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第六章

私は人として生きたかった。

 けれどお母さんは死んで。お父さんも死んで。悲しかった。もう私の願いは叶わないのだと思うと、悲しかった。

 けれどあの人がやって来て、私にもう一度だけ人として生きる機会を、権利を与えてくれた。

 知らない人に手を借りるのは気が引けたけれど、嬉しかった。絶対に人として生きようと、頑張ろうと。そう思った。事実、私は私なりに頑張ったと思う。

 けれどどうしてだろう。上手くいかなかった。最初はそうでもなかったのに、気付けば周りには誰もいなかった。気が狂いそうだった。やはり私では駄目なのかと思った。そんなつもりは全くなかったのに、ついには血の繋がりのないあの人に泣き言も言ってしまった。

 貴方にはまだ理解出来ないかもしれない。けれど難しいものなの。それはたとえ貴方が、人であったとしても。

 ベッドの上で優しく笑って、あの人は頭を撫でてくれた。冷たい手に驚いてしまったけれど、不思議と不快感はない。「ずっと貴方の味方だから頑張りなさい」と言って抱きしめてくれるその人が、本当の親ではなかったけれど、私は好きだった。

 だからもう少し。もう少しだけ頑張ろうと思った。それに最近、驚くぐらい良い人と知り合う事が出来たのだ。こんな私にもいつも笑顔で接してくれる彼。思うに、私は彼が好きなのだと思う。


 人というのは、何故連休が明けてしまうとこうも憂鬱になってしまうのだろう。理屈は何となくわかるのだが、休みが長ければ長いほど押し寄せてくる暗い気分の波が大きくなるのは、本当に不思議だ。

 いっそ連休などというものをなくしたらどうだろうか。人類は真面目に生きる事をやめてしまうかもしれない。

 憂鬱な気分を紛らわせようと、心底下らない事を考える目下登校中の男子高校生。こうなりそうな予感がしたから、出来れば昨日は登校したかったのだ。まあ、それは自業自得なので文句を言う筋合いではないのだが。来月に控えているゴールデンウィークの予行演習だとでも思うとしよう。

 昨日のじめついた天気とは打って変わって、本日の空は気持ちのいいぐらいの晴天である。半日以上降り続いた雨で出来た水溜まりも、今ではもうあまり目につかない。

 天気にはすこぶる恵まれているわけで。まあ頑張りましょうと、校門をくぐった。


 教室に入った瞬間に、何者かが足早に近寄ってくる。たった三日ぶりだというのに、酷く懐かしく感じる。その人物――興梠チトセは、珍しく顔を強張らせていた。


「おはよう。どうしたんだ、変な顔して」


 いつもの調子で話かけると、信じられないものでも見るような顔をされてしまう。失礼な事を言った自覚はあるが、そのあまりにも真剣な顔に少し気圧されてしまう。


「それはこっちの台詞」


 と言って、どういうわけか全身をくまなく観察される。訳がわからなくて首を捻る。女子に体をじろじろ見られるというのは何だかむず痒くて、少し居心地が悪くもある。


「怪我は、大丈夫なの?」


 そこまで言われてようやく彼女の行動の意図が掴めた。どうやら怪我で休んだ俺を心配してくれていたらしい。確かに学校を休む程の怪我というと中々に穏やかではない。彼女が深刻な顔で心配するというのも、さして不思議な事ではないのかもしれない。けれど体はもう万全である。


「ああ。もうこの通りだ」


 ぐるぐると無意味に肩を回して万全である事をアピールする。間抜けな挙動に、しかし彼女の顔は強張ったままだった。


「本当に?何も(・・)されなかった(・・・・・・)?」


 そして。よくわからない事を言う。それは、一体どういう意味なのか。


「何もされなかったって、誰に」


 不思議に思ってそう聞くと、彼女は俯いて答える。その声にはどこか翳りを感じる。


「天羽ミヤビに。後藤君、この前校門の前であの人と一緒にいたよね。何をしていたのか、教えて」


 その名前が出た瞬間、固まってしまう。勿論俺があの人に惚れているからとか、そんな理由ではない。興梠がミヤビさんを知っていたとしても兄のような例もあるし、そこまで不思議ではない。ただ、彼女に何もされなかったかという問いは、一体どういう事なのか。俺たちが何をしていたかなんて事を、何故彼女が気にするのか。


「それって、どういう――」


 何て間の悪い。興梠に詳しい話を聞こうとした瞬間、鐘が鳴ってしまう。そして間髪入れずに担任教師が教室へと入って来た。


「話は、また後で」


 そう言って彼女は自分の席へと戻っていく。結局久しぶりに会った、いつも笑っているような奴が笑顔になる事は、一度もなかった。


 本日より、俺以外の新入生は先日から、朝から夕方までこの学校に拘束される事となった。学生の本分は学業を修める事であるからして、嘆きたい所ではあるがそれは致し方ない。その際に必要になってくるものは少しばかりの覚悟と諦め、そして程よく腹を満たしてくれるお昼ご飯である。

 俺の右手にはコンビニエンスストアの小さな袋が握られていた。中にはおにぎりが三つとペットボトル飲料が入っている。兄と二人で暮らしている弟に弁当など持たされるはずもなく、こうして日々の昼食は出来合いの物であるか、もしくはインスタント食品なのであった。

 無論、当初は健康面にも問題がありそうだという事と、何より出費がかさみそうだという事で兄と色々と試行錯誤は重ねたのだ。仮に母に知られれば自宅への強制送還も有り得る。そう考えた兄弟は試しに料理をしてみたのだが、結果はこの上なく悲惨なものだった。

 栄養があれば多少味に難があっても食べられると思っていたのだが、それは大間違いだった。難がとんでもなくあればそれは口に入るだけで毒物になる。どうにも我々兄弟は壊滅的に料理のセンスがなく、無理をして調理したものは口に入れるだけで体調に不調をきたす程の代物だった。

 こんな所ばかり似なくてもと嘆く兄に、マジかよと予想外のセンスの無さに落胆する弟。兄はその後もお前の為だとあれこれ努力はしてくれていたようだが、つい先日「すぐ嫁つくる」と現実逃避を始めてしまった。弟としてはそれが叶えば非常に喜ばしい事なのだが、居候の身としては肩身が狭い。

 それが原因かどうかは定かではないが、森の喫茶店のメニューのようにシンプルながらも手の込んだ料理にはついつい舌鼓を打ってしまう。多少値は張るが、他を我慢してそういったものを優先する事に躊躇いを覚えない程には飢えているのだと思う。恐らく兄も似たようなものなのだろう。たまに高そうな弁当を買ってくる事がある。それも二日分程。

 あれだけの報酬を貰ったのだし、日ごろの感謝も込めて今度あの喫茶店に連れて行ってやろう。直接現金を渡そうかとも思ったのだが、バイトもしてないのに万単位の金を渡しては不審に思われるかもしれない。実働時間もほとんどないのにあれをバイトと言い張るのも無理がある。何か良い案はないか、時間のある時にミヤビさんに相談してみよう。

 階段に腰を下ろしビニールからおにぎりを取り出そうとして、やめた。先に食べていようかとも思ったのだが、後々文句を言われそうだ。

 仕方がないので、何をするでもなくぼーっと廊下の壁なんぞを眺める事にする。最近改築したらしい壁には目立った汚れはない。校舎の内壁にそれ以上の感想なんてなかった。

 数秒で飽きて、今度は天井を眺める。結局スマートフォンも回収出来なかったので暇つぶしにも苦労する。そもそも無事なのかどうかも確認するのを忘れていた。それどころか昨日は結局二年前の事すらも聞く事が出来なった。

 失念していたわけでないのだが、思春期の青年には諸々あってあの時は聞けなかった。それを抜きにしてもショッキングな出来事が重なり過ぎたのだ。それに彼女にちゃんと返事をする前に話を聞き出すというのも、何だか違うのではないかとも思う。あの時咄嗟に上手い返事が出来ればそれに越した事はなかったのだろうが、茹で上がった頭では一体何を言い出すかわかったものではない。

