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第1章 出会い

 週末。土曜日。空は曇天。小雨の降る中、僕は高校の校門前で悠紀を待っていた。

 手には白いビニル傘。ジーンズのポケットには携帯電話と財布。荷物は他にはない。

 携帯を手に取り、時間を見る。悠紀と約束した待ち合わせ時間まで後2分。でも、悠紀の姿は見えない。

 残り1分。悠紀の姿はまだ見えない。

 残り30秒。傘を差した悠紀の姿が見えた。無地の黒いキャップに、英語ロゴが中央にプリントされた半袖白地Tシャツ。ジーンズにスニーカー履きといういでたち。そして、背にはナップザックが見える。

 「悪い。悪い。準備してたら遅くなっちまった。」

 僕の姿をみとめた悠紀が、笑いながら言ってきた。

「準備って、何の準備?」

悠紀が近づいてくるのを待ちながら、答える。

「当然。幽霊を撮るためのコイツの準備さ。」

悠紀はそう言うと、背のナップザックから合皮の四角いケースを取り出した。

「そんなものいつの間に用意したの。」

僕はケースの中身を察して、呆れ顔である。

「へっへっ。親父のをちょっと失敬してきたんだ。ばれないように持ち出すのは大変だったよ。」

悠紀が合皮のケースの上半分を開ける。中に入っているのは、型通りに切り抜かれた黒のウレタンゴムに包まれた高価そうなカメラ。1眼レフとかいう種類に分類されるカメラだ。

「今年の春に出たばっかりの最新型だ。コイツがあれば、幽霊もばっちり撮れる。ただ、デジカメなのがちょっと残念なんだよな。ネガの方が現像した時に雰囲気出るのにな。」

悠紀がカメラのケースを閉じながら、少し残念そうに言う。

「本当に出ると思ってる?」

僕は疑いの声を悠紀に向ける。今から向かう神社の幽霊の噂を僕は信じてはいないのに対して、悠紀はなぜか妙に自身ありげだ。

「今回は出ると思うぞ。目撃者がたくさんいるからな。おまけに、警察が警戒の為に小学校の通学路に人を配置するぐらいだからな。」

悠紀はカメラのケースをナップザックに入れると、自身ありげにそう言った。

「本当に?」

一方の僕は未だに疑っている。

「嘘じゃないさ。親父と消防団の爺さんが電話で神社の幽霊騒動について話しているのを聞いたしな。それに、警察がパトロールを増やしたおかげで、親父が今日も出て行ってるしな。」

悠紀のお父さんは現役の警察官だ。という事は、警察が警戒しているというのも本当なのかもしれない。

「まあ、警察は幽霊なんて信じずに、不審者が出ているという事にしているみたいだけどな。だから、神社にも人を廻してないみたいだ。だから、神社に行って警官に会う心配もない。」

悠紀がニヤリと悪そうな笑みを浮かべた。

 警官に会う心配がない。要するに悠紀のお父さんに告げ口する人に会う心配がないという事だろう。

「じゃあ、行くか。」

悠紀はそう言って、小雨の中を先導して歩き出した。


 出発する頃には小降りだった雨も、神社のある龍泣山の麓に着く頃になると、雨音が聞こえるくらいの本格的な雨になっていた。

「ここ?」

立ち止まった悠紀に対して問い掛ける僕。

 僕の目の前に建っているのは鳥居だ。僕の背丈よりも2回りほど大きさの、小さめの鳥居だ。鳥居は苔むして、神社の鳥居によく塗られている朱色ではなくほとんど深緑色になっている。鳥居には神社の名前であろう木の札が掛けられているが、これも苔に覆われて文字を読むことはできない。

 鳥居の奥に見えるのは3メートルほど頭上の神社入り口へと続く石段である。石段も鳥居ほどではないがかなりの量の苔と雑草に覆われていて地の部分はほとんど見えない。ほとんど人の出入りがないのだろう。

「確か。ここのはずだ。山の麓の神社とか聴いたし。ここ以外の神社を俺は知らん。」

悠紀の返答は何とも曖昧なものである。

「ま、雨も降ってるし早々に行こうぜ。」

悠紀はそう言うと、苔むした鳥居をくぐり石段へと向かった。

 僕は黙って悠紀に着いて行く。悠紀はもう石段に足を掛けている。苔むして崩れそうな鳥居をくぐる。

 悠紀は僕に構う事なくずんずんと石段を登っていく。僕も滑りやすいであろう足元に注意しながらゆっくりと石段に足を掛けていく。

「おお。こりゃまた随分と年季が入ってるな。」

先に石段を登り終えた悠紀が上の方から感想を述べてきた。少し遅れて、僕も石段を登り終えて景色を見る。

 目の前には建物としての体裁は保っているものの雑草や苔だらけの瓦屋根と塗装が剥げ、黒く変色した木の柱と梁の本殿。本殿を囲む外廊下は黒く変色して苔とカビに覆われている。一部は腐り落ちたのか穴が開いている。左手には手水舎が見える。手水舎といっても木造の屋根と柱があったのであろう柱の基礎石が4つ対角に置かれているのが見えるだけで、今見えるのは藻の浮いた石造りの水がめだけだ。そして、それらを入り口である石段から結ぶ磨き石の舗装路も石と石の間から雑草が伸び放題伸びており、磨き石自体も土に汚れきっている。境内の周囲は鬱蒼と木々が茂り、奥の方は暗く様子を伺う事はできない。

「うわぁ・・・。」

思わず、感嘆の声が漏れ出る。

 幽霊騒ぎが起きる場所だろうから、相当寂れてはいるのだろうとは予測していたが、ここまで寂れているものとは思っていなかった。境内のそこらに雨でできた水溜りが尚更、神社をみすぼらしく見せている。

「んじゃ、まあ。ちょっと失礼しまして。」

僕が境内入り口からぼんやりと神社を観察している間に悠紀は屋根のある本殿まで行くと、雨に濡れないように外廊下に腰を下ろした。そして、背中のナップザックを下ろすと、中からカメラの入った革ケースを取り出した。

「じゃあ、早速撮りますかね。」

悠紀はそう言うと、革ケースからカメラを取り出して、境内の入り口に立っている僕に向かってカメラのレンズを向けた。

「ちょっと、悠紀。」

悠紀に声を掛けたが時既に遅く。カメラからシャッターの下りる音を模したデジタル音が響いた。

「へへっ。おお、綺麗に撮れるな。竜彦。色男に写ってるぞ。」

悠紀は構えを解いて、今撮影したばかりの画像を見ると、満足そうに頷いた。

「じゃあ、撮ってやるかな。ばっちり写して、話題沸騰させてやるからな。」

悠紀はカメラを構えて本殿をパシャリと1枚撮りそう言った。

 カメラを手にやる気満々の悠紀だけど、僕はどうすればいいのだろうか。

「悠紀。僕はどうすればいいの?」

未だに境内入り口から動かずにいる僕は、カメラを手に本殿のあちらこちらを撮りはじめた悠紀に声を掛ける。

「んー。カメラは1台しかないからな。適当にそこら辺散策して、怪しい場所探してくれ。」

こちらに顔を向けずに本殿の黒くなりカビだらけの柱にカメラを向けた悠紀が何とも適当な返事をする。

「はいはい。分かりましたよ。」

こんな小さい神社の散策なんてすぐ終わってしまうし、怪しいところなんて挙げだしたらきりがないような気もするけど、黙って従おう。他にやる事もないし。

 とりあえず、神社の表、手水舎のある側は悠紀が写真を撮っている事だし、裏手がどうなってるかでも見に行こう。

「じゃあ、とりあえず、裏手見てくる。」

悠紀に声を掛けるが、返事がない。写真撮影に夢中になっているみたいだ。

 磨き石の参道から外れ、土がむき出しになっているところへと足を踏み出す。ぐにゅりと地面の泥が僕の履くスニーカーの底の形に変わる。手水舎の後ろを通り、悠紀が撮影する本殿の横を通り、本殿の裏手へと行く。

