幕間 戦争計画
アエテリア大陸西部海岸地域に位置するエクィトゥム王国の王都コンスタンティアから遠く離れた、エクィトゥム王国南西部。
夜。
人の気配がほとんどないフェルゼンハルト公爵城の一室で、二人の男が向かい合っていた。
部屋には最低限の明かりしかない。
窓は閉ざされ、扉の外には人払いをした兵士が立っている。
机の上に置かれているのは、一枚の地図だった。
エクィトゥム王国。
そして、その西方に位置するアンティクイランド王国。
地図の上には、国境線と街道、河川、山道、要塞の位置が細かく記されていた。
さらに、その上にはいくつもの駒が並べられている。
「……本当に、やるつもりなのか?」
そう尋ねたのは、一人の老貴族だった。
胸元には、公爵家の紋章。
第二王妃の実家として、王国内でも最大級の影響力を持つ
貴族派筆頭、オデリック・デイ・フェルゼンハルト公爵。
対面に座る男は、鎧こそ身につけていないものの、鍛え上げられた身体と鋭い目つきから軍人であることが分かる。
アンティクイランドとの国境地帯を治めるヴァルター・デイ・グランツェン辺境伯だった。
「やる、ではありません」
辺境伯は静かに答えた。
「可能性を検討しているだけです」
公爵が眉を動かす。
「ほう」
「現在の情勢では、まだ戦争を始める理由がありません」
辺境伯が地図へ目を落とす。
「国王陛下はアンティクイランドとの全面的な戦争を望んでいない。国庫にも余裕はありますが、長期戦を支えられるほどではない」
「ならば、なぜこのような地図を広げている?」
「備えるためです」
辺境伯は淡々と答えた。
「戦争が始まってから考えるのでは遅い」
「……つまり」
「戦うことになった場合、すぐに動けるようにしておく」
公爵は黙って地図を見る。
国境近くの街道。
兵站拠点。
河川。
要塞。
アンティクイランド側へ通じる複数の進軍路。
その一つ一つが、すでに調べ尽くされている。
「これほど詳しく調べているとはな」
「国境を預かる者として当然です」
「本当に、それだけか?」
辺境伯は答えなかった。
代わりに、机の脇に置かれた書類を公爵の前へ滑らせる。
そこには、エクィトゥム王国軍の編制と動員可能兵力、食糧備蓄、馬匹数、街道の輸送能力などが記されていた。
「……いつから準備していた?」
「軍事研究としてなら、以前から」
「軍事研究?」
「ええ」
「ずいぶん都合のいい言葉だ」
「公爵閣下も同じでは?」
辺境伯の返答に、公爵が薄く笑った。
「否定はしない」
二人の間に短い沈黙が流れた。
そして、公爵は地図上のアンティクイランドとの国境線を指でなぞった。
「我々が本当に必要としているのは、戦争そのものではない」
「……」
「第二王妃殿下の実家が、王国のためにどれだけの戦力を持っているのか。それを国王派に思い知らせることだ」
「そして第一王子殿下の立場を強くする」
「その通りだ」
公爵は淡々と答えた。
現在のエクィトゥム王国では、国王派と貴族派の対立が続いている。
第一王妃の子である王子と王女を中心とする国王派。
第二王妃とその実家であるフェルゼンハルト公爵家を中心とする貴族派。
その二つの勢力が、王位継承を巡って互いを牽制している。
そして第一王子は、近隣諸国に対して強硬な姿勢を示していた。
「殿下には、外敵に対する勝利が必要だ」
公爵が言う。
「もしアンティクイランドとの戦争になり、第一王子殿下が勝利すれば、それは王位継承において大きな武器になる」
「だから、戦争を?」
「まだ戦争を始めるとは言っていない」
公爵は念を押すように言った。
「むしろ、今は始めるべきではない」
辺境伯が僅かに頷く。
「国王陛下も、すぐに戦争を承認するとは思えません」
「だからこそ準備だけはしておく」
「いつでも動けるように?」
「そうだ」
公爵は椅子へ深く腰掛ける。
「国境の小競り合いが起きたとき」
「アンティクイランド側が何かしらの行動を起こしたとき」
「あるいは、こちらに有利な口実が生まれたとき」
公爵の指が、ゆっくり地図を叩く。
「その瞬間に戦争へ持ち込めるようにしておく」
「……なるほど」
辺境伯が静かに答える。
「では、現在進めている領軍の再編は?」
「予定通り進めてください」
「徴税と街道警備の強化も?」
「続けろ」
「兵糧の備蓄は?」
「不自然にならない範囲で増やせ」
「武器の発注は?」
「同じく」
一つ一つ。
しかし、どれも戦争準備とは断定できない程度のものだった。
領軍の再編。
街道警備。
食糧備蓄。
武器の修繕。
軍馬の確保。
どれも国境を守るために必要な行動だ。
だが、それらが一つの計画として積み重なれば――。
話は変わる。
辺境伯は地図を見ながら呟いた。
「万が一、戦争になれば」
「ああ」
「我々が勝てるようにする」
「そうだ」
二人はそこで言葉を止めた。
戦争は、まだ始まっていない。
兵士たちもまだ普段通りに暮らしている。
国境の町にも、今のところ異常はない。
王都では人々がいつも通り生活している。
そして――。
アンティクイランド王国の第一王子レノウィウスも。
エクィトゥム王国の第三王女グラーティアも。
まだ十歳。
今は互いの存在すら知らない。
その少年と少女の知らないところで。
大人たちは、未来の戦争について考え始めていた。
「第三王女殿下の件は?」
公爵がふと尋ねる。
辺境伯の表情が僅かに変わった。
「王女殿下ですか?」
「ああ。最近、王都からほとんど出ていないと聞く」
「そのようです」
「国王陛下は心配しているらしい」
「王女殿下は軍事教育自体は受けています」
「だが、実際の国政や戦争を知らない」
「……でしょうな」
公爵はしばらく黙った。
「それが、今後どう影響するかは分からない」
「まだ十歳ですから」
「だからこそ、だ」
公爵は低く呟いた。
「子供のうちに何を経験するかで、将来の考え方は変わる」
それ以上は語らなかった。
辺境伯も、それ以上は聞かなかった。
ただ、机の上には一枚の地図が残されている。
国境線の向こう。
まだ何も起きていない土地。
その土地へ向けて、駒だけが静かに並べられていた。
戦争は始まっていない。
しかし――。
戦争を始めるための準備だけは、少しずつ整えられようとしていた。




