」
運転に集中して前を向いたままのミヤビさんに言われてしまう。その気遣いで自分の情けなさにため息をつきたくなる。
「いやー、そういったわけじゃないです。何というか、高そうだなぁというか」
「……?」
要領を得ない返事に、一瞬だけ視線をこちらに向け首をかしげる。そりゃそうだ。あんな言葉で伝わるはずがない。
「その、だから。この車高そうで、汚したりしたら失礼だなぁというか」
言い淀みながらもはっきりとそう告げると、予想通り彼女は呆れたような顔になる。
「……前から思ってはいたけど、貴方って変な所で気が小さいわよね。そんな事気にしないでいいのに。本当、よくその性格で吸血鬼に立ち向かおうだなんて思ったものね」
ごもっともなのだが、いざ口にされると結構ショックを受ける。しかも相手は惚れている女性である。一人勝手に失恋したような気分になってしまった。
「基本小心者なんです。あんまりつつかないで下さい」
拗ねたように言うと、彼女は困ったような顔をする。半ば八つ当たり気味の自傷行為なので、当然といえば当然だった。
「そういう事ははっきり言うというのに……それにしても、何故あんな場所を待ち合わせ場所にしたのかしら。対して差はないけれど、直接学校に迎えに行った方が早いわ」
うじうじした態度に辟易したのか、珍しくミヤビさんの方から話題を変えてくる。それはもっともな話だった。大した労力ではないが、バス停までは五分程歩かなくてはならない。彼女の言うとおり学校を待ち合わせ場所にした方が、いくらか時間は省けただろう。
「特に理由はないんですけど……」
困った。今日は星の巡りが悪いのか、さっきからずっとこんな調子だ。良くないとは思うのだが、こればっかりは仕方がない。
何故言い淀んでいるのかというと、その理由は興梠チトセである。彼女は俺と同じ高校に通っていたりする。
先日彼女は納得したような事を言ってはいたが、だからと言って大手を振るってミヤビさんと会うのは違うと思ったのだ。彼女の車に乗る所を目撃されたとして、興梠がどんな反応をするのかはまるで想像がつかない。けれど断言しよう。何もないという事は、絶対にない。厄介事は出来るのなら避けるべきである。時に円滑な人間関係とはそういったものの上に成り立つのだ。
無論、そういった面倒を避ける目的もあったのだが、俺は俺で俺がやばい。何を言っているかわからないと思うが相手が誰であったとしても、その相手に危険がなかったとしても、事実そのものは変わらない。俺はしれっと吸血鬼に会っていて、あまつさえ一緒に弁当まで食べてしまっている。あの学校に吸血鬼が通っている事を彼女が知っているかどうかは定かではない。そもそも彼女が怒るかどうかもわからない。しかし仮に彼女達が顔を合わせるような事態になり、それらの事実がミヤビさんに知られた場合どうなるのか。…仮に怒った場合は、恐らく前回の比ではない仕打ちが待っていると思われる。黙っている方が吉である。
「まあ確かに黒塗りの車に乗った女とか、少し伝聞に尾ヒレがつきそうね」
黙りこくっていると、彼女は彼女でそんな事を言うのだった。口調に抑揚はなく表情にもあまり気にしたような様子はないのだが、どこか拗ねているように見える。本当人間関係って難しい。
「ああほら、ミヤビさん美人だから色々噂になったら面倒じゃないですかー」
ははは、と笑って適当な事を言ってみる。
「……今後の為にも一応忠告しておくけれど。貴方、嘘がとんでもなく下手よ」
するとこちらを一瞥してそんな事を言う。その端正な顔はピクリとも動かず、目には何の感情も篭っていない。気のせいかもしれないというか、気のせいであってほしいというか。彼女は怒っている様に見える。適当な事を言ったのは認める。けど実際この人が来たら小規模なパニックが起きると思うのは本当だ。
「ところで今日ってまず現場から調べ直すんですよね」
気まずい雰囲気をさっさと過去のものにするべく、強引に話題を変える。
「ええ。昨日も言った通りあまり得られるものはないでしょうけれどね。けれど万が一もあり得るし、今日は貴方もいる。何か気付いた事があったら何でも言って」
