第五章
私の家族は人とは違う。それは吸血鬼という生き物で、その家族である私もまた吸血鬼だった――。
物心ついて小学校に通い出す頃、それを聞いた。お母さんが言うには、私達と違って他の子達は血なんか飲まないらしい。もし誰かに言ったら仲間外れにされちゃうから、絶対に言ってはいけないよと、何度も繰り返していた。その約束を守るのは辛い事かもしれない。自分達とは違う生き物の中で、偽って生きていくのは子供である貴方には酷かもしれない。ごめんねと、お母さんは最後に謝った。
けれど私は特に気にもしなかった。だって、人も吸血鬼も大して変わらなかったから。食べるモノが少し違う以外は、何も違わない。遊んで笑って、喧嘩して泣いて。何も、違う事はなかったから。兄さんはそうは思わなかったみたいだけれど、私にはどうでもいい事だった。
そう。そんな事はどうでもいい。みいちゃんと遊べるだけで、私は幸福だったのだ。
木島病院の正面玄関を出て青空を眺める。思わず目を細めてしまう。たった二日間室内に籠っただけだというのに、朝日が眩しくて目を開けていられない。
「よし、後は一人で大丈夫だな。そろそろ仕事に戻るわ。――ああ、先生にもああ言われたんだ。くれぐれも安静にな」
退院の付き添いに来ていた兄はそう言って、病院の前で待機しているタクシーの列に歩いていく。……気恥ずかしいが、言わないわけにもいくまい。
「兄貴。悪かったな。仕事で忙しいのに」
歩いていく兄を呼び止めてそう言うと、一瞬だけきょとんとした顔をしてから、いつものように豪快に笑った。
「気にすんな。可愛い弟のためだ。それに忙しいって言っても、例の連続殺人の犯人だって捕まったしな。……おっと、これはまだ言っちゃ駄目だった」
誰にも言うなよ!と言ってタクシーに乗り込んでいく。…自覚があるだけまだましなのかもしれないが、ニュースにもなっていない事を肉親に漏らすのは駄目だろう。兄のような豪快な性格は警官に相応しいと思っていたのだが、実は一長一短なのかもしれない。
それにしても、あの犯人は捕まったという事になっているらしい。ミヤビさん達が裏でどんなやり取りをしているのかは知らないが、犯人を射殺するなんていうのはこの国では過激過ぎる。そういった事に配慮した結果、兄のような末端の警官にはああいった事実とは異なる情報が伝わるような仕組みになっているのかもしれない。恐らくニュースでも同じように伝えられるのだろう。もしかしたらニュースにはならないのでは?とも思ったのだが、あれだけの被害者を出した犯人だ。住民の不安を解消する為にも、偽りの報道はされるだろう。
「さて。どうしたものか」
ああは言われたものの、もう体に不調は感じない。多少の気怠さはあるものの、それは二日間ベッドで寝続けていたせいだ。ある程度体を動かせば自然と消えるだろう。
時刻は午前九時。丘の上の洋館――ミヤビさんのお宅訪問をするには、少しばかり早い気がする。
「というか、あの人が仕事とかで出かけてたらどうするんだ……」
一人ごちる。昨日は何とかなるとも思ったのだが、よくよく考えてみれば家に行ったところで会えない可能性なんて十二分にある。
とりあえず、駅に向かって歩きながら考える事にした。
家に行く前にあの現場に行きスマートフォンを探し出す、という手もある。方向は同じであるし、見つける事が出来ればすぐにでも連絡をとれる。何より新しいスマートフォンを調達しなくて済む。そして探しているうちに程よい時間帯になるのではないかとも思うのだ。それでも早ければ、あの喫茶店で何か軽く食べよう。
「よし、そうしよう」
当面の予定が決まって、足早に駅へと向かう。久しぶりに歩く金井市は以前と何も変わっていない。相変わらず高さがバラバラのビルだらけで、どこか息苦しい。小さい頃、この雑多な町があまり好きではなかった。
周りの人工物に統一性はなく、どれも寒色で温かみがない。道行く人々は皆俯いて歩き、無機質なブリキの人形を連想させる。
昔見たアニメの機械工場の中に取り残された気がして、当時はただただ苦手だった。まあ、今では全くそうは思わないのだが、子供の頃は不気味に感じてしまったのだ。
その良く言えば都会的な町で、随分長い間暮らしていた。良い思い出もあったが、正直もうあまり立ち寄りたくはなかった。思い出したくない事を思い出すし、何より――。
「――ねぇ、あなた」
不意に、女性に声をかけられる。年齢は四十代ぐらいだろうか。その人は知らない人間の名前を挙げ、俺が首を振ると謝ってそそくさとどこかへ行ってしまった。どうやら人違いだったらしい。息子の同級生と勘違いでもしたのだろうか。
「…………」
気付けば体は震えていた。その震えを振り払うように、駅へ向けて更に足を速めた。
ときわ市に着いた頃、空は大分機嫌を損ねていた。太陽は灰色の雲に隠れ、今にも雨が降り出しそうだ。あまりゆっくりはしていられないかもしれない。スマートフォンは防水仕様なのである程度は濡れても問題ないと思うのだが、雨の中それを探し出すというのは中々骨が折れると思う。とりあえずいつ降られてもいいようにコンビニでビニール傘を買い、一丁目行きのバス停へと急ぐ事にする。
バス停に着くと、運が良い事にちょうどバスが来たところだった。整理券をとってバスに乗り込む。乗客はあまりいない。雨のせいかとも思ったのだが、一昨日もこんなものだった事を思い出す。考えてみれば一丁目に近づけば近づく程商店も民家も減っていくのだ。そして平日のこの半端な時間帯である。乗客が少ないのは当然と言えた。
バスに揺られながら窓から外の景色を眺める。この道を通るのは徒歩も合わせれば四度目になる。四度目ともなると出来の悪い頭でもそれなりに道路沿いの風景は覚えていて、目新しい発見もなくあまり新鮮味はない。退屈と言えば退屈だった。