 学校が終わったらミヤビさんに連絡してみよう。スマートフォンの事と二年前の事。それとあの返事。正直昨日の今日で顔を合わせるのは気恥ずかしいが、面と向かって言った方がいい事のような気がする。出来れば会う約束を取り付けよう。


「――ごめん、お待たせ」


 一人考え耽っているいると、背後から聞き覚えのある声が聞こえる。振り返るとそこには興梠チトセが立っていた。彼女は巾着袋のようなものを手に持っている。

 つい数分程前。四時限目が終わって話の続きをしようと興梠の元へ行くと、弁当を持ってこの場所へ来いと言われた。弁当を食べながら話をしようという事なのだろうが…。


「ほとんど待ってないから気にしないでいい。それより、何でこんな場所なんだ。俺はいいけどお前弁当なんだろ。机とかないと食べ辛いだろう」


 彼女の指定した場所はただの階段だった。それも人気のない、そのまま備品倉庫へと続くほとんど誰も近寄らないような階段である。弁当箱が置けそうな机の代わりになるような物は見当たらないし、周りには窓もなく少し薄暗い。これから食事をするわけでそんな事絶対にしたくはないが、恐らくこんな場所だ。目を凝らせば結構なホコリもあるだろう。昼食をとる環境としては下の下だった。彼女は一体何故、こんな場所を選んだのだろうか。


「大丈夫よ」


 ほら、と言って自分の膝の上で器用に弁当箱を開く。確かに彼女の足は即席の机になってはいた。釈然としない何かを感じつつも、彼女がそれでいいならこれ以上口を出すような事ではないのかもしれない。

 興梠にならってビニール袋からおにぎりを一つ取り出す。具は梅干し、高菜、昆布。よく爺臭いと言われるのだが、人の好みだ。放っておいてほしい。


「コンビニご飯っていうのが、いかにも男子高校生って感じ」


 巾着袋の口を開けながら、またよくわからない事を言う興梠。興味津々と言った顔で中身を覗こうとしてくるのを手で制して、ビニール袋を彼女から遠ざける。中身を見た際の感想なんて想像に難くなく、無駄に馬鹿にされる事は明白なので恐らくこの行動は正しい。その挙動を逐次観察していた彼女はというと、不満げな表情はしたが何も言う事はなかった。


「確かに言われて見れば男子高校生はわりとコンビニ飯だけど。そう言えばうちのクラスでも同じ袋持ってる奴結構見かけたな…」


 金かかりそうなものだけどな、とおにぎりの封を開ける。実際、最近のコンビニ飯というのは質も高いが値段も少々高い。出来合いのものとは思えない味の弁当も中にはあるが、家で作った方がいくらか安上がりだろう。


「まるでコンビニご飯が嫌みたいな言い草ね」


 すると興梠は不思議そうにそんな事を言うのだった。


「別に嫌ってわけでもないけど……弁当の方が金がかからないだろう。手間はかからないけど、栄養面にも問題ありそうだし」


 学生だとそういった事を気にしないのかもしれない。若いわけで栄養過多でぶくぶくと太るわけでもなし。様々な事情があるのだろうが、金さえ払えばすぐに手に入るというのは魅力的なのだろう。


「じゃあ一体何故、後藤君はコンビニご飯を食べているの」


 そこまで言われてようやく気付く。なるほど、彼女が首を捻っていたのはそう言う訳か。確かに、この話の流れでコンビニのおにぎりをぱくついているのは些かおかしい。正直に話すとまた何か言われそうで気は引けるのだが、下手に誤魔化した方が話がややこしくなりそうだ。


「弁当にしたいのは山々なんだが、うちには残念な事に料理を作る人間がいないんだ」


 ため息交じりに簡潔に答えると、何故か興梠の表情が崩れる。驚いたような顔で、ついでに目も見開いている。確信はないのだが、何か勘違いされているような気がした。


「え、嘘。それってネグレク……」

「違います。うちの母はちゃんとご飯も作るし、育児放棄もしない。……いや俺の言い方が悪かった。兄貴がこの町に住んでてさ、今は親元を離れて居候してるんだ」


 案の定誤解を招いていたようで、身構えていて正解だった。咄嗟に答えるとなるほど、と弁当箱を膝に乗せたままぽんと器用に手を打つ。


「そっか、お兄さんと二人暮らしなんだね。うわ、部屋の中汚そう」


 唐突に頭にイメージが沸いたのか、けらけらと笑いながら何やら失礼な事を言う。デリカシーがないとは思うのだが、否定はまるで出来なかった。実際あの家の中は暮らせればいいだろうという兄弟共通の考えの元、掃除はあまりされていない。何故こんな兄弟に両親は同居を許したのだろう。


「しかし料理作る人がいないっていうのは、さすがに不味いんじゃないかなぁ」


 心底そう思うと言った様子で苦笑いする興梠。それには同意する。俺はまだ大丈夫なのだろうが、兄は最近太ってきているらしい。若手の警察官というと仕事上それなりに体を動かしそうな印象なのだが、出世まっしぐらの兄はデスクワークが増えてきたせいかウエストが気になる程度に太くなってしまったのだとか。洗面所の鏡の前で自分の腹と睨めっこしている時間が日に日に長くなっていく兄というのは、弟として出来れば見たくはない。だからと言って良い案も浮かばず、俺たち兄弟にはどうする事も出来ないのだが。


「わかってはいるんだけどなぁ…。どうにかしようと、兄貴と何度か挑戦してみたんだけど。まあ結果は酷いもので」

「そんなに?もうちょっと努力してみたら?」


 もっともな意見である。けれど本当に。本当に我々兄弟にはセンスの欠片もないのだ。


「嘘だと思われるかもしれないけど、これでも二か月程練習したんだ。その間まともなものは一つも出来なかった」


 通常の食材で出来た筈のそれらは、何故か人体には等しく有害だった。笑顔で必死に丹精込めても毒になった。原因はわからないし、理屈もわからない。教本通りに作った筈だというのに、出来たものはとても口に出来るものではなかった。


「嘘でしょ?」


 またまたーと笑う興梠に、無言で視線を返す。すると察したのか深刻な顔をして口に手を当てる。


「えー……漫画じゃあるまいしそんな事って本当にあるの…?というかそれ下手とかそういう話じゃない気がするんだけど…」


 ごくごく普通の反応だ。何をどうすればそんな人類が生まれるのか、神様に小一時間問い質したい。


「俺も驚いたし、それなりにへこんだ。自分達にあんなにセンスがないとは思いもしなかった」


 当時の事を思い出して落胆しつつ、二つ目のおにぎりに手をつける。


「じゃあ本当に、もう随分コンビニご飯なの?」

「もしくはインスタントかな。たまに酔った兄貴が高そうな弁当を買ってくる事もある」

「仕方がないとは言え不健康だなぁ」


 そう言うと興梠は一人俯いて考え込んでしまう。不思議に思いつつ、ペットボトルに口をつけて喉を潤す。


「よし、じゃあこうしよう」


 などと、唐突に思い付いたと言った様子で顔を上げる。頭の上では何かが光ってそうな勢いだった。その顔はこれ以上ないくらい得意げで、とても不安になる。


「私がお弁当作ってきてあげるよ」


 そして、ラブコメめいた発言をするのだった。お茶を飲み込んだ後だったから良かったものの、これが口に含んだ直後であれば辺り一面に撒き散らしていたかもしれない。


「え、は?何で?」


 あまりの急展開に頭がフリーズする。脈略があるようで、あまりないように思える。一体、興梠の頭の中で何故そんな話に発展したのか。


「私ね、料理が趣味なのよ。このお弁当だって自分で作ったものだし、家でも好きでよくしているの。知ってる?手作り弁当って人数が増えたところで大して手間は変わらないのよ」