二年前の事件以降、あの現場に立ち寄った事は一度もない。罪悪感にがんじがらめになっていた俺は、あの現場に近寄る事さえままならなかった。今であれば、もしかしたら何か気付く点もあるかもしれない。
「どうかしら」
「うーん……」
事件現場に着いてミヤビさんに所見を問われた俺はというと、ただただ唸っているのだった。
「えっと、本当すいません。何も、ないです」
あれだけ期待を持たれていたというのにこれである。彼女には本当に申し訳なくなるけれどこればっかりは仕方がない。だって本当にそうなのだ。
まだ倉庫には借り手がついていないのか人の気配はない。少し老朽化が進んだように思えるが、それ以外はほとんど変わっていない。ここは、二年前のままだった。
「謝る必要はないわ。……放置された鉄筋材近辺…沖君がいたのはこの辺?」
開いた手帳を見ながらミヤビさんが聞いて来る。恐らくあの後詳しい情報を集めてきたのだろう。
「いや、もっと奥です。入り口からは見えない、そっち側です」
二年前沖セイイチの死体は、放置された鉄筋材の山の傍に横たわっていた。何でも以前の借り主は夜逃げ同然でこの倉庫を引き払ったらしい。鉄筋材の量は呆れる程多く、横たわった人間の体ぐらいだったら平気で隠れてしまう。入り口からは死体を確認する事は出来なかった。
俺は二年前。この鉄の固まりに隠れて、あの光景を見ていた。あいつの目は開ききっていて、瞬き一つしない。口も閉まる事はなく、よく見ればその端にはわずかに涎が付着していた。遠目からでも、もう手遅れである事は明白だった。
「――ギイチ、大丈夫……?」
心配そうな彼女の声で、我に返る。あれだけ軽口を叩いていた自分が情けなくなる。二年も経った。今はミヤビさんもいる。けれど、いざ現場を前にすると平静を保つ事が出来なかった。
「自分ではわからないでしょうけれど、貴方今酷い顔よ。辛いなら言って」
本当に彼女は優しい。俺は自分が嫌いで、仕方がない。
「……いえ、大丈夫です。もう、大丈夫ですから」
笑顔で言って、再度辺りを見回す。俺は二人を見つけた後、一旦倉庫を出て親父に連絡した。親父は最初半信半疑だったが、セイイチの死体の事を話すと信じてくれた。その後決して犯人には近付くなと言われたが、俺はそれを無視して電話を切り、また倉庫に入っていったのだ。今思えば、何故あんな行動をとったのだろう。もしかしたらまだあいつが生きているとでも思っていたのだろうか。止せばいいのに、戻った。その際、鉄筋に体をぶつけてしまい、あの女と目が合ったのだ。ダメだ。思い出しても何も思い付かない。
「ミヤビさん。事件の詳しい概要、教えてくれませんか」
そう聞くと、彼女は躊躇った様子もなく手帳をめくり、話し始める。
「六月八日。沖セイイチが行方不明になり、母親が捜索願を出す。その二日後の六月十日、少年が偶然彼らを発見。その後駆けつけた警官と当機関員が死体から離れるよう犯人に呼びかけたが離れる事はなく、不自然な挙動をとったため当員の一人が発砲。立て続けに発砲し、うち三発が頭部に当たり犯人は死亡。血液は抜かれてはいなかったが、少年は既に死亡していた。死因は首を絞められた事による窒息死と思われる。不自然な点が残るも以後は被害者が出なかった為、警察も我々も死亡した西条アマネが先日から続く連続殺人事件の犯人と断定し、捜査を終えた」
それは恐らく警察の記録ではない。吸血鬼を狩る彼女達の記録だ。当たり前の話だが彼女達の視点で書かれているのだろう。冷静に考えればおかしな話なのだ。相手が凶悪な殺人犯だとしても、射殺なんていうのはこの国では過激過ぎる。薄々勘付いてはいたが、やはりあの警官の中には彼女の仲間が混ざっていたらしい。
「他の二人のも、わかりますか」
「六月五日。通行人により金井川下流で梶コウイチの死体が発見される。死体からは血液が抜かれていた。頭部は激しく損傷しており、それが死因と思われる。下校時に襲われたものと思われる。六月八日。二丁目公園内で辻本タツキの死体が発見される。先日の事件同様血液は抜かれており、脚部は力任せに砕かれていた。死因は断定出来ないが、脚部損傷の痛みによるショック死が疑われる。梶コウイチとは同級生であり友人であるという……何度読み返しても、彼女が犯人だとは思えない」
彼女はため息をつくように言って、手帳を閉じる。俺はというと、彼女の話した概要の一部が気になって仕方がなかった。