まあしかし、緊迫した一昨日と比べたら遥かにましだ。吸血鬼を追ってバスに同乗、何て非現実的で危険な行為からしたら退屈なんて安いものである。加えてあの時は呼吸もとんでもなく荒かったわけで。あと、ミヤビさんにどんな怒られ方をするのだろうかと、割とビクビクしていたっけ。
「……結構、真面目に怒ってたよな」
昨日のやりとりを思い出す。上手くいったからいいものの、下手をすれば一人の犠牲者が二人になっていた。しかも俺は何度も釘を刺されたというのに、一人で追うなという言い付けを破ったわけで…まあ、そりゃ怒るだろう。議員の叔父のようにぐーで殴られなかっただけまだましなのかもしれない。
あの行為に後悔はほとんどないし、無謀だとは思うけれど正直間違っているとも思えない。けれど彼女の言い付けを破ったのは事実なのだ。会う事が出来たら、もう一度ちゃんと謝ろう。
などと考えていると、運転手が件のバス停名をアナウンスする。慌てて降車ボタンを押す。あの時は結構長い時間に感じられたものだが、やはり緊張というものは時間感覚を大きく狂わせてしまうらしい。
バス停に着いて乗車賃を払ってバスを降りると、不意に顔に冷たいものがかかる。嫌な予感がして顔を歪ませながら空を見上げると、しとしとと雨が降り出し始めていた。
どうしたものかと数秒悩むが、幸いな事に雨脚はあまり強くない。この分なら探すのはそこまで苦ではないだろう。衣服は多少濡れるだろうが、それぐらいで回収出来るのなら安いものだ。意を決して例の現場へと足を向ける。
やはり周りに人気はない。まだ昼前だというのに太陽が出ていないせいか以前にも増して辺りは薄暗かった。この近辺で殺人犯が出没したと言っても驚きはすれ、さして疑問は覚えないのではないだろうか。…いや、さすがに覚えるか。自分はその現場を何度か目撃したわけだが、この平和な国では身近に殺人犯を感じる事などまずない。少し感覚がおかしくなっているようだ。そういう常識はずれな考えを持ってしまうあたり、実は自分は随分おかしな身の上なのでは?と思ってしまう。
正直あまり実感はないのだが、恐らくはそうなのだろう。どういった巡りか、本来なら目にもしないはずの吸血鬼に三度も遭遇している。一度は作為的なものと言えなくもないが、積極的に探したからと言ってそう簡単に出会えてしまうとも思えない。やはりこの特殊な体質のせいなのだろうか。…実は、前世で呪いでもかけられているのではないか。そんな馬鹿げた疑いすら出てきてしまう。空想上の生き物と、世の中の常識では在り得ないとされる吸血鬼が実際には存在するのだ。スケール的に、呪いぐらいあっても別段不思議ではない。
現場に着くと、意外にもそこには何もなかった。死体が出たのだからあのお決まりの黄色いテープで封鎖でもされているのではと思ったのだが、そうはなっていない。血の着いたスコップは勿論、飛び散った血も脳漿もどこにも見当たらない。現場からは、あの出来事が完全に消えていた。
存在を知られてはいけない怪物の死。犯人は捕まったという操作された偽りの情報。現場を見て少し意表を突かれはしたが、こうなるのは至極当然の事なのかもしれない。
しかし、だとしたら困った。恐らく痕跡を消したのはミヤビさんか、或いはその同僚だ。半端な仕事をするとは思えない。ミヤビさんならば昨日のお見舞いついでに届けてくれそうなものだが、そういった話は一切なかった。怒らせてしまったから意地悪をされたのかと勘ぐりもしたが、あの人がそんな子供じみた仕返しをするとも思えない。そう考えると、俺のスマートフォンは彼女とは別の人物が回収したと見ていいだろう。
一応辺りを見回してみるが、やはりそれらしきものは見当たらない。ため息交じりに、森の喫茶店へと足を向けた。
森の喫茶店で、もしかしたら奇跡的にミヤビさんに会えるのでは?と思いもしたのだが、勿論そんな旨い話はなかった。ジェノベーゼとダージリン。以前のように気に入った空間で、ただ新しいメニューに手を付けただけであった。とても有意義な時間ではあったのだが、目的とはかけ離れていたのであまり伸び伸びと満喫出来なかった。
一向に止む気配のない雨にため息をつきつつ、バス停で時刻表を確認する。案の定、次のバスまでは随分時間がある。都会から少し離れた町の宿命なので、それは仕方がない。恐らく徒歩であの屋敷までは目測で二十分程。次のバスはおよそ一時間後。バスを待つよりは歩いていった方が遥かに早く着けるだろう。これで雨が降ってなかったらなと本日三度目のため息をついて、件の洋館へと歩き出した。
雨は強くなる事はないが、弱くもならない。しとしとと降り続けるこの類の雨は、恐らく夜まで降り続けるだろう。こんな日は自然と気分が落ち込むし、何か良くない事でも起きそうで好きではない。二十分も歩いて着いたら留守でした、何て事にならなければいいが。
二十分程歩いて、洋館の前に着いた。厳密に言えば洋館の門の前。玄関と思しき場所までは悠に二十メートルはある。門の両端に鎮座している何の生き物を模したのかよくわからない二つの彫像といい、自分の背より遥かに高い豪勢な鉄製の門扉といい、何か色々とおかしい。一体いつの時代の金持ちだ。
辺りには民家なんてものは全くない。勿論そんな場所に商店らしきものもありはしない。であるからして人の気配なども微塵もない。高い塀に囲われた古びた洋館は、さながら童話に出てくる人嫌いの魔女の館のようだった。そんな事言ったら今度こそ殴られるかもしれないので、この感想は心の奥底に仕舞い込んでおく事にする。恐らく日の目を見る事は生涯ないだろう。
