第63話 王太子の思惑
エクィトゥム王国南西部フェルゼンハルト公爵領
王太子フィリウス・アウレリア・デイ・エクィトゥムは、アンティクイランド王国へ向かう道中で、ある報告を受けていた。
「殿下」
馬車の中。
随行している側近が、一通の報告書を差し出す。
「アンティクイランド王国で、妙な噂が広がっているようです」
「妙な噂?」
「第一王子レノウィウス殿下と、戦場で救われた少女についてです」
フィリウスが報告書へ目を落とす。
そこには。
戦場で出会った第一王子と一人の少女。
王子は身元も分からぬ少女を救い、王宮へ連れて帰った。
周囲から様々な噂を向けられながらも、二人はそれに屈することなく、互いに特別な想いを抱くようになった。
――そんな話が書かれていた。
「……恋物語ですか」
「はい」
フィリウスはしばらく黙っていた。
やがて。
「その少女の身元は?」
「確認できていないようです」
「なるほど」
フィリウスは再び報告書へ目を落とす。
「随分と都合のいい話だ」
だが。
その口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
「しかし」
フィリウスは静かに続ける。
「使える」
◆
フィリウスが考えていたのは。
戦争のことだけではなかった。
エクィトゥム王国の最大の問題。
それは。
シルウァニア王国だった。
北東部から中東部にかけて国境を接する山岳国家。
長年にわたってエクィトゥム王国と敵対してきた軍事国家。
先のアンティクイ・エクィトゥム戦争によって、エクィトゥム王国は大きく消耗した。
この状態でシルウァニア王国と本格的な戦争になれば厳しい。
だからこそ。
フィリウスはアンティクイランド王国を利用する方法を考えていた。
「アンティクイランドは、シルウァニア王国を挟むもう一つの勢力だ」
「はい」
「ならば」
フィリウスは地図へ目を向ける。
エクィトゥム王国。
アンティクイランド王国。
その北東にはシルウァニア王国。
「東部と南部から挟撃できる」
地図上で、二つの国からシルウァニアへ伸びる線を指でなぞる。
「問題は、アンティクイランドをどう動かすかだ」
「軍事同盟を結ぶ?」
「それだけでは足りない」
「貿易協定」
「それも必要だ」
「しかし」
フィリウスは淡々と答えた。
「アンティクイランドは、こちらとの戦争を終わらせたばかりだ」
「いきなり軍事同盟を求めても警戒される」
「まして、我々は先の戦争で敗れた側です」
「だからこそ」
フィリウスは報告書の一文へ目を落とした。
「この話を利用する」
◆
その夜。
フィリウスは王宮へ向けて書簡を送った。
相手は、エクィトゥム国王。
内容は。
妹である第三王女グラーティアと、アンティクイランド王国第一王子レノウィウスの関係についてだった。
「……」
書簡を書き終える。
側近が尋ねる。
「殿下。本当に、この話を婚約へ持っていくおつもりですか?」
「ああ」
「しかし、第三王女殿下の意思は?」
フィリウスは少しだけ黙った。
「本人の意思は確認する」
「だが」
青年は冷静に続けた。
「我々にとって重要なのは、妹を犠牲にすることではない」
「この婚約そのものに意味があることだ」
それは。
王太子としての政略だった。
だが。
フィリウスには、もう一つの狙いがあった。
「グラーティアが幸せになれるのなら」
「それはそれで構わない」
側近が少し驚く。
フィリウスは続ける。
「ただし」
「この婚約によって、アンティクイランド王国から何を引き出せるかは別の話だ」
青年の目が冷たくなる。
◆
エクィトゥム王城。
国王のもとへ、フィリウスからの書簡が届いた。
国王は内容を読み。
しばらく黙っていた。
「……グラーティアと、アンティクイランドの第一王子」
「はい」
「フィリウスは、この縁談を望んでいるのか」
「そのようです」
国王は書簡を読み直す。
「そして」
次の部分へ目を向ける。
「この婚約を、アンティクイランド王国との関係改善へ繋げると」
「はい」
「悪くない」
国王はそう呟いた。
先の戦争で敵対した両国。
だからこそ。
王族同士の婚姻は、大きな意味を持つ。
しかも。
第一王子と第三王女。
両国の王族を直接結びつける。
「フィリウスは、相変わらずよく考えている」
「はい」
「だが」
国王は少し考える。
「アンティクイランド王国は、そう簡単には乗らんだろう」
「そのために」
フィリウスの側近から追加の意見書が届いていた。
「条件を提示するつもりだそうです」
「何だ?」
「婚約を成立させる代わりに――」