 うん?とわかったようなわからないような頷き方をする。それは自身の心象が上手く外に現れた結果だった。


「何その面白い返事。それとも何、後藤君は女子高生の手作り弁当食べたくないの?」


 にやけ面で言われる。悔しいけれど、それは食べてみたい。何よりインスタントまみれの食生活を送っている身としては手作りというのには心底心惹かれる。けれどだ。


「もしかして、私の料理の腕に疑問があるとか?」


 そう。この状況で俺は、随分失礼な事を考えていた。だって興梠だ。料理している所も想像つかないし、ましてやそれが美味いだなんてあるわけがない。勿論本人には黙っておくが、俺の中では彼女に対してそういう印象しかないのである。

 何を言うでもなく黙り込んでいると、興梠は何も言わず弁当箱の中からからあげを一個、箸でつまんでこちらに渡そうとしてくる。それを断る上手い言い訳が見当たらない。先程から彼女はそれらを食べているわけで、食べれるものではあるらしい。意を決して、受け取る。

見た目はとても美味しそうだった。匂いもいい。しかしどや顔の興梠に少しばかり腹が立つ。じと目を向けつつ恐る恐る口に運んだ。


「……うま」


 たとえそれが美味かったとしても決して言うまいと思っていたのに、自然と言葉が出てしまう。


「だろうだろう。気に入ったのなら明日から作ってきてしんぜよう」


 大仰に胸を張る興梠の表情はこの上なく満足げであった。何だか負けた気がして悔しい。……しかし、本音を言えばこれだけの物が毎日食えると思うと俺としては万々歳である。


「いや、すまん。正直こんなに上手いとは思わなかった。作ってきてもらえるなら、すごい有り難い」


 そう、それはとても有り難い。今までただの栄養摂取でしかなかったお昼の時間が楽しみになる。しかしだ。どうにも、府に落ちない点がある。


「けどさ。何で興梠は俺にそこまでしてくれるんだ」


 興梠とはそれなりに親しくしているとは思う。けれどまだ会って一週間も経っていない。これが本当にラブコメディなら納得もいくが、生憎俺の人生はそういったものとは無縁である。彼女がここまで親切にしてくれる理由には、心当たりがない。


「そりゃあタダでとは言わないよ。条件がある」


 そう言って箸をおいて何故か神妙な表情をする興梠。少し違和感を覚えながらも、何だそう言う事かと少し脱する。


「この前、天羽ミヤビと何をしていたのか教えて。それと、もうあの人には会わないで」


 けれど、興梠の言った事はとても気の抜けた状態で聞けるようなものではなかった。

 普段通りの会話。普段通りの彼女。それを失念していたわけではない。ただ出来れば、朝教室で聞いた発言は、何かの間違いであってくれればいいと無意識に思ってしまったのだ。あんな出来事を、彼女に話す訳にはいかない。


「……興梠は、あの人の事を知ってるのか」


 とにかく興梠の発言の真意を確かめなけらばならない。彼女は一体何故、そんな事を知りたがっているのだろうか。一体何故、ミヤビさんに会うななどと言うのだろうか。


「一般的に知られている事実よりは幾らか。我修院スケロクの姪で、両親の死後は彼が彼女の後見人となっている。見た目は可愛らしい女の子だけど、とても危険な人」


 両親の死後と、確かに彼女はそう言った。昨日ミヤビさんが言っていた事を思い出す。


『そいつはその後も私の大切な人達を殺したわ』


 それは一体、誰の事を指していたのだろう。昨日洋館の中に入った時少なからず違和感を感じてはいた。広い家の中は物音もせず、他に人の気配などない。彼女が吸血鬼と知った後では安心すらしていたのだが、果たしてあれは何を意味していたのか。

 興梠はミヤビさんの事を危険な人とも言った。それは一体どういった意味なのか。


「あの人が危険って……まさか。常識もあるし、ちゃんと気遣いだって出来る人だぞ。何であの人が危険なんだ?」


 そう。あの人は吸血鬼という事、吸血鬼狩りを仕事にしている事。それを除けば人として生きているあの人は、危険な人などではない。彼女の正体を知っていればまた話は別だ。けれど少なくとも、吸血鬼の存在も知らないような一般人の興梠が危険な人というわけが、ない。


「後藤君にはわからないかもしれないけれど、危ない人なのよ。何をしていたのか話したくないのならそれでいい。けど、もうあの人には関わらないでほしい」


 それは、まるで答えになっていなかった。


「答えになってない。興梠が何を心配しているのかわからないけど、それは出来ない」


理由も告げず危ない人と決めつける興梠に、少しむっとして答える。まだ返事はしてないけれど俺はあの人に協力すると決めたし、誰にも言う事はないだろうが惚れてもしまった。そんなよくわからない理由で、関係を断つ事なんて出来ない。


「どうしても?」

「ああ、納得のいく理由があればまた変わってくるかもしれない。けど、多分そうはならない」

「そっか」


 はっきり言うと、彼女は俯きながらそう返す。少しの間の沈黙の後、興梠が口を開いた。


「私、後藤君に謝らなきゃいけないことがあるの」


 俯いたまま、彼女は続ける。


「ごめんね。私、嘘をついてた。後藤君に話しかけたきっかけは、実はあの噂話じゃないんだ」


 噂話、とは例のちっぽけな武勇伝の事だろうか。何故今その話が出るのかはわからないが、あんなチープな噂話がきっかけじゃないというのなら、それはそれで納得出来る。


「吸血鬼って、知ってるよね」


 少し躊躇ってから、興梠はその言葉を口にする。決して彼女には、口にしてほしくないその言葉を。


「なんだって……?」


 吸血鬼と、確かに興梠は言った。恐らく彼女の中でも空想上の生き物として吸血鬼は存在している。その名を口にする事自体は不思議ではない。けれど今何故ここで。けれど何故俺に。その、いるはずのない怪物の名を口にしたのか。


「……人の血を吸って、人以上の力を持っていて、太陽に弱く、銀に滅される空想上の怪物だろ」


 そうであっては欲しくないと、何か嫌な予感に突き動かされて常識に則った答えを返す。いつもと同じ口調、同じ距離感。けれど頭の中は酷く混乱していた。


「そうだね。創作物の中の吸血鬼はそう。けれど彼らは陽の光を浴びても灰にはならないし、銀の弾丸を受けても死ぬ事はない」


 膝の上から弁当箱を下ろして蓋をする。中身は、まだ随分残っていたように見えた。


「ご飯を食べれば人と同じようにある程度は栄養をとれるし、体の構造自体もほとんど人と変わらない。見た目も人間そのもので、見分けるのは困難」


 既視感を覚える。それはどういうわけか、以前にもあの人が言っていた事と同じだった。


「彼らは人間社会の中に紛れ込み、一部を除いては人として暮らしている。その上でルールが存在していて、吸血鬼は人を襲ってはいけないし、勿論殺すのも駄目。それを破った者は同族に制裁を受ける」


 彼女が何故それを知っていて。何故俺に話しているのか。混乱する頭は今にもこの場所から逃げ出したがっていた。けれど、もうそれは出来ない。


「興梠、お前今日熱でもあるのか。何の映画かは知らないけど、一体何言ってるんだ」


 普段のように冗談めいた発言。必死に取り繕った笑顔は、上手く出来ていたかはわからない。


「とぼけるのはやめようよ」


 けれどそんな努力には意味がなかったのか。彼女は冷たい表情のまま不機嫌そうにそう言う。


「二年前のあれを経験して、自ら解決に導き。四日前は天羽ミヤビと会っていた。それでとぼけようだなんて、随分無理があるよ」


 そしてそのまま。何か決定的な事を言ったような気がした。


「お前……何でそれを……」


 それを知っているのは、本当に一握りの人間だけ。もしくは。


「有名だもん。あの人から聞かなかった?後藤君は知る由もない事だったろうけど、当時は人との共存を脅かす危険因子だ何だって騒がれていたんだからね」


違う。そんな事を聞きたいんじゃない。そんな事はどうでもいい。俺が聞きたいのはそう。一体お前は、何故それを知っているのかという事だけで。


「興梠。お前は、人間なのか(・・・・・)