豪勢な屋敷に大分気圧されながらも、ここまで来て帰るわけにもいかないので呼び鈴を探す。しかし一分程して凍り付く。…嘘だろう。時代錯誤にも程がある。信じられない事に、門の周辺には呼び鈴らしきものがまるで見当たらなかった。
ここまで徹底していると感心すら覚えるのだが、利便性を排してまで得られる程のメリットは果たしてあるのだろうかと疑問に思ってしまう。稀に自慢の豪邸を斜め上の方向に改装して見せびらかす芸能人を目にするが、あの人ないしあの人の家族がそういった偏った趣向を持ち合わせているとは考えにくい。とすれば何か他の理由があるのだろうが、それはそれで俺のような金持ちでもない凡人にはまるで考え付かない。
何にせよ困った。はたしてこういうのは勝手に入っていいのだろうか。曲がりなりにも敷地内に入るわけで、家主に断りもなく入るというのはあまり良くないような気がする。そう思いもするのだが、でもなければどうやって訪問すればいいのだこれは。
どうしたものかと悩んでいると、洋館の左端の方の窓から微かに明かりが漏れる。小さな磨りガラスの窓なので人影までは確認出来ない。しかし彼女かどうかは別として、どうやら留守ではないらしい。
留守ではないとわかったのは僥倖だ。しかし眼前の問題の解決には繋がらない。大きな声で呼び掛けるか。……柄ではないのでやりたくはないし、何よりあの人はすごい嫌な顔をしそうだ。仮に彼女の家族が出てきたとして、それはそれで大分気まずい状況になる事が予想される。
却下だ。何か他にないかと辺りを見回す。すると二十メートル先の玄関扉に、古めかしいドアノッカーがある事に気付く。記憶が正しければ、あれは呼び鈴と同じ役目を果たす物だったと思う。
数秒悩む。試しに門に手をかけると、どうやら鍵は掛かっていないらしい。勝手に入ってもいいという事だろうか。更に数秒悩んでから、門を開けて中に入る事にした。
少しびくつきながらも、玄関へと続く石畳を歩いていく。門の外からはよく見えなかったが、中は規模が大きすぎて庭と言っていいのかわからない程の敷地面積だった。その広さの割にはよく手入れされていて、住人の性格をよく表している。
正直気は引けるのだが、いるのなら引き返すという選択肢はない。彼女に詳しい話を聞けば他に何かわかる事があるかもしれないし、こちらからも事件の真相に関して何か助言出来るかもしれない。何より、消極的な人間の行動理念すらも覆すその内容。あんな話を聞いて、今更事を先延ばしにするなんて事は出来そうにない。
石畳を歩き切り、玄関扉の前まで来る。両開きの木製の扉は古めかしくもそこはかとない高級感を漂わせていた。二枚の扉には一切錆のないドアノッカーがそのほぼ中心に取り付けられている。金属の輪っかを咥えているその生き物は、やっぱり何の生き物なのか判別がつかない。いい加減もやもやしてきたので、今度聞いてみよう。
謎の生物が咥えている輪っかに手をかけ、軽く鳴らしてみる。コンコンという、思っていた以上に小さな音。実物を見るのは初めてだが、ドアノッカーとはこういうものなのだろうか。輪っかの可動域がほとんどなく、勢いがつけられないため音がとても小さい。意を決して行動に出たというのに新たな不安が生まれてしまう。これでは家の隅までは聞こえないのではないだろうか。
よくよく考えてみればドアノッカーが二つもついているというのはどういう事なのだろう。呼び鈴の役割を果たすのなら一つでいい筈である。冷静に観察してみるとシンメトリーに配置されたそれは武骨な扉に程よいアクセントを加えているようで、一言で言ってお洒落である。
「…………」
もし。これがただの装飾品なのだとしたら大して音も出ないのは、まあ納得だ。本当どうなってるんだこの洋館。
扉を直接ノックするというのも考えたが、さすがに乱暴過ぎる気がして気が引ける。これが自宅ならまだしも、知り合って間もないあのミヤビさんのお宅である。考え過ぎかもしれないが藪をつついて蛇を出すなんて真似はしたくない。むしろ蛇以上の何かが飛び出てきそうな気もするので極力避けたいというのが本音だ。
どうしたものかと本日何度目になるか、もう数えるのも疲れ切ってしまった思案。無作法な方法をとりたくはないが、もはや策は尽きた。……致し方ない。ここまで来たのだ。意地でも会ってやろう。
脳内で力加減をイメージしつつ、扉をノックしようとする。が、その前にドアノッカーを鳴らした方とは反対側の扉が、少しだけ開いている事に気付く。
どういった訳で扉が開いているのだろうかと首を傾げる。しかし数秒してこれは好機であると気付く。散々ついていなかったような気がするが、ついに光明が差した。
何だか妙に嬉しくなってその勢いのまま扉を少し開けた。
「すいませーん」
大きめの声で中に向かって呼び掛ける。屋敷の中は陽の光が入らない構造なのか、真っ暗だった。電灯も消えていてほとんど何も見えない。その暗闇を注視するが、二十秒程何の反応もなく落胆する。が、少ししてがちゃりというドアを開けるような音が聞こえる。次いで、小さな足音が聞こえる。それは、良かったと息をついた瞬間だった。
唐突に呼吸が辛くなる。加えて眩暈、それにともなう頭痛。この世の不快感を一緒くたにしたようなそれは、突如として襲ってきた。足音が近付く度に呼吸はどんどん荒くなっていく。――間違いようがない。もう間違えるはずがない。音の主は、人ではない。
混乱する頭で必死に考える。何故ここに吸血鬼がいるのか。吸血鬼狩りの彼女の家に、その獲物が入り込んでいるのか。同族を殺された復讐か。あいつらはそんな思慮の浅い行動をとるのか。彼女とその家族は無事なのか。そんなとりとめのない考えをしている間にも、足音は近付いてくる。
身構えてどうするか考えるが、何一つ良い案が浮かばない。実は住人は留守で、今この場にいるのは吸血鬼と俺だけという可能性を考える。……駄目だ、それを確かめる術がない。