 裏側から見ても本殿の見栄えに何か変化がある事もなく。変わった点は参道に続く階段と賽銭箱が無い点と漆喰と柱、廊下のカビの形が変わっただけだ。他に何かないか視線をめぐらせて見る。10歩も歩かないうちに森の入り口に突き当たるような小さい広場には、掃除道具等を入れておくとおぼしきトタンで出来た1メートル四方の小屋と、何だろうかあれは、僕の身長ぐらいの楕円形の石が縦に置かれている。場所は本殿の裏側の真正面に設置してある。何か意味ありげだ。近づいてみて見ると、石は倒れないように地面にある程度埋め込んであって、その周囲をいくつかの20~30センチ程度の大きさに四角く割った石で固定してあった。

 楕円形の石と本殿の間の真ん中ぐらいに立ってみる。石を良くみて見る。何か石の表面に彫られてる? 苔に覆われていて分かりにくいけど、楕円形の石の表面には何か文字? のようなものが彫られているのが分かった。

 ここからじゃ良く分からないので目を凝らしてもう少し石に近づいてみる。3行ほどの何かの文字が縦書きで石に刻まれているのが何とか分かる。1行目の文字は苔で完全に覆われて見えない。2行目からなら何とか読み取れそうだ。

「ナグ・・・サミ・・・ノ・・・タメ・・・ココ・・・ニ・・・」

苔で見にくい文字を読んでみる。ナグサミノタメ、ココニ? これだけでは何の事だかよく分からないけど、ナグサミと書いてあるし、慰霊碑なんだろうか。

「えーっと。ココニ・・・コノ・・・ヤシロヲ・・・コン・・・リュウス。えっと、次は、コノヤシロ・・・ガ・・・ワレノ・・・ツミノ・・・ショウチョウ・・・ナリ・・・。」

「コノヤシロガワレノツミノショウチョウナリ」

最後の行に刻んであった言葉をもう1度言ってみる。

「この社が我の罪の象徴なりってどういう事だ?」

この社っていうのは多分、今、僕が立っている神社の事だろうけど、神社が罪の象徴? 神社って八百万の神様を祀っているのが普通なんじゃないのか。それとも、僕の知識不足? どうもよく分からない。

 少し考えてみたけど分からない。もう1度石を見てみる。よく見ると、最後の行の少し下にまだ何か彫ってある。

「えっと。メイジ・・・ニネン・・・ロクガツジュウゴニチ・・・。」

その下にまだ、何か人名らしきものが彫られているけど、苔に覆われているうえに欠けているので読む事ができそうにない。

「明治2年6月15日。古いなあ。そんな前からこの神社あるのか。ある事すら知らなかったよ。」

元号と日付が石に刻まれていた。それを読み取った僕はそんな感想ぐらいしか思いつかない。さて、次、あのトタン小屋。あの中を見たら、悠紀のいる表へと戻ろう。

 そう思い、その場から足を踏み出した。2歩。3歩。トタン小屋まであと3歩ぐらいかな。

「どこの誰。人の土地に勝手に入ってきたのは。」

背後から声が聞こえた。思わず、歩みがピタッと止まる。同時に思考も止まる。

 え、誰かいた? さっきまで僕しかいなかったはず。悠紀が驚かそうとしているのか。でも、女の人の声だったし。気のせい?

「いつまで、背を向けている気。人の土地に勝手に入っておいて、挨拶の一言もないの?」

聞こえた。若い女性の声が背後から聞こえた。まさか、幽霊? そんなものいる訳ないじゃないか。いないいない。きっと、悠紀の悪戯に違いない。デジカメを持ってきてたんだ。わざわざ女性の声を録音して再生しているんだ。違いない。そうだ。そうに違いない。

 思考が混乱する。身体は硬直したままだ。

「失礼な人。どこの誰か知りませんが、こちらに背を向けたまま挨拶もしないなんて。」

背後の声がため息交じりにそう言いながら、次第にこちらに近づいてくる。

「さあ。顔を見せて。」

そして、声が真正面に来た。思わず、目を瞑る。・・・。何秒経っただろうか。静かだ。声もしない。恐る恐る、瞼を上げる。

 最初に見えたのは、赤い色をした袴、帯が腰より少し高い位置で結んである。次に見えたのは白い色をした剣道着のように見える着物? どこかで見たことがあるような。ああ、そうだ、神社の女性がよく来ている巫女装束にそっくりだ。そして、最後に見えたのは、整った顔立ちをした、僕と同じ位の年の女性。黒い髪が腰くらいまであり、それをうなじの辺りでまとめてある。

「あ・・・。」

思わず、その綺麗な姿と顔立ちに見とれて、変な声が出る。その顔立ちはテレビに出てるアイドルとは違う、古風? いや違う、和風? そうだ、大和撫子を体現したらこうなるんじゃないかと言えるような美しさ。見とれたあまりにさっきまでの恐怖も忘れていた。

「さて、あなたはどこの誰?」

女性が問い詰めてくる。その声で意識が一気に現実に引き戻される。

「え。えと、その。あ、そう、そうです。僕達、近くの高校の生徒です。ちょっと授業の課題でここに来ました。私有地だとは知らずに入って申し訳ありません。」

この女性はきっとここの土地の管理者の娘さんか誰かなんだろう。急に現れたように見えたのもきっと、僕が気づいていないだけで、森の中にいたんだろう。雨が降っているのに傘も差していないのが気になるけど。

そう頭の中で状況整理をしながら、とっさの言い訳を放つ。

「コウコウ? どこ。それは?」

女性は怪訝な顔をして聞いてきた。

 どこの高校ってそうか。最近は物騒だもんな。名前出さないと分からないか。あ、学生証忘れた。

「えと。すいません。高校はすぐ近くの相川高校なんですけども。学生証忘れてしまったので、証明する手立てがないんですけど。」

次第に早口になる僕。自分でも焦ってるのが分かる。

 勝手に私有地に侵入して、写真撮ったり、倉庫荒らそうとしていたんだから、立派な不法侵入だ。

「そうじゃなくて。私が聞きたいのは、コウコウというのが何かと聞いているの。」

女性の口調が次第にイラついてきている。早々に退散したい。

 え? 今、何て言った?

