第五十話「老いたる龍」
チャブイが死んだ。
俺の妻。四十年近く連れ添った女。祖父にとってのボルテが、俺にとってのチャブイだった。
1281年。日本遠征の嵐の報告が届いたのと同じ頃、チャブイが病の床に伏した。海の向こうで十一万人が沈んでいく中、俺は大都の宮殿で妻の手を握っていた。
チャブイは静かに死んだ。長い病だった。
最後の夜、俺はチャブイの手を握っていた。細い手だった。この手が帝国の裏側をどれだけ支えてきたか、知っている者は少ない。
俺が漢人の制度を取り入れようとしてモンゴルの将軍たちに反発された時、チャブイが裏で将軍たちの妻に話をつけた。俺が紙幣制度で揉めた時、チャブイが商人たちを宮殿に招いて茶を出しながら説得した。
表に出ない仕事を、この女は何十年もやってきた。
「クビライ」
最後に俺の名を呼んだ。
「何だ」
「あなたは——作りすぎたかもしれないね」
「作りすぎた?」
「大都。紙幣。法。全部大きすぎる。あなた一人がいなくなったら——誰が回すの」
「……考えてある。チンキムに引き継ぐ」
「チンキムは——優しすぎるよ。あの子はあなたの頭を持っているけど、あなたの強さは持っていない」
「強さは——俺もそんなに持っていない」
「持ってるよ。自分で思っているより。でも——」
チャブイの声が途切れた。
「でも?」
返事はなかった。
手が冷たくなっていた。
チャブイの死後、俺は酒を飲むようになった。
叔父オゴデイと同じだ。あの男は朝から酒を飲んで、杯が割れるように死んだ。俺は叔父を軽蔑していた。酒に逃げる弱い男だと。
今、同じことをしている。
朝起きて、最初に手が伸びるのが酒壺だ。馬乳酒ではなく、漢人の蒸留酒。強い酒。頭の奥が痺れて、チャブイの声が少しだけ遠くなる。
食べる量も増えた。
モンゴル人は肉を食う民だ。だが俺の食べ方は、もはや食事ではなく穴を埋める行為だった。腹を満たして、胸の空洞を忘れようとしている。
体が膨れた。鏡を見るのが嫌になった。かつて馬に乗って狩りに出ていた体が、椅子から立ち上がるのにも苦労する体になっていた。
痛風が始まった。足の関節が腫れて、歩くたびに激痛が走る。馬にはもう乗れない。輿で移動する。草原の男が——馬に乗れない。
「祖父が見たら、何と言うだろうな」
独り言が増えた。
祖父は六十五歳で死ぬまで馬に乗っていた。落馬して肋骨を折っても、担架の上から指揮を執った。最後まで草原の男だった。
俺はもう草原の男ではない。大都の宮殿で酒を飲んで太って、足が痛くて歩けない老人だ。
1286年。もう一つの喪失が来た。
チンキム。皇太子。俺の長男。帝国の後継者。
酒の席で倒れた。脳卒中だと医者が言った。四十三歳。
チャブイが言った通りだった。「あの子は優しすぎる」。帝国の重圧が——あの子には重すぎたのだ。
俺は息子の死を聞いた時、何も感じなかった。
何も感じなかったことが、怖かった。
チャブイの時は泣いた。声を殺して泣いた。だがチンキムの時は——涙が出なかった。
祖父もそうだったのだろうか。ジョチの死を聞いた時。長男が遠い草原で死んだと聞いた時。祖父は泣いたのだろうか。
祖母ボルテは泣いたと聞いている。声を殺して。
俺は泣けなかった。涙を流す代わりに、酒を飲んだ。
後継者を決めなければならなかった。
チンキムには三人の息子がいた。カマラ、テムル、ダルマバラ。
テムルが最も安定している。穏やかで、判断が堅実で、極端なことをしない。
「テムルを後継者にする」
朝廷に告げた。
「祖父がオゴデイを選んだ時と同じ理由だ。壊さない男を選ぶ。激しすぎる男でも、弱すぎる男でもなく——保つ男を」
だが帝国は、保てるのだろうか。
報告が毎日届く。どれも悪い知らせだった。
紙幣の価値が下がっている。発行量が増えすぎたのだ。俺が作った交鈔の制度は、発行量を管理することで価値を維持していた。だが日本遠征や各地の軍事費で出費が膨らみ、紙幣を刷りすぎた。銀との交換が追いつかない。
ヤムの駅站が荒れている。維持費を削減した結果、馬が足りない駅站が増えた。情報の速度が落ちている。
地方で反乱の芽が出ている。漢人の農民の不満が溜まっている。税が重い。モンゴル人の役人が横暴だ。四等制への怒りが——