 ついに抑える事が出来ずに、その問いを口にしてしまう。

この特殊な体質でも見破れない相手がいる事は先日身を以て経験した。二年前の事を知っているのは一握りの人間か、もしくは吸血鬼だけ。人間で知っているのは警察関係の一部だけだ。報道は規制されていたし、一般人ではまず知り得ない。何か特殊な方法でそれを知ったとも考えられるが、同時に天羽ミヤビの名前が出てくるのはおかしい。もう、その可能性しか考えられない。けれど何故彼女がその事実を俺に、しかも自ら告げるのかがわからない。


「私が後藤君にそうして欲しいのは、心底独り善がりな理由。もう、五年も前になるかな」


しかし、彼女はその問いに答える事はない。代わりに俯いて、そんな昔話を始める。


「大好きな人がいたんだ。年は五つ上で、一人っ子の私には本当のお兄ちゃんみたいな存在だった」


 何故彼女がそんな話を始めたのかはわからない。あの問いに対する返事が返ってくるかも不明だ。彼女が本当にそう(・・)なのかは、今の段階では判断がつかない。けれどふとあの人の言葉を思い出して、警戒しながらも黙って聞く事にした。


「あの人は近所の高校生で、目付きが悪くていつもぶっきらぼうで。およそ子供なんか寄り付かないような人で、実際私以外に子供といる所なんて見た事がなかった」


 俯いたままの興梠の表情は、横からではわからない。けれどその口調はどこか楽しそうで、彼女は笑っているような気がした。


「ある日その人が捨てられていた子猫を拾っている所を見たの。最初は子猫を見たまま頭を抱えて、けれどその場から離れずに。その様子をずっと見ていたら、少しして子猫を抱きかかえて町中をうろうろしだしたの。不思議に思って話かけてみたら『飼い主を探したかったけどどうすればいいかわからなかった』って言ってた。それでその人が不器用で、けれど優しい人なんだって言うのがわかった」


 おかしな話でしょ、と言って小さく笑う。


「結局一緒になって飼い主を探しはしたけど、見つからなかった。途方に暮れて日も落ちてしまって、あの人は私を家まで送ってくれた。暗くなってから帰ってきた私にお母さんは少し怒っていたけど、事情を話したら納得してくれて、その子猫を飼う事も許してくれた。私は動物を飼うのは初めてで、少し嬉しかった。よかったと安心するあの人の顔が本当に幸せそうで、今でも忘れられない。それから私は、その時のお礼にって、あの人に遊んでもらうようになったんだ」


 似たような事を、昔経験した。けれどあの時はあっという間に飼い主は見つかった気がする。俺はあいつと軽く拳同士を打ち付けあって、コンビニで小さな祝杯を挙げた記憶がある。もういつの事かは思い出せない、昔の思い出だ。


「今でもその子、うちで元気にしてるのよ?家族皆で随分甘やかしちゃったから、大分太ったけどね」


 本当に丸々と、と言ってまた笑う興梠。けれどそれはほんの少しの間で、唐突に彼女の声のトーンが落ちていく。


「けど、あの人はある日突然死んでしまった。自転車で通学中、飛び出した子供を避けた結果の、不運な交通事故だった」


 その話は、どこかで聞いた話に似ていた。少し前に聞いた話を思い出す。あの学校で自転車通学が禁止になったのは、何年か前に男子学生が事故で亡くなったからだ。不幸な事故だったが繰り返すわけにはいかないと、自転車による通学は一律禁止する事になったという。


「そこで初めて、人間の脆さを知った。幼かった私はただ車に轢かれただけで死んじゃうだなんて思わなかった。私達と人とでは、違うんだと思った」


 その発言の意味を、きちんと理解しているつもりだった。けれど体は動かない。それは、どういった心境の変化か。昨日あんな経験をしていなければ、すぐに逃げ出していたかもしれない。ミヤビさんとの約束をまた破ってしまう事にはなるが、何故か目の前の少女を置いて立ち去る事が出来なかった。


「ただひたすらに悲しかったし、子供である事をいい事に泣きじゃくりもした。その時はこの世の終わりにも感じられたけど、年月が経つにつれてその悲しみは薄れていった」


 時間の経過というものは人の悲しみを和らげるという。俺にもその経験はある。多少差異はあれ、彼女も同じなのだろう。きっと同じだ。和らげる事は出来ても、完全に無くなる事はないという事も。


「そうして気付けばあの人と同じ年になって、同じ学校に通う事になった。その際お母さんから、これを受け取ったの」


 興梠はポケットから小袋を取り出す。そこには白い小さな錠剤が二つ入っていた。それはただの錠剤にしか見えなかったが、どういった薬なのかは何となくわかってしまう。


「これが何かは、何となく知ってるよね。お母さんは二年前話題になった彼が同じ学校に来るから念の為と言って、これを飲むよう渡してきたわ。実際には見ていない私達にはその話は眉唾ものだったけれど、あの人は慎重な性格だから」


 ミヤビさんは確信がありながらも尋ねてきた。貴方は吸血鬼を感知出来るのかと。もしかしたら彼女達の間でも、危険視されながらも信じられないといった意見が大多数だったのかもしれない。


「子供だった私でも、何となくあなたの事は知っていたんだ。親達が取り乱しながら話しているんだもん。そうじゃなくても二年前の事件は少し異質だったし、子供の私の耳にも自然と入ってきたのよ」


 興梠の発言に何か違和感を覚えながらも、黙って話を聞く。


「最初は怯えていた。何年も人として生きてきたのに、それが壊されるような気がして。けれど不思議なものね。びくびくしている内にその人はどんな人なんだろうって、何故か気になっていったの。名前を見て驚きもした。後藤ギイチ。友達から聞いた噂話の、用心棒と同じ名前だった。それに吸血鬼と出会っても、死ななかった人。きっと、とんでもなく大きくて頑丈な人なんだろうって、勝手に考えてたわ」


 興梠は笑う。どこか力なく。


「色んな感情と一緒に、教室に入った。あなたを見て本当に驚いたわ。それはもうさっきの料理下手の話なんか比じゃないくらいにね。だって、後藤君はあの人にびっくりするぐらい似ていたんだもん」


 どこか嬉しそうに言う彼女の声は、いつの間にか震えていた。


「後藤君には失礼かもしれないけど、生まれ変わりかもしれないなんて思う程に。我慢出来ずに話しかけて、更に驚きもした。だって目付きも話し方もそっくりで、ぶっきらぼうな態度も彼そのもので。面倒見の良い所も、どこかあの人と似ていて。あの人と同じで、やっぱり良い人で」


 気付けば体も小刻みに震えている。……彼女の前から立ち去る事の出来ない理由が、何となくわかった気がする。


「本当に、一人善がりな理由なんだ。そんな人が執行人の天羽さんと一緒にいて、ある日突然学校を休む程の大けがをした。不穏な考えしか浮かばなかった。あの人が後藤君の能力を利用して、その結果大けがをしたんじゃないかって。あの時の事を思い出して、どうかしてしまいそうだった」


 俯いている彼女の顔から涙が落ちる。


「知り合ったばかりなのに、鬱陶しいよね。意味がわからないよね。けどお願いだから、あの人には近付かないで。もう見たくないんだ。私の事は嫌いになってもいいから、お願いだから」


 そう言って、震える手で肩に手をおいてくる。もう目の前の相手が吸血鬼だとか、そういう考えはすっぱり無くなっていた。ミヤビさんだって言っていた。吸血鬼は殺人狂じゃないし、人ではないけどほとんどの吸血鬼は人として生きているのだと。目の前の女の子は自ら吸血鬼だと名乗ったがどこからどう見ても人そのもので、少なくとも人を襲う化け物になんて見えはしない。泣きじゃくる姿はただの子供にしか見えず、やめてくれと懇願するその姿は痛々しくてとても見ていられない。