今逃げれば俺は助かるかもしれない。けれど、もし誰かが家の中に残っていたらその人は無事では済まないかもしれない。ミヤビさんなら対処出来るかもしれないが、自宅に奇襲をかけられたのだとしたら万全の状態で対応出来ないかもしれない。
なら、ここから逃げるわけにはいかない。とにかく、中に人がいないかだけでも確かめないと、俺は許されない。
唐突に足音が止まる。同時にぎり、という何かが軋むような小さな音が聞こえる。不審に思って扉越しに耳を澄ましていると、意外な事に音の主はその口を開いた。
「――信じられない。もう二度としないでと、私言ったわよね」
その声には酷く聞き覚えがある。声の主は――彼女は、いつものようにため息をつくように言って、こちらへと近付いてきた。
「……本当に間の悪い。貴方、実は前世で呪いでも受けたんじゃないかしら」
そうして姿が見えたところで立ち止まる。外からの僅かな光でかろうじて見えるその人物は、間違いなく天羽ミヤビだった。無事だった事に安心する。けれど同時に、言葉では表現し得ない程の混乱に陥る。
「何故、ここに来たの。場所は……ああ、あのお兄さんか」
彼女は白いブラウスに薄手のスカート姿だった。手にはバスタオルを持っていて、それで髪を拭っている。
「一昨日スマートフォンを落としたみたいで…連絡をとりたかったんですけど……その、見つからなくて」
いつもの調子で答えようとするが、頭がこんがらがって上手く言葉が出てこない。
「……成程。現場の遺留物を回収した際に一緒に回収してしまったのかもしれないわね」
けれど彼女はこちらが何を言いたいのかを理解してくれる。それはいつも通り頼りになる彼女だ。それは彼女で、あるのに。
「お風呂でも入っていたんですか、こんな時間に」
どうにか平静を装おうと、軽口を叩いてみる。けれどまるで気は紛れてくれない。
「洗濯物を入れていたら、少し濡れてしまったの」
迂闊だったわと言って、右手で毛先に触れ濡れていないか確認する。
「雨降り出したの随分前ですよ。長風呂過ぎじゃないですか」
「……ええ、そうね。入浴時間を誰かに言うと似たような反応が返ってくるわ。好きなのよ。別に構わないでしょう、休みなのだし」
珍しくすねるように言う彼女に、そうですねと気のない返事をする。
本人は気付いていないのか、彼女の艶のある髪からはまだ水滴が滴っている。浴場から急いで出てきたのかブラウスのボタンは上まで閉まりきっていなくて、少しだけ胸元がはだけている。いつもよりも肌は瑞々しくて、頬は若干赤らんでいる。色素の薄い目は暗がりの中爛々と輝いていて、一度も逸らされる事なくこちらに向けられていた。
その姿はとても人間とは思えない。幻想的とも言える美しさは、創作物に出てくる人ではない怪物を彷彿とさせる。…そうだ。あの映画では、あんな事も言っていた。
「――それで、貴方には今、私はどんな風に映っているのかしら」
分かりきった事だけれど。そう加えて、彼女はこちらの返答を待つ。
「何の事ですか」
必死に誤魔化そうとするが、荒い呼吸を隠し切る事は出来ない。
「そう。やっぱり、その能力は驚異的だわ」
――曰く、女の吸血鬼は息を呑む程の美貌を持つという。その色香で籠絡し、男の血を吸うのだと。
ああ、何故こんな事に気付かなかったのか。
『簡単に言ってしまえば、問題を起こした吸血鬼を始末するハンターかしら』
あの時の俺は、ただ彼女が吸血鬼の敵だと。我々人間の味方だと。であればそれは人以外であるはずがないと。そう、無意識に思い込んでしまったのだ。
『三年ぐらい前からかしら。吸血鬼を一時的に人に近付ける薬物が出回り出したの。もしかしたら貴方でもそれを服用した吸血鬼は探知出来ないかもしれない』
自身の手首よりも太い銃身を持つ拳銃を、彼女は片手で構えていた。その現実離れした得物は決して見てくれだけの代物ではない。それは強靭な吸血鬼の頭蓋を一撃の下に粉々にした。
……そんなものを何故小柄な彼女が、訓練さえ積めば扱えるのだろうと、安易に思い込んでしまったのか。
あの男の、質量を無視した腕力を思い出す。…彼女のあれも、今思えばそれと同じ類のものだった。
もっと、シンプルに言えば。
「何度も釘を刺したというのに、貴方は結局一度も守らなかった。…さすがに、頭に来たわ」
――この小柄な少女が、あの男と同じ吸血鬼なのだとしたら。化け物の頭を容易く吹き飛ばすあの光景にも、別段違和感は感じない。
ようやく天羽ミヤビを吸血鬼だと認識する事が出来て、じりじりと後退する。無論それは気付かれているだろうが、幸いな事に彼女に動きはない。
「何、今更逃げるの?」
そう言って、急に視線が鋭くなる。何で彼女が吸血鬼なんだとか。何で吸血鬼が俺に吸血鬼の退治の手伝いを頼むのだとか。何で吸血鬼が吸血鬼を狩っているのだとか。パンク寸前の頭の中身は、もうぐちゃぐちゃだった。
「……もしかして、私を助けなきゃ何て思ったのかしら?……本当、いい加減にして。貴方は特殊な能力以外はただの人間なのよ。勘違いしないで」
そう言って、一歩、一歩とこちらへ近付いてくる。まだ距離は十メートル程ある。全力で走ればもしかしたら逃げられるかもしれない。
「貴方には、一度痛い目にあってもらった方がいいみたい」
そう言って、彼女が唐突に不敵な笑みを浮かべた瞬間だった。
全身に前方からの風を感じて思わず目を瞑ってしまう。慌てて目を開くと――すぐ目の前には彼女の(・)顔が(・)あった(・・・)。
「吸血鬼の私を助ける?馬鹿言わないで頂戴。――さあ、早く逃げなさい」
彼女が自らの事を吸血鬼と言った瞬間。何かが弾けたように、足は動き出した。
