第十六話「裏切りの宴」
ジョチが七歳になった。
弓を引けるようになっていた。まだ小さな弓で、矢は十歩先の的にも届かないが、引く姿勢は悪くない。腰が据わっている。カサルが教えたらしい。
「あの子は筋がいいよ」
ボルテが言った。
「カサルがそう言ってた?」
「言ってた。でもそれより——」
ボルテの声が少し低くなった。
「あの子のこと。そろそろ、はっきりさせなきゃいけない時が来てる」
「何を」
「婚約。ジョチに良い婚約を結べば、あの子の立場が固まる。有力な一族の娘と婚約させれば、長男としての地位を誰も疑えなくなる」
ボルテの目は真剣だった。ジョチの出自の噂は、草原の中で消えていない。表立って言う者はいないが、陰では囁かれている。「あの子は本当にテムジンの子なのか」と。
婚約で既成事実を作る。ボルテの政治的直感は、いつも正確だった。
「トグリル・ハンの孫娘はどうだ。セングムの娘」
ボルテが眉をひそめた。
「セングムの? あの男が承知するかな」
「トグリルが認めれば、セングムは逆らえない。ケレイト族との婚姻が成れば、ジョチの地位は盤石になる。同時に、トグリルとの同盟も強化される。一石二鳥だ」
ボルテはしばらく黙っていた。
「……いい案だと思う。でも、嫌な予感がする」
「予感?」
「セングムは、おまえのことを怖がってる。怖がってる人間に、娘を差し出せと言ったら——もっと怖がるよ」
ボルテの言葉が引っかかったが、俺は提案を進めることにした。
今思えば、ボルテの予感の方が正しかった。
トグリルのもとを訪ねた。
いつものように贈り物を持って、「父上」と呼んで、礼を尽くした。トグリルは上機嫌で迎えてくれた。最近、西の小部族との争いでトグリルが苦戦した時、俺が兵を出して助けた。その恩がまだ新しい。
酒を飲みながら、切り出した。
「父上に、お願いがあります。息子のジョチと、セングム殿のお嬢様との婚約をお許し願えないでしょうか」
トグリルの杯が、一瞬だけ止まった。
「ジョチを、セングムの娘に?」
「はい。ケレイトとの絆を、次の世代にも繋ぎたいのです。父上と俺の間にある信頼を、子の代にも」
トグリルは杯を置いて、俺の顔をじっと見た。
老いた目だった。かつては威厳に満ちていた目が、最近は疲れている。六十を過ぎた体は、衰えが隠せなくなっていた。
「……悪い話ではない。だが、セングムに聞かなければな」
「もちろんです」
「少し待て。セングムと話をする」
トグリルの声には、迷いがあった。
俺は一礼して退出した。
三日後、返事が来た。
使者が持ってきたのは、返事というより宣告だった。
「セングム殿からの言伝です。『テムジンの息子に、我が娘をやるつもりはない。身の程を知れ』」
使者の男は気まずそうに言った。
「『身の程を知れ』と」
「はい。セングム殿の言葉のままです」
俺は黙って受け止めた。
予想はしていた。ボルテの言った通りだ。セングムは恐怖を侮辱で返してきた。
だが問題は、そこじゃなかった。
「身の程を知れ」の裏にある意味だ。セングムは何を言いたかったのか。テムジンが格下だから断った? それだけじゃない。もっと毒のある意味が——
ボオルチュが横で言った。
「ジョチのことだろうな」
「……ああ」
セングムが本当に言いたかったのは、こうだ。「メルキトに汚された女の子を、ケレイトの血に混ぜるわけにはいかない」。
面と向かっては言えない。だから「身の程を知れ」で包んだ。
ジョチの出自の噂が、政治の武器として使われた。
ボルテに報告した時、ボルテの顔から表情が消えた。
「そう」
一言だけ言って、ゲルの奥に入っていった。
俺はボルテを追いかけなかった。追いかけて何を言えばいい。「ジョチは俺の子だ」と言っても、世間がそう見ない限り意味がない。セングムの侮辱は、ボルテとジョチの両方を踏みにじっている。