「……ああもう」


 頭を掻いて何か上手い言葉はないかと模索する。…いやもう構わない。下手でもいいから、とにかく目の前の彼女には一刻も早く泣き止んでもらいたい。


「俺こそ、ごめんな。ついこの前まで、吸血鬼の事勘違いしていた」


 脈略のない返事に、興梠が俯いていた顔を上げる。その顔はもうぐしゃぐしゃで、とても同い年の女の子には見えなかった。


「吸血鬼何て人を襲うだけの怪物だと思ってたよ。言い訳させてくれ。親友を殺されて、そういう者なんだと思い込んじまってたんだ」


 そう。俺の中で吸血鬼は憎むべき相手で、ただの化け物で。彼女にはさして関係はないかもしれないけれど、そういう者だと思い込んでいた。

 けれど実際は全然そんな事はなくて。昨日の彼女も、今目の前にいる彼女も。一人善がりと彼女は言ったけれど、二人とも人間である俺の事を考えてくれている。そんな彼女達を化け物だなんて思う奴の方が、よっぽど性根が腐っていて人外じみている。


「ミヤビさんは確かに俺の力を借りたいって協力を申し出てきた。けど無理やりじゃない。第一あの怪我だって俺の責任なんだよ。一人で突っ走って、自業自得だった。あの人はそれを怒ってもくれた」


 今思えば、あの時からあの人に対して淡い感情を覚えていたのかもしれない。あの時は俺の能力ありきでの言動だと思ったのだが、昨日の出来事が決定打になった。あの人は吸血鬼だが、同時に馬鹿みたいに良い人なのだ。


「ごめん……何が言いたいのかあんまりわからない…」


 言われて、うっと唸る。そりゃそうだろう。俺だってわからない。けれどこれだけははっきり言える。


「だからその……興梠の頼みは、聞けないけど。あの人といてももうあんな怪我をする事はないだろうし。興梠の事を嫌いにもならないって事」


 そうだ。ミヤビさんの言い付けを破る事なんてもうないだろうし、俺の為に自分の正体すらも明かした興梠を嫌いになるなんて事も有り得ない。それだけははっきり言える、本当の事だ。


「本当に……?」


 不安げな表情で問いかけてくる興梠の目を、気恥ずかしさを感じつつも真っすぐ見て答える。


「この期に及んで嘘なんかつかない」


 はっきりとそう返した瞬間だった。


「よかったぁ」


 言葉とは裏腹に、先程よりも大粒の涙を流す興梠。俺はというと、もう何が何だがわからずにてんぱってしまう。


「え、あ、何だどうした?!俺何か変な事言ったか?!」


 必死に問いかけるが、興梠はすぐに答えてくれない。あたふたと彼女の周りでどうしていいかわからず変な挙動をしてしまう。一分程経って、ようやく彼女の涙が止まる。


「ううん、安心しただけ」


 興梠の目は泣き腫らしているが、口元はほころんでいた。その様子を見てほっとする。まるで子供をあやす親のような気分だった。


「絶対に、嫌われると思ったから」


 その目はまだどこか不安げで、今にも泣き出しそうだ。普段は周りに笑顔を振りまいている癖に、今はとても子供っぽい。そう言えば彼女に初めて会った日も、似たような事があった気がする。あの時は泣いてこそいなかったが、その不安げな瞳はあの時と同じだ。

 彼女には徹底的に、それでも駄目なら荒っぽく。そうであると伝えた方がいいのかもしれない。


「吸血鬼っていうのも、悪い奴ばかりじゃないってのがわかったからな。それを教えてくれたというか、そう思わせてくれたのがミヤビさんだ。何度も言うようだけど、あの人と一緒にいる限り自分から危険な事に首を突っ込むような事はないだろうし、またそんな事したらきっとあの人にすごい怒られる。仮にそうなったとしても、あの人は多分助けてくれるだろうけどな」


 そんな確信がある。俺が吸血鬼を感知できる特殊な体質で特別な人間だからとか、そういった理由とは関係なく。天羽ミヤビは、窮地に陥った人間を見過ごさないと思う。確証はない。もしかしたらそれは、好きになった人にそうであってほしいという俺の願望なのかもしれない。けれど何故か、そうではないという確信があったのだ。


「実際、すごい怒られた。最初はじと目で睨まれて説教されるぐらいだったけど、昨日なんて飛びつかれて地面に押し付けられた挙句、最後には泣かされたからな」


 多少事実とは違う形で彼女には伝わるだろうが、一言も嘘は言っていない。


「えっと……それは大丈夫なの?」


 不安げというか訝しげな目で言われて、あれ?と首を傾げる。どうにか興梠にわかってもらおうとして、何か余計な事を言ったのかもしれない。


「ああいや、あれは多分愛のムチというやつだきっと。その後家に入れて服乾かしてくれた

上にコーヒーまでご馳走してくれたぞ」


 いやホント、事情を知らない人からしたらまるで意味がわからない。けれどどれも紛れもない事実なのである。


「ふーん……よくわかった」


 興梠は納得した様子だった。表情に翳りはあるものの、先程までのそれとは別に思える。どこか不満げというか。


「天羽さんの事、気に入ってるんだね」


 言われて、固まってしまう。気に入っているとは、どういった意味での気に入っているなのだろう。人間的にか、異性としてか。でも考えてみれば彼女は吸血鬼だ。吸血鬼として悪くはないといった事か、それとも吸血鬼だけれど人として生きる人間らしい彼女をか。


「いや、まあ。良い人だとは、思う」

「ふーん」


ぎこちない返事をすると、何故かじと目で見られてしまう。理由はわからないが、とんでもなく居心地が悪い。


「何だよ」

「別に。ま、私にとってもマイナスばかりじゃないし」


 そうよくわからない事を言って、ようやくいつも通りの笑顔に戻る。先程まで泣きじゃくっていたというのに、一瞬で立場が逆転というか、元通りになってしまった気がする。


「じゃあもう怪我をして学校を休むなんて事もないし、これからもよろしくって事で、いいんだよね」


 興梠が手を差し出す。目はまだ腫れているが、その笑顔は普段の彼女そのものだ。


「そうなるんじゃないか。まあ、今まで通りだな」


 少し気恥ずかしくて視線を逸らしながらそれを握り返す。すると彼女は飛び切りの笑顔で笑ったのだった。


「もう一度だけ謝っておく。色々とごめんね。それと、これからもよろしく。ギイチ君」



 台風が過ぎ去った後の空というのは清々しい程の晴天になる。高気圧が進んでくるからとか。台風が湿った空気を取り込んでいくからとか。兄が自慢げに披露していた雑学曰く、そんな理由であるかららしい。

 興梠チトセの話は、まさに台風のようなものだった。以前彼女を台風と比喩した事があったが、どうやらその感覚は間違っていなかったらしい。平和に生きる我々日本人に年に何度か油断すると危ないよと警鐘を鳴らしてくれもするし、過ぎ去った後はこれでもかというぐらいの晴天をもたらしてもくれる。農家の人からは大ブーイングを受けそうなものだが、実は台風というのはそこまで悪いものではないのかもしれない。あくまで個人の感想ではあるのだが。

 などと思う一方で、今回の事は正直大分驚きもした。もし興梠が悪の親玉なりに高笑いしながら正体をばらそうものなら、何だってと叫びながら腰を抜かして大仰に驚いていた事だろう。

 実際はあんな感じで、小さい子ばりに泣きじゃくってしまい違う意味で狼狽えてしまったのだが。あまりの年不相応の泣きっぷりに、泣き止むまではひたすらあたふたしていて、傍から見ればさぞ頼りない男に見えたであろう。

 けれどああいった形で伝えてもらえて、結果的にはよかったのかもしれない。彼女の正体にこちらが先に気付けば、こうも丸くは収まらなかっただろう。それに、恐らくあんな震えながら泣く姿でも見せられなければ、俺はミヤビさんの言葉に従ってあの場をすぐ立ち去っていたとも思う。あの時の興梠は、その言い付けを破る事に躊躇いを覚えない程に、放っておけなかった。第一、だ。