「沖の前の二人の遺体は、そんなに酷かったんですか」
頭部損傷。脚部損傷によるショック死。話で聞くだけでも、酷い死に方だ。
「遺体の写真を見たけれど、あまり気分の良い物ではなかった。どちらも酷く痛めつけられていて、まるで怨恨殺人のようだった」
興梠に言われた時は眉唾物だった。それは素人の思いつきと憶測でしかなかった。けれど今聞かされた死体の状態は、まさにそれだった。
「その線はないんですか」
率直に聞くと、彼女は口に手を当てて考え込む。
「どうだろう。ほとんどの吸血鬼は人間と共存しているから、貴方達人間と変わらないくらいの接触はある。だからそういった理由も考えられない事もない。事実何度かそういった怨恨が動機の事件は起きている」
人間として生きる吸血鬼は、彼女のようにおよそ人間と大差ない。人として人と接し、人間関係を構築していく。だとすれば、人と同じように憎しみが生まれ、その結果手を上げてしまうような事もあるのだろう。
「仮に怨恨殺人だった場合。中学生が恨みを買うような人物ってどんな相手だと思います?」
「彼らに比較的近しい者…同じ地域に住む吸血鬼……」
「もしくは、同年代の吸血鬼とかですかね」
思い付きで言うと、彼女は目を細めて難しい顔をする。
「実を言うと、私も遺体の状況を見て当初はその線を考えた。けれどそれは考え難いの。金井市には近い年齢の吸血鬼は存在しない筈だから」
その言い回しには随分違和感を覚える。それじゃあまるでこの街にいる吸血鬼は全て把握していると言っているようで…いや。しかし待て。
「……もしかして。ミヤビさん達って、基本的に吸血鬼の数は把握しているんですか」
「ええ、基本的にはね。貴方達にだって出生届は義務付けられているでしょう」
彼女達は人として生き、人間との共存の為に自ら外れた吸血鬼を管理していると言っていた。俺はその意味をわかっているようでわかっていなかった。俗に怪物と呼ばれる彼らにも、人間と同じようにそんな義務が課されているらしい。わかってるつもりではいたが、今一度認識を改めなくてはいけないようだ。
「出生届は勿論なのだけれど、吸血鬼が生きていく上で必ず必要になってくるのは血液。以前にも言ったでしょう、吸血鬼には国から血液が配給されると。私達にはその際、配給証という物が必要になってくる。それは配給を効率的に行う為の物でもあるけれど、同時に吸血鬼を効率的に監視する為の物でもある。登録がされていない吸血鬼には血液が配られない。血を配給されなかった吸血鬼は死ぬか、血を求めて人を襲うだけ。襲った場合、どうなるかはわかるでしょう」
成る程、と納得する。もし仮に血液を受け取りに来なかった場合、その吸血鬼はそれだけで警戒される。そして人を襲った場合は、あの男のように彼女達に処理されるのだ。けれどそれが本当なら、俺なんていらないような気もするのだが。
「あの男の場合は殺人のペースがあまりにも早すぎたから、警戒する間もなかったけれどね。仮に警戒していたとしても、彼らだって馬鹿ではないわ。私達の存在は知っているし、対策だって行う。大半は行方をくらますし、中には平然と血液を受け取りながらも人を襲う吸血鬼もいる。予め言っておくけれど。自分の能力の意義に疑問を持つ必要はないわ」
心の中を読まれたような発言であった。やはり、先程の車内でのうじうじした態度はよくなかったのかもしれない。着々と彼女の中で俺のイメージが陰気な物になっていっているような気がする。
「いやもう全然、そんな後ろ向きな事思ってないですよ?」
「そう。期待しておくわ」
何だかその言い回しには含みを感じるが、あえてスルーした。
「話が少し逸れたわね。昨日あの後調べてみたけれど、被害者達と同年代の吸血鬼はこの町にはいなかった。過去二年間で処理された吸血鬼の中にも近い年齢のものはいない。仮に真犯人が同年代の吸血鬼だとした場合極論を言えば――もうその吸血鬼はこの町にいないか、人知れず死んでいる」
そうだとしたらこの後の再調査が困難になるだろう。以前親父も言っていた。犯人を探す際捜索範囲が広がるだけで、手間がとんでもなく増えると。人数は俺とミヤビさんの二人だけ。正式には二年前に終わった事件。それに彼女も言っていた。仮にそれらしき吸血鬼を見つけたとしても、もう立証する術は限られていると。