正門へ向かって石畳を駆ける。ビニール傘は玄関に置いてきた。振り返る余裕はない。背後から足音は聞こえない。前髪からは雨が滴ってきていて、度々視界を遮る。三度、雨水がまつ毛にかかったところで我慢出来ずに腕で拭う。
そして目を開ける。そんな気はした。そんな気はしていたのだ。いや、正確に言うのならば俺はそうなる事を感覚的に知っていた。だから必死に目を瞑らまいとしていたのだ。漠然とそうなる事はわかっていたのに、肉体は反射的にその悪手を行ってしまう。
相手が人であればそれは悪手には成り得なかっただろう。けれどあれは人ではない。そういった不可能を可能にする、怪物なのだ。
目を開けた瞬間、視界が暗くなった。次いで、右肩と背中に軽い衝撃。しかし軽い衝撃はどういった理屈か、男の体を容易く地面へと押し倒してしまう。顔から石畳に倒れ込み、頬に激痛が走る。
「こちらにも非はあるわ。門の鍵は、特にしめないの。まさかこんな呼び鈴もないような場所に、断りもなく入ってくる人間がいるとは思わないから。人除けである筈のそれが、今回は仇になってしまった。けれど貴方も悪いのよ。勝手に人の家の敷地内に入ってきて、こうされても文句は言えないでしょう」
右肩を地面に押し付けられ、左腕は何かに掴まれていてまるで体を起こせない。背中に圧し掛かる重みは大してないというのに、起き上がって逃げ出す事が叶わない。
悔しいけれど、これで終わりだと思った。抵抗したいけれど、これが限界だと悟った。運が悪いと、吸血鬼は言った。本当その通りだ。何故、俺は運悪く吸血鬼に出会ってしまったというのに、もしかしたら逃げられるかもしれないなんて、希望を持ってしまったのか。
「最期に、一つ教えて欲しいのだけれど」
気まぐれか、吸血鬼はそんな事を言う。心なしか体の拘束が弱まった気がした。
「これが私達と、貴方達人間の差。決して敵わないし、決して逃げられない。前回あれだけ酷い目にあって、貴方はこうなる事がわかっていたでしょう。何も出来ずに、死ぬ事がわかっていたでしょう」
吸血鬼の声には抑揚がなく、感情が感じられない。それは何度も聞いた、あの声だった。
「それなのに貴方は自分の身を投げ打つ。何度も。…何故?無駄な事だとわかっていても犠牲になる事を躊躇わない訳は何なの?その死にたがりの理由は、一体何?」
淡々と、けれど真剣に吸血鬼は言う。答える義理はない。他人に、しかも吸血鬼に。誰にも話した事がないその訳を言う筈がない。言った所で、理解されるわけもない。
ふと、昨日の事を思い出す。上に跨っている吸血鬼は、一体どんな顔をしているのだろうか。病室では酷く痛々しいものを見るような顔をしていた。その表情を思い出すと、何故か胸が苦しくなった。
「……忘れられ、ないんだ」
恐怖で気でも触れてしまったのか、最期だからと気が変わってしまったのか。一体何故口を開いたのか。どういった心情でそうしようと思ったのか。それが、自分ではよくわからなかった。
「あの人の、色んな感情が入り混じったような表情が、ずっと忘れられないんだ」
断片的な言葉を、吸血鬼は黙って聞いていた。
「助けられなくてごめんなさいって、謝った時のあの顔が、ずっと」
体は雨に濡れていく。恐らく、怪物も傘など差していないのだろう。
「あの人は、おばさんは、あなたは悪くないって笑顔で言ってくれた。けど、その顔は今にも泣きそうで」
今でも思い出す。目を離した瞬間泣き出してしまいそうなその笑顔。それは助けてくれと懇願する、断頭台へ向かう者の顔であったり。或いはどうしてなんだと憤慨する、ある日突然大切な人を殺された者の顔。そうである筈がないそのビジョン。穏やかな筈のその顔は、激しい悲哀と憎悪に満ちていた。
「
謝っても、謝っても。あの人は俺を責める事なく、笑うんだ。それが本当に、辛かった」
あなたは悪くないと。本当に無事で良かったと。そう笑顔で言って。息子を亡くしたあの人は、一体どんな気持ちで笑っていたのだろう。
「だから、もう二度と失敗しちゃいけないと思った。もし。もしその結果俺が死んだとしても、あの時とは違う顔をしてくれるかもしれない。そう、思った」
今度こそ、役立たずと。今度こそ、それでいいと。言うはずのない言葉を述べて。
しとしとと、雨は降り続ける。聞こえるものは雨音と、宣教師への告白めいた独白。吸血鬼は、何も言わず俺の話を聞いていた。
「死んで償いになるとは思っていない。ただ何となく、そうなれば許されるんじゃないかって」
漠然と思ってしまったのだ。自分勝手な解釈を、持ってしまったのだ。
「……馬鹿じゃないの」
吸血鬼が口を開く。そして直後に背中に痛みが走った。いよいよかと覚悟を決めるが、痛みを感じたのはそれきりで、背中の鈍痛も少しずつ薄れていく。
「貴方がもし、誰かを助けようとして死んでしまったら。……きっと、その人は貴方の思惑通り、違う表情をするでしょう」
それは何度か聞いた、説教めいた口調。
「その人は泣いてしまう。ぎこちない笑顔すらもやめて、泣いてしまう。……貴方は、その人のそんな悲しむ顔を見たいの?」
吸血鬼は断言する。根拠のない事を、知らない人間を想像して、断言する。何故そんな事を言い切れるのか、何故そんな事を言うのか。俺にはわからなかったが、ただそうでないと心の中で否定していた。
「違うでしょう。貴方が翳りを感じたのは、その人に対して誠実でありたいと思ったから。同じ人を大切に思っていたその人に、心の底から謝りたかったから。…それだけ大切に思っている人の悲痛な表情を、見たいわけがないもの。だから。それが見たくないというのなら。貴方は、そんな自己犠牲に命を張ってはいけない」