「あんな子供みたいに泣くやつが、人なんて襲えるわけないしなぁ……」


 高笑いして人に襲い掛かるシーンなんて、とても想像出来ない。あの性格で演技なんて出来る筈もないし。まあただ、恐らく腕力はミヤビさん並みにあると思われるので、今後は下手にからかうのはよそう。うっかり殺されてしまったとか、そんな冗談みたいな死に方は嫌である。

 あの後の彼女はというと、目が若干腫れている事以外は普段通りの彼女であった。何か少し違和感を感じもしたのだが、概ねいつも通りだったと思う。なので、俺はあの時気になっていた事を、いつもの調子で彼女に聞いてみたのだ。


『何で二年前の事件がおかしいかって?』


 興梠は二年前の事件はどこか異質だったと、確かに言った。それは聞き捨てならない。真相の究明に役立つかもしれないし、些細な事だったとしても聞いておかなくてはいけないと思ったのだ。


『そうね……少し説明が難しいけど、基本的に人を襲う吸血鬼って言うのは、標的を絞ったりはしないの。気を悪くしないで欲しいんだけど、だって襲う相手は食料(・・)だもん。若い人間の方が血が新鮮だという話は耳にするけど、中学生の子供ばかりを立て続けに襲うのは、少し変なのよ』


 それは確かにそうだ。吸血鬼が人を襲うのは血を吸うため。ミヤビさん達のようなハンターが存在する中、わざわざ同じ年齢の子供、しかも同じ学校の同じ生徒ばかりを殺すというのはどこかおかしな話だった。


『もちろん外れた吸血鬼にそういった常識だとか、一般通念が当てはまらなかった場合はわからないけどね。現にそういった例外もいるにはいるわけだし。今回の女性殺しとかまさにそれ』


 知ってた?と平然と言う興梠に驚いてしまった。もしかしたら、吸血鬼には吸血鬼なりの情報網があるのかもしれない。幸運な事に、俺がそれに関わっていた事は知らないらしい。彼女にそれを知られたらまたいらぬ心配を抱かせてしまうかもしれないので、黙っておく事にした。


『じゃあそこまでおかしくはないんじゃないかって?……確かに、倒錯者の犯行と一言で片付けてしまう事は出来る。けど、私は何か違うように思えるんだよね。被害者は全員、同じ学校の同じ生徒なんでしょ?どこか怨恨めいているような気がするんだよねぇ』


 先に殺された被害者二人は日ごろから交友があったらしいし、三人は同じ学年だ。あのセイイチの事でもあるし、少なからず面識はあっただろう。彼らが一人の人間から恨みを買った結果殺されたというのなら、確かに話の筋は通っている。けれどそれは有り得ないのだ。沖セイイチという人物を知っている者なら、そんな仮説に首を縦に振りはしない。


『う……怖い顔しないでよ。私だって沖君が尋常じゃないくらい良い人っていうのは知っているから。確かにその点だけ見れば、一気に怨恨説は微妙になってくる。けどもし。もしもだよ。ただ沖君が巻き込まれただけだとしたら、どうかな』


 「当て推量でしかないんだけどねぇ」と力なく笑う興梠。俺はそれに何も返す事が出来なかった。思い付きで言ったであろうその発言。けれど興梠は恐らく知らない。沖セイイチだけ、血を吸われてはいなかったという事を。

 気まぐれで血を吸わなかった?俺に見つかったから血を吸うのをやめた?逃げもせずあいつの死体を泣きながら見ていた女は、一体何故血を吸わなかった?犯人は、そもそもあの女なのか?動機が個人的な恨みだとしたら、何故吸血鬼が人間である彼らを憎んだ?

 一人考え黙り込んでしまった俺に、興梠は心底不安そうな表情で声をかけてきた。


『大丈夫……?』


 その声で我に返って、いつものように会話をしながら食事を終えたのがつい三時間程前。俺はというと、職員室の前にある公衆電話へと向かっていた。今時公衆電話が、しかも学校にあるというのは珍しいが、今は好都合だ。

 公衆電話の前に来て財布を開く。10円玉を数枚用意して受話器をもち、ポケットに入っていたメモ用紙に書いてある番号をダイヤルする。


『はい』


 数回着信音が鳴った後、聞き覚えのある声が聞こえてくる。


「もしもし、ギイチです。急で申し訳ないんですけど、今から会う事ってできますか」



 森の喫茶店に着いて店内を見回すと、彼女はもう奥の方の席に座っていた。彼女の家からここまでは近いわけで、もしかしたら今日も休みで家にいたのかもしれない。

 席に近寄るとこちらに気付いたのか、軽く手を挙げて挨拶をしてくる。


「急に呼び出してすいません」


 頭を下げつつ向かいの椅子に座ると、彼女――ミヤビさんはいつもの無表情で返す。


「今日も家にいたし、構わないわ」


 そう言いつつ、彼女はテーブルの上の皿を少しだけ自分の方へと寄せる。俺の記憶が定かであれば、現在の時刻は午後四時頃である。テーブルの上にはそれなりに大きな皿が三枚程あって、二枚はもう綺麗になっている。もう一枚のパスタもそろそろ無くなりそうだった。


「……えっと、ミヤビさんって吸血鬼ですよね」


 皿に目配せしつつ小声でそう言うと、彼女は一度だけ首を傾げてから、何かを察したようにはっと顔を歪ませる。すぐにいつも通りの無表情に戻りはしたが、それはもう、とんでもなく苦い顔だった。


「そうなのだけれど……どうにも他に比べて、人間の食べ物が好きみたい」


 無表情のまま、俯くように少しだけ顔を下に向ける。非常に分かりづらいが拗ねるような、恥ずかしがるような、彼女にとってはそんな仕草なのだろう。


「ある程度は栄養とれるんですよね。それだけ食べたら血が必要なくなるとか?」


 興味本位で聞くと、また僅かに眉間に皺が寄る。どうやらそうではないらしい。


「……そうではないわ。勿論摂取すればする程栄養は多くとれるけれど、それだけでは活動出来ない。血はどうあっても私達には必要になってくる。だからこれは……」


 本当に珍しくて少しだけ呆けてしまう。あのミヤビさんが。普段なら喋り始めたら一切噛むことも淀む事もないミヤビさんが、言葉に詰まっていた。本音を言えば少しでも長く観察していたいのだが、無表情ながらも僅かに眉間に皺が寄る彼女は、恐らくそれなりに悩んでいてへこんでもいる。


「じゃあ人間にとっての嗜好品みたいな物なんですかね。煙草やガムみたいな」


 とりあえずそのままにしておくのは少し可哀想なので、助け舟を出すつもりでそんな事を言う。すると少しの沈黙の後、ため息をつきながら彼女は頷いた。


「無くてもどうにかなる物ではあるし、その例えは的確かもしれない」


 とすると、あくまで興梠も嗜好品として食事をとっていたのだろうか。ミヤビさんの言う通りであれば、吸血鬼は人と同じ食事をとる必要がない。


「本来は一切食べる必要ないって事ですか。俺たちにとっては当たり前過ぎて理解出来ないですけど、吸血鬼にとってこういう食事って趣味性の強いものなんですね」

「そうね。こういった食品に関しての好みは吸血鬼によってまちまちだし、そういった意味でも嗜好品足り得てるかもしれない。中には無駄であるし、出来れば食べたくないと思っている吸血鬼もいるわ」