「……次は聞き込みですよね」
先程反省したばかりだというのに、いつの間にか思考が後ろ向きになっている。やると決めたのだ。それに俺の我儘を彼女は快く受け入れてくれた。嘆いている暇はない。
「警察の者です。二年前の事件を再調査、整理しています。お話をお聞かせ下さいませんか。我々ですか?公的機関の資料部だと思って頂いて構いません」
聞き込みを始めて二時間が経った頃、辺りはもう暗くなっていた。一軒家のインターフォンに向かってしれっと警察を名乗るミヤビさんに、もう驚く事もなくなっていた。
何故平然と彼女が警察を名乗っているのかというと。
「こういった事をする時、便利なのよ」
だそうだ。随分危うい理由なのだが彼女の手にはちゃんと本物の警察手帳が握られていて、どうやら勝手に名乗っているというわけではないらしい。本職の人と鉢合わせしたりすると色々面倒がありそうな気もするのだが、管轄がどうとかでそうでもないらしい。彼女がただの同年代の少女ではないと改めて思い知った。
一般人ではふざけて真似してしまうだけで刑法に触れる程の権限を行使した聞き込みはしかし、予想通り難航していた。
「わかりました」
ミヤビさんがお礼を言ってインターフォンから離れる。これで断られたのは何件目になるだろう。二年前の事件はこの町でも有名だった。当然と言えば当然で、あの事件はそれまで平和だったこの町にそれだけの爪痕を残した。中学生が立て続けに三人も殺され、犯人も射殺された。そんな事とは無縁だった住民の多くは、もう二年前の事は思い出したくもないのだろう。話をしてくれる人も、皆神妙な顔をしていた。
「暗くなってきたわね……そろそろ潮時かしら」
ため息を付くようにミヤビさんは言う。
「家によってはそろそろ晩御飯ですもんね」
結局聞き込みと言っても俺はミヤビさんについていくだけだった。このふてぶてしい外見からして誤魔化す事は出来なくもないのだが、さすがに制服を着た未成年に警官を名乗らせるのは色々とまずいらしい。関係者であるからと言って隣にはいるものの、ほぼほぼ置物状態だ。「何か気付いた事があったら言って」とは言われたが、結局何も役に立たず金魚のフンでしかなかった。
「……恐らく、今日のような空振りが何度も続くわ。前にも言ったけれど、その結果何も得られないかもしれない。それでも続ける?」
またやってしまったようだ。落ち込んだ雰囲気が伝わってしまったのか、ミヤビさんにそんな事を言われてしまう。
「暗い顔してすいません。続けさせて下さい」
多少気落ちはしてしまったが、やる気がなくなったわけではない。はっきりと続ける意思を告げた。
「そう。よかった」
どこか満足気にそう言って、彼女は車へと歩き始める。本当に申し訳なくなる。落ち込んでる姿を見せるのは金輪際やめにしよう。さり気なく背中を押してくれている彼女にも、失礼だ。
「今日は終わりにして、ときわ市まで戻りましょう」
彼女に倣って車へと歩いていく。正確な時刻はわからないが、そろそろ七時を回る頃だろう。住宅街の民家からは夕餉の匂いが漂ってきていた。
「ところで今日は外食にしようと思うのだけれど。貴方も一緒に行く?」
ミヤビさんは唐突にそんな事を言い出す。彼女の事だ。もしかしたら夕餉の匂いに鼻をくすぐられたのかもしれない。彼女からすればただのお誘い。だがしかし、俺にとってはただのお誘いではなかったりする。
彼女とは以前一度食事をした。ミヤビさん一人ぱくついていた事もあったが、あれはまあノーカウントだろう。今日行けば二度目になる。普通に考えて平然とお誘いを受ければいいだけなのだ。けれど今回のは前回と少しばかり状況が異なる。訂正する。とても異なる。彼女を意識する前と後では、それはもうとんでもなく違う。
断るという選択肢はない。ヘタレを自認しつつも機会を逃す程間抜けではない。なので返事は決まっている。ただいつも通り平然と返事をすればいいだけだ。
「あの、えと、はい」
そうぎこちない返事をして、心の中でロボットか!と一人とツッコミを入れる。
「……都合が悪いのなら無理しなくていいわよ?」