一拍。
「第一王子派への支持」
「軍事同盟」
「貿易協定」
「そして」
最後の条件。
「シルウァニア王国との戦争への参戦」
国王が目を細める。
「なるほど」
すべてが一本に繋がる。
◆
アンティクイランド王国。
こちらでは。
フィリウスの和平交渉団が到着する前から、王宮内で準備が進んでいた。
そして。
カシウスは、密かに入ってきた情報に目を通していた。
「……王太子が、婚約を利用してくるか」
宰相であるカシウスは、すぐに意図を理解した。
第三王女と第一王子。
その婚約を。
単なる王族同士の縁談ではなく。
政治的な取引にする。
「なかなかやる」
カシウスは苦笑した。
「さすがは新王太子、といったところか」
そして。
この話はすぐに国王アウレリウスのもとへ届けられた。
◆
「父上」
レノウィウスが王の執務室へ入る。
「何だ、レノウィウス」
「エクィトゥム王国から、新たな提案が届いています」
「婚約の話か?」
「はい」
レノウィウスは一礼する。
「フィリウス王太子殿下が、私とグラーティア王女殿下との婚約を仲介したいとのことです」
その言葉に。
レノウィウスの表情が固まった。
「……」
グラーティア。
あのティア。
前世の美咲。
そして。
敵国の第三王女。
「それだけではありません」
カシウスが続ける。
「フィリウス殿下は、この婚約を基礎として」
「第一王子派への支持」
「軍事同盟」
「貿易協定」
「さらに、シルウァニア王国への共同軍事行動を提案しています」
レノウィウスは黙った。
フィリウスは。
グラーティアとの関係を政治に利用しようとしている。
それに、第二王子派に勝利されるとカヴィーレスターン・スルタン国の影響が
それは間違いない。
だが。
フィリウスの提案には、悪意だけではない。
シルウァニア王国。
エクィトゥム王国にとって重大な脅威。
アンティクイランド王国にとっても、北方の情勢は無関係ではない。
「……上手いな」
レノウィウスが呟く。
感情ではなく。
国家の利益として考えれば。
かなり魅力的な提案だ。
◆
しかし。
レノウィウスには、一つ大きな問題があった。
グラーティア自身。
彼女が何を思うのか。
それを抜きにして、この話を進めることはできない。
「父上」
「何だ?」
「私は」
一度、言葉を止める。
「グラーティア本人の意思を確認したいです」
父王は頷いた。
「当然だ」
「この話は、外交だけで決めるものではない」
「第一王子と第三王女本人の問題でもある」
「はい」
「それに」
国王は少し笑う。
「お前が珍しく、そこまで本人の意思を気にしている」
「……」
「どうやら、噂だけではなさそうだな」
レノウィウスは何も答えなかった。
ただ。
胸の奥には、別の思いがある。
前世で。
答えを伝えられなかった。
今世で。
ようやく再会した。
だから。
その関係を、政治の道具だけにはしたくない。
◆
一方。
フィリウスは、アンティクイランド王国へ向かう道中で静かに考えていた。
自分は。
妹の婚約を利用する。
そのことで。
アンティクイランド王国をこちらへ引き寄せる。
第一王子派の支持を確保する。
軍事同盟を結ぶ。
貿易路を安定させる。
そして。
シルウァニア王国を。
東部と南部から挟撃する。
これが成功すれば。
エクィトゥム王国の最大の脅威を、長年の宿敵を取り除ける。
「だが」
フィリウスは一つだけ、心の中で思う。
妹が本当にあの第一王子を愛しているのなら。
この縁談は。
政治的な取引であると同時に。
妹自身にとっても悪い話ではないのかもしれない。
だから。
フィリウスは。
優しい兄として振る舞うことにした。
「妹の幸せのためです」
そう言えば。
誰も疑わない。
だが。
本当の目的は。
妹の幸せだけではない。
国家の利益。
王国の安全。
そして。
シルウァニア王国の戦略的包囲。
そのすべてを。
一つの婚約に込めていた。
◆
やがて。
王宮では。
フィリウス王太子が。
妹の純愛に感銘を受け。
敵国の第一王子との婚約を父王へ取り次いだ――。
そんな「美しい話」が広がり始める。
人々は。
彼を。
妹思いの優しい兄だと見る。
だが。
その裏で。
フィリウスが求めているものは明確だった。
第一王子派の支持。
軍事同盟。
貿易協定。
そして。
シルウァニア王国への共同戦線。
婚約という一本の糸から。
彼は。
エクィトゥム王国とアンティクイランド王国を結びつけようとしていた。
そして。
その先にあるのは。
シルウァニア王国を。
東部と南部から同時に攻撃する――。
大規模な挟撃作戦だった。