 前半は難なく理解出来たのだが、後半の部分がよくわからなかった。


「それってどういうことですか。食べたくないのに食べている吸血鬼も、中にはいるって事ですか」


そう。それじゃあまるで、吸血鬼が無理して食事をとっているみたいだ。必要もないのに、何故無理して食べる必要があるのか。

 するとミヤビさんは呆れたような顔をしてから、「いや仕方ないか」と言う。


「確かに、貴方には想像がつかないかもしれない。人間の中で生きる人間には、あまり理解出来ないでしょうね」


 その言い回しに首を捻るが、少し考えて彼女が何を言いたいのかがようやくわかる。


「人として振る舞うために、食べるって事ですか」

「ええ、そういう事よ。私達は貴方達に紛れ込んで生きている。一切食べ物を口にしない隣人なんて、少し不気味でしょう」


 言われて納得する。確かにそんな人間は怪しまれてもおかしくはない。吸血鬼は吸血鬼なりに上手く人間の中で生きていけるよう工夫しているのだろう。彼らは人と共存する為、人として生きる為に人間社会に紛れ込んでいる。考えてみれば、それは当たり前の行動と言えた。


「吸血鬼も苦労してるんですね」

「……どうだろう。必要のない栄養素ではあるけれど問題なく消化出来るし、味覚にも合っていないわけでもない。それに私のように好む吸血鬼も多いわ。どちらかと言えば嫌っている吸血鬼の方が少数だと思う。その少数派の多くは、人と同じ物を食べるという行為こそが毛嫌いする理由のようだし」


 行為そのものを嫌っていると、彼女は言った。味を嫌っているわけでもなく、肉体の構造的に食べられないというわけでもない。それは一体どういう事かと考えて、何となくわかってしまう。


「その少数派っていうのは、人を嫌っているんですか」


 率直に思った事を聞くと、彼女は渋い顔をする。どうやらあまり聞いてほしくはない内容だったのかもしれない。しかし、すぐに諦めたような様子で詳しく話してくれた。


「厳密に言えば嫌っている、というわけではないわ。ただ単に下に見ているだけなのよ。彼らの言い分はこう。『人間は牛や魚を同列に見れるか、それらと同じ食物をとれるか、それらと同じ生活を出来るか。我々には到底考えられない』」


 酷く傲慢な考え、と最後に彼女は付け足す。確かにそれは俺たち人間からすれば傲慢としか言いようがない。けれど一方で、仕方のない事実なのかもしれない。人はあらゆる点において吸血鬼に劣っている。それだけならまだしも、彼らの食料でもある。人間を見下す吸血鬼が一定数いるというのは、生物としての明確な優劣からして仕方がない事なのかもしれない。

 ふと、つい数時間前の事を思い出す。二年前の事件は怨恨の可能性もあるのではと、興梠は言っていた。人間を嫌う吸血鬼であれば動機としては成り立つのかもしれない。けれどそれじゃあ被害者全員が男子中学生である説明がつかない。やはり、俺だけでは到底たどり着けそうにない。


「ミヤビさん。話変えていいですか」


 雑談はもう十分だ。そもそも今日はこの話をするために来た。


「ええ。貴方にとっては聞きたくはない話だろうし、私としても同族の汚点は極力口にしたくはない」


 そう言って話を促すように目線を向けてくる。そういった理由ではないのだが、いちいち訂正するような事でもないだろう。


「まず昨日の返事からなんですけど」


 口にした瞬間、僅かにミヤビさんの顔に緊張の色が見て取れる。彼女は彼女なりに不安だったのかもしれない。


「協力します。ちっぽけな正義感だとか、この能力があるからとか。まあ色々あって上手く説明は出来ないんですけど」


 ソレトアナタノコトガスキダカラ、なんて口が裂けても言えはしない。言った場合どんな反応をするのか甚だ気にはなるが、残念ながらこれはバーチャルではない。一寸先は闇であり、日本人である俺の人生は無難無難を繰り返すのが吉なのだ。


「そう。よかった」


 ミヤビさんはというと、それを聞いて心底安心したように小さく笑うのだった。普段ほとんど笑わない彼女の笑顔はこの上なく可憐で、当たり前だがこっちの気持ちなんて知ったこっちゃないのだろう。文句を言うのは筋違いでしかないのだが、このタイミングでその表情は出来れば止めて欲しい。


「それじゃあ改めて」


よろしくね、と手を差し出してくる。この場合の無意識だとか無自覚だとかは、本人には全く責任はない。けれどわかってほしい。時にそういった邪気のない行動は、男に対しては決定的な一撃になってしまったりするのだ。


「……こちらこそ」


 それを握り返すと、彼女は先程より少しだけ大きく笑った。顔は熱くて、少しだけ頭がぼーっとする。いつもの調子で返したつもりだったが、上手く出来ていたかは自分ではわからない。こんな調子でこの先大丈夫なのか甚だ不安ではあるが、何にせよ話は進展した。頭から放熱する為にも、例の話をしてミヤビさんに意見を聞いてみよう。


「急かすようで悪いんですけど、二年前の事、詳しく聞きたいんです。俺の方でも、ちょっと気になる事があって」


 率直に言うと、彼女は不快感を示す事もなく頷いてくれる。


「構わないわ。貴方の親友が関わった事件だもの。まともな神経をしていれば、気になるものよ」


 彼女も親友を吸血鬼に殺されたと言っていた。どこか共感する所もあるのかもしれない。その内容が気にならないわけではないが、彼女は話したがらないかもしれないし、今話すべき事ではない。


「犯人が西条アマネじゃないって思う理由って、何ですか。この前は憶測の域を出ないとは言ってましたけど、何かそう思うに足る理由があるんですよね」


 俺の知っている天羽ミヤビという人物は、無駄な事は言わない。冗談も言わないが、人を惑わすような事も言わない。そんな人物が憶測とは言いつつも口にした。だからそれはそれなりに確証のある憶測なのだと思った。


「いいえ、本当に憶測でしかない。ただ単に、私はあの人が犯人ではないと思うだけなのよ」


 彼女は否定しつつ、どこかおかしな言い回しをする。


「もしかして、知り合いなんですか」

「……貴方って変な所で察しがいいわよね」


 率直に思った事を聞くと、彼女は感心するようにそう言った。そんな自覚はまるでないのだが。


「知り合い、という程ではないけれどね。前にも言ったように、月に二回、私達には決まった量の血液が支給されている。支給場所は限られているし、そういった場所で何度か顔を合わせて、少し言葉を交わしただけ」


 随分前にそんな話を聞いた気がする。病院だとか血液があっても不思議ではないような場所を利用して、国が吸血鬼に血を支給しているのだと。あの時はまだミヤビさんが吸血鬼だとは知らなかったし、月二回程度で足りるのかとかそんな考えを持つ程度で、詳しくは聞かなかった。


「いざ言葉にしようとすると信憑性の無さに自信を無くしてしまうわね…。けれど彼女を――西条アマネを前にすれば、ほとんどの人が私と同じ感想を抱くと思う。とても、人間なんて殺せるような人ではないと」


 確かにそれは、理由としてはあまりにも薄すぎる。それはあくまで天羽ミヤビ個人の西条アマネに対する感想、印象でしかない。確証には程遠い。


「どんな性格だったんですか」


 けれど彼女が。普段であればそんな事およそ口にもしないであろう天羽ミヤビが、そんなあやふやな理由を口にしている。その事実だけで、いくらか信憑性が増していた。


「一言で言えば、虫も殺せないような人、かしら。月並みだけれど、本当にそんな人だった。いつも何かに怯えているようで、気も弱い。けれど卑屈なわけではなくて、優しく子供にも好かれるような人だった。決定的…というにはまだまるで足りないだろうけれど、あの人は受け取った血液を見て青ざめてもいたの。月に二回の配給よ。人目を気にせず喜ぶような吸血鬼も少ないけれど、血が苦手なんて、そんな吸血鬼の方が圧倒的に少ないわ」


 恐らく、ミヤビさんの中では西条アマネが殺人を犯す所など想像もつかないのだろう。試しに沖セイイチや、吸血鬼である興梠が犯罪を犯す所をイメージしてみる。予想通りまるで想像がつかなかった。彼らはそういった行いをする者とは真逆の存在であり、差異はあれ西条アマネもそういったタイプの人間なのだろう。彼女に裏の顔でもあれば話は別だろうが、今それを考えても答えには繋がらない。