不自然極まる回答に、いらぬ気まで使わせてしまう。……阿呆らしい。一人勝手に空回りしてるが彼女からしたらただのお誘いなのだ。いちいち過剰に反応してたらこの先やっていけない。意識してどうにかなるようなものでもないが、少しずつ改善していこう。
「いや特に予定もないです。家帰ってレトルト食品食べる予定でしたから、お誘いは嬉しいです」
多少早口気味ではあったが、先程よりはいくらかましな返事をする。事実家で食うレトルト食品と外でミヤビさんと食う外食とか雲泥の差がある。その全てにおいて当初の予定は彼女の提案に劣っているのだ。
「そう。ちなみに何か食べたいものはある?」
聞かれると特にはない。それにここはミヤビさんに任せた方が良い気がする。人間の食べ物が好きな彼女の選んだ店ならば、確実に美味しい物が食べられるという根拠の薄い確信があったりする。事実森の喫茶店は入り浸りたいぐらいには美味かったわけで。それはお任せします、と言おうとした瞬間だった。
「……ん、お前後藤か?おいおい久しぶりじゃん!」
唐突に誰かに名前を呼ばれた。背後を振り返ると、そこには制服を着た同い年ぐらいの青年が、それはもう溢れんばかりの笑顔で立っていた。この辺の高校の生徒だろうか。よく見れば制服にはどこか見覚えがある。
「そうだけど……」
振り返りながら言って、相手の顔をよく見る。その青年はというと、人差し指で自分の顔を指指し必死に何事かをアピールしていた。それはもう満面の笑みで。……まあ、声が聞こえた瞬間誰かは大体予想はついていたのだが。そりゃこの町に来ればこいつに会う事もあるだろう。確か家もこの近くだった筈だ。
「えっと。本当ごめん。誰だっけ」
申し訳なさそうに言った瞬間、笑顔が勢い良く崩れていき落胆したような表情になる。表情がコロコロ変わる人間というのは、本当に見ていて面白い。そういった所は以前と全く変わっていない。
「……酷いなお前。彼女が出来ると男友達とかどうでもよくなる質だったとはな。少し前まで良い奴で気に入ってたけど、ここにきて絶縁ものの事実だ」
しっしと手を払って、何かとんでもない事を言う。
「馬鹿な事言うな宮村。この人はお世話になってるけどただの知り合いだ」
即座に否定しつつ一応ミヤビさんの顔色を伺ってみるが、やっぱりいつも通り涼しい顔をしていた。宮村が冗談のつもりで言ったのかどうかは定かではないが、この手の冷やかしにも慣れているらしい。こんな事では絶対そうはならないし、そうなった姿もとても想像出来ないが。この人が赤面するような事なんて、果たしてあるのだろうか。
「は、今更思い出しても遅いわボケ。可愛い女の子と歩いている薄情者なんざさっさと失せな」
一方青年―――中学時代の同級生である宮村サトシはというと、グロッキーを通り越して憎悪に満ちた表情になっていた。元同級生の腐り切った嫉妬に辟易するが、原因は自分にあるので文句は言えない。
「いや、本当悪かったって。ど忘れじゃないんだ。ちょっとからかってどんな反応するか見てみたかっただけなんだ」
「ああ?そうなのか……いやそれはそれで酷くないか……?」
確かに人を傷つける冗談と言うのはよろしくない。けれどこいつはそんなに繊細な奴ではないので問題はない。
「まあ、何にせよ久しぶりだな!俺はてっきりそんな美人連れてるから違う世界の住人になったもんだとばかり思ってたよ。で、付き合って何ヶ月?きっかけは何?ぶっ飛ばすぞ?」
ニタニタと笑いながら拳を鳴らしこちらに歩み寄ってくる宮村。……割と昔からそうだったが、やっぱり今でも面倒臭い奴だ。
「じゃあ、失せるわ。短い友情だったな」
ミヤビさんに「行きましょう」と言いつつ、手を上げて歩き出す。彼女はやっぱり涼しい顔をしていた。
「ちょっ、待てよ!いつもの冗談じゃんかよー。相変わらずドライだなお前ー」
焦ったような様子で宮村が走り寄って来る。本当に面倒くさい。面倒くさいが、少し懐かしい。俺の中学生時代の思い出の大半は沖セイイチとの物だったが、こういった思い出もある。決して表には出さないが、少し顔がにやけそうになってしまう。
「わかったから。お前、声大きい」
駆け寄ってくる宮村を手で制する。しかしまいった。あれこれ話をしたいのは山々なのだが、この後予定が入っている。
