プロローグ 誘い
昼下がりの教室。黒板の上に掛けられているアナログ時計を見る。あと5分と少しで昼休みに入る。
教壇に立つ、禿頭の数学教師はいつものように時間一杯まで授業を続けるつもりなのだろう。黒板にチョークで描いた数式の解説を続けている。
前の席に座る友人の悠紀に目を向ける。彼は10分ほど前から机に伏せた状態から動こうとしない。また居眠りしているんだろう。毎日のバイトに疲れてるのは知っているけど、あまり感心できた行動じゃない。かくいう自分も真面目に授業を聞いているかというとそういう訳ではない。ノートは広げてはいるもののそこに描くアルファベットとアラビア数字と記号の集合体の意味を理解できてはいないし、教科書の内容を読んでもいない。真面目な学生を演じているだけだ。
窓の外に目を向ける。空は雲ひとつない快晴。水色一色。梅雨が終わり初夏の訪れを迎えつつある事を教えてくれているようだ。
校舎の下に広がる運動場と灰色の豆腐が連なったように見えるコンクリートの部活棟の向こうには、このあたりでは1番標高の高い龍泣山が見える。大仰な名前の山だけど、傍目には少し小高い丘のようにしか見えない。山の曲線は初夏が来訪する事を歓迎するように広葉樹の葉に覆い隠されて規則性の無い凹凸を描いている。緑色の葉が太陽の日差しを反射して、少し眩しく感じる。
早く、昼休みにならないかな。お腹がすいたなあ。
昼休みの開始を告げるチャイムが鳴り止むと、前の席に座る悠紀が机から頭を上げた。
「たーつひーこー。めーし。」
振り向くなり、間延びした声で僕の名前を呼ぶ。本当に居眠りでもしていたのだろうかと思うぐらいタイミング良く起きるなあ。
「やー。今日もいい陽気だわ。絶好の昼寝日和。」
悠紀は御機嫌そうにそう言うと、ナイロンバッグから学校近くのコンビニロゴの入ったビニル袋を取り出して、ノートと教科書を片付けたばかりの僕の机の上に広げる。
「ノートは大丈夫?」
ビニル袋からコッペパンにコロッケを挟んだ惣菜パンとコーヒー牛乳の500ミリリットルパックを取り出す悠紀に聞く。
さっきまで居眠りしていた人間が授業のノートなど取っているとは思えないけども。
「うん? 大丈夫。大丈夫。竜彦がいるからな。」
惣菜パンの包装を破りながら、何て事ないさとでも言いたげに悠紀が言う。
僕も自分の持参弁当を使い古した革の通学カバンから取り出す。
「まあ。どうせそんな事だろうと思ったよ。」
2段積みの楕円形の弁当箱を机の上に置くと僕は答えた。
「さすが。俺の友人は良く分かってらっしゃる。というわけで、後で見せてくれ。」
「もう慣れたよ。いつもの事だしね。」
弁当箱の黒い布包みを解きながら、呆れ声で返す。
弁当箱の蓋を開く。上段の弁当箱の中には、3種のおかず。ひじきと大豆の煮物。塩味の卵焼き3切れ。ほうれん草のおひたし。下段には白米飯。卵焼き以外は昨日の晩飯の残りものだ。女子の持ってくる弁当みたいに彩りがあるわけでもないし、学食の定食みたいにボリュームがあるわけでもない、質素と言ってしまえばそれまでの弁当。でも、栄養バランスは取れてるし、腹8分目ぐらいまでお腹が膨れるくらいの分量は入っている。僕を16年と少し育てている母親だからこそ理解している息子の腹具合を満たすに足る弁当。
弁当箱の箸を取り出し、簡単な合掌をして頂く。
「おお。いつもの健康弁当ですな。卵焼きもらってもいいか。」
対面でコロッケパンをぱくつく悠紀がライオンの狩ったガゼルを狙うハイエナのごとく、僕の弁当を狙う。
「いいの。僕には充分だから。」
ハイエナの襲来を軽くいなして、卵焼きを口に運ぶ。
「お若いのに健康志向な事で。」
悠紀はそう言うと、コーヒー牛乳を口に含んだ。手持ちぶさたになったのか悠紀は窓の外へと目を向けた。
「そういえば、竜彦は知ってるか?」
しばらく窓の外を見ていた悠紀がふと思い出したように聞いてきた。