「え?」

「だから、私はコウコウって何かを聞いてるの。」

とうとう女性が半分キレ始めた。

 高校を知らない? そんな馬鹿な。現代日本に生きている人なら小学生でも通じる言葉のはずだ。にも関わらず、この女性には通じていない?

「えとですね。もう1度言いますけども。僕達は近くの相川高校の生徒でして、今日、ここに来たのは授業の課題の為でして、・・・。」

「コウコウって何!?」

まさかと思い、もう1度、僕がここにいる理由を説明するも、途中で女性の怒声に遮られた。

「えっと。本当にそれ言ってます?」

まさか、本当に知らないとは思いたくない。

「・・・。知らないものは知らないの。だから聞いてるの。」

女性はイライラとしながら顔を背けて、答えた。

 嘘だろ。この現代日本で、高校っていう学校組織を知らない人間がいるなんて。とんだ箱入り娘?

どうしたものかと、僕は頭を抱える。自然と視線が下に向く。そして、気づいた。

「・・・あ、あ、まさか。」

女性の足が地面についていない。目の前の女性の袴の裾から見える白い足袋と赤い鼻緒の草鞋の先が地面から数センチ浮いて見える。1度、目を瞑り、もう1度見てみる。やはり浮いている。

 額に冷や汗が吹き出る。

「どうかしました? 顔色が悪いみたいですけど。」

女性がさっきまでとは一転、落ち着いた声色で聞いてくる。が僕の耳には入ってこない。

「ひっ。」

思わず悲鳴が漏れる。目の前の女性は普通の人間ではない。信じたくないが本物の幽霊なのかもしれない。

「あ。」

女性が何か言葉を紡ごうとする。僕は、身構えて1歩下がった。そして、女性が次の言葉を紡ぐ前に僕は全速力で駆け出していた。振り返り、全速力で本殿の側面へと走る。

 表にいる悠紀を連れて急いで、ここを去ろう。

 本殿の横へと入る時、本能的に追ってこないか、女性の方を見た。そこには、悲しそうに涙を浮かべた女性がこちらを見つめていた。しかし、僕はそれに構わず、本殿の表へと走った。

「悠紀!」

本殿の表へと出る。目の前には境内の中央に立ち、本殿の全体を撮ろうとしている悠紀がいた。暢気にカメラを構えて、位置を調整している。

「ん。何だ。竜彦か。どうした。顔色悪いな。何かあったか?」

悠紀は僕を見とめるとカメラを下げて、暢気にそんな事を聞いてきた。

「いいから、早くここを離れよう。やばいって。」

僕はそう言い。悠紀の袖を掴む。

「おいおい。まだ写真全然、撮ってないんだぞ。それに、まだ裏手も見てないし。」

悠紀はそう言って、動こうとしない。

「いいんだよ。裏手には何も無かったし、早くここを離れよう。雨も強くなってきたし。早く。」

一方の僕は早くこの場を離れたかった。まさか、本物の幽霊に会うなんて思いもよらなかった。悠紀も僕の勢いに負けたのか、それとも、いよいよ、本格的に強くなりだした雨にカメラが濡れる事を嫌がったのか、渋々、帰り支度を始めた。

「まったく。竜彦よお。何もそんなに急ぐ事ないだろ。」

石段を駆け下りていった僕に対して悠紀は呆れたように言った。

「もう、大丈夫か・・・。」

一方の僕は悠紀の言葉も耳に入らない。

「おいおい。大丈夫かよ。しゃーない。もう今日は帰るか。」

傘を差しているにも関わらず、僕の額は冷や汗と雨でどっぷりと濡れていた。悠紀には僕が熱でもあるように見えるだろう。

「そうしよう。もう今日は帰ろう。」

僕も悠紀の言葉に賛成の意を示し。神社から家路についた。

 途中、神社の方を何度も振り返ったが、あの浮遊した女性の姿は見えなかった。


 目の前で白髪交じりの初老の爺さんが教壇に立ち、フランス革命について語っている。僕はシャープペンシル片手にその講義をぼんやりと聴いていた。

 頭の中にあるのはあの日の事だ。神社に行ったあの日の事。そして、あの女性の幽霊? の事。

 あの日から1週間が過ぎた。悠紀は撮った写真に幽霊が写っていない事を嘆いていたが、そんな事はどうでも良かった。僕はおそらく本物の幽霊にあってしまったのだから。あれから、悠紀が再びあの神社に行こうと言いだすのではないかとこの1週間の間、僕はびくびくしていたが、それは杞憂に終わった。月曜に会ったときに写真に何も写ってなかった事を報告してきた事以外には、悠紀はこの1週間、神社の話はおろか、幽霊騒動の事すら口にする事がなかった。悠紀がいつものように飽きてしまったのだろう。多分だけど・・・。

 悠紀があの日の事を簡単に忘れて、もう飽きている一方で僕はこの1週間、あの日、出会った幽霊の事で頭がいっぱいだった。会った時には何もされなかったけど、後から何かされるのではないかと気が気でなかった。呪われたんじゃないかと思うと、不安で眠りも浅くなる。

 寝不足になるほど不安な一方で、僕はあの時の最後に見た彼女の顔が忘れられずにいた。別れ際に見たあの涙を浮かべた顔。そして、あの綺麗な顔。・・・もう1度会ってみたい。だけど怖い。でも、会話は出来た。あの声がもう1度聞きたい。あの澄んだ声が聞きたい。

 寝不足の頭で考え事をすると頭が痛くなる。そして、考えが極端になる。

 そうだ、今日、学校が終わったら会いに行こう。そして、確認しよう。あの女性の幽霊が僕の見た幻だったのか、それとも本物なのか。失礼な態度をとった事を怒っていないだろうか。僕を恨んで呪っていないだろうか。そうだ、それを確認しに行けばいい。そうだ。そうだ・・・。

 目の下に寝不足から出来たクマを抱えた僕はそう決心すると、思わず立ち上がった。

 講義中の初老の世界史教師の語りが止まる。そして、視線が授業中突然立ち上がった僕に向かう。クラス全員の視線が僕に突き刺さる。

「どうかしましたか? 天宮君。」

初老の世界史教師が尋ねてくるが、僕は答えない。というより答えられない。連日の不安による寝不足で貧血気味になっていた僕は立ち上がった衝撃で一時的な貧血状態に襲われていた。目の前が暗くなる。そして、世界がぐるりと暗転した。


「軽い貧血だと思いますよ。心配はないでしょう。はい。今はベッドで寝ていますよ。目を覚ましましたら、また連絡します。」

目を開けると、白いカーテンに覆われたベッドの中にいた。周囲は薄暗い。カーテンの向こうから保険医の声が聞こえる。何が起こったのだろう?

 僕の最後の記憶は世界史の授業を受けていたはず。なのに、何で保健室のベッドの中に?