「車で待ってるわ」
どうしたものかと思っていると、そんな事を言って一人車へと歩き出す気遣いの達人。颯爽と立ち去る彼女の背に、心の中で頭を下げておく。あまり長くならない程度に、その気遣いに甘えるとしよう。
「あれ、俺もしかして邪魔した……?」
「してないと思うか」
口を開けたまま固まる宮村に、ぶっきらぼうに返す。
「いや待て。でも彼女じゃないんだろ?」
「そうだが。そうなるように動いていた最中かもしれないぞ。あれだけの美人なわけだし」
「おお、じゃあやっぱり好きなんだな」
「そうとは限らないが、そうかもしれなかった。事実がどうであるかは置いておいて、お前はやらかしてしまった可能性があるという事だ」
「うわ。お前ホント変わってねーな。相変わらずめんどくせぇ」
「お前が言うなって言わせたいのか、それは」
ふざけたやり取りは随分久しぶりだ。この宮村という奴は女子にモテる事はないが、気になった奴には考えなしに話かける性格なので男友達は多い。付き合いは三年程になるか。こうやって冗談を言い合うぐらいには仲が良かったと思う。
「いやしかし、何しに来たんだ?ときわ市だっけ?あそこの高校に通ってるんだろ?もしかして一ヶ月も経たずにホームシックか?」
にやけ面で言う宮村に、どう返そうか少し悩む。けれど、嘘をつく理由が思いつかなかった。
「実はな。さっきの人警察関係の人でさ。二年前の事調べるって言うから、少し協力してるんだ」
そう正直に言った瞬間、宮村の表情がかすかに崩れる。それは仕方のない事だろう。この町で起きたあの惨劇は、こいつにとっても無関係ではない。
「それは、冗談じゃないよな」
「ああ」
「そう、か」
宮村は力なく言って、俯いて考え込んでしまう。しかし、すぐに顔を上げる。
「……冗談だとしたら、随分悪趣味だもんな。しっかし、今になって何でまた。お前は、大丈夫なのか」
笑ったまま、しかし真剣な目で宮村は問いかけてくる。やはり言うべきではなかったかもしれない。また、こいつに心配をかけてしまうかもしれない。
二年前。あいつが死んでふさぎ込んでいた俺に、毎日話しかけてくる友人がいた。どれもお世辞にも上手いとは言えない言葉ばかりだったと思う。冗談交じりに発せられた言葉の中には、デリカシーに欠けるものもあった。けれど毎日毎日。飽きる事もめげる事もなく。対して反応もしない俺に、そいつは話しかけ続けた。
あの時の俺はひたすら一人になりたくて、正直に言ってそいつを鬱陶しいと思う事もあった。けれど今となっては感謝の念しかない。同級生は皆優しい言葉をかけてくれた。けれどそれはどこか腫れ物に触れるようで、虚ろな言葉ばかりだった。皆怖かったのだろう。壊れかけていた物を、自分の手で壊してしまうのが。
そんな中、宮村だけはいつもと変わらず接してくれていたのだ。何度も、何度も。壊れかけていた俺は、気付けばそのつまらない冗談で笑うようになっていた。
「詳しい事は言えないけど、少し気になる事があってな。……悪い、久々に会ってこんな話させたくないんだが、宮村は二年前の事で何か不思議に思った点とかないか」
こいつに話を聞くのはあまり気が乗らない。けれど、もしかしたら何か糸口がつかめるかもしれない。ミヤビさんだって言っていた。地道な調査が身を結ぶのだと。
「別にいいって。お前昔からそういう奴だし。ああ、久々に会って暗い話をするような奴って事じゃないぞ?用心棒様は相変わらず忙しいんだなって思っただけだ」
いたずらっぽく笑ってから、大仰に顎に手を当てる。その呼び名には些か眉をひそめるが、嫌な顔一つせず協力してくれるのは助かる。
「しかしすまん、不思議に思った点は特に無い」
数秒経って手のひらを合わせ謝る宮村。まあ、そりゃそうだよな。二年も前の事件で、あの時のこいつも中学生だったわけで。有用な情報を持っている方がおかしな話だ。
「いや謝んなくていい。悪いな、変な事聞いて」
そう言って話を切り上げようとするが、宮村はまだ何事か考え込んでいた。変なところで律儀なのは昔から変わっていないらしい。
「ただ……あいつらはいつか痛い目に合うだろうなぁとは、思ってたかなぁ……ん、死んだ人間に失礼だな」
猛省、と言って右手で頭をかく。いつか、痛い目に合うだって?