「何を?」
ひじきの煮物をつまみながら聞き返す。
「あの山に幽霊が出るって噂。」
山を見つめていた目をこちらに向けてニヤニヤと笑う悠紀。
ああ、嫌な予感がする。
「またそういった類の話? こないだの音楽室の騒動で懲りたんじゃなかったけ。」
僕は口に含んだひじきを飲み込んで、悠紀に呆れ声を掛ける。
「ああ。もう懲りたよ。だから、夜中の2時に校舎に忍び込んで、体育の鬼神と追いかけっこするような真似はもうしない。」
「なら、いいんだけど。」
僕は弁当箱のほうれん草のおひたしに箸を伸ばしながら答える。
音楽室の騒動。つい1月ほど前、悠紀が何人かの生徒を誘って、夜中の校舎に忍び込み、音楽室の幽霊を写真に撮ろうとした事があった。僕も誘われたけど、碌な結果を招かないだろう事は簡単に想像できたので、参加しなかった。
結果は、決行当日の宿直である体育教師である鬼神先生に見つかり、校舎中を鬼神先生と追いかけっこする羽目になったらしい。幸いにして悠紀達は捕まらなかったみたいだけど、参加した生徒の中にはちびった人もいたとかいないとか。
そんな目に合ってるんだから、もう幽霊騒動には手を出さないかと思ってたのに、すぐにこれである。
「だからな、もう校舎に忍び込むような真似をしなくてもいいような噂を拾ってきたんだよ。」
何故か、コーヒー牛乳のパックから出たストローをくわえた悠紀が誇らしげに胸を張っているように見えた。
弁当箱に伸ばした箸を僕は止めた。そして、悠紀を見て一言。
「懲りてないよね、それ。」
「いやいや、懲りたとも。もう2度と夜中の校舎の追いかけっこはしたくない。竜彦は来てないから分からないだろうが、大変だったよ。追いかけてくる鬼神を見て泣き出す奴は出るわ、あまりの恐怖に小便漏らす奴までいるわで、もう大変だった。あんな事はもういいね。」
悠紀はなぜか面白そうにその時の事を話す。
漏らした奴がいたとかいう噂は本当だったのか、参加しなくて良かった。
「まあ、そんな事よりもだ、あの山の中腹に神社があるだろ。」
「そうなの? 知らなかった。」
止めていた箸を再度伸ばしながら僕は答える。
「ああ。あるんだけどな。そこに出るらしいんだよ。・・・女の幽霊がな。」
悠紀が低音をきかせた声で懸命に恐怖を演出するが、少しも怖くない。ほうれん草のおひたし、もう少し醤油が欲しいな。
「おい。無視するなよ。せっかく人が恐怖を演出してるのに。」
悠紀がつまらないと不満をあげるが、生憎、こちらも小学生ではないのだ、その程度では少しも怖くない。
「いや、怖くないから」
正直に感想を述べる。
「そうか。まあ、いいや。それでな、今週末の土曜日に行かないか。」
「どこに?」
悠紀が僕をどこに誘おうとしているかぐらい聞かなくても分かるけど、確認は大事だ。
「どこって。その幽霊が出る神社にだよ。」
「いいよ。僕は行きたくない。行くなら、前に誘った人を誘えばいいんじゃないかな。」
基本的に余計な迷惑事に首を突っ込まない方がいい。万時平和が一番。
「もう誘ったよ。だけどな、こないだのが効いたのか、誰1人もう参加したくないって言い張ってな。」
他の参加者は学習するという事を知っているのに、何で悠紀は懲りないんだろう。
「だから。僕?」
弁当箱から卵焼きをつまみ出して口に入れる。
「そういう事。もう竜彦1人しかいないんだよ。な、報酬はきちんと出すからさ。」
悠紀が懇願してくる。ここまで言わたら断りづらいなあ。まあ、報酬が出るなら。
「まあ、報酬が出るなら行っても。」
卵焼きを咀嚼して飲み込み答えた。我ながらちょろい人間である。
「おお、本当か。じゃあ、今週末な。参加者俺ら2人だけだから少々寂しいところだが、仕方ないな。」
悠紀が笑顔を見せる。
空は雲ひとつない快晴で、僕らがこれから向かおうしている龍泣山は初夏の深緑色の森に覆われていた。