電話の受話器を置く音。そして、カーテンが開かれた。開かれたカーテンから入る光に目が眩む。

「起きた。大丈夫?」

Yシャツと黒のタイトスカート、白衣を着た保険医が聞いてくる。

「えっと。僕は何でここに?」

現状が把握出来ていない僕は保険医に聞き返す。

「覚えてないの? 天宮君は授業中にいきなり倒れてここに運ばれてきたの。」

倒れた? まったく覚えてない。

「いいえ。覚えていません。世界史の授業を受けてた気がするんですが。」

「そう。まあ、軽い貧血だと思うから寝ていれば大丈夫。」

保険医はそう言うと、白衣を翻して、カーテンの向こうへ行こうとする。

「あ、先生。今、何時か分かりますか?」

時間が気になる。世界史の授業は2限目だったはずだから、寝ていたとしても、昼前だろう。

「え。今? 今は1時20分ね。」

3時間近く寝ていたらしい。

「どうする? 天宮君の荷物は持ってきてあるから早退してもいいけど。」

保険医が聞いてくる。僕は・・・。


 学校を早退した僕は駅に向かわず、1週間前に来た神社の入り口の鳥居の前にいた。目の前の苔で深緑色になった鳥居も、苔に覆われて石肌の見えない石段も1週間前に来た時と変わっていない。あの時と違うのは雨が降っていない事と悠紀が隣にいない事だ。空は曇って今にも雨が降り出しそうだ。

 倒れるほど寝不足になったのも、ここに来て、あの女性に会ったせいだ。気持ちをすっきりさせる為にも、本当に幽霊がいないという事を自分に信じ込ませる為にも、もう1度、確認してやる。

 半袖のカッターシャツが空気中の湿気と汗で湿り肌に張り付く。

 手に持っているのは通学用の革カバンと安物のビニル傘。仮にあの幽霊がまだいるのだとしたら何とも心もとない装備だ。かといって幽霊相手に何が効くのかも分からないのだから、何を持ってきても同じか。

 決意し、僕は鳥居をくぐった。石段は相変わらず滑りやすそうに見える。


 石段を登り、2つ目の鳥居の下に立つ。目の前には1週間前と変わらず廃屋のような本殿と石畳の隙間から雑草が生え放題の参道。そして、屋根の無い手水舎。

 ここから見える範囲では誰もいない。境内の向こうの木々の中に誰も潜んでいないか目をこらしてみるが、ここからでは森の奥まで見通せそうにない。とりあえず、見える範囲では誰もいない。

 やはり、いるとすれば、この間行った場所だろう。

 そう思い、本殿の裏へと向かう。あの女性がいる事を警戒して本殿の建物に身が隠れるようにしながら、歩を進める。

 本殿の外廊下の柵の隙間から本殿の裏を伺う。そこには慰霊碑と思しき大きな石とトタンのバラック小屋が前と同じように建っているだけで、あの女性の姿は見えない。

 ひとまず安心する。

 本殿の影から出て、周囲の木々の中を警戒しながら、1週間前と同じように慰霊碑と思しき石の目の前まで行ってみる。石に刻まれた文は相変わらず読みにくく、特に1行目は苔の侵食が酷く、全く読み取れない。

 「この社が我の罪の象徴なり・・・。」

最後の元号が刻まれた行の前行を読み上げる。

 1週間前はこの文を読んで、去ろうとしたらあの女性が現れた。また、同じ事をすれば現れるだろうか。

そんな事を考え、目の前の慰霊碑を見つめる。

 「また、来たの。」

 慰霊碑からいきなり女性が現れた。たまらず、腰を抜かす。尻餅をついてズボンの尻の部分が地面の水気を吸うのが分かる。手に持っていたビニル傘と革カバンが地面にぶつかり、汚れる。でも、今の僕はそれどころではなかった。

「あ。あ。」

何が起きたかしばらく理解できず、声が出なかった。

「そんなに驚かれなくてもいいのに。傷つくわ。」

僕の目の前で地面から数センチ浮かんで佇む女性は顔をしかめながらこっちを睨む。

 多分、慰霊碑の石の向こう側に隠れていたのだろう。そして、慰霊碑の石をすり抜けて僕の目の前に現れたんだ。

 混乱する頭に何が起きたか納得いく説明をし、何とか落ち着かせる。

「いつまで、そこに座っている気。」

女性のきつい言葉が続く。相変わらず、こちらを睨んだままだ。

 僕は気持ちを落ち着けるために深呼吸をすると、手を突き立ち上がった。女性の視線も僕の動きに合わせて上へと動く。

 目の前には1週間前に会った巫女装束を着た女性がいた。夢だろうか。・・・ズボンの尻についた泥の冷たさが夢ではないと僕に語りかけてくる。

「・・・。」

掛ける言葉が見つからず、下を確認する。自分のズボンはさっき尻餅をついた衝撃で泥まみれになっていた。一方、女性の朱色の袴には泥1つどころか汚れ1つ見受けられなかった。そして、やはりと言うべきか、女性の足元、白い足袋と赤い鼻緒の草履の先は地面と接していない。草履の先と地面の間には数センチの空間がある。・・・間違いない。この人は普通の人間じゃない。覚悟していたおかげか、1週間前のような恐怖はない。

「・・・。」

「・・・。」

女性も掛ける言葉が見つからないのか、黙ったまま、僕を睨んでくる。

 しかし、この女性。・・・綺麗である。テレビでよく見るアイドルの可愛さや女優の綺麗さとはまた違うが、綺麗な顔立ちをしている。気の強そうな目だとか、筋の通った鼻や、への字に曲げられた細身の唇だとか。まるで、1枚の肖像画を見ている気分になってくる。女性の綺麗さを表すのによく大和撫子を使うけども、この女性はその大和撫子のイメージにぴったりに見える。

「・・・。」

ぼんやりとしていて。現実味がない。何故か、目の前の女性が本当にいる気がしない。実際、目の前の女性は地面から浮いているし、普通の人間ではない。多分、幽霊なんだろう。触れないだろうか・・・。

 ふと、そんな考えが頭をよぎる。そして、無意識に手を差し出していた。

「・・・握手しませんか。」

言葉が勝手に口から飛び出す。自分でも考えてもいなかった言葉だった。

「握手?」

女性は相変わらず怪訝な顔のままだ。

「握手。お互いの手を握るんです。挨拶です。」

僕の口からは勝手に言葉が紡がれる。自分でもよく分からない。これが酔ってるという感覚なんだろうか。

「挨拶・・・。」

女性の顔がちょっとほころぶ。

「そう、挨拶です。」

やったと内心、何故か喜ぶ。

「その泥だらけの手を握れと貴方は言うの。」

女性はそう言うと僕の手に目をやる。

 僕が女性に向かって差し出していた右手は一面泥で汚れていた。さっき、立ち上がるときに手をついたので、泥まみれになってしまったのだろう。

「あ。す、すいません。」

僕は謝り。すかさずもう片方の手、左手を差し出した。こっちは地面に手をついていないから汚れていない。

「・・・。最近の挨拶は変なの・・・。」

女性が何か呟きながら、自分の左手を差し出してくれた。

 女性の左手が僕の手に触れる。女性の手は氷のように冷たかった。人の温もりがまったく感じられない。そして、目では確かに触れているのに、手には女性の手の感触が感じられなかった。空気を触れているように思える。