こぶしを握りしめた。
怒りが込み上げたが、今はまだ使う時じゃない。
セングムの拒絶は、始まりに過ぎなかった。
その後の数ヶ月で、トグリルの態度が目に見えて変わっていった。
俺が訪ねても、以前のようにすぐには会えなくなった。「ハンは体調が優れない」「ハンは狩りに出ている」。門前払いが増えた。
贈り物を持っていっても、受け取りはするが返礼がなくなった。
トグリルの側近たちの態度も冷たくなっていた。以前は「テムジン殿」と丁寧に応じていた者たちが、目を合わせなくなった。
何が起きているか、わかっていた。
セングムが動いている。
チラウンの斥候が、決定的な情報を掴んだ。
「セングムが、ジャムカと接触しています」
チラウンの顔は暗かった。
「いつからだ」
「少なくとも二ヶ月前から。ジャムカの使者がケレイトの陣営を何度か訪れています。表向きは商いの使者ですが、実際にはセングムと密会している」
「内容は」
「断片的ですが——『テムジンはいずれトグリルを乗っ取る。その前に潰すべきだ』と。ジャムカがセングムの恐怖を煽っています」
ジャムカ。
あの男は直接は戦わない。人の心の隙間に手を入れて、内側から壊す。セングムの恐怖を読み取って、そこに毒を注ぎ込んでいる。
「トグリル・ハン自身は?」
「迷っているようです。セングムの言葉を全ては信じていないが——毎日聞かされれば、揺らぎます」
揺らぐだろう。トグリルは老いている。判断力はまだあるが、体力が落ちた分、身近な人間の声に頼るようになっている。その身近な人間がセングムだ。毎日「テムジンは危険だ」と吹き込まれれば、いくらトグリルでも疑い始める。
親と子の絆は、他人が入り込む隙がないように見えて、実は一番脆い。内側から崩されると、外からでは止められない。
決定的な知らせが来たのは、秋の初めだった。
夜中にチラウンが俺のゲルに飛び込んできた。息を切らしている。
「テムジン。罠です」
「何の話だ」
「トグリル・ハンから明日、宴の招待が来ます。セングムの娘の婚約をもう一度考え直したい、酒を飲みながら話そう、と」
「……婚約を考え直す?」
「嘘です。宴の席で、あなたを殺す計画が動いています」
血の気が引いた。
「情報源は」
「ケレイト族の中にいる協力者です。トグリル・ハンの家畜番をしている二人の男、バダイとキシリクが、偶然セングムの天幕の近くで計画を聞いたと」
「その二人は信用できるのか」
「命がけで走ってきました。ケレイトを裏切れば殺される。それでも来たということは——」
本気だ。
俺は立ち上がった。
宴で殺す。
——父と同じだ。
イェスゲイ・バアトル。俺の父は、タタル族の宴に招かれ、酒に毒を盛られて殺された。
歴史が繰り返そうとしている。
だが俺は父じゃない。父は掟を信じた。宴の席は安全だと信じた。だから疑わなかった。
俺は疑う。全部疑う。ベクテルを殺した日に誓った通り、掟も信義も、まず疑ってから信じる。
「宴には行かない」
「当然です。それで——」
「それだけじゃない。宴の招待が来た時点で、もう後がない。断れば、セングムは次の手を打つ。軍を送ってくる。こっちが先に動かなければ」
「戦うのですか。ケレイトと」
チラウンの声が震えていた。ケレイトは草原最強の軍だ。重騎兵だけで一万を超える。正面から戦えば——
「戦う。他に選択肢がない」
翌朝、将たちを集めた。
ボオルチュ、ジェルメ、ムカリ、カサル、チラウン。そしてボルテ。
「トグリル・ハンと戦う」
沈黙が落ちた。
ボオルチュが最初に口を開いた。
「……ついにか」
「ついにだ。セングムとジャムカが組んで、俺を宴で殺す計画を立てた。これを知ったからには、もう共存はできない」
ムカリが腕を組んだ。