「ごめんなさい。思わせぶりな事を言っておいて何だけれど、本当にそれだけの理由なの。ただずっと個人的に疑問に思っていて、出来れば貴方にあの時の事を詳しく聞きたかった。その上で自分なりに精査したかったのよ」


 彼女は精査と言った。恐らくまた事件を詳しく調べなおすつもりなのだろう。犯人が四条アマネとは別の吸血鬼であるとすれば、人殺しの吸血鬼が今も町中を歩いている可能性は十分にある。彼女としてはそれは看過出来ないのかもしれない。


「……いや、そうでもないかもしれないです」


 ならこれは、もしかしたら我々の次の仕事になるかもしれない。興味本位で俺だけ動いて真実を探り当てた所で、あまり意味はない。けれどミヤビさんと一緒に真犯人を見つけ出す事が出来れば、それは大いに意味がある。自分勝手な理由を付け足すのなら、あいつへの手向けにもなるだろう。

もう二度とあいつが生き返る事はない。これからもずっと、その事実は決して動きはしない。けれど俺が憧れたあいつは、こんな状況で後ろを向くような奴じゃない。


「あの女は――西条アマネはセイイチの死体を見て、何故か泣いてたんです」


 そう言うと、彼女の視線が少し鋭くなる。


「泣いていた……?死体を前に?」

「はい。正直に言って当時は気が動転していてそんな事気にする余裕もなかったんですけど、確かに泣いていました」


 そう。確かに泣いていた。気が弱く、人を殺せるような性格ではない西条アマネは、沖セイイチの死体を前にして涙を流していた。彼女が泣いていた理由は、一体何なのか。


「ちょっと待って。それは血を吸うような動作もせず?」


 ミヤビさんの目が更に細まっていく。


「そういった動きは、なかったと思います。というかすぐ近くに蹲ってはいましたけど、そもそも体にも触っていなかった気がします。あともう一つ気になってる事があるんですけど。俺の存在に気付いているのに、逃げるような素振りも、襲ってくるような事もなかったんです」


 そこまで言うと、遂にミヤビさんは口に手を当てて何やら考え込んでしまう。数分経ってようやく口を開いた彼女は、酷く険しい表情をしていた。


「……ありがとう。正式に動き出すにはまだ足りないけれど、それは追々解決していく事にするわ。個人的に調べなおす動機としては、十分になった」


 そう言って頭を下げられる。それで話は終わり。そう言われているような気がした。


「一人で調べるんですか、それ」


 そう聞くと、彼女は少し困ったように笑って答える。


「そうなるわね。正式にはもう終わった事件だから今更掘り返すと嫌な顔をする連中もいるの。その辺は人間の警察と同じ。誰だって自分達の仕事に文句を点けられたくはないでしょう。仮に真犯人がいたとしても、それを確かめる術はもう限られている。見つけるのは難しいでしょうね」

「それって、例の同僚の人とかには頼れないんですか」


 あの時。二丁目で女性を助けた時、彼女の傍には男の同僚がいた。記憶はおぼろげでもしかしたらあれは夢だったかもしれないが、完全に気を失う前に聞こえてきた会話は割と親しげだったと思う。その人には頼れないのだろうか。


「……尤もな意見なのだけれど。彼、そういった事が大の苦手なの。声をかければ二つ返事で協力はしてくれるでしょうけれど……その、あまり」


 そこまで言って、また珍しく言葉に詰まってしまう。何となく言いたい事はわかったので、察したように成程と頷く。


「吸血鬼の捕縛、処理に関しては我々の中でも1,2を争うぐらい頼りになるんだけれど。それが裏方となると、どうにも駄目なのよ。聞き込みをしようにも口下手だし、厳めしい顔も相まって怖がられてしまって……本人は本人でそれなりに傷つくらしいから、少し可哀想なのよ」


 それはいわゆる脳筋というやつだろうか。以前取っつきにくいと言っていたのはそういった理由か。怖い人ではなさそうなので、そこは少し安心する。今後顔を合わせる事もあるだろうし、その時は極力怖がらないようにしよう。


「じゃあ、やっぱり一人で調べるしかないんですね」


 そう、意味もなく口にする。俺には出来る事がないから、彼女は話を終わらせたのかもしれない。実際、ただの学生に何が出来るというのか。吸血鬼を感知する事しか出来ない俺は、彼女の同僚よりも裏方には向いていないだろう。


「俺に、何か出来る事ってないですか」


 けれど一度だけ。そう聞いてみる事にした。駄目なら駄目だ。はっきりそう言い切られたら、諦めよう。

 彼女はそれを聞いて無表情でこちらを一瞥した後、口に手をあてて少し考え込んでしまう。俺はというと、どんな断れ方をするのか不安で仕方がなかった。


「貴方は、手伝いたいの?」


 しかし、予想とは違うそんな言葉が投げかけられる。あの事件の真相が掴めるかもしれないのだ。勿論手伝いたい。


「はい。でも邪魔なら邪魔ってはっきり言って下さい。自己満足の為に足を引っ張りたくはないですから」


 そう。これはただの自己満足。あの時何も出来なかった事への、自分なりの償い。或いは沖セイイチのように誰かの助けになりたいという、自分勝手な願望。俺はてっきり、次に協力を請われるのはこの事件だと思っていた。けれど彼女は手伝ってくれとは言わなかった。それは俺では役に立たないからかもしれない。もしそうなら、彼女の邪魔だけはしたくない。


「……手伝った結果、何もわからないし、何も変わらないかもしれない。犯人はやっぱり西条アマネで、貴方は昔の事を思い出して、ただ傷ついて終わるだけかもしれない」


 それでも手伝いたい?と視線で問われる。そうか。彼女はそれ以前にそんな事を気にしていたのか。

きっと少なからず昔の事は思い出すし、それには当然のようにあいつの死はついて回るだろう。良い結果に終わったとしても、そうではなかったとしても。けれど、それはもう大丈夫なのだ。彼女のおかげで、もう昔のように酷く悩む事はなくなった。


「それはもう平気です。もう、前みたいに悩むような事もない筈です」


 確証はない。けれど事実だと思う。少なくとも、隣にこの人がいてくれればそうはならないと思う。彼女だって言っていた。また馬鹿な事を考えたら、何度だって言ってやると。


「邪魔ですか」


 不安をかき消すようにそう聞く。すると、彼女は満面の笑みで笑ったのだった。


「まさか。人手は多ければ多い程良い。しかも貴方は現場を目撃していて、吸血鬼を感知する事も出来る。これ程心強い協力者が、果たして他にどれ程いるかしら」


 そこまで言われてしまうと何だか気恥ずかしい。けれど、同時に言い様もないくらいに嬉しかった。


「先に言っておくけれど、これは正式な捜査ではないから報酬は出ない。仮に真犯人を見つけたとしても、出ないものと思って」


 それに無言で頷くと、ミヤビさんはどこか嬉しそうに笑ってティーカップに手をかける。何だか、さっきから目に見えて上機嫌だ。これ程機嫌の良い彼女は初めて目にする。


「なんか、妙に嬉しそうですね」


 つい、思った事が口に出てしまう。目の前の相手の機嫌がいいと、人間の頭というのは馬鹿になってしまうらしい。


「当然でしょう。後輩がこれだけやる気を出してくれているんだもの。我々の未来は明るいわ」


 満足げにティーカップに口をつける。彼女のように普段ほとんど笑わない人物の機嫌が良いにこした事はない。間抜けな発言もスルーされるどころか快く答えられてしまった。今現在すこぶる居心地はいいのだが、どういった訳か正体不明の不安に襲われる。

 何だろうと正体を探って、彼女の笑顔にその答えを見つける。その可憐な笑顔にはどこか見覚えがある。実際には似ても似つかないのだが、恐らくその本質は同じだ。その笑顔は戦争映画の中で新米兵士をしごく、ニヒルに笑う訓練教官そのものだった。


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