 「あ。」

女性が何か気づいたのか、顔をはっとさせる。

「あったかい。暖かい・・・。ぐすっ。暖かいよ。ひくっ。」

女性が小さくそう呟くのが聞こえた。突然、何故か目から大粒の涙をこぼし始めた。

「え?」

女性が何故泣くのか、意味が分からなかった。そして、僕の記憶はまたもそこで一旦途切れた。目の前が突然暗転する。


 目を開ける。カッターシャツとズボンのから伝わる地面の冷たさが自分が地面に寝転がっている事を自覚させる。ここは・・・? 目の前には慰霊碑の石がある。近くにはトタンのバラック小屋。さっきまでの景色と変化はない。唯一変わった点、あの女性はいなくなっていた。

 「何があった?」

純粋な疑問が口から出る。思い出してみる。

 あの女性に見とれて、握手を求めたのは覚えている。そして、握手をしたんだ。そうしたら、急に目の前が真っ暗になったんだ。そして・・・。そこからが分からない。

 起き上がった僕は、あの女性の姿を探してみたが、見当たらなかった。どこかに行ってしまったのだろうか。

 そばに落ちていた革カバンとビニル傘を拾い、無駄ながら泥を手で払いのける。

 しかし、酷い格好である。白の半そでカッターシャツは泥をたっぷり吸って茶色になり、袖からは滴まで落ちている。ズボンも同様だ。さて、何と言い訳すればいいのか。

 そんな事を考えながら、僕は帰路に着くことにした。時間はそんなに経っていないみたいだった。まだ周囲も明るい。

 鳥居をくぐる時、ふと、女性と握手した時の事を思い出した。何故か、あの女性は泣いていた。確か暖かいと言っていた気がする。どういう事だろう。

「・・・また、来ます。」

全身、満遍なく泥まみれになった僕は石段に足を掛ける前に振り返ると1言そう言っておいた。あの女性に聞こえたかどうかは分からない。


 翌日。教室の外の空は今日も曇っている。ただし、今日は雨のおまけ付き。

 本日、最後の授業の数学、禿頭の数学教師はまたいつものように時間一杯まで授業を続けようとしている。あと10分で授業が終わるのに、新しい数式の解説を始めだした。

 前の席の悠紀は相変わらず眠りこけている。連日のバイトで疲れているのだろう。

 窓の外に目を向けて見る。外は雨が降っていて薄暗い。校庭の向こうに見える龍泣山も雨のせいでうっすらとしか見えない。ここからだと、巫女装束を着たあの女性のいる神社は見えない。方向的には神社は学校側にあるから鳥居ぐらいなら見えそうな気もするけど。

 昨日の事を思い出してみる。

 彼女の手を握った事。彼女の手が氷のように冷たかった事。見た目では彼女の手に触れているのに彼女の手の肌の感触が僕の手にはまったく感じられなかった事。そして、急に泣き出した彼女の事。

 どうして、彼女が泣き出したのか未だに分からない。僕が何かしたのだろうか。ただ、手を握っただけなのに。何を泣き出す事があるのだろうか。それに、僕自身の事もある。何故、急に意識が薄らいでしまったのか。分からない事ばかりだ。