それは恐らく間違いではない。漠然と、わかってはいた事だった。わかってはいても、俺には別の方法が思い付かなかった。何度も謝った。許してもらおうとした。けれどそれでは許されないと思った。もし吸血鬼の言うように、俺の自己犠牲が間違いだと言うのなら。それなら俺は、どうすればいいのだろう。そうすれば許されるんじゃないかと思っていた俺は、一体どうすればいいのだろう。
「本当に、運が悪かっただけなの。貴方も、その人も。外れてしまった化け物に、人生を狂わされただけ」
冷たくなった背に、温かい感触が伝わってくる。吸血鬼の腕が首にかけられ、ゆっくりと締められる。けれどそれはその存在とは裏腹に。酷くか弱く、この上なく優しいものだった。
「貴方は、悪くないわ」
呪いを解かれたような、そんな感覚だった。たったその一言で心が軽くなり、同時に雨とは別の小さな滴が地面に向かって落ちていくのが目に入る。訳がわからない。一体何故俺は、吸血鬼に抱きしめられて泣いているのだろう。
吸血鬼はそのまま何も言わない。体を起こそうと思えば今ならば可能だろう。けれど俺はそれが心地よくて、そんな気にはなれなかった。それを不思議に思ったのか、吸血鬼は口を開く。
「……逃げないの?」
何故か不満げな声だった。勿論生きたいし、逃げられるのなら逃げたい。
「……そりゃ生きたい。けど動いた瞬間首へし折られそうだし。あんたにだったら、最期に救われた気がするし、まあいいかなって」
どういった心境の変化か、古い友人に悪態をつくように、俺は言っていた。
「……何よそれ。一昨日の犯人と言い、貴方達にとって一体私は何なのかしら。……けれどまあ、確かにそうね」
吸血鬼がそう言った瞬間、何故か背中からは重みが消え、代わりに雨が打ち付ける。時間が経つ毎に体が冷たくなっていって、不思議と名残惜しい。
「ただ。その前に、何で同類を殺しまわっているのか。出来たらその理由を教えてくれ」
あれだけ自分の事をさらけ出してそのまま死ぬというのは、何だかフェアではない。こんな状況だというのに、そんな場違いな事を考えていた。けれど、家族以外で泣くところを見られたのなんて初めてなのだ。喋るとは思わないがどうせすぐ死ぬのだ。もしかしたら、何かの気の迷いで教えてくれるかもしれない。
「……私の唯一の親友は、人間だったの」
しかし、意外にも吸血鬼は語り出す。その声は先程と変わらない。けれど、その表情にはどこか翳りを感じた。
「私は人として生きてきて、彼女と出会って、彼女は両手から零れ落ちるくらい私に幸福な時間をもたらしてくれたわ。……本当に、大切な人だった」
以前言っていた事を思い出す。ほとんどの吸血鬼は人として人に紛れて生きていると。
「けれどある日、あの子は吸血鬼になってしまった。気の触れた吸血鬼に、同類にされてしまったの。繊細だったあの子はそれに耐えきれなくなって、自ら命を絶ったわ。頑丈な肉体を死なせる為に、惨い方法で」
それが真実かどうかを、俺に確かめる術はない。けれどただただ、酷い話だと思った。もし沖セイイチがそんな死に方をしたら俺はどう思うだろうか。考えるだけで、気分が悪くなる。
「そいつはその後も私の大切な人達を殺したわ。本当に、悪魔のような奴だった。私にとっては災厄でしかなかった。正直に言えば、この手で殺してやりたいとも思った。……許せないと思う気持ちは、貴方ならわかってくれるでしょう」
淡々と、けれどどこか力強く吸血鬼は言う。
「今更そいつに復讐をしようだとは、思わない。ただ、奴のように悪行を行う吸血鬼達を野放しにしてはおけない。私の動機はそれ。ただ、それだけ」
その在り方が許せないから。その行いを許してはいけないから。吸血鬼はそれこそが理由だと語る。理由としては、真っ当だと思う。
「じゃああんたは、血を吸わないし人も殺さないっていうのか」
けれど。なら一体、この状況は何だというのだ。今まさに、俺は殺されようとしている。もし彼女の言っている事が本当なのだとしたら、その動機とこの行動は矛盾していると言っていい。
「血は生きていく以上必要よ。だから最低限は摂らなければならない。けれど人間を襲ったりはしないし、殺しもしない」
その回答にいら立ちを覚える。どうにも、発言と行動にいまいち容量を得ない。
「じゃあ、一体この状況はどういう――」
そこまで言ったところで、背中に圧し掛かっていた重みが唐突に消える。不思議に思っていると地面に伏している俺に向かって、細い腕が差し出される。
「いい加減、体も冷えてきたでしょう。そろそろ中に入りましょうか」
「…………」
一体、この吸血鬼は何を言っているのだろう。そろそろ中に入りましょう?完全に固まってしまった頭で、差し出された細腕をただ茫然と眺める。吸血鬼はため息をついて、唐突にその細腕で俺の体を持ち上げた。
「え、おい何する」
「大人しくなさい。……全く、本当に心外だわ。私達をただの殺人狂だとでも思っているのかしら。まあ、あの件の後だと無理もないのかもしれないけれど」
ぶつぶつと、文句を言いながら洋館へと向かって歩き出す吸血鬼。それに担がれている俺。全く状況が飲み込めずに、ただただ茫然とするのだった。
目の前には、新しいブラウスに着替えた天羽ミヤビが立っていた。バスタオルで髪を拭う姿に、デジャブを覚える。
俺はというと、パンツ一丁で薄手の毛布にくるまっていたりする。誤解がないように言うと、身ぐるみを剥がされたとかそういった訳ではない。今現在俺の着用していた衣服はハンガーにかけられ、丁寧に除湿器の周りに干されている。
あの後吸血鬼に担がれて屋敷に入った俺はというと、何故かその吸血鬼に甲斐甲斐しく世話を焼かれているのであった。
「コーヒーでいいかしら」
唐突に話しかけられ、驚きながらも首を小さく縦に振る。彼女はその様子に目を細めがらも、何も言わず奥の部屋へと入っていく。