「宮村。それって、梶と辻本の事か」
「え、ああうん。そうだよ。何だよ、急に怖い顔して」
宮村が眉を潜めてたじろぐ。聞き捨てならない言葉に、どうにも表情が険しくなっていたらしい。
「いやすまん、ちょっと気になってさ。……出来れば詳しく聞きたいんだけど。どうしてあいつらが、いつか痛い目に合うなんて思ったんだ」
それはつまり、誰かの恨みを買うような行動をあの二人がしていたという事ではないのか。それ以外の理由も考えられなくはないが、そうだとすると怨恨殺人の可能性が一気に高くなる。
「いやほら、あいつらやんちゃだったからな」
二人とは何度か話したことがあるが、普通の男子生徒という印象しかない。あまり深く関わってはいないが、とてもやんちゃな奴らには見えなかった。
「そうだったか……?そんな印象まるでないんだけど……」
「いやそりゃお前の前だからだろ。何もあの二人だけじゃない。有名人のお前らに突っかかるようなのは、少なくともあの学校にはいないって。特に後藤なんて沖とは違った意味で有名だったし。あれいつだったっけ?高校生をのした事あっただろ?多分あれにびびってたんだよあいつら。俺だって正直びびるもん」
言われて、そんな事もあったなと思い出す。けれど誤解しないで欲しい。あれは向こうが俺たちにいちゃもんを付けてきただけで、あくまでその結果なのだ。正当防衛を行った結果、噂に尾ヒレがついて何故か自分の立場が不利になっていたという悲しい過去でしかない。
「嘘か本当か知らないけど、お前の名前出して他校生に絡んだりもしてたらしいぞ?」
「は?」
なんてはた迷惑な……。一時期妙に他校生に言い掛かりをつけられるなと不思議に思っていたが、その真相がここに来て明らかになった。おかげで随分逞しくはなったが、一体尾ヒレはどこまで大きくなってしまったのか。
「後これは卒業してから知ったけど、陰湿ないじめもしてたらしいな。まるで気付かなかったけどさ」
いじめ、か。俺にも、あまり記憶がない。少なくとも、そんな現場を目撃した事はなかった。
「まあ、良くも悪くも人間ってのは成長するんだろ。小学生の頃は露骨だったものが、少し大人になった事で人目を憚るように狡猾になっていったんじゃねーかな」
嫌な話だよなぁ、と宮村はため息をつく。…確かに嫌な話だ。成長して、知性を高めて。その結果露骨だったそれは、陰湿なものへと変わっていく。人は賢くなっていく一方で、悪賢くもなってしまう。
「あの二人を恨んでそうな奴とか、誰か知らないか?……後、嫌な事聞くけど。誰がいじめられてたとか、知ってたりしないか」
それを聞いて、真犯人につながるかどうかはわからない。そもそもこの町に同年代の吸血鬼はいないとミヤビさんは言っていたし、俺だって三年間通っていてあの感覚に襲われた事はない。けれど、全くの無関係とも思えなかった。
「他校生で恨んでる奴は大量にいるだろうな。い過ぎて把握仕切れないぐらいじゃないか。もうひとつの方は……二人聞いた事がある。一人は加藤って……ほら、太った男子いただろ。もう一人はえーと……こ……こ……き……」
名前が出てこない、と俯いて頭をかく宮村。しかし数秒して、思い出したと勢いよく顔をあげる。
「木島だ。ほら、あの病院の一人娘。眼鏡かけててほとんど誰とも喋らなかったけど、色白で結構美人だった女子」
木島、と言われて一人の女子生徒を思い出す。木島リカ。無口な女性徒で喋った事は一度もない。宮村の言う通り大きな眼鏡で分かり辛かったが、色白で顔立ちは整っていたと思う。彼女は確か木島理事長の――。
彼女の容姿は今さほど重要ではない。記憶の中に何かひっかかりを感じる。少しして、それが何か気付く。――ああ。俺はつい先日、彼女に会っていたのだ。
「……そう言えばあいつ。沖と一緒に歩いてる所を何度か見たっけ」
そして宮村が何か、決定的な事を言った気がする。
「それはどこで……?」
「駅前だよ。進学塾の近く。二人して塾から出てくる所も何度か見たぜ」
いや、まだ確信はない。今はその考えはただの妄想でしかない。けれど、あと少し欠けている所を埋めるだけで、もしかしたら真相にたどり着けるかもしれない。その為には、一刻も早く彼女の所に戻らなくてはいけない。
「ありがとう宮村。そろそろ行くよ。……本当ごめん、変な事ばかり聞いて」
「ん……?おう」
久々に会ったというのにあんな話ばかりだった。本当はもう少し話していたいが、もう居ても立っても居られない。ミヤビさんも、随分待たせてしまっている。
「後藤」
背を向けて歩き出そうとすると、宮村に呼び止められる。
「たまには連絡してこいよな、番号変わってないから。あと、女に困ってないなら誰か紹介しろ」
振り返ると、宮村は意味ありげにわきわきと両手を動かしていた。その様子を見て少し吹き出してしまう。
「お前頼る人間間違ってるぞ。期待しないで待ってろ」
それをどうにか隠そうとして、今度こそ背を向けて歩き出す。本当に愉快な奴だ。