「ケレイトの兵力は四万以上。こちらは二万。正面からは無理だ」
「正面からはやらない。十三翼の教訓を忘れたか。数で劣る時は、別の方法がある」
「別の方法とは」
「まだ考え中だ。ただ、一つ言えることがある。トグリル・ハン自身は、俺を殺したいと思っていない。セングムに引きずられているだけだ。つまり、ケレイト軍の士気は一枚岩じゃない。トグリルの古い部下の中には、俺との戦いを望んでいない者もいるはずだ」
「敵の内部を割る、ということか」
「割れれば最高だが、そこまでは望まない。迷いを生ませるだけでいい。迷いがある軍は、全力で戦えない」
ジェルメが静かに言った。
「まず、トグリル・ハンに書状を送るべきです。『俺はあなたを父と思っている。戦いたくない。セングムが間に入って事を荒立てている。直接会って話がしたい』と」
「本気で会うのか」
「会いません。でもその書状がケレイト陣営に届けば、トグリルの部下たちが読む。テムジンは戦いを望んでいない、悪いのはセングムだ、という印象を植えつけられる」
ジェルメの提案は冷徹だった。書状は武器だ。真心じゃなく、情報操作の道具として使う。
「やれ」
俺はうなずいた。
書状を三通送った。
一通目は、トグリル宛て。「父上、なぜ俺を遠ざけるのですか。俺は父上を裏切ったことは一度もない。父上が俺にしてくれたこと、俺は一つ残らず覚えている。もう一度、直接話をさせてください」。
二通目も、トグリル宛て。「俺が父上の力を借りて大きくなったのは事実です。干上がった川が、大きな川に流れ込んで、水を分けてもらったようなものです。その恩を忘れたことはない。なぜ、こんなことになったのか」。
三通目は、ケレイトの将軍たちに向けたもの。名宛てはないが、読まれることを想定した。「俺はケレイトと戦いたくない。ケレイトの兵は、俺と共にメルキトを倒し、タタルを倒した。あの戦場で一緒に戦った仲間と、なぜ矛を交えねばならないのか」。
書状が届いた後、チラウンの斥候が動きを報告してきた。
「ケレイト陣営で動揺が広がっています。トグリル・ハンの古参の将軍何人かが、セングムに『本当にテムジンと戦うのか』と問い質したそうです」
「セングムは?」
「怒って押し切ったようです。でも——亀裂は入りました」
亀裂。小さくていい。その亀裂が、戦場で効く。
ボルテが隣で聞いていた。
「これは戦の前の戦だね。矢を射る前に、相手の足元を崩してる」
「そうだ。弓だけが武器じゃない。言葉も武器だ」
「あの書状、本心は入ってるの?」
俺は少し黙った。
「……半分は」
トグリルへの敬意は嘘じゃない。この男は父の盟友で、俺を息子と呼んでくれた。メルキト戦で二万の兵を出してくれた。あの恩は本物だ。
でも、もう戻れない。セングムが動いた以上、トグリルが止めない以上、行き着く先は一つしかない。
「半分は本心で、半分は武器か」
ボルテがつぶやいた。
「それが、おまえが生きてる世界なんだね」
「ああ。草原ってのは、そういう場所だ」
宴の日が来た。
俺は行かなかった。
使者に伝えさせた。「体調が優れず、参れません」。
セングムは激怒したという。計画が崩れたからだ。
だがセングムは止まらなかった。次の一手はもう決まっていた。
「ケレイト軍が動き始めました。四万。南へ向かっています」
チラウンの伝令が、ヤムの中継点を経由して情報を届けてきた。
来る。
俺は空を見上げた。秋の空。高くて、澄んでいて、冷たい。
父が死んだのも秋だった。追放されたのも秋だった。ボルテを奪われたのも秋だった。
秋は、いつも何かを奪いに来る。
だが今度は奪われない。
「全軍に伝達。戦闘準備」
俺の声が、ゲルの外に響いた。
角笛が鳴った。馬が嘶いた。二万の兵が動き始めた。
草原最強のケレイト族と——父と呼んだ男と、戦う時が来た。