彼女の姿がなくなって、ようやく緊張が和らぐ。もしこれが情けない話だという輩がいたら全力でぶん殴った後「本当にそう思うか?」と小一時間問い質したい。襲ってきた吸血鬼の館に拉致されたと思ったら、服を乾かされ毛布まで貸し出された。あげくお茶まで出されようとしている。訳がわからない。この状況で平然としていられる人類は恐らくいないと思う。
少しして彼女が戻ってくる。手には二つのマグカップが握られていた。
「砂糖とミルクは、いらなかったわよね」
そう言ってマグカップを一つ渡してくる。こちらの好みというか、コーヒーは香りを楽しみたいという通ぶった趣向を覚えていたらしい。何というかおかしな話だが。吸血鬼だとわかった後でも、それは非常に彼女らしい気遣いだと思ってしまう。
再び襲い来る緊張を誤魔化すように、何を言うでもなく渡されたマグカップに口をつける。香りはとても良く、その味は森の喫茶店のものと遜色ない。
その様子を見て、彼女もマグカップを口に運ぶ。そして一口程啜って、一人掛けの大きな椅子に座った。マグカップを一度机において、視線をこちらに向ける。
「まずは謝るわ。私にも非があると言ったけれど、今回の事は私にしか非がない。ごめんなさい」
で、何故か謝り出すのだった。ご丁寧に深々と頭まで下げている。もうあまりにも状況が飲み込めないので、とりあえず黙って話を聞く事にした。
「手違いとは言えスマートフォンの事も、鍵のかけ忘れも。そもそもこんな問題を今まで黙っていた事も」
本当に訳がわからない。ついさっきまで上に跨られ地面に押し付けられ、最後には拉致までされた。その吸血鬼は、悪趣味な冗談というわけでもなく本当に謝っていた。
「今となっては言い訳にしかならないけれど、本来であれば一昨日には伝えるつもりだったの。私が吸血鬼だという事。けれどああいう事になってしまったから」
言われて、少し耳が痛くなる。それは彼女に非はない。あの日そう言った話を出来なかった理由は、恐らく俺にあるからだ。
「あの日私は人化薬―――吸血鬼を限りなく人に近付ける薬物を、少量服用して貴方に会う予定だったの。完全に摂取した状態の、もう一人の吸血鬼を連れて。その際、私と彼で貴方のその能力にどういった差異が生まれるのか、見極めるつもりだった」
あの時の事を思い出す。彼女はその薬物を摂取した吸血鬼は見つけられないかもしれないと言い、俺はそれに対し不安を覚えていた。
「もしかしたら、薬を摂取していても何かしら感知出来るのではないか。服用した私に何も感じない時点で望みはないかもしれないけれど、本当にそうなのか。…傲慢にも、私は学者然とした気持ちで、それを確認しようとしてしまった」
それが間違いだったと、彼女は言う。
「大切な人を吸血鬼に殺された人に――貴方に、すべき配慮を怠った。それは、本当に謝らなければいけない。私は出会ったその瞬間に、その正体を言わなければいけなかった。目的の為とは言え、誠実さを欠いていた。…正直に言えば怖かったの。貴方に拒絶されるのが」
そう言って、もう一度大きく頭を下げる。俺はというと、ようやく事態の一部が飲み込めてきていた。
「……いや、それは俺にも非がある。結果はどうであれ、俺が約束を破ったからそういった事が前倒しになった。それについては、あんたは悪くない」
どうにも謝られてばかりというのは居心地が悪かったので、思っていた事を言う。第一それ自体は事実だ。彼女がその正体を伝えようとした日、俺は彼女の言いつけを破ってその結果大怪我をして挙句気絶してしまった。彼女が吸血鬼だったとしても、そこに非はない。すると彼女は安心したように少しだけ笑った。
「ええ、そうかもしれない。けれど貴方の言う通り結果は関係ない。私が貴方に真摯に向き合おうとしなかった事実は、変わらない」
また謝られてしまう。……どうにも、お互いに謝り合うという堂々巡りは苦手だ。その相手が、吸血鬼であったとしても。
「もういいって、それは。じゃあこうしよう。お互いに非があった、それで手打ちにしよう」
とりあえず、目の前の吸血鬼は俺に危害を加えるつもりはないらしい。なら一体さっきのは何だったのか。それだけが気になってしまう。こちらとしては話を進めてもらわないと困るのだ。
「わかったわ。本当、貴方のはっきりとした物言いには好感が持てる」
笑顔で褒められてしまった。相手は吸血鬼という事を除けばとんでもない美少女なわけで、つい視線を逸らしてしまう。
「たまに、余計な事もはっきり言うけどな」
それを誤魔化すように小さな声で言うと、彼女はまた柔らかく笑った。
「そうね。自覚がある事は、良い事よ」
……その様はとてもさっきまで人を襲っていた吸血鬼とは思えない。とりあえず友好的に話を進められそうな気もしてきたので、本題を切り出す事にした。
「まあ、とりあえず話はわかった。単に、自分の正体を言うタイミングを逃しただけって話なんだろう」
恐らくはそれだけの話だ。当初の話には偽りはなく、彼女はただ吸血鬼狩りのために俺に協力を請い、色々あって自分の正体を言えなかっただけなのだ。相手が親友を殺した奴の同類とは言え、その責任の一端は俺にあるわけで、それを一方的に責める気にはなれない。しかしだ。
「じゃあ、さっきのあれは何」
そう。そうであるのなら、先程のあれは何だというのだろう。記憶が正しければ、俺は雨の中追いかけられ地面に押し倒された。本気で死を覚悟した。本人は人は襲わないし殺さないと言った。殺されはしなかったが、控えめに言ってもあれは襲われていた。飛びついて地面に人を押し付けるという行為は今の時代であれば事件としての立件は容易であるし、結果擦り傷程度の怪我であったとしても仮に学校で起きようものなら大問題である。人と吸血鬼の認識に差があれば話は別なのだが、彼女は人として生きてきたと言ったし、常識がない非行少女にはてんで見えない。