「あんな子連れといて何言うかお前―!」
後ろでは何事か叫んでいる。ヒラヒラと手を振るとさらに何か叫び出したが、その内容は聞き取れなかった。
実はあの人は年上だと話したら、一体あいつはどんな顔をするのだろうか。きっと面白い反応をするに違いない。いつか、不意打ち気味に教えてやろう。
車に戻ると、ミヤビさんは一人手帳とにらめっこをしていた。こちらに気付いた様子がなかったので、軽く車の窓をノックする。するといつもの無表情でこちらを一瞥してから、車の鍵を上げてくれた。
「すいません、お待たせして」
助手席に乗り込みながらそう言う。彼女は手帳を閉じてシートベルトを締め出した。
「いいえ、大した時間でもなかったから気にしないで」
言葉の通りミヤビさんに怒ったような様子はない。そもそも、この人はそういった事で腹を立てるような人ではない。
「久々に友人と会って、どうだった?」
唐突にそんな事を聞いてくる。彼女がそんな事を気にするのは、少し意外だった。根は優しい人だけれど、自分からはあまり他人の事情には踏み入らない人だからだ。もしかしたらまだ俺の事を心配してくれているのかもしれない。
「楽しかったですよ。本人には絶対言わないですけど」
なので、笑顔で答える事にした。
「そう」
彼女は微かに笑って、こちらにもシートベルトを締めるよう促してくる。
「それじゃあ、どこにしましょうか」
言われて、あの時は宮村に邪魔をされた事を思い出す。
「あー、ミヤビさんに任せます。けど、その前に少し聞きたい事があるんです」
そう言うと、彼女はこちらを一瞥してからシートベルトを外した。
「大事な事?」
「ええ、もしかしたら」
まだそれは、妄想の域を出ない。けれど彼女の返答次第では、真実に成り得る。
「前に言ってましたよね。吸血鬼は人の役にも立ってるって。あれって、どういった点で役に立っているんですか」
「主に医療関係よ。昔は吸血鬼の体がすぐに治る事を利用して、あれこれ実験していたみたい。信じられないでしょうけれど、人と吸血鬼の体にはほとんど差はないから」
なんともえぐい話が返ってくる。確かに人と吸血鬼の体にほとんど差がないのだとしたら、軽傷であれば数秒で治癒する彼らの肉体は、そういった職種の人間にとっては破格の検体なのだろう。けれどそれが本当なのだとしたら人間と吸血鬼。果たしてどちらが化物なのか。
「もっともそれは昔の話で、現在はそんな前時代的な実験は一切行われていない。今は主に吸血鬼の細胞を活用した新薬の開発が主よ。どうやら私達の体内にあるその細胞こそが、貴方達と私達との決定的な違いらしいの。曰く、その細胞には無限の可能性が秘められているのだとか」
何かを思うように自分の手を見て彼女は言う。それは実験に比べれば、まだ穏やかな話だった。しかし、俺の胸中は落ち着かない。
「例えば、木島病院の万能薬とか?」
そう聞くと、彼女は眉を潜めて口に手を当てる。
「……いえ。あそこに検体はいないはず。木島病院内で血液の配給は行っているけれど、実験の認可は受けていない。理事長自ら申請したけれど、認可は降りなかった」
それは予想外の事実だった。けれど。だとしたら辻褄が合う。
「それは何でですか」
「理事長の申請理由には私的な内容が含まれていた、としか私は知らないわ」
その私的な理由を知らないと、彼女は言う。けれど俺には心当たりがある。ニュースキャスターがほがらかな笑顔で言っていた事を思い出す。
木島理事長は難病の奥さんの為―――。
「そう、ですか。じゃあもう一つ教えて下さい。さっきミヤビさんは、基本的には吸血鬼の数は把握しているって言ってましたけど。そこに例外はないんですか」
彼女の目が細まる。
「……貴方の推察の通り、例外はいるわ。把握出来ない吸血鬼も中にはいる。いくら管理体制が改善されていっても、そういった漏れは出てきてしまう」
先程までは妄想でしかなかった話に、着々とピースが嵌っていく。けれど爽快感なんてものはなく。真相を考えると、ただただ虚しいだけだった。
「最後にもう一つだけ。吸血鬼の人化薬は、一体誰が作ったんですか」
ミヤビさんからすぐに回答はなかった。代わりに数秒して、鋭い目でこちらを一瞥してくる。
「……ギイチ、この質問には何の意味があるの?貴方は、彼と何を話したの?」
その問いに答える前に、こちらから確認をする。
「作ったのは、木島理事長ですか」
そう聞くと、彼女は苦い顔をしながらも答えてくれた。
「……あれは私の知り合いの医師と、木島理事長が合同で作ったもの。最初は私達の血が飲みたいという衝動を、鎮める為のものでしかなかった」
それが結果的に俺のような人間から正体を隠せるようになった。その万能の細胞とやらが関わっているのだろうが、今はどうでもいいい事だ。
「思わせぶりに言ってすいません。今から話す事は、まだ憶測の域は出ません。それでも、聞いてくれますか」
そう聞く俺に、彼女は無言で頷いた。