全部、俺が作ったものだ。全部、俺が管理しなければならないものだ。
体が動かなくても、頭は動く。祖父と同じだ。祖父は最後に担架の上から指揮を執った。俺は輿の上から政務を執る。
「紙幣の発行量を制限しろ。新規発行を三割減らせ」
「ヤムの維持費を復旧しろ。駅站の馬を補充しろ。ヤムが止まれば帝国が止まる」
「地方の税率を見直せ。農民の負担が三割を超えている地域は、即座に是正しろ」
命令を出す。だが命令の通りに動く人間が、減っていた。
祖父の時代は違っただろう。ボオルチュとジェルメとムカリとカサルがいた。命令すれば、そのまま動く人間がいた。信頼で繋がった人間がいた。
俺の周りにいるのは——官僚だ。制度で動く人間だ。信頼ではなく、給料と地位で動く人間だ。
それは俺が望んだことだった。制度で動く国を作りたかった。個人のカリスマではなく、仕組みで動く国を。
だが仕組みで動く国は——仕組みが壊れた時に、誰も直せない。カリスマがあれば、壊れた仕組みをカリスマで補える。仕組みしかない国は、仕組みの故障に対して無力だ。
スブタイが言った言葉を思い出す。祖父の将が言った言葉。「帝国は壊れません。壊れるのは人です」。
違う。帝国も壊れる。人が壊れれば、帝国も壊れる。仕組みは人が動かすものだから。
ある夜、大都の宮殿の庭に出た。
輿から降りて、杖をついて歩いた。足が痛い。だが歩きたかった。
庭には草が植えてある。壁の中の草原。俺が劉秉忠に命じて作らせた草原。
風が吹いていた。壁の上から入ってくる風。本物の草原の風ではないが——草の匂いがする。
空を見上げた。
蒼い天。宮殿の屋根と城壁に切り取られた、四角い空。祖父はゲルの丸い天窓から空を見た。俺は宮殿の四角い窓から空を見ている。
同じ空だ。形が違うだけで、同じ蒼い天だ。
「祖父」
心の中で呼びかけた。
あなたは壊した。俺は作った。あなたは馬で走った。俺は輿で運ばれる。あなたは草原で死んだ。俺は壁の中で死ぬだろう。
全てが逆だ。
でも——同じものが一つある。
テンゲリの下にいること。
どこにいても、何をしていても、蒼い天の下にいること。それだけは同じだ。
マルコが帰ると言った。
1292年。十七年間、大都にいた男が、ヴェネツィアに帰ると。
「なぜ今」
「母国が恋しいのです。それに——ハン。失礼ですが、お体の具合が」
「俺が死ぬ前に帰りたいということか」
「いえ、そういうわけでは——」
「いい。正直に言え」
マルコは少し黙った。
「……はい。ハンがお元気なうちに、お別れを申し上げたかった」
正直な男だ。最初からそうだった。
「マルコ。おまえは帰ったら、この国のことを書くと言ったな」
「書きます。必ず」
「書く時に——一つだけ頼みがある」
「何でしょう」
「俺の祖父のことも書いてくれ。壁を壊した男のことを。城壁を砕き、砂漠を越え、世界を震わせた男のことを。西方では恐怖の対象だと、おまえは言った。だが——恐怖だけではなかった。あの男は、血筋ではなく行動で人を評価した。使える者は出自を問わず使った。ヤムの駅伝制を作って大陸を繋いだ。ヤサの法で秩序を作った」
「それは——ハンご自身のことでもあります」
「俺は祖父の続きをやっただけだ。壊す者がいなければ、作る者も要らなかった。祖父が先にいて、俺が後に来た。そういう話だ」
マルコは深く頭を下げた。
「必ず書きます。壊した男と、作った男の話を」
マルコが去っていった。
十七年間の客が消えて、宮殿がまた少し広くなった。広くなった分だけ、寒くなった。
体が限界に近づいていた。
七十九歳。足は腫れ上がって、もう立てない。目が霞む。食べても味がわからなくなってきた。
だが頭は——まだ動いている。
毎日、報告を聞く。命令を出す。紙幣の管理。ヤムの維持。地方の統治。後継者の教育。
やることは尽きない。帝国は止まらない。俺が止まっても、帝国は動き続ける。
それが俺の作ったものだ。俺がいなくても動く仕組み。個人のカリスマではなく、制度で動く国。
だが——本当にそうだろうか。俺がいなくなった後、この仕組みは動き続けるのだろうか。
チャブイの最後の言葉。「あなた一人がいなくなったら、誰が回すの」。
答えが出ないまま、時間が過ぎていく。