 泣いていた彼女の顔を思い出してみる。まるで小さい子供みたいに大粒の涙を流していた。そして、彼女が呟いていた言葉。

「あったかいか・・・。」

どういう事なんだろう。僕の手を握って暖かいと呟いた彼女。そして、氷みたいに冷たかった彼女の手。何か関係があるんだろうか。

 無駄だとは分かっているけども、また彼女のいる神社が見えないか窓の向こうに目を凝らしてみる。

 また行けば、会えるだろうか。

 そんな思いが頭に浮かぶ。またあの神社に行けば彼女に会えるかもしれない。

 そんな事を考えていたら、授業終了のチャイムが教室に響いた。

「む。では、授業はここまで。」

禿頭の数学教師は黒板に書いた数式の説明を止めて悔しそうにそう言った。

「起立。・・・礼。」

委員長の号令で本日最後の授業が終わった。俄かに騒がしくなる教室。帰り支度を始める者。部活の準備始める者、皆それぞれ自分に必要な作業を始めている。

 僕はその喧騒の中、ノートと教科書を机に広げたまま、また窓の外を見ていた。相変わらず神社は見えない。

 どうしようか。また神社に行ってみようかな。

「おー。竜彦。帰ろうぜ。」

いつの間に帰り支度を済ませたのか、もう既に革鞄を手に持った悠紀が声を掛けてきた。

「ん・・・。」

悠紀に生返事を返し。窓の外を見る。

「どうした、竜彦。何か今週ずっと元気ないな。昨日も早退するしよ。何かあったか?」

悠紀が革鞄を机に投げ出し、自分の席の椅子をこちらに向けて座った。

「え。いやさ。ちょっとね・・・。」

悠紀は信じるだろうか。僕が本物? の幽霊と出会って、その幽霊の事が気になってるなんて事を。

「何だ。歯切れの悪い奴だな。俺にも言えない事か。恋愛事の相談なら任せろよ。」

そう言って胸を張る悠紀。

「南雲君。」

帰宅準備を済ませた女子が革鞄を手に悠紀に声を掛けてきた、クラスの快活そうな女子だ。

「ん。何?」

椅子を女子の方へと向ける悠紀。

「今から参考書買いに行くんだけど。一緒にどうかな。」

女子の顔が少しばかり紅潮してるように見える。悠紀はこう見えて、けっこうもてる。

「今からかー。」

悠紀がこちらの顔をちらりとうかがってくる。

 どうぞ、行ってらっしゃい。

 心の中でそう悠紀に言っておく。

「んー。参考書かー。そんな難しいもんは俺と選ぶのは向いてないなー。ほら、俺って馬鹿だからさ。」

悠紀が視線を女子に戻すと、そう言った。女子の顔が少しこわばる。

「だからさ、ごめんな。今日はちょっとパスさせて。あ、流行のスイーツ巡りとかそういう雑誌ならいくらでも誘って。すぐ行くから。」

「う、うん。ごめんね。用事があるとは思わなかったから。」

ああ、ちょっと涙目だよ、この女子。

「ごめんな。また、誘ってよ。」

「う、うん。じゃあまた明日。」

そう言って立ち去る女子。あとに残されるのは僕と悠紀のむさい男子2人組。

「何で、断ったのさ。行けばよかったのに。」

僕は、椅子の向きを戻さないで視線を去っていく女子に向けたままの悠紀に言った。

「お前、ほっとけないだろ。俺が幽霊騒動の神社に誘った日から様子おかしくなったのによ。」

「・・・。大丈夫だよ。悠紀が気にしてる事じゃないから、ちょっと、今週は雑誌読んでて寝るのが遅くなっただけだからさ。」

そうだった。悠紀はこういう奴だった。悠紀は無理に僕を幽霊騒動に誘った事を悪いと思ってたんだ。責任を感じてるんだろう。

 だったら、これ以上悠紀に心配掛けさせたくない。

「そうか・・・。だったらいいんだけどな。」

何故か、悠紀の声は重い。

「じゃあ、帰ろうぜ。」

かと思ったら、唐突に明るい声でそう言い、悠紀は立ち上がった。

 悠紀には悪いが、あの神社にはなるべく自分1人で行きたい。

「ごめん。今日、ちょっと用事あるんだ。」

「何だ。そうなのかよ。それならそうと言ってくれよ、さっきの誘い断っちまったじゃんか。」

悠紀は頭に手をやりながら、ショックを受けたそぶりを見せる。

「ごめん。ちょっと寄る所があるんだ。」

「ちぇー。なら仕方ないな。先に帰るわ。また明日な、竜彦。」

悠紀はそう言うと、手を振った。

「うん。また明日。」

こちらも手を振り返した。悠紀は僕が手を振ったのを見届けると、去っていった。

 さてと、僕も帰る準備をしよう。

 僕はそう思うと、机の上を片付け始めた。


 雨振りだ。傘の骨を伝って雨粒が傘の淵からポタリポタリと落ちてくる。幸いにも今日は風がないからそれほど濡れないで済む。

 僕は、昨日も1週間前も来た神社の鳥居の前にいた。

 今日の鳥居は雨に濡れて、昨日よりもさらに色が濃くなり、深緑色というよりは黒カビような黒色をしているように見える。

 3回目になる石段を慎重に歩を進めていく。20段ほどの石段はすぐに終わりを迎えて、2つ目の鳥居の下に立つ。

 目の前に見える景色は1週間前とほとんど変わらない。水溜りの位置もだいたい同じぐらいの位置にある。ただ、今日は時刻が少し遅いせいか、ちょっと薄暗く感じる。

 あの巫女装束の女性の姿は、いた。本殿の賽銭箱の傍に腰掛けている。まるで、誰かを待っていたみたいだ。

 まさか、僕を待っていてくれた?

 そんな都合のいい考えが浮かんだが、すぐにそんなわけがないと考えなおす。しかし、彼女は僕の姿を認めると、こちらを睨んできた。ここからじゃちょっと遠いので表情は良く分からないけど、少なくとも、満面の笑顔ではない事ぐらいは分かる。あまり歓迎されていないのかもしれない。

 ゆっくりと本殿へと歩を進める。本殿に近づくにつれ、彼女の表情が読めてきた。怒ってるようにも見えるし、むすっとしてるようにも見える。それか、敵を識別した猫のように見えなくもない。少なくとも、自分にとってあまりいい表情ではない。

 本殿まであと3歩ほどのところまで来た。

「また、来たの。」

彼女から声が掛かる。冷たいお言葉だ。声に抑揚がないし、冷たい。

「ええ。また来ました。」

ここでにっこりと笑えればいいんだろうけど、僕にはそんな高等技術はない。

「何で、来たの。昨日、あんな目にあったのに。」

彼女の声の様子が少しおかしいような気がする。怒ってるように聞こえるのだけど、言葉とは裏腹に僕に対して怒りが向けられていないように思える。

「何でって言われても。」

彼女の事が気になるからとは気恥ずかしくて言いにくい。

「昨日、私にあれだけ傷つけられて、汚い目にあったのに、何で来れるの!」

彼女は突然、立ち上がり叫んだ。

 ああ、分かった。彼女の怒りは僕に向けられたものじゃなくて彼女自身に向けられたものなんだ。昨日、僕が握手を求めて倒れたのを彼女自身のせいだと思っているんだ。

「いいんです。別に気にしてません。」

僕は、平然と返答した。

「・・・。何でよ。少しは怒ってよ・・・。私、また人を傷つけたのに・・・。見知らぬ人なのに。」

彼女の目がみるみるうち潤んでいく。今にも泣き出しそうだ。

「え。えっ。ちょっと待って、何か悪い事した僕? 謝るから泣かないで。」

泣き出しそうな彼女を見て一気に平静を失う僕。

「怒ってよ・・・。えぐっ。何でよ・・・。ひくっ。傷つけたのに・・・。ふぇっ・・・。」

立ったまま、しゃくりあげて大粒の涙を流し、泣き出した彼女を前に呆然とするしかない僕。

 ええ。どうすればいいんだ。こんな時、悠紀がいればなあ。

 思わず、悠紀の事を頼ってしまうが、ここに悠紀はいない。仕方ない。本殿まで歩いていき、賽銭箱を挟んで彼女の近くに座る。板張りの廊下は雨で少し濡れて冷たく、カビと苔のクッションが何ともいえない感触がする。

 とりあえず、何も思いつかないし、彼女が泣き止むのを待とう。本殿の屋根の下に座ったとはいっても、屋根は雨漏りだらけで傘を差したままにしないとあっという間にずぶ濡れになりそうだった。