「あれって、私が貴方に飛びついた事かしら」
確認するように言って、少しだけ首を傾げる。その仕草は可愛らしいのだが、少しいら立ちを覚えてしまう。一体他に何があったというのか。
うんと頷く俺に、彼女は冷たい視線を返す。何故か殺されそうだなと思った。
「あれは思い付き、かしら。どういったわけか、貴方は私達をただの殺人狂と思い込んでいたみたいだし、丁度いいと思ったのよ」
「丁度いい……?」
つい反射的に返すと、更に彼女の視線が鋭くなる。……思い付きで人を襲うというのは殺人狂とまでいかないものの、随分物騒な事には変わらないと思うのだが。
「ええ。せっかくだから、人間ではどうしようもないという事を体に直接教え込もうと思って。あと、ついでだからあんな馬鹿な事をする理由を聞き出してやろうと思っただけ」
馬鹿な事、と言われ何の事だろうと数秒考える。が、すぐにそれが何かわかって、あの時の事を思い出して顔が熱くなる。
「一応言っておくけれど。あれに関しては、私謝らないわ」
文句ある?と言った表情できっぱりと言う。彼女の怒りはもっともだし、文句はない。けれど少しやり方が乱暴な気がするし、心臓にも大分悪い。
「もう少し、他のやり方は」
「あると思う?一度体験している筈の貴方に、有効な手立てが?あれこれ考えたのだけれど私にはまるで思いつかなかった。他に何か良い方法があったと言うのなら教えて頂戴。それに納得したら、私は貴方が満足するまで謝り続ける」
なかったのか、と言う前に食い気味に言われてしまった。反論の余地がない。手段は荒っぽかったとは言え、あの行動を俺の事を考えての事らしい。生きた心地がしなかったどころか死さえも覚悟したのだが、そうであるなら俺が文句を言うのは違う気もする。
「確認するけれど、貴方もうあれを繰り返す事はないわよね」
そう言って、じろりと睨まれてしまう。彼女からしてみれば、本当にそれはただの確認なのだろう。けれど、俺にはその発言はとても卑怯なものに感じられてしまう。
「ないと、思う」
はっきりとしない返事をすると、さらに目が細くなる。
「ないと、思う?あのね、もし次も繰り返すようだったら私は何度でも言うわ。二年前の事に関して、貴方は決して……」
「ああもう、いいから!ない!金輪際ない!」
最後まで言われる前に、発言を遮って断言する。彼女は不満げな表情をしつつも、それ以上その話を続ける事はなかった。また思い出してしまって顔が熱くなる。目の前には吸血鬼がいて、それは親友を殺した怪物と同じ生き物だ。なのに、とても同じものとは思えないし、呼吸は荒いままだがこうやって普通に話も出来る。思い出したくはないが、その理由は先程のあれであるらしい。
「……まあ、とは言っても貴方がこれから先、私達に協力する気がないというのなら口煩く言う事でもないわね」
そう独り言のように言う。考えてもいなかった事を言われて、少し気が動転する。けれど、彼女はそれを待ってはくれない。
「性急なようで、多少気は引けるけれど。私はそれが気になってしまって仕方がない。答えを聞かせて。私が吸血鬼だとわかった後も。貴方は、私達に協力してくれる?」
そう言って彼女は手を差し出す。以前と状況は全く違うというのに、既視感を覚える。唐突な事で混乱してしまい、その手を見つめたまま黙り込んでしまう。その様子を見て、彼女は手を引く事なく話を続ける。
「もしこれ以上協力する気がないというのなら、もう私から貴方に接触する事はないわ。最後に吸血鬼の事を口外しないという誓約書を書いておしまい。貴方には、必要ないと思うけれどね」
彼女は力なく笑った。俺は、どうするべきなのか。
彼女は吸血鬼だ。憎むべき存在だ。けれど、彼女があいつを殺したわけではない。むしろ人間側の味方ですらある。その正体を告げるのが遅くなったとは言え、その責任の一端は俺にもあるし、ああやって何度も謝ってくれた。それには誠実さが感じられたし、そこには化け物の面影なんて微塵もない。力は有り得ない程強いけれどその姿は人間そのもので、天羽ミヤビという、几帳面で気遣いの出来る人物でしかない。
あれこれと理屈を並べ立ててみたものの、自分の中でもうほとんど答えが決まっている事に気付く。沖セイイチの遺志めいたものも勿論そうなのだが、決定的な理由は他にある。……それもあって、今は上手く答えられそうにない。
「……返事は、また後日でいいですか」
「ええ、勿論」
彼女は唐突に変わる口調に驚いた様子もなく、笑顔で答える。不器用で申し訳なくなるが、これだけの事があったのだ。大目に見てほしい。
「この辺で失礼しますけど。その前にミヤビさん、連絡先もう一度教えて下さい」
「そうだったわね」
彼女はメモ用紙に電話番号を記すと、それを持ってこちらへと歩み寄ってくる。本当にどうかしていると思う。こんな事初めてで確信はないのだが、恐らくこれがそういうものなのだろう。
メモ用紙を受け取る際に、彼女の指に少しだけ触れてしまう。不意の事に、あの不快な動悸とは別の動悸に襲われる。それと同時に、顔が熱くなる。
本当にどうかしている。まともとは思えない。けれどそれは紛れもない事実で、どうやっても否定出来そうにない。俺はたったあれだけの事で、目の前の吸血鬼に惚れてしまったらしい。
お礼を言って、彼女の視線を気にしつつも生乾きの服に袖を通す。部屋を出ると当たり前のように彼女はついてきて、外まで見送ってくれるらしい。
ふと、沖セイイチに何と謝れば許してくれるか何て事を思った。けれど。勿論、想像でしかないのだが。謝るも何も。あいつはけろっとした笑顔で、頑張れよと言ってくれるような気がしたのだ。