 「ひくっ・・・。えっ・・・。えぐっ・・・。つっ・・・。」

聞こえる音は賽銭箱の向こうから聞こえる彼女の嗚咽と雨が本殿の屋根と境内の石畳を叩く音だけだ。

 なんとも気まずい。幽霊? とはいえ女の子がすぐ傍で仁王立ちして泣いているのだ。気にしないでいられる方がどうかしている。

「あ、あのさ。気にしてないから、気にしてないから泣き止んでくれないかな。」

おずおずと嗚咽を続ける彼女に声を掛ける。

「・・・ひくっ。」

嗚咽をこらえながら、彼女はこちらを睨んでくる。

「え。えっとさ。あ、そうだ。名前。名前言ってなかったよね。僕は竜彦。天宮竜彦っていうんだ。変な苗字でしょ。こんな苗字なかなかいないよ。」

場の空気が僕を焦らせる。妙に早口になりながら、変な事を口走る。

「・・・。」

何か言ってくれよ。笑いをとろうとしてすべったみたいだ。

「え、えーと。そうだ、君の名前、名前知らないや、君の名前は。」

言葉を続かせないと場を持たせられそうにない。誰か助けてくれ。

「ぷふっ。」

あ、笑った。今、彼女が笑ったぞ。彼女が噴出したのを僕は見逃さなかった。

「変な人。ひくっ。何か私が馬鹿みたい。」

未だにしゃくりあげながらも彼女は笑った。

「あなた、竜彦っていうの? 私の名前は龍。緋月龍よ。」

龍。また、性格に合っているのか合っていないのか分からない名前だな。

「龍さんですか。よろしく。」

心の声は口に出さないで挨拶しておく。

「さんはいらない。龍って呼んでいいよ。」

龍さんは僕のいる側へと浮遊しながら近づいてきた。

「はあ・・・。」

いつの間にか会話の主導権を彼女に握られてる。しかも、タメ口になっているし。

「呼んで、竜彦。私もさん付けで呼ばないから、あなたも私の事をさん付けしないで呼んで。それで対等でしょ。」

隣まで近づいてきた彼女は僕の隣に正座しながら、そう言った。

「り、龍・・・さん。」

さん付けなしで呼ぶのは何故か気恥ずかしい。ましてや、目の前でさっきまで泣いていた紅潮した顔で言われたら尚更だ。

「駄目。もう1回。」

勘弁して下さい。恥ずかしい。

 それでも、龍さんは勘弁してくれないようだ。何かを期待しているような目でこちらを見てくる。やめて、僕をそんな目で見ないで。

「り、龍。」

「はい、上出来」

彼女はにっこりと僕に笑い掛ける。一方の僕は恥ずかしくて顔が真っ赤になっていた。視線を横に背ける。

「竜彦。」

「はい?」

「ん。ちょっと呼んでみただけ。」

さっきまで泣いていたのが嘘のように龍は上機嫌だった。何がそんなに嬉しいのか。

「久しぶりだなあ。この感じ。うれしいなあ。」

龍はそう言って、僕に抱きつこうとしてくる。僕ははっとして、立ち上がると龍が抱きついてくるのを回避した。

 僕の対女性スキルはそんな高くないのだ。抱きつかれては困る。それに、昨日、彼女に触れて気絶したのを思い出す。

「あ。ご、ごめんなさい。つい、うれしくて。まともに人と話すのはすごい久しぶりだから。」

彼女は自分のしようとしていた事に気づくとはっとして謝ってきた。

「こ、こっちこそごめん。避けて。」

しゅんとしてしまった彼女を見て、何故かこっちも申し訳なく思ってしまい、謝る。

「・・・。」

「・・・。」

場の空気が静かになり、気まずくなる。

「あ。人と話すのが久しぶりとか言ってたけど、どれぐらいぶりなの。」

沈黙に耐え切れず、とりあえず出た疑問を投げかける。

「どれぐらいかあ。・・・数えた事ないけど、えっと人が来なくなってからは季節が30回ぐらい巡るぐらいかな。」

座ったまま、龍はしばらく考えて答えた。

「30回。」

という事は30年前から龍はここにいるっていう事か。それにしてはこの見た目、とても30歳以上には見えない。それに龍が幽霊? になったのは30年以上前という事になる。

「えっと。という事は龍は30年前からここにいるっていう事?」

「えっと。本当はそれ以上前からいるんだけど、正確な年は分からないの。」

それ以上前って、じゃあ、彼女はいつからここにいるんだ。

「じゃあ、30年前までは誰か話相手がいたって事。」

「竜彦が来る前は大造っていうおじいちゃんが来てくれて、話し相手になっていてくれたの。それに、社の手入れもしてくれてたんだけど。冬のある日を境にぱったり来なくなったの。それ以来、人もほとんど来なくなって、手入れしくくれる人もいなくて、社もこんなになっちゃった。たまに私を見つけてくれる人もいたけど、皆、驚いて逃げていっちゃうの。だから、ほとんど、人と話し・・・、ひくっ。できなかった・・・ひっ。の・・・。」

 そこまで言って彼女はまた嗚咽をあげ始めた。

 寂しかったのだろう。30年間もまともに人と話していなかったのだ。よほど寂しかったに違いない。だから、最初に僕が会った時に逃げる僕を見て、彼女は泣きそうな顔をしていたのか。ああ、また逃げられたと思って。悪い事をしたなあ。

 「ひっく・・・。寂しかったよ・・・。寒かったよ・・・。ひっ・・・。ふぇっ・・・。」

彼女はまた泣き出してしまった。僕は再び、彼女の隣に座った。気持ちがあふれ出してるのだろう。

「あ、あのさ。毎日は無理かもしれないけど、ここに来てもいいかな。」

僕は龍と視線を合わさないようにして言った。

「え・・・。」

龍がはっと顔を上げる。顔は涙でくしゃくしゃで目の周囲も赤く腫れている。

 そんな目でこっちを見ないで欲しい、ただでさえ恥ずかしいのにもっと恥ずかしくなる。

「だからさ、もし、僕で良ければ、その、そのさ、龍の話し相手になるよ。それでいいかな。」

言った後で恥ずかしくなり耳まで真っ赤になる。

「うん。ありがとう、竜彦。」

しばらくの沈黙の後、彼女はとても嬉しそうにそう言った。

 次の瞬間、上半身全体が何か冷やりと氷に触れたような感覚に包まれた。何事かと思い、龍の方を見ると、目の前に巫女装束の白衣の合わせ目が見えた。

 暗転していく意識の中で僕は、うれしさあまった龍が僕に抱きついてきたんだなと理解した。


 目を開ける。雨はもう止んでいる。周囲がもうだいぶ暗くなってきている。それに身体の節々が痛い。傘を布団にして寝てしまっていたのだろう。ビニル傘のスチールの骨が曲がってしまっている。でも、傘を布団代わりにしたおかげか、着ている半袖カッターシャツにはあまり汚れが見られなかった。

 「痛たた。」

身体を起こす。

 もう結構いい時間のはずだ、帰らないといけない。そうだ、龍は。

 そう思い。周囲を見渡してみるが、姿は見えない。どこかに行ってしまったのだろうか。仕方ない。今日は一旦帰ろう。立ち上がり、骨の曲がってしまった傘を手に取る。そして、鳥居に向かって歩いていく。鳥居の所で、1度立ち止まり振りかえってみるが、やっぱり彼女の姿は見えなかった。

 仕方ない。

 そう思い、鳥居をくぐろうとした。

「明日も来るよね。竜彦。」

 突然、後ろから声を掛けられてびっくりする。振り返ると、そばに龍がいた。僕から2歩か3歩の距離の所で浮いている。その顔は今にも泣き出しそうで、まるで無邪気な子供が久しぶりに来た親戚の再訪を待ちわびているかのように見える。

「うん。また来るよ。龍。」

僕はそう返した。そんな確認しなくても僕は来るのに。

「うん。また明日、竜彦。」

僕の返事を聞いて顔をぱあっと輝かせた龍は嬉しそうにそう言った。

「うん。また明日。龍。」

僕は龍に向かって手を振ると、鳥居をくぐった。石段を降りる間、後ろから龍の視線をずっと感じているような気がした。下の鳥居まで降りて、上を見たが、龍の姿はもう見えなかった。

 最後にもう1度、言葉を交わしておきたかったな。

 そんな事を思いながら、僕はいつもよりも遅い家路についた。


 今日は金曜日。明日になれば休みだというのに、明日の天気を不安にさせるように空は曇っていて、雨を降らせている。

 僕は、本日最後の授業である物理の講義をぼんやりと聴きながら、龍泣山の方を見ていた。昨日、初めてまともに話した女の子の事が頭から離れなかった。

「また明日か。」

 ぼんやりと龍と再会を約束した言葉を反芻してみる。

 今日も会いに行こうかな。

 そんな事を考えていると、授業の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。


 今日はバイトだという悠紀と別れた僕は、真っ直ぐ駅には向かわずに龍のいる神社へと向かった。

 手には新しいビニル傘とまだちょっと汚れの残る革鞄。目の前には、深緑色に変色した僕の背丈よりも2周りほど大きい鳥居と苔むした石段がある。僕は、鳥居をくぐると、滑らないように気をつけながら、石段を登っていった。石段を登りきって2つ目の鳥居の下に立つ。龍の姿を探して、周囲を見回してみても龍の姿は見えない。

 どこかに行ってしまっているんだろうか。

 僕はそう思いながら、ひび割れた磨き石の参道を通り、本殿の前まで歩いてみる。本殿を見上げてみる。屋根の瓦はひび割れて、瓦と瓦の隙間からは雑草が緑色の腕をのびのびと雨空に向かって伸ばしている。龍の姿はない。本殿の正面を見てみる。50センチ四方の賽銭箱と本殿の周囲を取り巻く廊下、屋根を支える柱、柱の間の漆喰の壁、本殿の入り口の戸。全部がぼろぼろだった。賽銭箱は黒く変色して、元の木の色の面影は見る影もない。本殿の周囲を取り巻く廊下や柱も同様だ。黒く変色してかつての木の色が何だったのかも分からない。廊下にいたっては腐って穴が開いている場所もある。漆喰の壁もぼろぼろになって何箇所も虫食いにあった葉っぱみたいに下地の竹の格子が見えていた。はっきり言って、いつ崩れるか分からないような廃墟と言っても差し支えないような気がする。

 僕は、本殿のどこにも龍がいないのを確認しながら、そんな感想をこの本殿に感じた。

 裏手にいるのかな。

 そう思い。裏手に回ってみるが、龍の姿は見えなかった。あるのは石の慰霊碑とバラック小屋だけ。僕は落胆しながら、本殿の表へと戻った。そして、賽銭箱のすぐ横に腰掛けた。床板が抜けるかとちょっと警戒したが、抜けるような事はなかった。でも、苔とカビ、あとそれらが含む湿気のクッションが僕の座ったお尻に不快感を感じさせた。

 ちょっと痛いけど仕方ない。

 革鞄をお尻の下に敷き、体勢を整える。龍はこのあたりにいないみたいだ。どこかに行ってしまっているのかもしれない。

 雨漏りしてくる滴を僕は肩に掛けた傘で受け止めながら、周囲を見てみた。

 昔は囲いと屋根があったのであろう手水舎。今は敷石と水瓶だけが残って、水瓶の中には藻が浮いている。参道は磨き石が敷かれているけども、あちこちひび割れて、そのひび割れた箇所から雑草が伸びていた。そして、鳥居。僕の身長より2回りほど大きい鳥居は元々は綺麗な朱色だったのかもしれないけれど、今は苔に覆われて、もこもことした深緑色の何かにしか見えない。

「どこ行ったんだろうな・・・。」

 周囲を観察するのにも飽きてきたので、龍がどこに行っているのかでも考えてみようか。

 そんな事を考えていると。

「たーつひこ!」

 横合いからぬっと龍の顔が飛び出してきた。

「ひっ!」

僕はたまらず驚き、ひっくり返った。どこから出てきたんだ。

「あははは。竜彦。驚いた?」

龍がひっくり返った僕を見て笑いながらそう言った。

「龍。びっくりさせないで欲しいな。」

僕は身体を起こしながら、龍に文句を言った。

「ごめんね。竜彦がぼんやりとしてたから、ちょっと驚かせてみたくなったの。」

龍は僕の目の前にふわふわと移動しながらそう言った。

「ぼんやりって。龍を待ってたんだけどなあ。」

嬉しそうな龍に対して、僕は煮え切らない思いだった。

「それよりも、今日も来てくれたんだ、竜彦。」

龍が笑顔でそう言い、僕の座る隣へとふわふわと近づいてくる。

「うん。約束したからね。」

龍の笑顔を見て、煮え切らない思いは何故か、どうでもよくなってしまった。

「約束かあ。でも、本当に来てくれたんだね。」

龍が僕の隣に腰掛けながら、感慨深そうにそう言う。

「うん? また明日って昨日言ったからね。」

僕は龍の気持ちが分からず、ちょっと戸惑う。

「大造おじいちゃんもまた明日って言って来なかったから。」

龍はポツリとそう言うと、黙ってしまった。

「・・・。」

僕は掛ける言葉を見つける事が出来ず、黙ってしまった。

「あの日もね、こんな雨の日だったんだ。最後に大造おじいちゃんがまた明日って言って、大きく手を振ってくれたの。でも、次の日も、その次の日も、そのまた次の日も、ずっと待ってたんだけど、大造おじいちゃんは来てくれなかったの。私、待つのに疲れて、途中から数えるの止めちゃった。」

龍は気丈にそう言うと、僕の方を見てきた。

「でも、竜彦は来てくれた。だから、ありがとう、竜彦。」

龍は笑うと僕に向かってそう言ってくれた。

 本当は辛いはずの話なのに、そうやって気丈に振舞う龍が僕には寂しそうに見えた。

「龍。大丈夫だよ。僕はこうやって約束通り来たよ。」

だから、僕は龍を元気付けたくてそう言った。

「うん。竜彦。約束通り。」

龍は嬉しそうにそう言ってニコニコとしていた。

「そうだ。竜彦。その、あのね。ちょっと・・・。」

龍が急に口ごもってもぞもぞとしだした。

「何? 龍。」

「ちょっと、お願いがあるの。」

龍がもじもじと手をせわしなく動かしながら、そう言った。

「うん。お願いって何の?」

龍のお願いとは何だろう。

「あの、そのね、ちょっと・・・。」

もじもじとしながら龍は中々、お願いを言おうとしなかった。

「どうしたの、龍? 様子が変だけど。」

様子が変な龍に僕は心配して声を掛けた。顔が少し紅潮しているし、さっきから落ち着きがない。

「・・・ううん。やっぱりいいの。竜彦。忘れて。」

龍は何かを諦めたかのように肩をがっくりと落とすと、そう言った。

「どうしたの? 龍。」

一方、腑に落ちない僕は気分が悪い。

「ううん。何でもないの。ちょっと竜彦にはお願いしにくい事だから。」

龍は僕と視線を合わせようとせず、素っ気無くそう言った。

「そう?」

僕はこれ以上、龍を問い詰めるべきかどうか悩んでいたけども、結局は問い詰めない事にした。問い詰めても、仕方がない事だし、龍の言いたいタイミングで言ってくれればそれでいい。

「・・・の手を握りたいなんて・・・。言えないよ・・・。」

横でポツリと龍が何か呟いたが、雨音でよく聞こえなかった。

「龍。何か言った?」

僕が龍に問い掛けると、龍は驚いたように身体をビクッとさせた。

「ううん。何でもないよ。竜彦。」

龍が顔を赤くしてぶんぶんと手を振って否定する。

「そう?」

僕はまた何かはぐらかされたような気がして、ちょっと気分が悪かった。

 今日はもうそろそろ帰ろうか。

 気分の悪さも手伝って、僕はそう思った。そして、立ち上がると、尻に敷いていた革鞄を取り上げた。

「竜彦。もう帰るの?」

途端に龍は不安そうな声になる。

「うん。もうそろそろ帰らないとね。」

僕は龍の方を振り向きながら、そう言った。

「明日も来てくれる? 竜彦。」

龍が不安そうな面持ちでそう聞いてくる。

「大丈夫だよ。龍。約束は守るから。」

僕は心配する龍を安心させる為、そう言った。

「うん。そうだよね。ありがとう。竜彦。」

龍は僕の言葉に安心したのか、安堵の表情を浮かべていた。

「じゃあ、また明日。龍。」

僕は約束を取り付ける言葉を龍に投げかける。

「うん。また明日、竜彦。」

僕の言葉を受け取った龍は笑顔で、そう言った。


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